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わかるものとわかりにくいもの [しゃべり]

わかりやすい説明というのはごく普通にありふれている。

極力わかりにくく説明する理由というのは、あまり思い

当たらないだろう。ところが、その中には多く、わかり

やすいから、なんの説明にもなっていないものも含まれる。

僕らは日本語を使っているつもりだが、日本語にも文法

があって、その法則らしきものもあるのが通例である。

それと日常の会話文とは区別されている。要は文法どおり

に使う例はあまりないので、会話は規定できないよ、という

ことなのだが、学というのは権威を重んずるので、日本語

の研究の方がレベルが上だと世間が認めるように地位が

あるという立場を作って、そこから発言するようにしてきた。

科学的思考にはその資格があるが、文科系の学は寿命が

やや短い。古典文法は現代日本語の文法とはまったく

異なるものだ。それは言葉そのものが干渉を受けやすくて、

その時に合わせて新語も登場するし、解釈が変われば

正反対の意味で使う人が増えたりする。その勢いや

持続性でその言葉の音や意味、使われ方も変化して

しまう。高校の古典の授業では「源氏物語」で


 「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ

  たまひけるなかに、いとやむごとなき際には

 あらぬが、 すぐれて時めきたまふありけり。」と


いきなり出てきて、なんのこっちゃとなった。何語?日本語?

