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パラレルワールドの試案による考察 [パラレルワールド]

ちょっと硬い題をつけてみたくなった。内容は遊びにも似たものなので、 

「P・ワールドについて」、ぐらいで済むのだが、思い切り仮説を組み立て  

ると、面白いことになりそうだ、 で、 そうした。(何を?)  


要は、タイムマシンの可能性を考えていて、長い間に固まって来た試論だ。  

: ―

僕は時間はない、と言った。それは非実在だと言ったのだが、調べたら、 

そういう題の本はいくつかあって、珍しい発見とか、発想ではなかった。  

例のとおり、本は「時間について」関係で、十数冊購入済みだが、例のごとく、  

一冊も通読したものはなく、30ページに達したものも一冊しかないだろう。  

考え方は人間、共通しているのですべての考え方を習得してしまえば、  

どんな難し気な本も読み解けるだろう、と思いがちだが、僕はそうしたら、  

80%以上を哲学でも、学術でも、小難しい論文でもすらすらと読めて  

しまえるはずだ。 が、そうならない。  

小林秀雄は自分はベルクソンに(ものを見る)観点を学んだので、自分の  

考えはベルクソンに拠っている、と書いている。そして、晩年には遠いが、

人生の後半に「感想」という、ベルクソン論を小林調で書いていた。(未読)
 

