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輪廻インカーネイション [輪廻]

少し、なにか現実の雑用を、それは放っておいたのだが、それを 

片づけたりすると、一息入れにここにもどってきてしまう。  

今までずっと感じてきて、それは変わることがなかった実感が  

あるが、実証可能ではないので、信じる者にはそれを反証できるという  

ことになり、水掛け論は面倒だから、自分のそれは言わないでいた。  

だんだん、こらえ性がなくなって、「パラレルワールド~」から、いい加減  

なこともしゃべり出しているので、今もそうなのだろう。  

この数十年というもの、その考えを変える必要には、一度も迫られた  

ことがなく、従って、今までそういう特別な直感とかの契機やきっかけは  

まるでなかった。だから、これも客観的に考えられるというような知性の  

問題ではないし、世間のイメージを崩しても、増幅はさせないだろう。  

あの世というものを主に末法思想からの影響で、他にもあるだろうが、 

地獄などのイメージは僕らの心に、天国よりも強く残る。  

僕らの見る地獄などの夢はそれらの子供の頃からの、記憶にも残らない  

ような、無意識の底に沈んだような、古いきっかけがあって、それが 

成長してから外からの知識、映画や本などから呼び覚まされるように  

その映像などを見る。それは夢の中でこれは現実に違いないと思える、  

非常にリアルな映像でそれを見たと信じてしまう。 他人はそれを  

否定できない。本人にその錯意を自身で解く以外には、どうも解決はない  

だろうと思われるが、それは僕にしても同じことだ。  

今まではそのある種の感じる直観が、当たるから信じてしまうだけで、  

それが一度でも当たらなければ、それだけで僕の推量などは吹っ飛んで  

しまう。これまでは運が良かっただけだ、ということはこれからも常に  

勘ぐられるだろうし、自分でもその疑念を捨てることはできない。  

ここまで言い訳しておけば、反論したくてもその気になれない反対の  

意見にもならない迂闊な反論以前の見解を見ないで済むだろうか。  

では、それを言うと、  

仏教からでも有名な「輪廻転生」という言葉も事象も、それが現実にしろ  

夢にしろ、それはまったく意味を持たない、ということ。

言ってみると、やはり言わないほうがよかったと思う。だらしないね、  

それなら言うべきじゃない。  

ということで、発してしまったので、一意見として、そうしなければどんな  

説明も展開できない。ただ、そう思う、とかそう信じる、で身も蓋もなく  

終わってしまう。 

輪廻転生は仏教的な意味では詳しく知らないので、ただ人は過去生が  

あり、それが生まれ変わりで、現在生になり、それをくり返す、という 

くらいの意味だとしておこう。  

僕らが思う時間の過去は存在しないし、それは存在したことがないから  

そうなのだ。数字は一度でも自身の「1」というものを実体的に、それは  

実態としてもったことがない。ミカン1個になったこともないし、火星1個に  

なったこともない。僕らの頭で都合よく計算するために、その都度その  

「1」を表象する対象や対象物は、僕らの取り扱うものに変身する。そう  

でなくては、抽象に計算はできない。ミカンの計算をするのに、実物を  

持ってこなくてはならない。そうしなくて済むのが、抽象化のいいところだ。  

時間も僕らのいい加減で、適当な位置や点を決められる。何年何月の  

何日などは僕らの決め事であって、瞬間に移ってしまうというが、それを  

凍結できないことは僕らは経験的に知っている。 年中の行事は僕らの  

気持ちを切り替えるためのものであって、実際にはなにも変わらない。 

12月31日の23時59分も、その2秒後の1月1日0時1分も全地球的な運動は  

進んでその位置や形態、容量などは変化するだろうが、急に正月用に  

細胞や形質が変わるわけではない。僕らは過去を捉えられないのではなく  

時間という、また数字という僕らの決め事に過ぎないことに、その自然な  

内容物を求めることはできない、ということだ。  

過去がないのに、過去生を求めることがおかしい。これがひとつ。  

好きな説明ではないが、理屈ではそうなる。次に僕らが(僕らという一人 

一人の)自分がまったく同じには生まれ変わらないということを、前提で  

知っていることだ。僕らは微妙に変化しても、同じ自分ではないのに  

気づくはずだ。例えば、一卵双生児でもいろいろとそっくりなのに、また  

お互いの気持ちや考えも読めてしまう時も多いのに、なぜか二人は別々の  

人生を歩む。よく言われるのは、どちらかが幸運についていて、もう一方は  

そうなると、あまり運についていない。また、実際に一緒に生活していると、  

区別されることを求めるのか、お互いに違う性格を形成しようとするらしく、  

