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氷河の遺体は痛くない [山岳]

コメントに返事をするのに、書きたい

ことが多すぎて、なにしろ、山のことで、

ブログ記事で書くことにした。

ヒマラヤ、特にエベレストの遭難遺体は

前回記事で想像で書いたが、空想事では

なく、事実だ、そして、優しく書いた表現

になっている。エベレストの現実はもっと

想像を超えて厳しい。

(氷河の遺体は痛くない、それはミイラだ

からだ。)

エベレストにはこの100年間で

8400人以上が登っているが、300人

近くが帰らぬ人となっている。

大半が7000m以上の高度の危険地帯で

命を落としている。女性登山家で休憩中に

ちょっと眠るつもりで、疲労からそのまま亡く

なってしまったと推測されている者もいる。

疲労度が半端ではない。この高度では足を

一歩持ち上げるのが、気持ち100kgの

岩を足に括り付けているように感じるのが、

この高度の疲労につながっているのだ。

休みたい、が、決して寝るのは許されない。

一瞬で凍死してしまうのが、この高度の

危険なのだ。



ひとりの遺体を埋葬するために下ろそうと

してシェルパとネパール人警官が遭難して

命を落としている。場所によっては8人

がかりでないと、下ろせない処もある。

ほとんどそのままなのだが、氷河には200人

くらい落ちていて、何百年も凍結したまま

流されることになる。時々ミイラの遺体が

発見されるのは氷河が溶ける処かららしい。

他の遺体はエベレスト登山の目印になって

いる。

緑の靴を履いていた遺体はグリーンブーツ

と呼ばれて、ピークに近く、長年親しまれて

道の標識になっていたが、強風と低温で

飛ばされて谷に転落してしまったという。



遺体の父親を尋ねていた登山家が父親の

年齢を越えていたという話も、実話で聞いた。

すべて現実なのだ。

僕らの世界は、たとえ現実だけでも、奇怪・

不可解にあふれた世界なのだ。光の速さの

ロケットに乗らなくても、時間は遅く進む。

幻想でもなんでもない。あなたが親の歳を

越えてしまう世界がそこにあるのだ。

大自然はそういうことを教えてくれる。


登山は人生に対していい教訓を多く

持っている。山で遭難する者は大半

遭難するべくして遭難している。

僕はまったく知らなかった日本の三大

景勝地の一つ、上高地に偶然入って、

(金が無くなり、友達を頼ってたどり

着いたのだが)、なぜか気宇壮大で

日本北アルプスが自分の庭だという

気がした。初めての大キレットを前

にして、小ささも感じ、ヒマラヤを想像

して、早くも世界のヒマラヤに挑戦したい

と思ったのだった。

山ですべきことは手を抜けない。必ず

しなければならない。それは初めの

危険の経験から身に染むように

わかった。

例えば、装備も万全でひ弱そうでもない

青年が冬山でテントの中で凍死して

いたということがあった。死因は汗が

凍ったことらしい。つまり、彼は汗を

かいたが、面倒で、着替えの用意が

あるにも関わらず、そのまま寝て

しまった。

そのまま汗が凍結して凍死という、僕

には笑い話だ。が、そういうように山の

現実、自然の過酷さの現実を無視する

バカ者が当然のように遭難死してしまう。

僕は山を登りながら、そこからなにが

どうなのか、まるで山肌が教えてくれる

かのように、山に詳しい人や山のため息

そのものから学んできた。そして、冬山

ならその山のどこが雪崩の危険個所か、

前もって調べておく。危険を感じたら、

せっかくの休暇を取ってきたのに、という

ことであっても、その場で下山する。一度

のミスが死につながるのが山の掟だ。

慎重に慎重を期して、それが当たり前に

最高の対処だ。

そういう自覚は伝わるものなのだろうか?

教える人・教わる人に拠るのかもしれ

ないが、自然や心の世界は知らないこと

ばかりと意識に伝えることをしないと、

遭難も誤解もこのまま増長するばかり

だろう。

南極にヘリコプターで降り立った人の

歯(前歯?)が、極度の低温でその場で

欠けてしまったという話は、僕の驚いた

話で2、3番の話だ。眼鏡が割れてしまった

という話も聞く。

極寒の南極で営業する歯医者や眼鏡屋

はいたのだろうか?(笑)


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ナンガを追う 2. [山岳]

ナンガ・パルバートがどんな山なのか、メスナーは 

書いている、::

