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見ればわかるは、感覚の開放で [感覚]

ヘッドフォンで波の音を聞いていると、打ちのめされる気に  

させられる。 波としぶきの感触が、一緒にやってきて、 水の  

膨大な量の、海を連想させるから。 1,5kmくらいを海水浴場の 

浜まで泳いだ、中学生だったろうか、泳いでも泳いでも、目の前 

の浜が見えているのに近づかない。 遠いとは見えないのに、 

遠かったのを覚えている。  

やっと足の立つ浅瀬にまでたどり着いて、あとは歩こうとしたが、 

もうへとへとで、後ろから来るさざ波に、もろくも耐えられず、倒される。 

また、泳いで膝がつく処まで。そして、立つとまた波に倒されるので、 

四つん這いのまま浜で遊んでいる人の間を通って、ようやっと上陸  

した。  -なんてひ弱なんだという思いだけ、あった。  

よく海難事故で海に投げ出された人を救助するのに、ヘリコプターや 

救助機が出されるが、海なんかなんにもないのだから、広い範囲を  

一目で見渡せる。だから、数日も遭難者を探せないことに、おかしく 

ないか、と思っていた時期があったが、海の広さはプールじゃない。 

太平洋に日本列島が何十も入ってしまう。東京23区だけの広さを捜索 

するだけで大変なのに、さらに日本国中を、そしてさらにその日本の 

数十倍も楽に探せるものか、とあとで反省した。  


目の前に答えはある、という話の続きをしよう。と言っても、うまくそうなるか  

まだわからない。これには人の”感受性”が深くかかわっているというのは、 

誰しも想像がつくと思う。どういう統計か、確かめるべくもなかったが、

感受性の特に鋭い人を「H S P」(Highly Sensitive Person )と呼ぶらしく、 

5、6人に1人はいるらしいので、障害者ほどまれな存在ではない。  

こういう人たちは神経質と呼ばれるにふさわしく、神経疲れも激しいはずだ。 

日本人は欧米よりも肩こりの人が多いそうだが、 「H S P」が気質として  

あるのかもしれない。  僕もそうだとは、自信を持って言える。言えるのは 

これくらいかもしれない。まだ学生の頃、上野の音楽会で生のピアノ演奏を 

聴きに行ったことがあった。目を閉じて聴いていたが、特異な感じに感想を  

書いた。メロディに半音が多く、流れも通常の美しさを奏でるものではなく、 

時々キーを外したような演奏もあった。演奏者のミスではない。それを狂気

の曲という言い方を中心にして、感想したのだが、調べると作曲者は発狂して 

悩んでいた人だった。これには自分でも驚いたが、そういうことが続いて、自分 

がかなり音や色などの感覚だけで直接ではない事実も、知ることができると 

思った。それは後年になってみれば、まだ浅い認識で、それよりさらに驚く

認識力の可能性を人間は備えている、と今は知ることになった。 

もう若くはない50代には、僕らが忘れてしまったか、未開発の未知の感覚 

が自分のうちにも在る、ということを確認していた。これが本当に確認できた 

のは還暦過ぎて、無意識との交流ができるようになってからだった。  

仏教ではないが、物事を知るとは、感覚を正しく受けること(正覚)が必要 

で、それはふつうに見る、聴く、雰囲気のような全体を皮膚で感じる、と 

いったことで、それを開放させることが必要になる。それはインドで昔  

行われた修行のようなことで、例えば、昔だし、少し外れるが、台風が 

近海に来た時に、海岸まで車で行ってみよう、と若い奴らが(自分も似た 

年齢だったが)誘いに来た。車だから大丈夫だろうと、荒れ狂う波を見に、

海まで走らせたのだが、彼らと来た日には、松田聖子の「赤いスイートピー」 

が好きだったらしく、車に乗っている間中、車内はガンガンに「赤いスイート 

ピー」が流れまくった。 

僕は松田聖子はその当時、趣味ではなかったので閉口した。やめてくれ、 

とは言えずに、何時間聴き続けただろうか。はじめは頭、壊れるんじゃ 

ないだろうかくらい、嫌いだったのに、帰って来て1日も経った頃には 

すっかり聖子ファンになっていた。松田聖子は好きではないが、今も 

「赤いスイートピー」は聴ける。  

これは聴き続ける苦行であったと、言えないだろうか(笑)。 

はじめは嫌だったのは、間違いない。しかし、強制的に聴き続けて 

好きになってしまったのだ、その楽曲が。  

もともと耳は悪くないと思っていたが、ある研究では(科学的根拠が 

まだ長年、脳に発見されていない)日本人は秋の虫の音を「言葉として」 

右脳だったかで、聴いているらしく、欧米人には聞こえないという。彼ら  

は「音」として左脳で処理するので、微妙な音が聴き分けられない、と。 

科学的根拠がなくても、効果は抜群な、東洋医学の鍼治療もあるし、 

気にしなくていいのかもしれない。  

そこで僕はいつだったか、秋の夜にどれくらいの種類の虫の音を 