成長すると、別な性格になる。双子でさえ、個別化を図ろうとするのだから、  

(たとえ生まれ変わったとしても)生まれ変われば、過去の両親とは  

性格も性質も体も心も違う親から、半分ずつ遺伝子をもらい、生まれるの  

だから、過去の自分とは全く違う個性になっている。この時、もう昔の  

自分はいないのだ。それはまったく今の自分ではない、と、もしも  

(未来に転生するとして、その自分に)会えたらそう思うはずだ。  

つまり、極言すれば、あなたは生まれ変わり、別な人格の他人になる。僕ら  

の今の感情も感覚も、知性でさえ恐らく受け継いでいない。  

ところが経験値としての夢や幻についての先入観が先にあると、その映像  

や経験から逃れられず、同じ魂とやらが、次に繋いでゆくと思う。考えて  

みれば、よく納得もしていないのだが。  

僕らは自分がアメリカに生まれれば、日本人の魂なら、アメリカ人に  

ならずに日本人になるのだろうか? 過去生という記憶を持つ子供が  

いるというニュースは全世界にある。そして、学者がその真実を調べ  

ようとするが、結論は出ていない。憶測の論文が出るだけで、誰もそれを  

確定したものだとは受け止めない。それは調べれば調べれるほど、  

記憶の曖昧さや記憶違いが浮かび上がって、どこまでが真実か  

わからないからだ。記憶の信号は気まぐれだ。なんらかのアンテナや  

電線とか発信機とか、に接したりすれば地球上を飛び回るだろう。  

そこらあたりがただの憶測にすぎないし、実証ができないところだ。  

でも、その可能性を考えると、死者の記憶がどこかのまだ「自分」が  

できていない「子供」の脳にキャッチされて、子供が自分はどこそこで  

生まれた誰々だという名前を告げて、その生まれ変わりだと、周囲が  

考えてしまうのはありそうなことだ。そして、実証で首実検が行われ  

るのであるが、結果はそうでもありそうだが、そうでもなし、という幅を  

出ないのだ。死者の飛んだ信号の記憶には容量の限界があるから、  

その信号の質によって、いい結果が出たり、出なかったりする。 

信号に捕まった子供が、急に昨日死んだばあさまの記憶をもった  

からといって、子供のままから生きてゆくんだろうに。 


― : ということで、僕らはもしかして生まれ変わっても、今の自分が  

描いている未来を次に自分が歩むことは、まず”ないだろう”、という  

ことだ。僕らの考える時間枠では、それは絶対に(?)起こらないだろう。  

だから、輪廻転生には何の意味もない、となる。絵にかいた餅、という  

昔の人が言った譬えになる。  

それでは夢もなく、暗い行く末なのか、と死んだ後を気にする人は思う  

かもしれない。輪廻転生は死後に冥福を、新生に希望を託そうとする 

僕らのか弱い心情に根を張っているだろう。今がそれほどつらければ  

そうなるのかもしれない。それがほんとうにそうであれば、解決の  

道もあるだろう。逃げれば逃げるほど、現実は見えず、時に地獄の  

妄想も見てしまうから。体を健康にして、心を健全に傾けて行って  

それからは窮すれば通ず、を信じるよりないだろう。  

そういう妄想も自分で寄せ集めて作ってしまったものだから、その反対  

もない、というのは理屈に合わない。あるはずだ、ちがう生き方が。  

それを逃げずに求めれば、ということは、何かに「助けて!と求める」 

のは逃げ続けるを引きずってしまうから、そうではないだろう。気持ちを 

切り替えないと。  

まず、早朝に起きて、朝日と共に散歩することかな。  喧騒のない、  

清浄な空気の中で。 

体で大事なのは、睡眠・食事・運動と教わっているけれど、もう一つ重要  

なのは呼吸だ。まだ東洋医学の針のように不思議な枠だが、呼吸法が  

人生を変えるのは、最近気がつき始めたことだ。ヨガがお勧め。僕は  

自己流なので、詳しくないし、まだ中途だ。体の空気を入れ替えることで、  

それができるようになると、それで体全体、”気”を入れ替えるようになれば、  

「なにごとかである」と、僕は思っている。







*なかなか、思ったことは書けない。三つ以上にからまった考えや要素を  

どこからまとめようかと考えはじめるが、僕は医者や先生ではない、とそこ  

から切り捨ててしまう。 やりたいかどうかの問題ではない。 

それにしても、空想なら過去も創造できるし、未来にも、過去にも人生を  

切り替えられるし、科学的に転生の実現の可能性もあるが、何千年  

かけてもどうなるか、3年以上先の話は、とても現実的な話じゃない。
 
大局な観点や話ばかりでなく、今ある小さなことや、雑用も重要だ。


*表題の「輪廻インカーネイション」は リーインカーネイション(再生) 

をもじったもの。                   6. 20
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