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韓国Ver. 空から降る一億の星 [感動]

韓国版と銘打ったのには理由がある。今、韓国でリメイクされた

題は同じ、「空から降る~」の最終章に入るか、その手前かの

回を観たが、せつなかった。前回書いたように韓国版のほうが

作りが上手いで終われば、なんのことはないのだが、違った。

どうやら僕の個人的な事情がからんでいる。 

その前に原作の日本の小説を読んだが、ストーリーの骨子は

大まかな筋を追っていて一緒である。のだが、その間に伏線

を増やしたり、ディテール(細部)の表現は恋愛ものなので

韓国は感情が絡むとうまい。特に復讐やそれじみたことが

重なると、その複雑な感情表現を実にうまく演技する。

これは韓国ファンが第一に要求するもので、それくらい

できないようでは、俳優にはなれないし、認められないの

だろう。下手をすると、自殺するまでやじられるのかもしれ

ない。過去に幾例もあったことだ。デモ好きな国民としては

裏切者を血祭りにあげるのは当たり前のことなのかもしれ

ない。


日本の小説では平板にラストを急いでしまったので、不自然

で感情移入しにくい悲劇になってしまった。内容を知らない人

もいるだろうから、大筋を加えていくが、主人公のムヨンという

青年は子供の頃に父を拳銃で撃たれる場面に、遭遇してしまう。 

その小屋で火事がすぐに発生してしまうのだが、妹も小屋に

入って来て、その火元の灯油だかの炎を浴びてしまう。それ

をムヨンがかばうようにして助けるが、二人とも火傷を負って

しまう。ムヨンは両親を亡くしたので、施設に預けられ、記憶を

失う。妹は、父(なにかの犯罪で刑事に追われ、撃たれて

しまう)を撃った、その刑事に引き取られ、刑事の妹として

育てられる。二人とも兄妹がいるとは知らずに育つ。

そして、二人は兄妹とは知らずに惹かれ合う。体を交わす。

刑事の兄はムヨンの人を操って殺人をさせる性向を恐れ、

恋愛に囚われた妹のためにムヨンを刺すまでいく、が、

ムヨンは刑事を告発しない。妹はムヨンが育ての兄・刑事

を殺すのではないかと、偶然手に入った拳銃でムヨンを

殺しに行く。ムヨンはこれも偶然、利用しようとした女から

自分に妹がいて、それが刑事の妹・彼女だと聞かされる。

ムヨンに兄(育ての刑事)は殺させない、と少し、性急に

もう信じない、と撃ってしまう。ムヨンはその前に、涙が

流れ、言ってもあんたは信じないしな、と、そのまま撃た

れる。手紙が落ちる。刑事に宛てたもので自分に妹が

いて、それが彼女だと知ったのはさすがにショックだった、

という。

それを読んで、妹も実の兄を撃ってしまったことに気づく、

そして、湖で二人で心中、という結末になる。 

こういう愛憎劇は韓国ドラマで日常茶飯事なので、リメイク

はお手の物だったろう。俳優も恐ろしくハマリ役を揃えて

いる。 

今日観たので、これを書こうとしたのは、TVドラマでは

誰もがムヨンとは付き合うな、と言い、ムヨンも刑事にも

言われ、その妹の片思い役の同僚にも忠告される。が、

すでに彼女にだけはムヨンも心から惹かれ、妹も同じ

気持ちでムヨンをどうにかいい人になってもらいたい、と

何度も冷たくしても、あとで周囲に責められ、逆に自分の

気持ちに気づいてしまう。TVドラマではムヨンはまだ父を

撃った刑事の顔を思い出さない。これからどうなるか、同じ

ストーリーではないので、結末を変えてくる楽しみもある。  

ムヨンは妹を女として愛することで、しかも自分では愛する

という自分がわからない。ここが肝で、彼はある種の記憶

障害と父を殺された憎しみから不感症の障害も背負って

いるのだ。それが妹によって溶け出した。そこには今まで

感じなかった孤独があった。健気にも不敵な男が、まともな

人間になるためにお前(妹)の言うことを聴く、と言い出す。

「どうすれば?」というセリフにそれが凝縮されている。 



インドであり、途中で一晩だけ寄ったネパールを思い出した。 

インドの国境では不思議なことを感じる。ネパールへ入る

たった300mの道だろうか、そこからネパールの地を踏む

間にも、空気が変わるのである。インドでの人々のギラギラ

した生存競争の緊張した空気でなく、もっと人をほっとさせる

空気で、しかもそれが日本のに似ているのだ。日本のルーツ

はネパールでは?と思わせるそのテイストなのだ。

(これは僕の個人的な印象にとどまらず、他に旅行記や話で

日本に帰ったようだ、という似たことを聞く。) 

