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考えるのを 嫌がる矛盾 [矛盾]

よくわからない。 よくわからないのは、最初からそれをわかりたくないから  

ではないか、と考えてみる。 なにか心に前提として、引っかかるように  

前もって答えを予想してしまっている。 それが誤解なのか、偏見なのか  

そもそもわからないのだが、それを半ば信じているから、それをはっきり  

させたくない。 その気がないから、はっきりさせることができない、と 

感じてしまっている。 これらが自覚に上ってくることは、ふつうないだろう。  

僕らはそれほど、意識的に日常を考えていないし、そういう人は当たり前に  

いるのだが、そういうことを考える必要を感じていない。  

それはそのまま、僕らの日常の言葉があいまいなままでいい、というのに  

通じている、と思う。 考えというのは、その雰囲気に左右される。 

例えば、哲学的に考える人もいる。 現実ではなく、言葉で現実の中の 

事実らしきもの、真実らしきものを構築するのである。言葉だから、それは  

空中楼閣を築くことになる。どこにもないものにまで、よく進むから現実から  

離れて、言葉の芸を弄ぶ風にも見えてしまうことも、ままある。 文学風に  

考える人は、はじめから私小説風の雰囲気を愛好していて、その中で  

酔うように物事を組み立てるのが好きなのである。写真家・画家は光と影、  

黒と白とを見えるものの思想の中心に置いて、そこから色彩の  

バリエーションやタッチ・感触の微細さから、形と色で、感情を考える。  

感覚がその全体を指揮して、芸術はなにかを主張せんと、欲する。それは 

民俗・民族・伝統であったり、美であったり、愛であったり、暴力であったり、 

怒りであったり、彼の自由な発想から生まれる。 法律家からは日常感覚  

とは違った法の解釈というものがあり、現実を法で解釈・判断するのに  

どの例文をどの条文に沿わせて、現実に一定方向(判断)を与えるかに  

腐心、考え・心をを砕く。 

文化人が好きなのは、およそ衒学趣味(学問風な言い方)が主流で、物事 

をほぼ現実を無視するほどに、自由に解釈して、思想らしく見せることだ。  

頭のいい人というのは、そういう頭のゲームを作る楽しさに逆らえない。 

この世にはそういう文化や思想の発信・生産する者がいて、それを形に  

する仲介者がいて、それを購入して享受する消費者がいる。  

僕らは知性とか、感情とか、感覚というものを、特別学習することはない。 

それらは学習するまでもない、前提で人間であるから、わかっているもの  

として扱われていて、心理学や神経医学などの特別な学問分野に進まな  

ければ、特に人生で注目することはない。  

それが意味するところは、僕らがそういうことを論文や一般書や雑誌など  

で読んだり、上司・部下・家族・友人・知人・噂などから耳学問で聴いたり  

してその知識を取り入れたことであるから、僕らの頭はその知識の 

認識で一杯で、それらを使って考えたりしている。それはどういうことかと 

詰めれば、すべて他人の考えで、自分の小さな問題から、人生上の  

重大問題まで、考えている、=”他人任せ”だということだ。ふだんは  

意識しないが、僕らの考えの98%はまず他人の考えから発祥していて  

他人のそれを利用している。これが僕らが単にいくら考えても、自身の  

問題にうまい適応した考えが出てこない、という原因の「ひとつ」なのだ。  

頭がいいから、哲学がわかるから、数学に強いから、弁論がたつから、  

そういうことは社会的な問題の現実対応がうまくいく要因であるが、  

多く個人の問題を取り扱う時は、役に立たないことが多い。  

自分に合わせて洋服など選ぶように、自分に合わせて問題を考える 

ようなことを教わってこなかったからだ。ソクラテスだったか、「己を  

知れ」という言葉はいくらでも、あちこちに出てきて独り歩きをして  

いるが、自分を知るということが、そもそもどういうことを言っているの  

かが、いまだにあいまいなままなのだ。 なので、己を知らずして  

自分の問題をうまく処理する適応が、他人の考えでは成功はしない、  

というのが相場になってしまっている。  

どうして自分を知るというのが、重要に思えるのに、ソクラテスから  

2420年くらい経っているのに、コロナのワクチンではないが、人類は 

これという教科書も手にしていないのだろう。 僕はずいぶん前に  

答えを見つけた時に、むしろ当然な答えに驚いた。  

たぶん、僕らは「ありのまま」が好きなのだ。ありのままの自分を最高  

だと信じ、そう思いたいのだ。ありのまま(?)というのは、謎の言葉だ。  

しかも、わかるような気もする言葉だ。自然のごとく、あるがままに。  

と言えば、日本人の思想・心情趣味に合うだろう。  


少し、飛躍した方向を先に見せたので、実際に何が起こっているか、  

見てみよう。 

僕らが基本、怠け者である、と規定していいだろうか。働く必要もなく、  

衣食住の、これらはすべて他人によって与えられるもので、そのために  

社会があると言っても、言い過ぎではない。お互いがお互いのために  

今ある生産を金銭を介さずに、生活に必要なだけなら、無尽蔵に与え  

