SSブログ
サザエさん ブログトップ

メールに応えて 小林とサザエさん [サザエさん]

ここでは 一般的な回答を 試みる :-


思うに、 

動物と 僕らとの間には 確実に  壁がある。  

この壁は  認識の違いとかいうもので、  動物から  

みると、 感覚の違いというものなのだが、 そういう 

認識力がないから 動物に類しているのであって  

それぞれが 生きるのに 必要な力を  駆使している、 

それは 同じで  間違いないだろう。  

苦しみは それが人間のものである限り  それは 

認識が 絡んだものであるだろう。  

僕らは 認識力によって、 謂わば頭を使って 生きている  

と 思い込んでいる。  それこそが 認識の力であり、そこ  

からくる錯覚でもあるのだが、 鏡に写ったものが 本物である  

という経験事実で  成長期を過ごし、 暮らしてきたので  

鏡に写さなかった もの・ことを 重要には考えなくなった。  

それはTVで宣伝している商品は、知らずに信用してしまうが、 

見たこともない商品は 信用しきれない、のと同じ現象で、  

僕らは  その商品を買うよりも、 見慣れた商品を買う。 

このように 僕らは広告・宣伝に 自分で確かめたわけでもない  

のに、 選んでしまうという弱い面があり、それはそのまま  

僕らの認識力への依存、自分の頭を頼りにしている、ということで、  

それは多分に、異常なことなのだが、 皆が皆ある程度はそこに 

陥っているので、周囲を見てもそれに気づきにくいという事情に  

はまっている。 

: と言うのは簡単だけれども、僕らは動物を目の前にしながらも  

動物の心は見えないように、僕らが認識への依存にはまっている、 

というのも僕が言っているだけで、誰かがそうは言っても、そうじゃ 

ない意見を持っているのでもない、微妙な事情も介在している。  

だから、動物と人との間に認識・感覚の壁があるように、僕と  

人との間にも認識・感覚の壁があるのだろう。  

考えることは、通常では煮詰まることである。これは認識の性質  

そのものだから、避けられない。なので、考える訓練を学校でも  

してこなかった場合は、準備を考える必要があっても、なくても 

すぐに行動してしまうパターンになる。失敗の経験から学んで  

準備に思考を回すようになる。それでも、何もしようとしないより 

はいい。考えもなく、行動もせず、言われるまま、流れに任せ、  

という自分の認識に自信のない人もいる。はじめからそうであった  

のではなく、周囲とのコミュニケが取れず、悩んで不安になった  

ままなのだ。そういう人は自分のプライドと認識との間で理解が  

取れないので、憂鬱になりゆくか、そうでなければ先天性か  

後天性に虐待などで、精神障害を抱えてしまった人である。  

これは普通の人と、障害はあるが社会生活はどうにかできる、 

という人との壁になる。まさに障害が障害になる例だ。  


そこで君の例に応えるには、人が陥る知性のはざまについて 

問題を絞るのがいいだろう。  

福岡のどこかの大学近くの通りから、図書館へ向かう途中で  

サザエさんの作者が幾年か住んでいたらしく、その碑があった。  

おおげさなものではないが、ゲゲゲの鬼太郎も全国展開で、 

鳥取の境港には妖怪の像が並んだ通りがあるそうだから、 

なんでも記念なのだろう、と思った。  

サザエさんの作者は長谷川町子で、日本初のプロの女性 

漫画家だそうだ。なにせ、父の死で上京した女子高生の時に、 

「田河水泡の弟子になりたい」と言った独り言に母が奔走して、 

内弟子にしてもらった。15歳だろう。天才少女と言われたが、 

ホームシックで11か月で家に戻ったそう(Wikipedia記事より)。  

サザエさんは国民的漫画になって、数々の賞を獲った日本の  

家庭を象徴する、代表的なホームドラマだった。 代表的な、と  

いう形容詞が似合うほど、僕らが一般に考えるような仲睦まじさ  

があるということで、それを皆が認めるほど人気があった。

それは皆、同じような夢を描いていたから、ヒットしたのだ。それ 

に貢献した最も大事なポイントは、長谷川町子が一度も結婚せず  

死ぬまで家庭を築くことがなかったことだ。それで夢を描き続ける  

ことができたのだろう。現実に結婚して、その悲哀を経験して  

いたら、家庭を漫画で笑えなかったのだろう。夢だからできた、 

のではないか。 同じように東海林さだおの漫画「サラリーマン  

ショ-ジ君」も面白い経歴の噂話で、早大で漫画クラブを結成  

してたが、中退してからは出版社に「漫画家になりました」という  

チラシを配って、注文が来るのを待っていたらしい。待てど待てど  

注文が来るはずもなかったが、それで就職をするのでもなかった。 

彼の出世作は「サラリーマン専科ショージ君」などだが、彼は  

サラリーマンなどしたことがなかった。長谷川と同じである。 

その経験なしで、サラリーマンの悲哀を描いて、ユーモアのある  

笑い人気がでた。本当のところ、サラリーマン経験がないから、  

そういう悲哀にあこがれるような余裕があって、夢があったから  

だろう。  

漫画の本分は現実を空想に陶冶することにある。味付けはそれぞれ  