その時、僕には日本人の青年の道連れがいて、国境で

僕の通行料が払えないトラブルがあった。彼は貸しても

いいと言ったが、この先何があるかわからず、僕は資金は

十分にあるので、もどって銀行で小切手を換金するつもり

だった。それに彼も金に裕福そうには見えなかった。それで

その申し出を断ったのだが、なにか誤解したらしく、僕が

ネパールに入った時には、別の日本人ハイカーと親しく

なって「お願いすれば、金貸したのに」と捨て台詞で、その

日本人と宿をとり、僕を無視して去ってしまった。

ほっと息をついたネパールだった。そうでなく、緊張の

インドでだったら、難なく終わったであろう、その行為が

僕を非常に孤独感に押しやった。同じ日本人に、他に

知り合いもない他国の地で見捨てられた、という大仰な

感情が押し寄せたのだ。この感じがちょうど、ムヨンが

周囲から人でなし呼ばわりされて、彼女にも冷たくされ、

しかし、その後で妹が心を開いて、寄ってくる、その感激が

無表情なムヨンの言葉に表された。

仲間外れにされても、慣れっこだ、しかし、心が開きかけ、

溶けだしてきた時の、かけられた信頼の言葉は涙がこみ

上げてくる。しかし、ムヨンにはまだ少し遠い。 

そこに僕が感情移入してしまうのだ。つまり、これは自分

の思い出へのオマージュ(敬意)でもあり、彼への同情でも 

あるのだろう。

この同情は一面のものではない。李朝朝鮮の歴史で

身分制度は決定的なものだった。両班(リャンパン=

一種の貴族階級)に支配された官僚階級は働かない人

だった。働くのは庶民で、それ以下の奴婢のような人も

多く、彼らはまったく人間としての扱いを受けなかった。

そして、王宮では官僚たちが私腹や権力争いで、し烈な

陰謀をめぐらせ、血み泥の争いをくり返す長い歴史がある。

韓国の大統領が全員もれなく、汚職関連で裁判沙汰に

なって政権が変わるのは、その下地はいまだに健在

ということだろう。なので、下の下で虐待同様の扱いを

された人民のひねくれ曲がった恨みつらみは、今も

健在なのだ。日本が韓国を敗戦によって手放したのは

1945年、まだ75年しか経っていない。昭和である。 

歴史の時間というには、あまりに短い。中国の属国

としての長い歴史・伝統もあり、反日が受け入れやすい

お国柄だ。傷は癒えていない。

しかし、国との問題だ。ただ謝罪して済む問題ではないの

だが、そのもつれの一端も理解しないのが、韓国らしい

ところだ。





* この先の詮索はまだ中国の歴史認識ができていなくて

準備ができていない。  

ともあれ、問題のいじり方が双方、なっていないと言える

だろう。コロナ禍の経済問題がからんでくるので、今は

まだ判断できない。

今はまだTVドラマを楽しんでいられる状況だ。韓国で

インフルエンザワクチンで今までにない短期で死者が

83人も出たというニュースが散見されたが、ワクチンとの

因果関係はないそうだ。そう言えば、国連の原子力 

機関(IAEA)も1986年、チェルノブイリの原発のメルト

ダウンが起こってからの、子供のガンが増えたのも、

漏れた放射能とは関係がない、と言ってたな。 

国連ではWHOののっけからの中国の武漢対コロナ処理

への称賛もそうだが、あり得ない報告がまかり通る。

韓国のそのワクチンもNHKでは取り上げられていない

ようだ。これだけの世界の不穏な兆候があっても、それを 

意識しない人たちにとっては、寝耳に水で、じゃなく

馬の耳に念仏で、すぐに忘れるシステムがあるらしく

なにか起こっているとも気づかないみたいだ。

適度に気づいて、適度に関心を持ち続けるのが、人生に

適応した態度なのだが、すぐシャカリキに政治活動を

しなきゃならない、とか政治はわからないからとか、自分

の恨みを政治への批判で晴らそうと(意識しなくても、)