られるとしたら、僕らは働く必要を失うが、働かずに好きなゲームや遊び  

や趣味などをしていられたら、強いて働こうとは皆、思わないのではない  

だろうか、という規定である。僕はどうも怠け者だ。好きに旅行に出かけ  

られたら、あまり帰ってこないだろう。  

僕らの体にはホメオタシス(恒常性)があって、体の内部を一定の環境  

に保とうとする機能がある。体温を36度付近に保つために、暑ければ  

汗をかき体温を下げ、寒ければ毛穴を閉じ、厚着して、体温を逃がさない  

ようにする。それだけではなく、血液内のカルシウムの量を一定に保つ  

とか、陸上で生活するために、数限りないホメオタシスのためにさまざまな  

生命維持活動を余儀なくされている。病気にならないために、死なない  

ために。  

この死なない装置が心にもセットされていて、「自己」は死の雰囲気を  

敏感に嗅ぎ取り、それから離れ、すぐに避けようとする。これはもともと  

体の危険信号を察知することから発生している。危険に対して、頭で  

考えるより体が先に動くのは、まだ動物だった時に獲得した習性だった  

ろう。知性がこれを受け継いで、知性自身の隠れ蓑のように「自分」に  

この機能が生じたのだろう。どうして隠れ蓑かと言えば、知性は通常の  

状態では「自分」を検証できないからだ。自分が考えること(知性)で、  

自分を知るというのは、例えれば、自分が脳に坐って、眼球から外を  

覗き込みながら、脳に坐っている自分を眼球(知性)で見ようとする  

ようなものだ。知性はAとBとか、AとBとCとを比較して、AはBでもCでも  

ないとか考えて、Aを見分けて、認識する(=わかる=分けることが  

できる)。 見ようとする本体を、本体から見えるはずもない。 自分で  

自分の背中には回れない。 それが論理的な理由で、それも重要で  

あるが、それよりももっと根本的な理由は、僕らが苦しみや悲しみ  

という死のゾーンに近い心に生じる生活の不適応からのマイナスを  

自己の防御機能が、避けるからだ。残念ながら、不幸はしあわせと  

ともにこの世にセットされているもので、そこから僕らは真実とかの  

なにかを学ぶ、あるいは学ぶようにセットされている。  

「自分」はそれを本能的に避ける。 それをまとめると、そんな不幸 

まで味わって、自分を知りたくない、ということで、それを生活感覚で  

言えば、僕らは実は自分を知りたくないのだ。顔が悪いとか、バカな  

自分とか、泣き虫・弱虫の自分、臆病で卑怯だったりした自分、それを  

人に知られるのが嫌だという前に、自分で知りたくないのだ。  

仏教は聖徳太子が国教として奉ったが、ブッダからは1100年後、 

大乗が完成してから、中国を渡ってから、400年後のことで、それ  

でもブッダは沈黙を保って書き残さず亡くなったし、聖徳太子から  

1600年も経った今日でも、悟りワクチンなる、確実なものは  

書かれたことも、できたこともない。なにがどうしてそうなったのか、  

誰もわからず、古(いにしえ)の個人の哲人が、道元とか、それらしい  

ものを書いたが、教科書になるには知的理解はできたが、真相は  

難解だった。  

それは仏教も悟りも、それぞれの時代のエポックであっただけで、  

ワクチンは完成しなかった。そこに人々が(わざわざ苦しんでまで) 

嫌なものは見たがらない、という千年、二千年の壁のようなものが  

出来上がっていた。  

弱い者はそのまま(強い者もそれを免れるわけではない)、人の考え  

の間で人生の自然がそうできているように、苦しい時には苦しみ、  

楽しい時には楽しみ、世の流れのままに自ら年寄りになるべく(それを  

意識してしているのに自らは気づかないが)歳を重ねるがために、歳を  

取ろうとして取る、老後を過ごすべきなのだろう。そこには逃れられない  

頑固さもあるが、経験から透徹したなにかを見透した、年の功もある  

だろう。


ひとつ、こんなことがあった。パチンコ屋の前で立ち食い蕎麦屋をやって  

いるおばさんがいたが、息子が事故死して、慰労金が数千万円も入った  

らしい。すぐにおばさんの蕎麦屋は姿を消した。旅行に出かけたとか、  

噂を聞いたが、3か月後には、また蕎麦屋をやっていた。 

どうして蕎麦屋にもどったのか、聞いていないのでわからないが、自分の  

経験ではそれなりの資金が入って、海外旅行から帰って、好きな時に  

好きな場所へ出かけたりしていたが、飽きてきた。退屈して、時間も金も  

あるのにこれではいかん、と体力以上に遊びまわった。というよりも、  

自由な生活をしているのだから、自由であるべきだと、あがいていた。  

つまり、自由を失い、求めて苦しんでいた。そして、オーバーヒートして、  

入院となった。情けないが、実話だ。 自由を求めるのは自由では  

ないし、それは金と時間が好きに使えることでは、意外に成し得ない。  

それは自由への夢ではなく、現実の雇用労働や神経疲労・介護疲れ 

を癒したい、解放されたいという一時的な願望に過ぎず、体とこころの  

ホメオタシスなのだ。 

金と時間があって、病院で反省することになるとは思わなかった(笑)。


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