寺田寅彦の方向 [科学]
もういつのことかも忘れてしまったが、寺田寅彦の言葉は記憶に
焼きついてしまった。科学者は頭はいいのはもちろんだが、バカで
なければいい科学者にはなれない。 この言葉は矛盾して
面白かったが、その理由がもっとよかった。 寅彦は頭がいいと
小利口なことをひっくるめていたが、頭のいい人は先人が研究した
ことは振り返らず、新しい発見を探すが、頭のいい実直なバカ者は
先人が研究した跡をひっくり返して、確認したりする。小利口な者は
それを無駄なこととしてしないが、得てして科学の大発見というもの
は、そうした先人が気づかなかった端切れから、出てくる、という意見
だった。それで先人の後からまた同じことを確認して進む見かけは
バカに見える人のほうが科学者に向いている、と言ったのだ。
僕はそのバカだった。自分で確かめるまでは納得しなかったのだ。
生憎、頭は科学者向きではなかったが、それでよかった。知りたい
のは、ある分野に絞るのではなく、全方向だったから。
書店で古書で「寺田寅彦随筆集」を見たので、買い集めた。全5冊
で、それからその文章を探そうと思ったのだ。時間がかかるだろう、
と予測したが、外れた。「科学者とあたま」という表題があり、それ
を読んでみたら、ビンゴだった。わかりやすい題をつけてくれたものだ。
5ページ少しの短い文で、引用しようとしたが、実に要領のいい書き方
をしているので、全文引用しなければ、と思えた。
まず、Wikipediaからその紹介を引用しておこう。
「寺田寅彦は、戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人。吉村冬彦、
寅日子、牛頓(”ニュートン”)、藪柑子(”やぶこうじ”)の筆名でも知ら
れる。高知県出身(出生は東京市)。 」
日本の詩人であり、随筆をよく書いた科学者であった。ここからも
文科系とか、理工系とかの分類を越えているのが伺えて、分類の
どちらかだけ、それではダメだと言っている気がする。
18歳で熊本の高校で、英語教師をしていた夏目漱石と出会っている。
物理学の教師では田丸卓郎とも出会い、そこで科学と文学とを志す
ことになる。漱石の帰京よりも先に、東京帝国大学に入学のため、
東京へ。漱石はその4年後にイギリスに留学のために東京に戻る。
のちの(5年後)「吾輩は猫である」の水島寒月や、「三四郎」の野々宮
宗八のモデル、ともいわれるらしいから驚きである。漱石より12歳近く
若いのに、どうも友達くらいに尊敬されていたと、漱石の手紙から推察
されている。
寅彦は東京から2歳で郷里の高知市に移り、熊本でも高校3年生で
漱石を主催とした俳句結社をおこした。漱石の弟子としては最古参
らしいが、高校生から文学上のつき合いがあった。弟子になった時は
もう東京帝国大学理科大学講師だったろう。その4年後には理学博士
となり、その論文が尺八の音響研究だというから、変わっている。なん
でも博士論文のタネになると知っていた人だったろう。
「科学者とあたま」はある老科学者の話として語られるが、その老科学者
は彼自身のことだろうから(亡くなる2年前に書かれている)、省いて引用
する:
「「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の
口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。
しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題
も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、
それを指摘し解説する人が比較的に少数である。
この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する
二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は
「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることは
もちろんである。」:
山屋(山を登る人)として見逃せない文は:
「頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような
試みを、一生懸命につづけている。やっとそれがだめだとわかるころには、
しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そう
してそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して
手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の
前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然の
まん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せる
からである。」:
まったく同感である。 続けて:
「人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を
投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟が
あって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者に
なれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要
とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
(略)
最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては
立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは科学が人間
の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子の
いわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の
科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋
でももっていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをももって
いない。 そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈では
ない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがる
のは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるため
には少なからざる障害となるであろう。」 :
とまあ、全部言ってくれました、と言いたいし、個人的にはそう思うが、明治
生まれの彼が晩年の昭和8年に書いたものだ。現在ではどうなっているかと
言えば、それが学校教育に生かされているとは見えないし、むしろ弊害は
広く、深刻になっていると言えるかもしれない。 前に触れたが、国民の
4割がガンに羅患する。同じように4割が精神や神経の障害に見舞われ、
神経科・精神科を訪れる。学校教師の半分がそういう科へ病院に通った
ことがある、というのが現代。統合失調症でも8割が社会復帰をするが、
完全治癒したからではない。社会生活が困難ではないと、医者に診断
されたからだ。ガンも障害も4000万人が病院通いをして、克服の継続中
の人も少なくないだろう、ということであってみれば、問題は今も見直さなけ
ればならないだろう。
これからの I T や通信技術・ナノ技術、 A I で監視社会の到来も近い、
この他の避けられない変革、その嵐の前の現代に鑑みて、社会生活の
あらゆる場面で反省が促され、それらから新たな提言がなされて行か
なければいけないだろう。
(コロナは立ち止まって考える機会をもたらした。人類にとって必要不可欠
だったのかもしれない。そこで次に君の番が来た、というわけだ。)
二律背反というベタな見方ではない、見かけ上の矛盾を納得した形で
受け入れるにはどうすればいいかが、テーマになるけれども、それを
