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生まれた意味 [生命]

書くということがこんなに難しかったか、などと  

考えたこともなかった。難しくはないのだろう、 

ただ書く前にそれを反省するとは思っても  

みなかった、ということで、この文が切れた後 

がどうなるのかがわからない。  

続くのか、続かないのか。  

疲れた時は、慰めの曲が聴きたくなる。聴いて、  

それでいいとなると、それでなにも書かないかも  

しれない。なにも好転しない状況を想像する、  

ことが心で行われているようだ。曲に慰められる  

弱さを感じるように、それを乗り越えてなにかに  

向かって進んでいこう、というようにはまだ、なれ  

ない気がする。  

それなら、この状況に身をまかせようではないか。  


暗い 湖にボートで  漕ぎだすように  

静けさが  欲しい  

その ゆったりした 水に  横たえたい  

遠くまで 思い出が  連れて行ってくれるなら  

それでも いい  

どんな 光景が  浮かび上がるのか  

どんな 情感が  湛えられて  あふれるのか  

その美しさに   横たえたい  

ただ  自分であることに  疲れたら  

それは 自分になれない 時も  

同じだろう、と  君は  思ってくれ  

その時は  なにかに  

身を  まかせたくなる 

横たえたくなる   

水面が  手を切って  冷たいだろうか  

暗い湖底は  指先に 感じられるだろうか  

もう すべてを 失ってしまった 気に  

なっているが  

心は  なにも  失っていない気が  

やはり  している  

それらが  何物でも  なくなってしまったら  

熱いものが  胸から  湧き上がる  

そういう 感動も  ないだろう   

どうして  僕らは  なにも   

失えないの だろう   

愛を  支えようと  するのだろう   

ぼくらが  ほんとうに  疲れてしまったら  

やはり  支えるものが  必要なのだろう   

テトラポットに  打ち上げる  波しぶきが  

これを 見るために  

ここまで来た、と   思わせる  

小田原なみ.jpg  
小田原しぶき.jpg

潮の  味がする  

こんな  小さな 粒にも  生きる力が  と 

海は  何回かの 波の後に  

大きな波を  寄こしてくる  


夜は  深まる  

僕は  ようやく   落ち着く  

ボートに  寝転がると  

曇り空の  雲の間から  星が  

見えたり 隠れたり  

雲の 幕が  流れゆく  

僕は  こんなにも  

こんなにも  

この世界を  愛していたのだ  

それだけが  

胸に  湧きおこって  

僕を  遠くへ   連れてゆく  

今の ままでいい  

ただ  今の ままでいい  と  

ここなら  

忘れて いられる  

静かな  吐息  

風に 揺れる   葉の音  

聴こえない  沈黙の 黒い世界  

凝縮した  点の  世界  

やさしさも  厳しさも  寄り添う  

軋轢のない   子兎の 

柔らかな  毛の  世界   

僕は   また    

ここへ    来たよ   


そして  星を 数え  

やがて  訪れる  朝日を待つ  

僕は  どこへも  行かないのではないか  

僕の希望が  見ている世界を  

変えている  

それが 生きるのに  必要なら  

そこに その世界が  厳然と  現れる  

そういう幻想が  あればいい  と  

それに 近い世界を  生きながら  

そう 思えてくるよ   

僕らは  制約の中に   自由を  創る  

僕らは  懇願の末に  愛たちを  創った  

それが   僕らが   僕らに   

絡めとられてしまう   異変な 世界だとしても  

僕は  まだ  見守りたい  

僕は  まだ  世界から  

切り離されて  いないから  


もう  書こうとすることは  できない  

あるがまま  そのままに  

変わりない  世界を  祝福しながら  

生きよう  

夜の底が  白みはじめ  

山の  頂上が  仄か 白くなる   

また  新しい  

自分が  はじまる  

これを  

最初から  讃えてきたのは  

僕自身でも  あった   

それも  思い出そう  

最初の  人間に  なろう  

しあわせとかでなく  

生まれてきた  その意味を  

今  思い出そう  

ここまで  来たのだから  

ここまで  来た ん だから  



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生命の樹 [生命]

僕らがここにいる、ということはどんなことか。  

君らがここにいるとは、どんなことなのか。  

そういう設定は、聞いたことがない?  途中だが、  

赤ちゃんが飛んできた。初めてだ、 珍しい。  


コウモリ6.18-2.jpg

全長8cmくらい?