という次第ながら、雑誌に、文芸春秋だろう、5年以上も連載していて、中止  

してしまった。そして、晩年、自分が亡くなって全集を出すことになっても、  

「感想」は加えないでもらいたいと、遺言した。それで当初の全集は「感想」  

が含まれていなかった。ところが、実際に5年も連載していたのだから、それ  

を読んだ文化人からの書評が多く、雑誌や書籍などで載せられた。ところが  

処が、それを読んだ読者は「感想」がなんたるかがわからない。その書評が  

何を言っているのか、わからないのも同然だった。

(「感想」という小林の本は出版されているが、ベルクソンとはなんの関連も  

なく、まぎらわしい) そこで、「感想」を出版するように外から要請もあったの  

だろう、全集の続編として、2冊、「感想」が加えられた。  

評論家など、意見や感想を公表することで商売とする者には、死んでも  

プライバシーはないようだ。 それでいい、とも思うが。   

小林が全集に入れるな、とまで言ったのだから、「感想」は失敗だったのだろう。  

小林秀雄を評論した本は、かなり多い。でも、僕がパラパラと数冊、見渡した  

ところ、また「この人を見よ(小林秀雄全集月報集成)」を見ても、ベルクソンと 

小林をかけて書かれたものはないと見受けられた。  

僕は時間論のそれを考えて、ベルクソンの「時間と自由」を5,10年も前だろうか、  

読んでみたが、ついていけなくて、20ページであきらめた。感覚を判断基準に  

加えて書かれたものは、その基準を見つけるまでは読んでも自分の感覚と  

ズレているので要領を得ず、納得がいかない。その頃は、そうだった。今なら、  

読めるはずだ。  


前置きが長くって、いけない。  

時間は物の運動を見ていると、僕らがそこに記憶の上でだけ、形や様相の変化 

を見て、それを経過として感じてしまう。知性は見たものを考えて、それを一定 

のカテゴリーに入れるべく、概念化する。すると、運動の一場面があり、次に  

運動後の場面があり、それが一瞬で流れたという経過感を呼び起こす。そうして、  

物事を認識するには、どうしてもその感覚に名前をつけることになる。そこに  

時間という中身も言葉も生まれるわけだが、ないものに比較するものもない。  

ミカンは似たような品種が実在しているから、いくらでも比較できるが、時間は  

存在がないから、そもそも比較できない。そこで水晶の結晶の分子や、次には  

なにかの原子、電子の微細な等間隔に近い振動を利用して、「ない時間」の幅  

(秒・分・・)を決めることにした。それが今日の時計だ。その電子時計を基準に  

して、グリニッジを0時の起点にして時間を管理・運営しているのが、今日の  

文明、時計・時差だ。  

本来、時間が正確に存在しているのなら、国境など存在しないし、気にしない  

はずだが、一つの国の中で時刻が違うというのは、いろいろ都合が悪いので、  

国を単位にして標準時が割り振られている。それで(国際)日付変更線は  

地図の国の上では直線ではなく、グニャグニャに折れ曲がっているのだ。 

「時」があって、それを幅分け・区切ったものが「時間」で、その時間を国

に配分したものが「時刻」となる。正確な時間はそれぞれ計算すればいい。

東京は標準時の明石から16分遅れだから、プラス16分が東京の正確な

時刻だが、役に立たない。交通機関などはすべて、標準時で時刻表を作成して  

いるから。経済も人の待ち合わせも数字と同じで、役に立つから標準時を  

決めて使われている。 ミカンが時間だったら、ミカンから皮のついたミカン  

「皮有」、皮をむいたミカン「皮無」、さらに袋なしのむき出しミカン(の実)  

「裸実」、とか分類されて、使われていただろう(?)。

 

だから、僕はタイムマシンなるものは、まったくの不可能な空想の産物と  

して無視して、問題にしなかった。 それで一番の夢がタイムマシンを利用  

していろいろな過去・未来世界に行くことだという、自分の本来の夢には  

長く気づかなかった。還暦前後だったろうか、エベレストの夢が破れた時、  

(当時、エベレストは裏の山を登るくらいに、楽観に考えていた)自分が  

忘れて気づこうともしなかったタイムマシンの夢を思い出すことができた。  

タイムマシンは過去なら、行った先で自分に会うのか、会ったとして、 

それならどうして今の自分にその未来の自分が来て会ったという記憶  

がないのか。数日でも過去にいたのなら、現在にもどるのに来た時の  

数日後ではなく、来た時の日にちのままでいいのか、矛盾が生じないのか、  

数日後に戻ったら、違う自分に、数日未来の自分に会うのではないか、  

などなど合理的に解釈しきれない矛盾が山ほど出てくる。    

それを解決する算段の一つにパラレルワールド(並行した異空間の無限  

世界)という考え方がある。 それがほんとうに並行しているかと言えば、  

してないだろう。僕らの世界からは異次元なので想像できない。深海に  

住む魚が簡単な知性を獲得しても、陸上の空気の世界はまず、想像を  

絶している。水がないのだから!  