他の本でも見つけたので、次はそこら辺りから探っていきたい。
焼きついてしまった。科学者は頭はいいのはもちろんだが、バカで
なければいい科学者にはなれない。 この言葉は矛盾して
面白かったが、その理由がもっとよかった。 寅彦は頭がいいと
小利口なことをひっくるめていたが、頭のいい人は先人が研究した
ことは振り返らず、新しい発見を探すが、頭のいい実直なバカ者は
先人が研究した跡をひっくり返して、確認したりする。小利口な者は
それを無駄なこととしてしないが、得てして科学の大発見というもの
は、そうした先人が気づかなかった端切れから、出てくる、という意見
だった。それで先人の後からまた同じことを確認して進む見かけは
バカに見える人のほうが科学者に向いている、と言ったのだ。
僕はそのバカだった。自分で確かめるまでは納得しなかったのだ。
生憎、頭は科学者向きではなかったが、それでよかった。知りたい
のは、ある分野に絞るのではなく、全方向だったから。
書店で古書で「寺田寅彦随筆集」を見たので、買い集めた。全5冊
で、それからその文章を探そうと思ったのだ。時間がかかるだろう、
と予測したが、外れた。「科学者とあたま」という表題があり、それ
を読んでみたら、ビンゴだった。わかりやすい題をつけてくれたものだ。
5ページ少しの短い文で、引用しようとしたが、実に要領のいい書き方
をしているので、全文引用しなければ、と思えた。
まず、Wikipediaからその紹介を引用しておこう。
「寺田寅彦は、戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人。吉村冬彦、
寅日子、牛頓(”ニュートン”)、藪柑子(”やぶこうじ”)の筆名でも知ら
れる。高知県出身(出生は東京市)。 」
日本の詩人であり、随筆をよく書いた科学者であった。ここからも
文科系とか、理工系とかの分類を越えているのが伺えて、分類の
どちらかだけ、それではダメだと言っている気がする。
18歳で熊本の高校で、英語教師をしていた夏目漱石と出会っている。
物理学の教師では田丸卓郎とも出会い、そこで科学と文学とを志す
ことになる。漱石の帰京よりも先に、東京帝国大学に入学のため、
東京へ。漱石はその4年後にイギリスに留学のために東京に戻る。
のちの(5年後)「吾輩は猫である」の水島寒月や、「三四郎」の野々宮
宗八のモデル、ともいわれるらしいから驚きである。漱石より12歳近く
若いのに、どうも友達くらいに尊敬されていたと、漱石の手紙から推察
されている。
寅彦は東京から2歳で郷里の高知市に移り、熊本でも高校3年生で
漱石を主催とした俳句結社をおこした。漱石の弟子としては最古参
らしいが、高校生から文学上のつき合いがあった。弟子になった時は
もう東京帝国大学理科大学講師だったろう。その4年後には理学博士
となり、その論文が尺八の音響研究だというから、変わっている。なん
でも博士論文のタネになると知っていた人だったろう。
「科学者とあたま」はある老科学者の話として語られるが、その老科学者
は彼自身のことだろうから(亡くなる2年前に書かれている)、省いて引用
する:
「「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の
口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。
しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題
も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、
それを指摘し解説する人が比較的に少数である。
この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する
二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は
「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることは
もちろんである。」:
山屋(山を登る人)として見逃せない文は:
「頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような
試みを、一生懸命につづけている。やっとそれがだめだとわかるころには、
しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そう
してそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して
手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の
前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然の
まん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せる
からである。」:
まったく同感である。 続けて:
「人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を
投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟が
あって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者に
なれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要
とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
(略)
最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては
立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは科学が人間
の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子の
いわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の
科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋
でももっていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをももって
いない。 そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈では
ない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがる
のは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるため
には少なからざる障害となるであろう。」 :
とまあ、全部言ってくれました、と言いたいし、個人的にはそう思うが、明治
生まれの彼が晩年の昭和8年に書いたものだ。現在ではどうなっているかと
言えば、それが学校教育に生かされているとは見えないし、むしろ弊害は
広く、深刻になっていると言えるかもしれない。 前に触れたが、国民の
4割がガンに羅患する。同じように4割が精神や神経の障害に見舞われ、
神経科・精神科を訪れる。学校教師の半分がそういう科へ病院に通った
ことがある、というのが現代。統合失調症でも8割が社会復帰をするが、
完全治癒したからではない。社会生活が困難ではないと、医者に診断
されたからだ。ガンも障害も4000万人が病院通いをして、克服の継続中
の人も少なくないだろう、ということであってみれば、問題は今も見直さなけ
ればならないだろう。
これからの I T や通信技術・ナノ技術、 A I で監視社会の到来も近い、
この他の避けられない変革、その嵐の前の現代に鑑みて、社会生活の
あらゆる場面で反省が促され、それらから新たな提言がなされて行か
なければいけないだろう。
(コロナは立ち止まって考える機会をもたらした。人類にとって必要不可欠
だったのかもしれない。そこで次に君の番が来た、というわけだ。)
二律背反というベタな見方ではない、見かけ上の矛盾を納得した形で
受け入れるにはどうすればいいかが、テーマになるけれども、それを
他の本でも見つけたので、次はそこら辺りから探っていきたい。