というのが初めの感想だ。そう、もう千と十数年前に現れた

ものだ。言葉がその間にずいぶんと変遷してきたことが文献

で確かめられる。

一方、科学はニュートンの「自然哲学の数学的諸原理」、

いわゆるプリンキピアによって皮切りとなっている。初刊

から三百と三十数年が経っているが、地球上のことなら

この原理は現役で計算されている。よくもったもので、

この美しい統合に皆が憧れた。知を崇拝する者なら、

数式の単純な形を求めて、その姿にうっとりするのだ。

カントも自身の理性批判にはすでに16歳の時に大学で

クヌッツエン教授の影響のもとにニュートンを学んでいる。

この美しい統合に合わせて、純粋理性批判、実践理性

批判、判断力批判と3部作にしたようである。もっとも

数学・物理学・天文学の統合というようにはいかなかった

だろうが、・・・他に動物・植物・地理など造詣があり、博識

の論文を書いていて、学の全体を目指したことが伺われる。

アリストテレスも学問の全体を目指したので、秘かにそこを

目標に入れたのかもしれない。 

なので、言葉のように毎年、流行語大賞が選ばれるほど

科学の法則が頻繁に生まれることはない。地球の引力は

太古の昔から(それほど)変わっていない。 

北極星の位置がエジプト文明の頃からは、ピラミッドで

わかるので、ズレていて王の墓?からの穴の位置から

見えなくなっていることがわかっている。当時は太陽

信仰と星信仰が対立していたということで、このクフ王

の大ピラミッドでは星信仰が有力だったのかもしれ

ない。それくらいには引力も影響を受けているだろう。

月もわずかだが、少しずつ地球から離れているという。

僕らの人類時間では遠心力でどこかへ行ってしまう

まではどんなに頑張っても到底届かない。安心して

いい。月は未来永劫ではないが、人類と共には一緒で

人類より早く消え去ることはない。      3.11、 12


それ自身が逆説的であったり、超感覚的であることは

説明の仕方が難しいので、工夫がいる。生まれてから

耳の完全に不自由な人に、音を教えるようなもので

見えるものを説明するように言葉・記号を並べても

伝わらないのは明らかだ。ところが世間ではそういう

種類のことなのに、普通の社会言語の言い方でそれ

を説明している媒体やその著者・報告者は多い。

まるでわかりやすく説明すれば、子供にも恋愛のドキドキ

感が伝えられる、その不安や喜びがわかると思って

いるようである。

僕が最初にぶつかった難問もそこにあって、未経験の

特殊な事実をどうやって、そういうこと・ものがともかく

心理的錯覚や神秘・幻惑の要素をできるだけ取り除いて

事実として存在するんだ、ということを伝える手法だった、

探ったのは。ありもしないのだが、近似のものはあるので、

それが詩の言葉の飛躍という、直感から直感へ綱渡りを

するような、読み手には忍耐と、表現から直感するという

要求がされる、あまり流行りそうもない手法で、ほぼ自分

で開発する手のものだった。 

僕が変わると、文も変わるのは摂理だったが、自分の眼

からはその変遷が読み取れて面白い。それは無意識の

範囲と自意識の範囲とのバランスが変わってしまう

過渡期を抜け始めてから言えることだった。

精神の変容が間断なく訪れる僕のように気まぐれな性格

だとそういう手法を編み出すのには向いていただろう。 

僕らがお互いに”わかる”というのは常に相対のもので、

絶対な”わかる”は人間では単純な要素が組み合わさり、

それが半無限なので、不可能になる。昔は十人十色とか

現わしたが、現在は人口が増えたから、億人億色だろう。

一般にわかる、というお互いが認めた時がそれが絶対の

何%かそれぞれだが、実は正しくそれで全部なのだ。

社会的にわかる、とか絆的にわかる、ということなのだが、

それが僕らの「お互いにわかる」のすべてなのだ。100%

でないのを悲観するなら、そういう人は自分が神様になる

のを願望している、そういうことを言っているのだ、という

ことを知らない。そんな神も人もいない。 

しかし、無意識の探究ではそういうこの世の常識範囲では

済まない。結局どこかで人間を超える世界に触れなくては

ならないから、精神的に臨機応変の防御やまたはまったく

防御しないこと、死に向き合い、時には瞬間に気絶したり

とか、知的発想を無謀に働かせたり、というトリッキーな

対応が求められた。

と言っても、それらはすべて回想できるようになってから

自分が何をしてきたかが反省させられたにすぎないが、・・。 

なので、それは生き残れたが、すべて適切な対応だったか

はわからない。生き残るのに適切だったかもしれないが、

それが最善だったということはないだろう。でも、それ

でもそこから学べることがあって、それらはふつうに

「・対・策」なのだが、実際には「・体・策」であって、体が

考えて身に着けたものだということもわかるようになった。

体が頭を通さずにやったことなのだ。

それについては進化論はどうもアルフレッド・ウォーレス

(一応、ダーウィンとの同時=進化論発見者となっている

探検博物学者)が真の理論の発見者らしい、という稿で

書こうと思う。  =(進化論はダーウィンじゃない!?)


ともかくこの世の歴史の事項であてになるもの・ことの

少ないこと、少ないこと。調べると、いかにいい加減か、と

言って少しも遜色ないくらいいい加減なのに驚かされて

しまう。例えば、論語という書物は書かれていることが

素晴らしいのであって、それの成立を考えてはいけない。

学者の研究では、論語は後世の編者が寄せ集めたもので

時代もバラバラで、中には孔子が述べていない創作も

含まれている可能性があるとか。確かに、論語はまた

文が一節毎で短いので、解釈もかなり多様になっている。

それらは漢字の成り立ちから、当時には使われていない、

まだできていない漢字が使われたりして、怪しいとわかる

そうだ。そこまで疑っていたら、論語で孔子のものと残る

のはどれくらいになるのか、それは気がつかない方が良い

ようだ。だから、全部ほんものです、という雰囲気で教科書

は教える、載せられている。

まぁ、それでいいのだろう。すべからく世の中、適当な

部分が潤滑油にならないと、回らない。


アストラゼネカ(英)のコロナワクチンが接種後の30人に

血栓症を起こしたらしく、死者も出てデンマーク、ノルウェー、

アイスランド、イタリアで一時接種を止め、控えている。

すぐに関連はわからないだろうが、包丁で指を切る

可能性があるからと言って、包丁やナイフが販売禁止には

ならないように、調べてわからなくてもまたワクチン続行、

顕著な関連の証拠はないとして、(続行)されるのだろう。

こういうのを社会(潤滑油)の摂理と名づけてもいいの

ではないか? 

コロナの変異株がこれからも変異をくり返す以上、まだ

「感染と死者の増加」と「免疫獲得のシーソーゲームに

なるワクチン」との追いかけっこは始まったばかりなの

だろう。

ま、皮肉は皮肉だが、情緒は情緒だ。

「徒然草」(源氏も)のどこかの章の冒頭でも出てくると、

この頃では意味内容はどうでもよく、その言葉の転がし方

から匂う雰囲気が好きになる。いや、もうはまっているのだ、

とつくづく観念する。説明はともかく、わかる、というのは

そういうこと、とかは感じていたりする。

「はべりしに」なんかは、いい。

「来栖野(くるすの)という処を過ぎて、ある山里にたづね

いることはべりしに」は、もうたまらないくらい、ころころと

転がる語感が気持ちいい。語り民謡を聴くようだ。英語

にはない、とプライドで自慢したくなる。
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しゃべりと思考 [しゃべり]