ここからは突飛な空想も仮説も駆使して、推論していこう。仮説がひとつ  

でも 真でなければ、その全体の予想がすべて吹き飛んでしまう。つまり、  

信じるには及ばない怪しげな言説だ。その代わり、面白い。  


その前に似たようなものに、この世とあの世という、思想があるが、ちょっと  

かじって話そう。 イメージで生者の世界と死者の世界である。端折るが、  

そういう対等の世界として、あの世は存在しないだろう。死者は生きない。  

その常識は、感覚として正しい、と僕は思う。それであの世を説明する  

世界中の、この世の霊媒とか、霊能力者とかはすべて、あの世を見て  

いたとしてもそれが自分の能力から見えてしまう錯覚だということに、  

気づけない。  

しかし、それだけでそういう現象を否定しようとも思わないし、現象が  

起きるのを「ない」、とは言えないが、あの世や死人の泣き言や恨み  

ごとは、あって、ないものである。  それが現象として現れるのは、  

死者の記憶の特殊な記憶信号の性質によるもので、それが死後に残留  

するからと思われる。 

あの世はこの世にある。この世の、あちこちにあるのである。この世と  

あの世がバランスを取って、対等に二つあるということは、死者が  

あの世で、生きているのでない限り、ありそうもない。 死者がどこそこでも  

生きていれば、この世に情報をもたらすはずなのだが、そういう情報で  

世の中が変わった例はない。それは特殊な記憶信号のあり態が限定した、  

また固定した知識しか持っていないせいだろう。 <中途になってしまうが、

(そうか)、それ説明すると、僕の母の死や、友人の母親の死後について  

書かなければならない。とても遊びで書く分量ではなくなる。いつか、  

いずれということで、 省略。 > 
 

例えば、僕らの空間だが、なにをもって「空間」なのか、実在としては  

疑問だ。時間がそういう非実在ならば、空間も実在しないだろう。宇宙の  

空間も無の空間ではないし、真空とは空気がないことで、その他目に  

見えないガンマ線とかの宇宙線や素粒子が無数に飛び交っている場所  

だ。空間を切り取っているのは、僕らの想像に過ぎない。そして、僕らは  

地上でも目に見えないが、専用のゴーグルをつければ、この世とはまるで  

別な空間に入ることができる。それが今、ゲームなどで流行の仮想空間だ。 

それを仮想現実と呼んでいるが、そのままでは現実になり得ない。 が、  

それを個人の脳の記憶部位に埋め込めば、その人間は仮想空間と現実  

とを、ある切り替えシステム(技術)で味わうことになる。その時でも現実  

では物質の抵抗に出会うだろうし、仮想空間では崖から落ちても、落ちない  

だろう。これがパラレルワールドとして実在したら、 と考えると、たぶん、  

この現実の世界とは同じ場所(としか言えない)に、この1mmくらいの 

幅にもパラレルワ―ルドが10億個どころか、もっと無数に存在するはずだ。

この仮想空間は実際は現実の空間質なので様々な条件で、特殊な記憶信号  

を充電させることができる。その波長に捕らえられると、その信号が集まり  

始める。それが心霊スポットの成り立ちになる。小さな目に見えない信号でも、  

記憶を中心にした判断や会話能力ぐらいはあるはずだ。しかし、その限界を  

超えては、考えられず、答えも言えない。中継となる能力者とか語る者が、  

彼らの想像と常識から類推して代わりに答えたりしているのだろう。それは  

詐欺なのだが、遺族や家族のためと商売のために、罪悪感なくいかにも  

それらしい死者の言葉が伝えられる。死者を冒涜するのではないが、明らか  

に遺族が聞きたいことを察してそれを創作している。生きている者は仏に  

ならない。死者が生きていれば、生きているように話す。具体例があれば  

いいのだが、僕は死者と言葉を交わしたことはない。ただ僕の体に入って  

来ただけだ。それだけで何が起きたか、わかる。 少し省略の予定を喋って  

しまった  ・・。  


次にタイムマシンを設定するために理論環境として準備するのは、過去へ  

行くことと、未来へ行くこととはどういうことか、パラレルワールドで説くことだ。  

ヒンディー語(インド公用語のひとつ)を三鷹の学校で習っていて、単語を  

調べていて「カルー」という単語に驚いたことがある。「昨日」という単語なの  

だが、「明日」という意味もあったのだ。昨日であり、明日であり、それは過去  

であり、未来という矛盾な取り合わせだ。どうしてこんな意味を複合してもって  

いるのか、あとでわかったが、それは「今」を起点として、1日離れているのだ。

今日の一日前は昨日、一日後は明日ということだ。ヒンディー語は語尾で  

時制変化するから、昨日か明日か、どちらかの意味かで迷うことはない。  

しかし、この考え方は悟達に関わっている気がする。時間が非存在、という  

ことは他方で、”今”しか実在していないことを言う。”今”から過去も未来も  

距離を置いているのでそこは今、実際に行為・行動できない場所、という  

こと。いや、インド人はすごい、ブッダの国だ、と思ったものだ。  

しかし、今回はそれを利用させてもらい、このパラレルワールドは恐らく、  

3次空間の全方位に、上下左右前後、その360度回転させた全方向である、  

過去と未来へとそれも並行に増殖し続けているのだ。どこまで?それは  

限界がないが、実際は現在の地球の成層圏から広がる宇宙の膨張に  

比例しているだろう。  

それらを僕らは想像することはできない。今の時間の概念をもって生活して  

いるせいで、時間を非空間では想像できないからだ。その構造さえ、思い  

つけない。 

このパラレルワールドを完成させるには、時間を変えなくてはならない。さて、  

そういうことが想像できるだろうか?準備はいいだろうか?  