その手にはまる人もまた多い。

適度に意識するというのは、自分で考えるという結論に

なってゆくことなのだが、そう考えると、面倒だよね。 

なぜなら、自分で考える背後には、それを習慣づける

必要があり、習慣づけるには、考えるについて責任を

感じなければ、続かない。意識を持つのは責任を持つ

のと一面、同義だ。同じこと。責任は言葉を聞くだけでも

嫌だね。すぐ回避したい。そして回避する。この世の

習いとでも言えるのか。だから、この世で信頼できる

ものを探すのは、大変なんだろう。 

だから、何かが実際に起きても、因果関係はないです、

と無責任になってしまう。相手が悪いの宣伝合戦に

なってしまう。そういう世の中だと、改めて再び認識して

みて、その上で”自分で考えるとは”という重要課題を

子供や生徒・学生のためにも考えてみるのは、いいと

思う。

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感動と余韻 [感動]

こんなこともある。 

天照大御神の記述が日本書紀では特定の巻(30巻中)にしか  

出て来ない、という文をどこかで読んだ。それは中国人ではなく 

日本人が書いた巻からしか見られない、と。書紀の述作者を 

特定した「日本書紀の謎を解く」(中公新書)に述べられている 

と思っていた。一度、それを新書の中で確かめたと思っていた。 

ところが、今、その本にその記述を探すと、ない。それなら 

それを指摘した本で読んだのかもしれないが、それが本で 

読んだのか、ネット記事やアマゾンの書評で読んだのか、 

まったくわからない。その天照大御神からの話の展開だった 

ので、驚くことに「歴史はどんな顔をしているか 2.」が 

頓挫してしまった。記憶の文章にこれから遭遇するなり、 

見つけ出すなり、当てにならない話になってしまった。 

少し探してみて、なければ話を新たに企画したほうが 

よさそうだ。 いずれにしても大化の改新については日本

のアイデンティティを創出する話になるので、いつかは 

その端緒を発したい。  



台風14号が九州に接近しつつある。そのまま太平洋上 

を近海域に沿って、急カーブして進むそうなので、僕は 

初めてのコースだと思う。上陸しないので勢力は衰えず、 

のろいスピードなので予想より日数が延びるのではないか。 

なにかわからないが、僕にはこの嵐の暴風や大雨の被害 

よりもなにかを期待している。ただの予感なので、なにが 

どうなのかもわからないが、この台風の左側に位置する 

日本の陸地は反時計回りの理論上では風雨が弱まる 

位置になる。被害は少ないはずだ。で、気象庁は想定外の 

被害に神経質なので、そんな大したことないとかの予報は 

わかっていても出せない、医者と同じで必要以上の完治 

(安全)を望む。 



秋雨前線の雨はシトシト降っているが、それだけだ。 

感動と余韻がくり返している。 

うまく言い表せない。 しかも、それでいい、と。  

例えば、裏切りや謀略が横行している世界を想像してみよう。 

そこでは知略に勝れた者がのし上がってくるはずだ。戦国 

時代のようなもので、その知略が戦術であり、技術である 

そういう中で優れているなら、それは数多いるが、ほんとうに 

のし上がってくる者は知略も戦略にして、大局から判断して 

行動するのであれば、これに敵対するのは難しい。 

反撃も戦術的ではすでに読まれているからだ。 では、 

戦略・戦術に勝れた者同士が戦いはじめたらどうなるか、 

というとほぼ一進一退になる。決着がつかない時が流れる。 

しかし、手は抜けない。その時だ。その両雄は知っている 

はずだ。ほんのちょっとした偶然が、例えば気候が変わったり 

嵐や大雪になれば、とかいつも同じなのでそこだけチェックを 

しなかったとか、まったく新しい人物や事態が戦況を覆して 

しまうとか、要は未来は予期できない、ということである。 

対する両雄はそれを恐れる。そこで昔は戦場で加持祈祷 

を行ったのである。 


僕も同じだ。なにか胸を気付くか、気づかない程度に騒がせ 

ている時に、それが近づいてくる台風にあるのではないか、 

と勘ぐるのだ。 なにが起きるのか前もってわかっているの 

ではないので、なにかが起きたとしても、それだ、とわかる 

ものではない。 

だが、僕の生活はその積み重ねで成り立っているような 

処がある。自分を離れ、全世界は何か?を感じようとする。 

自分に戻り、感じたことを整理しようとする。うまくいかない、 

また、やり直す。1時間もやっていると、いつの間にか寝て 

いたりする。しかし、そのほうが起きた時に自分が新鮮な気が 

する。これだろう、静かな感動がくり返し、その余韻がくり返す、 

そういう山と谷の波長が心に流れて気持ちいいのは。 

無駄になっていない、と感じる。たぶん、これも瞑想とかヨガ 

とか死活の一種なのだ。 


*10.8の記事

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