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原始の眼 [眼]

ここに点(・)を打つと、・ が出る。 

そんな簡単なことが不思議に思える。 

そして、それは尋常なことではないと 

思ったりするが、そうでもないのは 

意外に自分では尋常ではないと 

思っても、同じように感覚する人は 

いるものだからだ。頭を働かせて

・ は簡単だと考えるが、これが誰 

にでも点として伝わるのは、異常な 

ことではない。

だが、判断力を度外視して、・ が 

現れるのを見ると、不思議に感じて 

しまうのだ。頭がアホになったので 

なければ、この異常に感じる感覚が 

アホになったことだろうか。 

それはない、という答えを期待したか 

どうか知らないが、アホになったと思う 

のだ。知の働きを度外視すれば、あらゆる 

外界の感度は知に到達しないから、そこ 

では僕らは無知になる。それは何を意味 

するか。文を読むだけで知は欠かせない 

から、意味を度外視するわけにいかない 

のと同じで、僕らの知は複雑な全体を構築 

することはしていないかもしれないが、計算 

じみた最低の働きはしている。しかし、それ 

を集中した意味で反省、物語を組み立てたり、

全体を想像したりはしていない。 

すると、それができたなら、それは何に 

なるかと言うと、生まれたての子が初めて 

外界を見る眼をもったということができる。 

自己を持たない子供はそれから、思春期 

までにならない初期に、無意識のうちに 

驚くほどの訓練をして視界を手に入れる。 

ここまでで異界の世界の話をしていると 

思ったのなら、約・正解である。 

それは僕らの想像の魔法の世界じみたもの 

ではなく、現実の視界の話である。 

僕らは恐怖から身を守る方法を学ぶのだ。 

初めはたぶん、親の顔からだ。顔は非常に 

怖い。何がといえば、まずその卵のような 

皮膚感、水をたたえたような別世界の眼は 

その次で、最後は立役者が出てくる。皮膚が 

下のほうで割れてしまうことだ。そして、そこ 

からその穴から白い歯が見える。なんという 

気味の悪さだろう。これを子供はどうやって 

克服するんだろう。怖いという表現を表す 

と同時に自分に対して緩和するために、 

たぶん、笑うのだ。親の口を真似して 

笑えば、ほら笑った、と共有感を与え  

てくれる。この愛情が一番。それで子供は 

笑うことに安心感が持てるようになる。 

すると、やがて顔に慣れてくる。顔を見る 

のが習慣になり、当たり前になり、僕らは 

顔で相手の表情を読むことで、最初の 

コミュニケイションを取るようになる。 

そのころには顔は恐怖の対象ではなく、 

顔認識も整えられるのだろう。顔を 

見分けるようになるのだ。 

そういう僕らの子供時代の訓練を思い 

出すのは難しいが、まったく新しい人間 

を見たり、会ったりすると、その片鱗が 

一瞬うかがえる。 

