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君には期待しないから [期待]

こんなことは (自分に)  聞いたことがない 

書くのが 怖いの?  ・ ・ ・ ・ ・ 

おしゃべりだな、 君は  それは、 ・・ 

恥ずかしいから?   ハズ モー  

話しても つまらないからさ  たいしたこと、 じゃない  

ア  ニュー  YOU  

どこかで やはり 人に期待して しまうんだな  

それは それで かまわないんだけれど  

それで  終われば、 ね  

終わらない?  

つまり、 そういうこと  だな  

期待するのは  甘いテイスト、甘味料  

それが 体に  浸透する   サニー  

去りがたい 恋人のように  ハニー  

期待するだけ (自分にも)  期待してもいい、 と  

相手にも  思ってしまう   

それも また  安心の バニー  

それで、 そのほうがいい  

そういう人のほうが  はるかに  多い  

僕は  人種が  異なるかのように  

そういう中では  落ち着かない  

野宿が多い者には  家の中が  しっくりこない、  

のに  似ている  

ふつうは  早死にが  合っているのだが  

長く生きることも   ある   

半世紀も  孤独が 寝床だった  

そう言っても   おかしくない  

人は  人と 生きる  

その息と  意気と  肌合いで  

それに いろいろ名前を つけて  

生き甲斐の  ひとつになる  

それが 生活の  中心になる  糧に  ・・  



書くのが 怖いのは  僕が  

楽になった からだ  

皆の 孤独なんか  僕には ない  

これっぽっち  も  

厳然としてある そのリアルさ  

それは 現実のリアルさ でもある    でも、  

それは  皆の  現実じゃない

皆の現実は  お金がない、  寂しい、  

うまくいかない、 苦しい  

そういう 幻影  

それは  世間と  人間関係とやらの  

他人との 間で  よく  起こる   よもやまごと  

紙切れや  金融システムや  お互いの言葉の  

足りなさ   行き違い、  そんなもの  

そういう 幻滅  

なにを 信じるようにするか  その方法は? 

と 学校で 教わった者は いない  

それは 複雑で  個人差があって  

一律に 教えられないもの、 というのが  

僕らの 通念という やつだろう  

テルミー  ブックマイ  セルフ   メッス・ YOU  



通念というのは  あいまいだが、 その 曖昧さの  

中でなら、  ぬるくて、 有効なのだ   

硬いことを 言ったり、  決めつけたり、  

これしかない、とか  思わなければ  

ぬるくても  それほど   

不自由では  ない  

でも  新しい  基準や  ルールが  

文化として  制度として  入ってくる  

時に 理不尽でも  通念のプールに  

入って  ぬるさで 生きて来た人には  

それに  抵抗することを 知らないか、  

ただ 感情的に 反対しか   唱えられない  

給料を もらう側に着いたり、  生活ができない  

その怒りに  身を まかせる  



なんか  いつか言ったことを  また  

言ってるだけ  だろうか   

共同体の 幻想などと  言ったとしても  

それが  わかったとして  なんになるのだろうか  

ニヒリズムでも あるけれど  

「あいまいさの 有効性」 という  ぬるさの他に  

それよりも  確かな  生活法や  生き方が  

あるのだろうか  

それでダメなら  他を持ってくる、  それがないと  

打つ手がない、というのが   僕らの考えだ  

他が すでにあるなら  それは もう過去  

一度は 役に立ったが 今は役に立たない、か  

役に立たず、  埃を  かぶっているか  

復活や  再発見を  待っているか  

どのみち 未来を予想はできなかった  過去のもの  

予想は  十全に  ものごとを  明らかには  

できない      だから、  

いずれにしても  誰かが  新しく  生みだすしかない  

先覚者とか、  魁(さきがけ)とか  

でも、  僕は つまづく  

どうして  そういう歴史に  僕らは  

飽き飽き しないのだろう?  あ、  

また言って  しまったか  

僕らは  数千年もの 歴史を  振り返る  

そういう余裕は 持たないように  訓練されて  

ものごとの 機械的な処理を   生活にも  

取り入れざるを 得ない  そういう環境を  

与えられ  そういう環境を  作り 続けた  

製造業も  文化事業も  基礎研究も  

経済のどんな 主義も 関係なく  

利益を だすという 資本主義的な  考えに  

支配されて   誰も 疑えない 社会環境までに  

育て 上げて来た  

それは 分業という  社会の助け合いの中で  

主導権になり、  グローバルでは 後進国を  

金がかかる農業を だまして納入させて  

平和に 暮らしてきた村は  一年の豊かな、 

と見えた収穫 の後には  1年限りの種子、 

その種子にだけ効く 肥料、 なんでも  

毎年 それらを 買わなければ  

遺伝子組み換えの種子の 耕作からは 一切  

収穫はできなくなった  搾取の始まりだった  

平和な村は  貧しくなって しまった



始めから搾取がある 考え方の 人たちと  

僕らの 助け合いの 考え方の  違いは  

どうして 生まれたのだろうか?  

世界や 僕らの地域が  締めつけで 煮詰まるまで  

待たなければ  ならないのだろうか?  