部屋の窓に、少し、シャッターを下ろし気味の、その隙間に(生まれて  

そう経っていないだろう)、コウモリの赤ちゃんが入って来て、網戸を  

動いている。人間が珍しいのか、眼を合わせても、こちらを見ている  

風だ。見えているのか?と思わず首を傾けて、見てしまう。

コウモリが飛んでいるのは、知っているが、こんなに 近くに来ることは  

ない。 なにか間違えたんだろう、窓を開けようとすると、器用に  

するすると下がって、元に戻るのだろう、飛んで行ってしまった。 

さすがに野生(人の街と共生しているが)、赤ん坊のうちから近づく  

危険から、身を守る感覚を備えている。  


 僕らがここにいる、ということはどんなことか  

 君らがここにいるとは、どんなことなのか   

そこから始まった。  僕らの世界が。  

僕らは 世の始まりに  世界の白夜に 

立ち会うことは  できないことなのだろうか  

僕は  想像する  その荘厳な 世界の夜明けを  

朝露に 濡れた  下草が 冷たかっただろう、  

裸足には  

朝日に照らされた 岩山の  神々しさを  

僕らは 敬虔なこころで  見つめた  

空気は  見えるように  澄んでいる  

心なしか  高山植物と  命名された  ツリガネの花が  

一輪  朝露に 濡れて  

僕らは  朝の  始まりを 知る  

朝からの  一日の はじまりを   知る  

そして  祈る気持ちに  させられる  

朝は  どうして  こんなに 神々しいのだろう  

こんなに 心が  開かれる  


僕の胸は  命を  鷲づかみにする  

水が  絞れるほどに  手が しびれるほどに  

生命を  掴む  

まったく  忘れていたのに  

コウモリが  知らせに来たかのように  

僕は  ここに  やってきた  

やってくると  わかることがあった  

来ないと  わからないんだね  ここにある、  

さまざまな  ありようが  

人は  人を  愛す  

それは  そうではない、  末端では  そうだ  

だから  人は  人のために  愛するのではない  

人間とは  なんだろう   

どうして  人ではいけないのか  

人は  僕らの 想像の神様であって  

だから  全知全能を  また 慈悲慈愛を  与えられた  

属性として  

人間は  不全知 不全能であって  未熟な存在だ  

ここにきて  僕は  新しい答えを  見つけた  

そう  誰も 賛成しないだろう  その答えを  

僕らは  人間になれば  神になる  

それは  不全知 不全能であって  未熟な僕ら  

不全知 不全能である  僕らという 未熟な神だ  

人の思う  僕らの影である、投影の神は  存在していない  

イメージは  それを大事に  育ててきて  

神のイメージは  歴史的存在に  なってしまった  

  
人は あの人、 この人を  知っている

人間は  いまだ  人間を知らない  

神のように  イメージのままだ  

僕らが  神を望むように  それは  外にはない  

僕らが  認めようとはしない  プライドの嫌う  

惨めな姿の 神  それが   僕らなのだ  

どうして  そう言えるのか  

なにも  言っている気がしない  

ただ  ありのままを  追求して  たどりついた  

その世界  その姿を  見たまま  言っているだけだから  

これは  そのまま  僕の 妄想にしても  

幻想にしても  おかしくはない  

でも  僕はそれに  反対はしなくても  

今は  それを 言い続けるだろう  

人の見る  人は 理想の姿を 取りたがる  

人の見る  神は  人の姿を  理想化したがる 

自分の 理想というもの  

自分という 理想の姿   

すべては  ぼくらが  希望する姿なのだ  

だから  皆に 受け入れられてきた  信じた  

それを 拒絶したり  否定する心情には  

なれなかった  

そういうものが  ぼくらの  芯にある  根本にある  

では  受け入れるしかないではないか  


君には  君の 答えが あるはずだ  

それが  いつまでも ”今” というアンサーになる  

僕も 同じように  今の流れを見るだけで  

明日も  同じ答えを  見るとは (必ずしも) 

思っていない  

その今の答えさえも  「僕がわかる」という意味では  

完全ではないからだ  

それは 人間だからこそで  不全能・不全知に  

行き着く  

今  できるだけ  わかったことを言う  

他にない  それだけ  

煙のように  次から  次へと  現れる  


もう少し  考えよう  

僕らが  そのまま  生きる支えなしで 息をすることも  

できない、と 思われる  

僕らは 生きていると 考える必要なく  

すでに 生きているのだが  それで 済まない

これを司るのは  認識という  自分であり、 知性だ    

それは  負の誇りでもあり、  自分の自分への証明、  

でもある  

自分は  なぜ 精神的にも  証明や  防御・依存すべき  

なにかが  必要なのか  

それは 単純な態で  死んでいないからだろう  

死んでいて  そこで生きていれば  生きている世界を  

認識できるが  そういう比較は  生きていては  

決して  できない  

精神的に  死んでもみない限りは  

この「精神的に  死んでもみない限りは」 が  

ひとつの答えで  迷いでもあった  

健全な  感覚が  それを 遠ざける  


生きるべきとか  そういうものがないのが  

健全な 世界なのだろうか?  