例えば、織田信長はキリスト教徒が 

連れてきた大きな黒人に腰を抜かすほど 

驚いたそうだ。気が落ち着いてからは、 

新しもの好きなので、その黒人が欲しい、 

と譲り受けて、家来として側近にしている。 

信長は大人なので、その恐怖からの 

驚きを短時間で見覚えのある顔に修正 

しただろう。知っている顔なら怖くない。  

そこから引き出されるのは、実は人間の 

顔は化け物じみて気味悪いということだ。 

なので、人間と同じ眼の構造をもった 

宇宙人が来日したら、地球人を見て 

吐くかもしれない。もっともそれは地球人 

の感覚なので、彼らはそういう美的感覚を 

もっていないだろう。そのほうが確率的に 

高い。 

習慣で平気になるというのは不思議なもので、 

習慣でダメになるのもある。人肉を食べる 

文化は相当古くからあって、彼らは平気だが、 

文明人はかなりの抵抗がある。旅客機が 

事故で冬の山中に不時着して、食料がない 

ので、死んだ人の肉をしかたなく食べた 

らしいが、当然、食べられない人もいた。 

実話で、確か映画にもなった。 

豚、牛、鳥などの肉は平気で食べているが、 

初めからさばいたり、屠殺場につれられる 

のを回避しようとして、鳴く動物の悲惨な声 

を聞いたりしたら、その肉も拒否するように 

なるかもしれない。食べるのはパックになった 

肉の切り身で、いつも見ているものに慣れて 

いるだけだ。 

僕は感覚の実験もいろいろしたが、この

ことは偶然だった。ある日、人の顔を 

ストレートで(?)見ようとしたら、熱に浮か 

されたように、気味悪く感じたのが始まり 

だった。口が開いて洞穴が現れるのが 

最初の恐怖で、つぎにそこから白い歯が 

現れることだ。歯は残酷に感じた。とても  

笑える代物ではない。そして、失敗は 

美人の顔も同じだと知った時だ。美人は 

つまり、化け物だった。そういう体験は 

したくないものだ。美人は眼の保養になる 

美人だからいいのだ。そういう一時期が 

あったのは事実だ。僕はその眼を調整 

できたが、そんなことが多いので、今は 

ずっと封印している。と言っても、時に 

それが現れるので、その時には意識 

を切り替える。ただ、高山にいるときは 

自然に、その光景を原始の眼で見たい 

のかもしれない。ありのままの自然を。 


赤ん坊は無理だが、2,3歳児ならまず 

あやす前に愛情を送ることだ。子供は 

その発生させる母体が両親だと知って 

いる。そのあとで顔を近づけて、ベロベロ 

バーでもしてやれば、笑うはずだ。親で 

認識したから。笑うと、相手は喜び、愛情 

の波を返してくれることを。 

これをされない赤ん坊はまず最初に 

社会に拒否されたと感じるだろう。それが 

子供が親になった時、繰り返され、次の代 

へと親と子で社会への抵抗の喜悲劇が

連鎖してゆく。 (この分離はおおまかな 

筋で、ほかの要素がこれに加わることで

一概には言えなくなるが・・)  