それから  また、  実力行使? かい?  

平和な手段であっても  それが 追い出す人たちを  

生まないと 言えるだろうか?  

改革できれば  それができれば、 目的のためなら  

過激でも  犠牲が出ても  いいのだろうか?  ホント?



僕らは どんな ”中” に いるのだろうか  

どう見たって  出口が見えない  そういう処に  

いるようじゃないか  

僕らが  孤独や  閉塞感を  抱くのは  

そもそも  僕らが  そういう風にしているからじゃない?  

そう言うと、  君は 言うんだよね  

どうすれば いいんだ? と  

答えを  他人に  求める  

ともかくも  答えという  なにか 

それで解決になる 方法とか 考えとか  

求める  これが  実に 僕らの  独特な  

生理的ともいえる  反応とは  思わないだろうか?  

反応なんだ   慎重に考えて  出した質問じゃない  

そこで  「反応」という  生理的な 社会習慣だとも  

思わないで  平気で  いられる  



これが  第一歩になる  

”僕らは  なにか?” という そこにたどり着くための  

長い道のりの  ほんの 一歩になる  

もう何度も 聞いて  退屈かもしれない  

そこから  進まない、というのが  

君の  感想で  批判かも しれない  

これを 恐れていたのだろうか?  

目の前に 答えはある、と言ってきたが  

ニュートンが リンゴが落ちて  万有引力の考えを  

着想したのは  煮詰まるほど それについて  

考えて いたから  

だから 森羅万象の 現象が  そのヒントになる  

そういう生活を 強いられたから  その当時は  

ペスト だった  今は  コロナ?  

この 第一歩が  すべてに  優る、と 言える  

まず、  見ること だろうか  

どれほどに  今の 潜在環境を  見たいと  

思うだろうか?  

もし、 始めたとしたら  君は  一時的に  

孤独に 一人で 作業を始めるから  急に  

世間では  行方不明に なってしまうから  

僕には  わかる、 かもしれない  

コロナを それに役立てた人は  いただろうか?  

それに気を 配らなかったので  そういう人に  

僕は  気づいていない  



見ることを 商売で使う人は  僕らの  

想像もつかない  ことをしている  ・・・

ああ いつまでたっても  同じことを  

書いているよね   僕も  飽きたし、  

飽きた人も  いるだろう  

書き始めたのは  つくづく  失敗だった、 

と 思う  

ここで 僕は  失敗をしたとは  思わないことにしている  

同じことなんだが、 僕は  「失敗もするということ」 を  

していると  認識しようとする。  

それも 僕が  今できることをしたから、だ  

できることをしたのなら  その結果というのは  

一瞬という 一時的な過去に  過ぎない  

にしても、

僕は  ほんとに  だらだらと 文を書くように なった 

もう そろそろ  書かなくても  いいだろうか?  

そう思う  



さて、 見ることについて 何を参照したか については  

書いておいた方が いいだろう  

小林秀雄の 「私の人生観」 の中で  仏教の 観法に 

かかわって、 美について書いてある  

その美が  画家にとってどういうものか、 そういう文の  

処で よく 劇画漫画で  ガーン!! という描写が  

あるように  雷に 打たれてしまった  

僕は 大学へ向かう 小田急線の 車内で  

新しい世界を  予感した



そこから (自分なりの工夫で)  上野の西洋美術館を  

皮きりに  尋ね歩いた  

修行と  同じよ、  苦しかった  

たった 3分も 1枚の絵を 見ていられず、 1分に変えた。  

2時間もして 美術館を 後にすると  

ぐったり  疲れきっていた  

その後も  2,3回  ぐったりを  くり返した  

苦しい  ただ 見ているのは  想像を超えて  

ただ ただ  苦しいだけだった  

はい、それで終わりにしよう、 と やり切って  

言いたかったから  やり切ろうとした  

そんな 必要はなかった  

かなり 過激とは思わなかったが、  次第に  

絵が  <見えはじめた!>

奇跡ではなかった  今まで  見ていなかった  

それが  わかった  

::見ていなかった だけ::

 

絵を 見る  というコツのような 細胞が  

僕の 視神経に 生まれたようだった  

ああ  やっぱり 書いてしまったか  くり返し  

それほど  絵画が 僕に 飛び込んで来る、 という  

のは感動的で  刺激的だった  

今まで  見ていなかった だけ、  なのだ  

信じたり、  疑ったりする 必要は  無駄だ  

ただ  ものを  見つめることをする、 それが 

どういうことか  やれば  わかる (かもしれない)  

ヒントは  自分の思考を  止めることだ  

見ている時は  ただ  「見ること」 だけをする  



苦しいよ (初めだけは) 覚悟して  

 それだけさ  

たぶん、  人生って 単純なんだ  

見る、 がわかれば  あともトライ したくなる  

豊かさの 意味が  体中で わかるから  


絵が 困難に感じたら  周囲のもの  

なんでもいい  それが眼のまえに あるものだから  



答えは  目の前にあると  言ってるじゃない  

まさか、 漫画でもいい、 とか思っていない? 

(笑えるけど)


君には  期待しないから  適当に 暮らして 


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