動物は  ただ  生きているのだろうか?  

考えを  構築・組み立てる 帰納がないから? 

それで  自分を イメージできないから?  

それでは  動物に  しあわせはないのか?  

家畜と  友情を築けた人々は  その答えを  

知っているのでは ないだろうか  

彼らが  知るのは  愛だろうか?  

それは  人の愛では  ないだろうが  

伝わり  交歓するものがあるのは   

一緒に 暮らすとわかる   

思いやって 暮らしてみれば  わかる  

僕らは  それを人の愛と  同じと  

思いたがるが  少し  ちがうようだ  

彼らは  生きる支えという  精神を  必要とはしない  

生きるから  生きる  

僕らのように  その点で  迷うことはない  

子供を  見ると  そのようだ  

動物な彼らは  自分の意見はない 代わりに  

喜びは  まったくの 喜びで  

その笑顔に  なんの疑いもない  

僕らの 恥じらいなど  ない 

悲しくては  泣くだけ  泣こうとする  

天衣無縫 という  魔法に生きている  

僕は  その 根っこに  触れてみる  

掴んだ手が  光になるように  

透けて  金色にも ピンクにも 光を  放つようだ  

これは  想像だ  そう、錯覚だと  

自分に 言っても 遅い  僕のこころは  

あたたかく  なりゆくから  

喜びを  創り 上げるから  

ああ  人間の 拍手よ  喝采よ  

君らの  喜びが  聞こえる  

これを 待っていたんだ  え? そうなの?  

僕は  知らずに  そう感じる  

この想いは  思い出なのか  今のことなのか  

僕にも  わからせろよ  ええ、  あんた  

君は  生命の樹 なんだろ?  

ああ  拍手よ  喝采よ  

生きるのは  もともとから  喜びだった  

そう言っている  これは 夢か?  

だから  君も  神なんだろう  

みっともない  人間という  

なんという  何という 処まで  

ぼくらは  旅が  できるのだろう  

なんという  なんという 処まで  

僕らは  生き続けたのだろう  

この 何千年と  僕は  何だったのだろう  

これで  よかったのだろうか?  

これで  十分に  できるだけ だったのだろうか?  

よく  

これからも  よく  やろう  

よろしく  君たち  

よろしく  コウモリたち  

僕らは  生命の樹から  生まれた  

それは 生まれ変わり続ける  女神だったような  

あまりに遠い  母の イメージだったろうか?  

不幸な母も  遠く  辿れば  

ここに 行き着くのでは  ないだろうか  

これを  冥福を祈る という言葉で  

人の気持ちを  現したのだろう  

君の前では  それが嘘であっても  冥土がなくても  

いいではないかと  僕は  

そういう気に  させられる  

生命の樹は  僕らを  守るだろう  

僕らの イメージは  いつも全滅して  また  

再生産を  くり返すの だろう  

幻は  幻だ  

僕らは  それでも  何の心配も 

いらないように  できている  

これが  もっとも  伝わらないことかも  しれない  

だから  もともと  今のまま続く  ということが  

どういうことか  わからない  

変化も  変わらない も  同じ天気の  

晴れと 雨だと   わからない  

見方を 変えれば、としか  思いつけない  

その イメージではなく  

僕らは  死なない  

同じ自分は  くり返せない  

ここに あるから  

それは どれだけの  奇跡であるのか  

それが  どれだけ 得難いことであるのか  

僕らは  なんであるのか、 と尋ねると  

僕は  気が遠くなってしまう  

それは まるで  恐れ多いとか  そんな  

形容を  思いついてしまうほどの こと

  
生命の  なんという  尊さよ 

ああ  僕らは  なんであるのか  

ああ  君らは  なんであるのか

ああ  人間は  なんであるのか  

 


*僕らがなにかに依存しなければ生きられない、と考えることも  

そう感じることも重要なことで、単なる考えで否定するような  

ことではない。僕らは精神的な危機に遭うと、自然に藁にでも 

捕まるように、なにかに依存する。そうできているのだから、やたら 

に他人の心の中心を占めるような重要な依存を否定するのは、  

その相手を一生世話するとか、面倒をみたりとかするのでなければ、  

そこに至る思いもなく、依存を批判・非難すべきではない。そこには  

たとえ偽善・欺瞞でも神や宗教の問題が入ることもある。 その人が  

生きるために偽善が必要なら、それでもいいのだ。相手が気がついても、  

代わりになるものを探すだけなら、煙草をやめて、食い過ぎでメタボに  

なるだけの話で、こころが現実にも夢にも依存しないで在る、という  

状態にはふつう、なれない。



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