僕らが物心つく、とか言う時には社会と 

家庭と地方の人は自然環境からも、習慣に 

感化される、という人間の原型が陶冶されて 

いる。不思議なことにその低年齢で狼とかに 

育てられると、体も心も狼になろうとする。 

進化が及ぶのはやはり、10歳(?)くらいまで 

だろう。狼少年たちは20年も生きられ 

なかった。動物の狼の寿命は自然下で 

10年、飼育下でやっと20年を生きる。 

どうして動物に育てられると、人はその 

動物になるのか、狼少年の話を信じない 

動物学者も多いので、情けないが、頭 

でっかちで無知なことだ。 

一つの理屈で反論できると、それを全体に 

すり替えてしまう。逆に、例えば、一つの 

理屈で日本らしさが理解できたとすると、その 

一つで日本のすべてに応用して「日本とは」 

と結論してしまう。 

それは知的に応用できるだけで、あらゆる 

古来からの習慣の結果、その今の事実と 

はどうなのか、どうなったのか、異なるのか 

どうかの検証がいつも必要だ。 

例えば、眼の焦点をズラして変えて、ある 

図形を見ると図形が立体に見えるトリック 

図形が作れるように、美人が化け物に見える 

仕掛けがあれば簡単なのだが、これに 

は心の工夫から偶然生まれたものなので 

眼の物理的な知的操作では見えない。 

そこにたどり着くまでの修練のようなものが 

必要かとも思う。立体図形は物理的に眼の 

焦点を変えればいいが、ものごとを原始の 

眼で見るというのは意識を変えなければなら 

ないのだろう。それはたぶん、想像を絶して 

思考(歴史・哲学・化学などの学問)を飛躍 

させると、僕は推測する。

ルソー1(2.jpg

ルソー : 眠るジプシー女 1897

ルソーは普通ではない。客船より大きい自分の 

巨人像を描いたり、子供っぽい絵を描いていた。 

人は笑ったが、さすがピカソは笑わなかった。 

評価して、自分も真似ようともしていた、精神面 

でだったろうが、それがピカソの発明になる 

キュービズムに大きい影響を与えたのだろう。

20年もパリの税関職員をしていたが、同僚が 

ある夜に白い布をかぶってルソーを驚かせた 

ことがある。 

ルソーは驚いて、私を(あの世に)連れて行か 

ないでください、とかそんなことを嘆願した 

そうだ。同僚は大いに笑ったそうだが、ルソー 

は驚きながらも幽霊をそのまま信じて、話し 

かけたのだ。常人ではない、子供だ。 50歳 

で画家生活一つに入ってから突然、神秘的 

な絵を描いて、人々を驚かせた。無邪気な 

天然の天才だった。 


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柳宗悦の眼 僕の眼 [眼]

一昨日、蒐集物語という文庫本を手に入れた。 

著者は柳宗悦で、読みは「そうえつ」で通っているが、 

ほんとうは「むねよし」だとのこと。 

字ズラの古めかしさから、風神雷神図を描いた俵屋宗達とか、 

蒔絵で有名な尾形光琳とかの、江戸時代の工芸家・芸術家 

ではないか、と想像して購入したのだが、違った。明治の 

文芸の雑誌「白樺」を発刊した、武者小路実篤、志賀直哉

などの仲間で、夏目漱石の時代だった。民芸運動の創始者 

だと。 

ちょっとパラパラめくってみると、僕が最近、ブログで見ること 

が大事(基本)、といったことを遠回しでなく、率直に書いている 

のでわかりやすい。 

これなら、これを解説すれば、僕の用は済んでしまうので、 

早速、眼について語ろう::  (ほぼ引用で済んでしまう)


宗悦は日本の美を(李朝の陶器も)受け継いで、蒐集して 

日本民芸館を興した。あの人、日本の芸術家を育て、茶の本 

を書いて世界に紹介した岡倉天心に位置が似ているようで 

ある。総合的には、近代日本思想大系の24巻が柳宗悦で 

あるが、その1冊を読めばいいだろう。 

前置きすることは山ほどあるが、引用も長くなるので急ぐ。 

柳宗悦と僕の出発点は同じである。ただ、彼はまったく 

最初からひとりだったらしい。僕には、小林秀雄の「私の 

人生観」の画家についての言葉で直感して、「近代絵画」 

を読んで自分も絵を見ることを学ぼうと思い、その先は 

独学、というよりひとり美術館通いをして、絵に向き合った。

まずは、「近代日本思想大系24」から::


「<工芸美論の先駆者に就いて> 

私は私の工芸美に関する思想に於いて極めて孤独である。 

幸か不幸か私は先人に負う所が殆どない。私は目前に 

ある驚くべき工芸品彼等自身から直接教えを受けたので 

ある。そうして親しい数人の友達のみが、私の近くに温かく 

想い起されるだけである。私は今日まで工芸美に関する 

正しい著作に廻り逢った経験を有たない。私の前には 

私の見解と縁遠き幾多の本が思い出されるばかりである。 

 私は私の思想を凡て私の直観と内容との上に築くこと 

を余儀なくされた。その結果一般の見解との渡り難い間隔 

が一層意識せられた。私が観じて最も美しいとするものは、 

却って史家が最も無視する分野に属する。そうして史上に 

高い位置を占めるものに、私が美を見出す場合は却って 

少ない。私の工芸に関する見解は、従って一つの価値 

傾倒を一般に向かって要求する。かかる場合私の思想の 

上にふりかかる命数として、私は恐らく正しい読者を将来 

に待たなければならないだろう。 

 だが一つの結論に到達し得た今日、工芸美に関する 

過去の思想史を省みて、私は私に先んじて、二種類の 

先駆者があったことを気付かないわけにいかぬ。 

(2行略) 