聴き分けられるのか、試したことがあった。  

これは正確な数字が出た。7種類だった。何度やっても、7種類を頭に 

振り分けておいて、そこから新しい8種類目を聴こうとすると、必ず 

頭がクラッシュして、整理した7種がバラバラに弾けた。気分の問題 

はまったくなかった。限界を思い知らされたが、人の経験を尋ねた 

ことがないので、7種類が平均より上か下かも、知らない。  

虫の音、・・本当に日本人だけ? と思ってしまう。  



見てわかる。だが、どうしてわかるのかわからない。これって意外に  

ふつうだと思う。安倍首相が辞任。それは僕は5.22のブログの 

「また沈黙する 0 ロボット」、その最後に < * 首相の顔に 

挫折印。 内閣退陣の影。 今年? > と書いた。

よく考えれば、辞任で、内閣退陣ではない。単なる、判断ミス。 

見たのは、テレビに映る首相の顔の左眉の翳りだった。それを見て 

運勢の挫折を感じた。それを裏づけるように、すぐに顔いろの翳り 

にも気づいた。これは内臓関係の病の症状。所謂、直感なのだが、 

何も考えていないで、向こうから情報が飛び込んで来るのがわかった。 

そういう時の直感は当てになるのだ。でも、時期というのは疑心暗鬼 

で、今年か来年早くに、じゃ、今年?と「?」をつける。 

判断するなら、疲れではなく、持病を疑うべきだった。感覚は見た 

ものを過(あやま)たないが、判断がそれを誤解させる、とは今まで 

言ってきたことだ。自分で言ってきたことだが、自分でいい例を作って  

しまった、というわけ。  

仁術ということを体得した医者は、患者の顔色を見ただけで、病の 

種類からその病名まで見抜いてしまうだろう、というのが僕の感想 

であり、今では信じられなくなった昔の人の記録や伝説、なのだろう、 

と思う。  

例えば、テーブルの上を見ずに、指で触った時に、異物を感じて 

指先を見ると、1本の細い髪の毛が触れていた、というようなことは  

誰も経験している。ところが、そんな細い毛をどうして感じれたのか、 

とは考えてみれば、不思議な話なのだ。恐怖・不安がなければ 

見ないで触れたものの感触は、その微妙な感触の区別をすること 

ができ、そのことに驚く。 実際には、それを磨いて数万倍とかも  

夢ではない気がする。  

「天空のラピュタ」とか好きなアニメの宮崎駿だが、絵は技術のことが  

80%とか思いがちだが、宮崎が描く動きになる画が、若い弟子には 

描けない。十分に訓練したライターのはずが、宮崎にしかその動きは 

描けないそうだ。人にまかせられない、まかせたいのに。これは技術以上 

の感覚がものを言っている、そういうことを示した、ありふれた事実なのだ。 


それはもう一つの事実を言う。現在の人間国宝で彫金というのだろうか、 

金属の表面に花びらの模様を均等正確にあしらう職人技術があるが、 

その人間国宝が言うには、昔の名人がいて、その人はまったく完璧に  

コンピュータのようにそれをやってのける、と。実際に作品が残っている 

ので確認できる(テレビ画面)。ところが、その幾何学模様が、やると、 

わずかにズレてしまう。 それが真似できないのだ、人間国宝なのに。  



僕らは技術は公開されれば、人から人へと渡り、次第に進化して、時代が 

下れば下るほど、よりよい技術になる、というようなことを信仰しているが、 

事実はそうではない。その職人が亡くなると、失われてしまう技術もある  

のだ。  

つまり、基礎からものは次第に手を加えられ、発展するものだというのは  

僕らの先入観であって、感覚はその人のもので、受け継げない。  

だから、今、 あなたが感覚を磨くことは、まったく無駄にならない。誰も  

それを真似できないかもしれないのだから。  

僕にとって自然はロマンじゃない。恐怖だ、と同時にしあわせだ。 

例えば、海の深さは夢の響きじゃない。素潜りで海に飛び込んだら、 

たった3mくらいで、水中メガネが顔に食い込んできたので、恐怖を 

覚えた。海に潜るなんて、とんでもないというのが、真っ先の感想だ。 

海の深さは、 僕の顔に食い込んだ”水圧”と同じなのだ。それを 

味わいもせず、ロマンを語るのはやめてくれ、と言いたい。  

そして、それを突破すると、人魚のような魚たちとの直接の触れ合い 

をすることができる。そうなると、その感激・幸せを求めて、また海に 

潜るのだ。  



僕らは感覚に勝利すべく、現在十分狭くなりつつあるその開放と拡張を 

自身に求めて、自然に立ち向かい、それに包み込まれもしてみるべきだ。  

そうすれば、有用な無駄と、無用な無駄との区別もつくし、過激な欲望や 

有益な欲望の境界・節制も感覚でわかり、必要なコントロールもつく、と 

いうものだ。 

そうではないか、諸君。 


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