あれこれ考えているが、考え続けていると いけない。  

その時に行けた処までメモが必要になるからだ。 考えは  

かなり多くの概念のあいまいな積み重ねの上に現れる  

砂上の楼閣といった特徴があるから、 気を抜くとさっさと  

崩れてしまう。考え直すのは、相当の集中を必要として、 

それは無駄を加えてしまったという結果ゆえ、となってしまう。  

また、メモしておいても、このブログのように前のブログと併せて  

一千記事になっているから、プリントアウトしていても、なにを  

どこに書いたかなど、探せるものでもない。  それでもその気  

になれば探し出すしかないから、メモ代わりに書き置いておく  

ことが重要だ。  (テーマを振り分ける機能をいまだに不使用)


今まで「わかりきっている」から説明してこなかったが、実は  

そこがわかっていないという例が、次々に見つかると、それは  

一般も障害の者も含めてなのでしかたないのだが、改めて  

知性の二つの性格とその動向や、それから出てくる問題点  

などは書いておいた方がすっきりする、と思った。  

僕は還暦までしゃべりが下手だった。しゃべりと知的思考は  

知性の二大性格なのだが、どの人もどちらかが得意に傾くという  

特徴がある。そして、それはそのどちらも持ってはいるのだが、と  

いう注釈がつく。 それは英語を例にすると、見分けやすい。  

日本人の英会話が伸びないのは、文語的な英語を習い続けて  

日本語を英語に訳文してから話そうとするからだ、と言われて  

いる。つまり、相手の英語を>日本語に、その返答を日本語で  

まず考えて>英語に翻訳して、とやっているので進まない。  

苦しい。と、そのとおりだろう。  

会話の性格は、その文の正確さにあるのではなく、伝えようと  

する内容にある。  以前の例文をくり返すが、日本のビジネスマン 

が外人と話していて顔をつぶされるようなことを言われたと思った 

ので、少しカッとなったのだろう、どう言っていいのかわからないから、 

とっさに「Stand my Face」と言った。日本語で「顔を 

立てろ」は「オレの面子を立てろ」の意味になるが、英語は  

「立ち上がる」動作だから、横のものを立てるとか、倒れているから 

立てる、の意味になる。 

が、それで通じてしまったのだ。 

要は会話は通じるまで知っている単語を並べればいい、という 

くらい乱暴なものだ。そういう流れが会話というものの流れだ。  


言葉を選ぶ必要は、もちろんあるが、通じればそれがずばり  

正確でなくてもいいということだ。 会話の基本はお互いの  

あいまいさを、お互いに多分にいい加減に解釈して満足して  

いることにある。 

だから、一般に結論や先を考えて、井戸端会議などしない。その  

場の思いつきで話は進行し、どこに行くかわからない。  

このしゃべりの性格と、知的思考の性格とは、反対とは言えないが、  

相容れない性格ではある。主に論理の構成で思考は組み立てられる  

ので、目的は意義や主張などの正確さ・その正確さによって導かれる 

正しさである。  

会話的思考は思いつきなので、つっこみどころ満載で、どんどん矛盾・  

筋道のないことを言ってくる。このしゃべりと思考の調和を図れないと、  

互いに平行線をたどる。しゃべりタイプは、気持ちがわからない奴だ、 

となり、思考タイプは、言ってる筋道がわからない奴だ、次から次へと  

論旨を変えたらわからなくなるのがわからない奴だ、となる。世間では一番  

多い不適応型の言い争いになる。 この二人はしゃべりも思考もがどちらも  

持っているとは言え、かなりどちらかに傾いているのが一般的なため、  

お互いのテーマや立っている土俵がちがうのが、理解できない。  

これは今までに、地方などで村の復興のためにゴルフ場を誘致すべきだ  

と主張する村民と、天然記念物やその環境保護のためにそれに反対する  

村民との争いでよく見られた光景だ。反対派は動物が可哀そうだ、植物  

を護ろうという感情論で、賛成派は村民の経済的に豊かな収入・暮らしの  

ため、と譲らない。そのままなら平行線で、実力行使をすれば、どちらも  

傷つく。 ここに経済学者の宇沢弘文のような人が仲裁に立つと解決に進む。  

彼は実際に成田空港の建設をめぐって農民・学生がバリケードを作って  

政府に抵抗した時に仲裁に入って、双方の妥協点を見出させた。  

そのようにお互いがどう妥協点を見いだせるかが、ポイントだ。  