一つはあのラスキン、モリスの思想であり、一つは初代 

茶人達の鑑賞である。」 


ラスキンもモリスも社会思想家でもあり、また美術に一家言 

を持っていた。ラスキンには「近代画家論」・「芸術経済論」 

があり、モリスは「民衆の芸術」、 「社会主義その成長と 

帰結」(共著)があり、伝記も論説も、その行動も興味深い 

が、次に進む::  以下は<民藝館の蒐集>から。


「 九 

 それではどうして他人が今まで認めないものを認める 

に至ったのか。匿れているものをどうして見つけ出すのか。 

この問いへの答えは実に簡単なのである。別に秘訣 

などは少しもない。ただ物をじかに見さえすれば、それで 

よいのである。それ以外に何ものもない。この何ものも 

ないということが、秘訣といえば秘訣である。* 」 


ここに僕が目の前を見さえすればいい、と言ってきた 

ことが言われている。続いて、「考えずに見る」という 

ことがうまく説明されている。 ::

「*
 物をじかに見るというのは、見る眼と見られる物との間 

に何ものをも介在させないという意味である。知識だとか 

文献だとか評判だとか主義だとか、そんなものを一切 

二の次に回して、じかに物を見ればよいのである。 

残念にも多くの人々は物を見る時、大概は概念を先に 

働かせてしまう。しかしそれだと、その概念に合うもの 

以外は見えなくなってしまう。概念は謂わば色眼鏡の 

ようなもので、じかには物を映さない。最初から一定の 

枠を作って、その中に物を嵌めて眺めてしまう。うまく 

嵌まるとそれで分かったと思うし、嵌まらないと棄てて 

しまう。それ故、物をじかに見るのではなく、概念に 

包んだものを見ているに過ぎなくなる。それでは物 

の真の姿は現れて来ない。 

 例えば様式に便ったり、銘を大事がったり、世評に 

引きずられたりして眺める。そのため様式に当嵌まら 

無かったり、銘が無かったり、評判を聞かなかったり 

すると、てんで見ようともしない。それ故、物を見ている 

というよりも、様式だけを見たり、銘ばかりを尊重したり、 

評判のみを気にしたりして、肝心の物そのものを見ない 

という愚かな行為に落ちてしまう。」  



この後で、「恐らくは自分に眼力がないと、何かに便ら 

ねば不安なのであろう。持ち出す概念(=考え*陽秋)は 

謂わば便り所なのである。」と批判が続く。 

この「眼力」については僕は違う見方をしている。眼力は 

出来上がるものだが、初めから必要ではないだろう。 

ただ見る、という「無心に見ること」に慣れることが必要 

なのだ。もし、眼力に相当するものがあるのなら、それは 

個々人の感受性によるものだと思う。 その土台の差に 

よって出来上がる眼力も差が生じると考えられる。 

明治の時代でそう批判されることなのだから、現代は 

それから百五十年も経っている。僕らは「無心に」に 

ついても工夫を学んで、「見る」については忍耐を 

強いられるようになってしまったのかもしれない。 

見ることはどんな教科書にも載ったことはないだろう。 

美の問題は見るだけではない、混濁した問題も 

含まれているから。しかし、その前に、宗悦の論を 

締めくくろう。:: 

