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知の完全主義と賢治の理想 [理想]

最近、残念なのは書く前の、あの独特な雰囲気が 

遠のいてゆくように感じることだ。これは当然とも 

言える、と僕は考えている。 

ひとつはそう感じないことは、以前の、そのまた 

以前からそれがある種の胸のつかえくらいにしか 

感じられないことで、もともと直接に感じる明確性 

がないのだから。 

もうひとつは僕が自身に瞑想ではなく、ごく日常でも 

どんどん透明さを感じ始めていることだ。自分という

”我”を離れずにどこまで傍若無人に書けるか、という 

意気込みもあったが、今ではそういう自分の匂いに 

嫌気を感じる時がある。

自分という状態から離れていることが長いと、それは 

当然のように自己感覚を失う。それは内奥を除いて 

は、無感覚のことで、それは無感動に通じる。筈なの 

だが、僕は 見ること聴くことで感覚の新鮮さを 

取り戻すことができる。 

それは一部でも、瞬時でも効果は抜群なので 

たゆとう生命感がいつでもどこにでもあるのを 

感じることができ、なにもしなくても退屈する 

ことがない。 

と。 だが、それも最近は一時的にしか使わない 

ようになった。なぜか?自由過ぎるからだ。その 

感覚は良好であっても、それは他の苦痛・悲痛 

にある生命との乖離をどうしても意識させる。 

自然との間にある愛や、時に愛情さえも それを 

受取っている自己意識に瞬間戻り、その孤独を 

感じるのだ。私だけが幸福で、人はどうして幸福では 

ないのだろう、と他人が聞いたら、いい気はしない 

感想が浮かぶ。 

ま、他人の幸福を喜ぶいい人も多くいることは確か 

だがそうでない人のほうが多い気がするのはブログ 

が「幸福になろう」とか「悩みはこうして解き放つ」 

という風のジャンルにエントリーしているせいも 

あるのだろう。  

こうして書くのでも、自分の意見なりを少しでも 

表出することで、自己への掲揚にも自己の慰撫 

にもなるからだろう。少しでいいのだ、自分に言葉 

をかけてやる思いやりの時間があれば。 

半世紀の半分は自己と自己との内部葛藤だった 

から、他人から慰められる暇はなかったので、いつの 

間にか、無意識世界にある愛から生きる秘密の 

ページを人知れずめくっては楽しんで、自分を 

慈しんでいる、という気がする。他人に容易に 

伝えようもないものを抱えてしまった者としては 

やむを得ない手段だったのかもしれない。 

30年も前に、一人で生きる、という実験をして 

死に損なって、これは戻るしかないと意識を 

変えた時に、愛が入って来た。 

それで今はひとりで生きているような風になって

しまったのだから、愛もまた逆説的だ。  

人間はやはり、内面で生きる自分と外面で 

生きる自分がいて、内面では一人でしか生きら 

れないというのは、僕の場合は真理として働いて 

いる。  内面の葛藤は自分が内面においても 

ひとりではないという証拠で、それを許容する

ように統一して意識が働くようになると、または 

働かせるようになると、とても矛盾した人間に 

なり、またそれが平気になる。中学の時に 

教科書で「完全な人間を目指して」というような 

どこかの生徒の作文を読ませられたが、その 

欺瞞さがわかるし、そういうように持っていく 

のが自分=知というものの欠陥のひとつ、 

完全主義・理想主義だとわかる。 



余談だが、童話「銀河鉄道の夜」で有名な宮沢賢治 

が亡くなって、ポケットから手帳が出てきて、その中に::

「 雨ニモマケズ 

 風ニモマケズ 

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

 慾ハナク

 決シテ瞋ラズ
 
 イツモシヅカニワラッテヰル

 一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 ヨクミキキシワカリ

 ソシテワスレズ

 野原ノ松ノ林ノノ

 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

 ・・・・」  

ーの、メモがあった。 賢治はこれを自分の座右の銘 

として、むしろ時として弱気になる自分を叱咤激励、 

鼓舞するものとして、自分のために持っていた。 

書かれているのは賢治の理想であって、感動的なのは 

賢治が天才詩人だからであって、賢治自身はそれが 

理想であり、完全主義だと知っていたはずだ。だから 

きれいではない字で読みにくくメモッただけなのだ。 

教科書に載せると言ったら、反対しただろう、と僕は 

思う。人に勧めるものではないし、まずは人に見せたく 

なかったはずだ。最後は::

「 ミンナニデクノボートヨバレ

 ホメラレモセズ

 クニモサレズ

 サウイフモノニ

 ワタシハナリタイ

 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩    」 

賢治は最後に「サウイフモノニ   ワタシハナリタイ」 

と書いたのだ。その後のお経は教科書では省略され 

ている。なにもわかっていない。これは賢治の祈り 

であって、希望や目的といったものではない。 

人間の修羅というものを見続けた賢治が死ぬ直前に 

見たであろう、美しい大輪のハスの花、といったものだ。 

公に、こういう人間を目指しなさい、というような教訓 

ではないのだ。  

ただ詩才のためにその一途な心情が感動的に仕上がって 

しまった。お経の部分は彼の万華鏡だっただろう。それを 

ちょいちょいと省いて、不完全なものにしてしまった。 

お役人のしそうなことだ。 


あと、新潮文庫で編集された賢治の詩集で、「春の修羅」 

が収められていたが、悟りの象徴を描いた「昴」が外され 

ていて、驚いた。「ビブリア古書堂の事件手帖」にもさすが 

に賢治の件では「昴」が取り上げられていて、作者の 

眼力を感じたが、新潮社の編集では、「昴」がおかしな詩 

で省いてもいいと思ったのだろう。 その後半::

「 ・・・・・・・・・・・・・・・ 

どうしてもこの貨物車の壁はあぶない      

わたくしが壁といつしよにここらあたりで    

投げだされて死ぬことはあり得過ぎる      

金をもつてゐるひとは金があてにならない    

からだの丈夫なひとはごろつとやられる     

あたまのいいものは頭が弱い          

あてにするものはみんなあてにならない     

たゞもろもろの徳ばかりこの旅の巨きな旅の資糧で

そしてそれらもろもろ〔の〕徳性は       

善逝から来て善逝に至る       」  


*善逝 (ぜんぜい)はスガタ(梵語)と読む。音写は修加陀。

意味は悟りを得て、彼岸に去った者。


「金をもってゐるひとは金があてにならない

からだの丈夫なひとはごろっとやられる 

あたまのいいものは頭が弱い 

あてにするものはみんな当てにならない」 

という部分で、なんだこれは、理解不能として 

外されたのだろう。それは世の中にある実例 

で、自分の依存するものに過信するとしっぺ返し 

を食らうよ、くらいの意味なのだが、論理的には 

意味不明だ。 

こうして本当のことは理解されずに、外され、 

本来教科書に載るはずのないものが、載ってしまう 

というまさに「あてになるものはみんな当てにならない」 

という世間の浅薄な選択が続くのが、歴史の消長なの 

だろう。  





*以前に書いたものと、多少重複しているが、そのまま 

 にした。
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