今の時間の概念では過去には決してもどれない。一度行なったものは、  

取り返しがつかないように、今を定着させる何物もないから。時間にない  

のだ、内容を示す質というものが。だから、真の時間には、僕らの感覚  

(錯覚)だけによる実質のない空想ではなく、質を与えてやればいい。実は  

僕らのまだ発見できていない「時間質」を想定する。すると、パラレルワールド  

において(瞬間ごとに)記憶された実質として残る過去の出来事が、どんどん  

増殖する。  

そして、未来へ僕らの可能性の数だけ、過去と並行して未来の世界が増殖  

するのだ。いくら可能性の数が増えてもへいちゃらで、なにしろパラレル  

ワールドは無限なのだから。未来はその人が選んだ方向に進む。  

そうすると、もうちょっと飛躍すると、僕らは精神の死の回数だけ、そこで  

瞑世界に達した時だけ、知らずに世界を移動しているのかもしれない。  

つまり、パラレルワールドは今現在、使用している者は気づかずに それを  

移動して利用しているのかもしれないし、利用していても気づいていない。 

それは自分の世界を前もって準備する、自分を信じる力を強くする、そういう  

手立てを与えてくれる ”自分が自分を信じれる世界” を自ら想像し、創造  

すること、をしている。  

まさに万華鏡の世界だ。  

しかし、楽しいだけではない。それは宝くじを当てて自分の好き勝手に濫費する  

ように、自分の都合のいい世界に逃げることではないからだ。そういう逃げる  

姿勢では、精神が死を前にして、遁走してしまう。今の外世界を変えようとは  

しないだろう。それが今の課題であるなら、世界を移っても、同じ波動から  

似た困難につきまとわれるからだ。  

にしても、過去と未来を自由に往来できれば、それは素晴らしいだろう。  

そして、誰もがそれを可能にしたとしても、たかが75億通り(×未知数)の  

未来では、お互いの未来でかち合うこともなく、誰も他の誰かが世界を移動  

していると、気づくこともないだろう。 つまり、パラレルワールドはあっても  

なくても、それを証明することができないのだ。 が、これはパラレルワールド  

が人が個人の精神で築く場合での話だ。  時間質が実在してあるのなら、  

それを発見すれば、人間の体を分子化して時間質の変質方向や変質経過  

を計算して、過去や未来へ飛ばすことができる。通信はつながるから、  

飛ばした先で再合成してもとの人間にもどす。帰りははじめから、タイム  

マシンの受信機を一緒に送って、今現在から同じことをくり返して、現在に  

飛ばす。かなり、技術的に難関が予想されるが、理屈の上では可能だ。



僕は時々、そこに置いたはずのものがなくなっているのに気づくが、探して  

もなく、昔の人は「小鬼のいたずら」と呼んだそうだが、これは子供の頃から  

あった。最近でも3階のそこに置いたものが、別の処2階にあって、そこに  

あるのはおかしいと思ったりするが、パラレルワールドから小鬼?  

いやいや、パラレルワールドのせいではなく、物忘れがふつうに増え始めた  

ことだ、と思い、パラレルワールドと区別するのは難しくなってきた(笑)。




*時間質があっても過去にもどるのは無理かもしれない。エントロピーを  

考えると、宇宙はその増大の最中だと、科学者は考えている。ビッグバンも  

一理論なのだが、宇宙誕生からこれまで138億年、一度も減少したことは  

ない。過去は物質の分子運動の逆行をすることになるが、そのシステム・  

機能だけでは過去はあったまま(歴史)には生成されない。 が、もう考える  

必要はないだろう。僕らの知性では、感覚もし得ない様相・形態があること  

が想像されるからだ。光も透過してしまう質であれば、僕らのつくった機器  

では感知しないだろう。だから、そこでは僕らが新しい感覚を備えることが  

予想される。そこで初めて、タイムマシンなどがどうしても必要だ、欲しい  

となった時に、時間質が発見されて、新しい科学も開かれる。 それは  

夢のような話で、そこまで皆が行けば、の話だ。   

宇宙もこの世も、考える材料が足りない。わからないことのほうが星の数  

ほども多いからだ。



一句 : 記憶をや パラレルワールド 探すかな  


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