の分野でユーモア、笑い、シリアス、涙、劇画などと違いがあるだろう 

がその様式は、知性の思考の様式によく似ている。現実のもの・ことを 

言葉でくくって、もう一つの現実=空想の現象に仕上げることだ。

だから、僕らが現実に経験して、そこに根差す経験をしているような  

ことは、夢で描く=実際に経験していないほうがいいのだ。  

これが僕らの世界の事実だ。現実を、現実の中で考えることは  

夢の中に入るのでなければ、過去から要素を集めて思考するので 

煮詰まってしまい、つらくなる。 

マルクスは貧しい中でも一家で引っ越して、さらに貧しい屋根裏 

部屋か?で暮らし、その環境の悪さに栄養不足で娘二人は死んで 

しまった。それでもマルクスは本を買うのをやめなかった。「資本論」 

は階級闘争というが、彼の実生活の恨みも含んでいるだろう。

彼は夢に賭けて、現実を犠牲にしたのだろうか。 「資本論」の真実 

をどうしても、とその世界にのめり込んだ。 その後の世界の歴史は 

資本論の旋風に巻き込まれ、名目の共産主義は今もその名で  

国家世界の片方で君臨しようとしている。  

真実ではなくて、政治の方策に都合がよかったからだろう。 現実 

の政策など、為政者の都合に利用されるのが、僕らの空想だからだ。 

空想は、ユーモア・笑い・悲哀・恨みなど僕らの共通に共感できる、 

わかりやすいものが都合がいい。  

知性が煮詰まることの危険性は、アルチュセールという哲学者を 

いえばいいだろうか。彼はマルクスを擁護する本を書いている。 

しかし、煮詰まって精神がおかしくなり、妻を殺害するに至っている。  

裁判で精神病院に入れられ、それからほどなく回復してまた哲学の  

思考生活に戻る。彼には考えるよりほかに生活が考えられなかった 

のだろう。それは悲劇だ。  

僕らの日常生活は、卑近な行動と経験で修正されて、僕らの年の功 

として、体に蓄積される。それで異常の悲劇は、ふつうに避けられる。 

僕の親父も、作家になるなら、純文学ではなく大衆作家になれ、と  

言っていた。自殺が多いからだ、と。平凡なアドバイスだったが、それ  

なりに心配していたのだろう。そして、世間も表層な面だけで、よく 

理解していなくてガンコが進み、認知症になってしまったが、煮詰まる 

と自殺もある、というのはよく知っていたらしい。父の世代ではあぶく  

のように流されていた常識だったのだ。 そうか、三島由紀夫の  

割腹自殺も あの頃だったろう。 

個人の知性を調べることは厳密に言えば、できないだろう。それぞれ、 

他の「心」や「脳」や「臓器」とのからみ・関係が重要で、それは千差万別 

でそれを解説するような学問は皆無、まったくない。 それはあいまいな 

それぞれの分野のあいまいな相談者・学者・カウンセラー・先生・ご隠居 

の狭い経験に委ねられている。 

法律家の弁護士や検事の言うことが、どういうことか、どういう判断か、 

法律家寄りか、依頼者寄りか、客観的か、それがわかればそもそも、  

自分で判断しているだろう。他人の言うことの判断がある程度つかめ  

なければ、相手の言うことに従うだけだから、相手次第で結果を委ね  

てしまう、という悲劇になる。これは矛盾ではなく、まるで判断力なく  

相談することが、始末に負えないということで、相談するなら、事前に  

最低限の予習や準備をすることだ。それさえ考えられなければ、子供 

と同じだから、冗談でなく、付き添いが必要だということで、恥だとか  

言っている場合ではない。それこそが悲劇の前兆だからだ。  


君はそんな心配はない。君は世の常識はわきまえているし、相談者 

を探しても、それなりの人物を知っているだろうし、また巡り合うだろう。  

ただ太宰治のように感覚・直感の人で それが鋭いので、現実感が 

現実において半端ないことだ。それは僕には想像だけで、容易に  

君の、現実に責められるリアルな実感をもてない。夢を大きく持た  

ないと、潰されてしまうほどなのかもしれない。だとしたら、今の夢を 

育てて実行にかかっているのだから、その事業を完成させるのを  

目指すのがいいのではないか。

ま、あまり、人のことは友人とは言え、長い付き合いだが、大したこと  

は言えないし、うまくも言えないな。



*余談:  長谷川町子が弟子入りした田河水泡は、近くに小林秀雄 

が住んでいて、その妹を水泡が見初めて、結婚したそうだ。田河の  

本姓、高見澤順子になった。 小林がつながりそうもないサザエさん 

につながっているのだから、世の中、面白い。 

その先があった。クリスチャンだったという長谷川が内弟子になった時、 

田河夫妻は15歳の長谷川と一緒に教会へ通ったという。長谷川が家に 

戻ってしまってからも夫妻で教会に通い、とうとうクリスチャンに

なったという。妻が先に、水泡は戦後に。 

田河は酒好きで、禁酒が何度トライしてもできず、そのために洗礼を  

受けたとその理由を言っているが、それだけでは納得しがたい。

が、それはその理由でも面白い。
nice!(12)  コメント(0) 
サザエさん ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。