反対派はゴルフ場の環境汚染を攻撃するのではなく、相手の経済的利益  

に眼を向けるべきで、賛成派はお金だけの問題に集中しないで、長く  

健康に生活する新しい環境づくりにも眼を向けるべきだ。  そうして、  

どこまで経済を優先させるか、どこまで環境を犠牲にできるか、双方の  

意を汲む形で議論して、どういう妥協点が可能かを見出す方向で話し  

合うのがポイントになる。一番は双方が満足しやすいアイデァを出すことで  

それが納得し得るものなら、半分解決したも同じで、後はそれをどのように  

実施・実行していくかの問題を残すのみだ。  

というのが、思考としての基本であり、理想であって、現実はもっとヤバイ。 

反対派を崩すのに金をばら撒いて、賛成派に抱き込む、とか人の弱みに  

付け込んだ汚い手が使われたりするのが、金のからんだ問題の現実だ。 

裁判がからむと、ドラマのような事態が実際に起こる。そうなる前に当事者  

同志で話し合える場を、普段から生活・行事に組んであることが望ましい。 6.8 


しゃべりと思考で、知性のおおまかなタイプがあるということで、それだけ 

では知性の二方向を説明したに過ぎない。 この答えを出すのは少しも  

苦労しないが、どうやってこの二方向の知性を統合させるか、と考えると、  

肝腎の点がわからない、となる。 「統合」という言葉でなにを現わそうとしたか、  

ということさえ、考えると、見えなくなってくる。

しゃべらない人は、思考を使い過ぎで、そればかりで生活をしている。気楽に  

しゃべるために訓練が必要だとは変な話であるが、しゃべり好きな人が思考を  

獲得するのにも、ある訓練が必要だとは考えられることだ。  

少し飛躍させないと、論点が見えてこない。  

知性、感情、感覚という大枠で考えると、それのない人はいないが、それぞれ  

そのコントロールや習熟度で言えば、皆が皆、バラバラだ。その上、それは頭脳  

にとどまらず、心においても単一の形で存在したことはない。境界線が定まらない、  

またはない。体からの思考的な指示や信号が発せられて、それで脳がそれを  

受けて判断する事項も想像するより多くて、それぞれが神経や連絡(化学)物質  

を使っていて、その経路にしてもそれぞれが使い回しているから、これが知性用、  

これが感情用とかの区別がない。どこからどこまでの境界は決められない。  

そして、その上で知性自身の直感、感情と組んだ直感、感覚と組んだ直感が 

あって、それを区別できていない。よく知られているのは、知性と感情がコント  

ロールされ、一種統合されると、それが「理性」と呼ばれることだ。 

しゃべる人は現実感覚に対応するので、直感が磨かれ、現実対応に優れてゆく。 

生活は多く、この直感を必要とするため、検証しながら進む科学的論理的な  

態度は、時間と労力が大きいため、世間ではよく考えるより、よくしゃべる人が  

多いのはこのためかと思われる。 また、思考能力に秀でていると、現実感覚に  

弱く、プラスに作用すると、楽観的になり、マイナスは悲観的になる。そして  

思考は自分の心の状態に染まるので、うまくいかない人は暗く、悲観に  

染まりやすい。考える人が悲観的になりやすい原因はここにある。うまくいくため  

には生活をなんにしてもその中心を明るく、健康に保たなくてはならない。  

また、知性だけでは、楽観的になってもなんでも簡単に考えやすく、実行の段で  

障害が現れ、悲観に陥る。心という内側に勝利して、世間という外側(内側に 

対応した外側なのだが)に適応・勝利するのも並大抵ではないのが現状で、  

それが延々と続いている。それが僕らだ。  


あともうひとつ、多い特徴はこころ傷つくということが、感覚的に、また感情で  

理解されているだけで、知的には少しも理解されていない、わかっていない、  

ということ。 感じたままを言葉に直すだけで満足する。それで終わりにして  

しまう不思議な習性がある。 (これは次の別なテーマになる。)



よい学者というのは、緻密で持続的な論理思考が明確にできる人だろう。 

しかし、よい学者であり、社会人であるには、それに加えて社交でよく  

しゃべることもできる人だろう。そして、寺田寅彦も言うように、バカなところ  

もないと、よい学者にはなれないだろう。    



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