「一 一 

 直観を「新鮮な印象」と説いてもよい。純粋に直観を 

働かそうとするなら、物から新鮮な印象を受け得る位置 

に自分を置けばよい。それ故印象を曇らせたり、また 

曖昧にさせたりするような立場を取ってはいけない。概念 

を先に働かすのが大きな邪魔となるのは、これが印象を 

凝固させるからである。受け取るものは印象ではなくして 

寧ろ知識になってしまう。知識で受取ると、物はじかに 

その姿を見せてくれない。知識はどこまでも間接的である。 

見ることと知ることとはいたく違う。 

 それ故物を見るには、こちらの心を純粋に混じり気のない 

ものにしておかねばならない。前にも述べた通り、素直に 

受取る心を用意すればよい。小さな自分を持出さず、充分 

受動的な心を養うのがよい。一つの塵もなければ、それ 

だけ物は鏡によく映る。充分受入れるが故に直観が自由に 

働くのである。思想などを振りかざすのは禁物である。 

それは印象を拘束してしまう。物を見るには、知識はどこ 

までも遠慮深くあってよい。

第一印象は何につけても大切である。  (2行略) 

直観の世界には躊躇ということがない筈である。(3行略)

鮮明な印象は確実な印象である。直観は常に即刻である。 

即刻であればあるほど確実さを伴う。(1行略) 

逡巡は直観の行いではない。純粋の直観に時間的な 

逡巡(ためら)いはない。それは即時に的確なのである。 

ここに何ものにも換えられぬ直観の意義があると思える。 」


この人は感覚型の人らしい。直観の意義はそれで間違い 

ないが、ためらいは直観が曇っているので、直観は常に 

正しいという言い方は言い過ぎに思える。もちろん、宗悦 

さんは無私の精神においての直観のことを言っているの 

であって、直観を間違えるのは、僕らがそれを受けたまま 

ではなくて、一瞬でも考えてしまうことから来るものだ。 

微妙な修正だが、僕らには直観を100%正しく判断する 

ほどには、いつも日常が無心であるわけではない。 

さて、前記の問題だが、「見る」についての経験やその 

考え方は、僕は宗さんと同じだが、相手は「美」である。 

その経験と考えが同じであるなら、僕は宗さんが愛した 

数多の工芸品を眺め、見極めて、僕もそれを愛する 

ようになるだろうか、というのが本筋の問題だ。

それは何とも言えない、というのが答えだ。 

好きになるものもあるかもしれないし、まるで興味を 

惹かれないかもしれない、というのが本当のところだ。 

まず、眼球の問題を無視しよう。例えば、青い眼の人 

と我々日本人の黒い眼では集光率が違うのか、同じ 

色を見ても、淡白に見えたり、どぎつかったりする。 

そういうわずかな受け取り方の違いをまず、無視して 

考えよう。 

また例えば、男が好む女のタイプが驚くほど違うように、 

美に対しては驚くほど僕ら自身の好み・センスが 

それを美しく感じるか、感じないかに関係してくる。 

僕は絵に関しては、独特の眼力を持っているが、 

陶器については不十分だという意識があって、 

宗さんの趣味にどれほど共感して、納得するかは 

ふつうに自信が持てない。むしろ、僕自身の好みが 

その物を決定するだろうと思っている。 美は人に 

よってそれぞれ表情を変えるものだというのが、 

僕の感想だ。眼力を持ってもそれは変わらない。 

湯呑に夢中だったのが、十年もして突然、日本画 

に目覚めて、絵ばかり見ている、となってしまうのも 

よく似た実例がある。だから、今でも真贋について 

の曖昧な問題が論じられる。 

だから、見るについて、その理由について逡巡して 

いるのは無駄な話なのだ。物を正しく見る、という 

のもつまりは死活の問題だろう。考えないためには 

認識=知を眠らせ、知を眠らせることは自分を起こ 

さないことでもある。ゲームという刺激に生活するの 

ではなく、それを刺激を無くしてその物が見えるまで、 

見ることなのだから。 

見えてからが楽しいのだが、始めは相手(物)から 

やって来て出逢うものもあるだろう。

美とはそんなものなんだろう。 

僕には女性への一目惚れが直観だとは、到底思え 

ないが ・・・。(そこが美と女の違いだろうか?笑) 

人生に美の世界を加えて、生きる楽しさを倍にした 

ければ、柳宗悦の本を読んだ後は「物を見る」といい。


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