「すでに1895年、アルバート・フレデリック・ママリーが中央部の

岩壁を登る最初の試みを企てた。それは八〇〇〇メートル峰 

を目指す最初の攻撃だった。」

「ママリーはベースキャンプをディアミール渓谷に移し、最初は

二名、次は一名のグルカ兵ポーターを連れて攻撃を開始した。

しかも、まっしぐらに主峰を目指して登ったのである。」

「だが、ラゴビルが高山病にかかって退却した。それからしばらく

して、ママリーは二名のグルカ兵を伴い、ナンガ・パルバート北

山稜にあるディアマ・シャルテ(キレット・切り立った鞍部)を横断

しようとして行方不明になったが、ママリーの捜索は失敗に

終わった。

 ママリーが姿を消して以来、ナンガ・パルバートでは時が静かに

流れた。」

「もの寂しい頂には烈風が咆哮した。農夫たちは理解を越えた

この巨大な山の姿に、伝説めいたことしか考えつかなかった。

それ以後、誰ひとり頂上へのルートを探そうとする者はいな

かった。」 ::>


それから1913年にイギリス人旅行家チャンドラーがまわりを 

歩いたが、山塊には近づこうとしなかった。

また、1930年にはドクトル・ヴィロー・ヴェルツェンバッハがナンガ

の登攀計画を立てた。実現しなかったが、彼に代わり、1932年

にヴィリー・メルクルが新しい遠征隊の指揮を引き受けた。新雪

のため行き詰まってしまったが、彼はルートに確信を持った。 

それで二年後に大遠征隊を発足させた。9名の登山家、 

1名のベースキャンプ管理者、3名の科学者と2名の輸送 

指揮官、35名の最も優秀なシェルパと、驚くことに500人

になるポーターを集めたのだ。

ジルバープラトー(銀の雪原)と頂上直下で最後の攻撃を 

行おうとしていた遠征隊に吹雪が襲いかかった。退却。 

3人のサーブ=ヴィーラント、ヴェルツェンバッハ、メルクル

と、6名のシェルパが疲労死を遂げるという悲劇に終わった。

1937年にはひとつの雪崩が16名の命を埋めてしまった。::

<神々の玉座を目指す突撃>ルドルフ・スクーラ著 
                    (本中内の引用)

<イギリスの登山家のあいだではすでに、あまりにも膨大な

、あまりにも金のかかるエヴェレスト(連峰)登攀に反対する

動きが現れていた。>

<ナンガ・パルバートを目指す闘いはかなり以前から、大胆

不敵な山の仲間が集まった自由な冒険といえるものではなく

なっていた。資金の投入を見てもわかるように、それは当時

のドイツ国家の関心事だったのである。> ::> 


1939年にはママリーの直登ルートとディアミール側のルートが

探られたが、ドイツの二つの小遠征隊は、雪崩の危険と落石

のため、断念してしまった。メスナーは「ただ技術的な難しさ

ばかりでなく、この壁の持つ客観的な危険にもただならぬもの

があったのである」と注を入れるように書いているが、ただならぬ

ものという抽象的な言い方をしているだけで、それは説明されて

いない。 

ナンガが征服されたのは、それから14年後になる。1953年ヴィリー

・メルクル記念遠征隊のチロルの男ヘルマン・ブールがほとんど

不可能なことをなし遂げた、と。::

「1895年から1953年までに二百以上の遠征隊がヒマラヤと

カラコルムに送られたが、わずかに三つの8000メートル峰が

征服されただけだった。当時の登山家は耐久力もあり、驚くべき

勇気も持ち合わせていたが、装備は重く、まだ経験が乏しかった。

第二次世界大戦が終わると、合成繊維によるザイル、衣服、寝袋、

テントが登場し、軽金属のカラビナ、ハーケン、酸素吸入器、

シュタイクアイゼンも作られた。それから15年のあいだに、八〇〇〇

メートル峰十四座がすべて登頂されたのである。」 ::> 



ヴィリー・メルクルは、遠征隊の力を信じていた。::

ヴィリー・メルクル著 「ナンガ・パルバートへの道」

<ヒマラヤで何よりも大事なことは、非常な意志力発揮するのに

瞬間的な衝撃力が必要ではないということだ。(略)それよりも

むしろ、絶えざる忍耐能力、絶えず闘いに備えているという

心構えが大事なのである。ヒマラヤで最も肝心なことは、同じ考え

を持つ仲間たちの協力であり、個人的な名誉心でなく、一つの

偉大な目標に役立てようとする共同動作なのである。>::>



メスナーは初めからそれを信じてはいず、個人の力の山の

征服がヒマラヤでも可能だと思っていた。::

「こうしたことを、ぼくはやたらに読まされたものである。だが、

ぼくには気に入らない。ぼく自身は、終始きわめて個人主義的

な男だったから、このようなやり方に親しむことはできなかった。

だから以前のぼくには、八〇〇〇メートル峰を狙う人達の熱狂

ぶりが理解できなかった。だがやがて、ナンガ・パルバートを

自分の眼で見た時、それがわかった。」::> 


わかったのは、「このナンガ・パルバートが、」僕が登るべき

最初の八〇〇〇メートル峰だということだ。これがメスナーと

ナンガの出会いである。彼は”見て”、わかったと言った。だから、

実際に会わなければ、それに引き付けられることはなかった 

と言うのだ。むしろ、彼は山に誘われたのだ。ひとりで登れる

ものなら、登ってみろ、と。 ::

「ぼくはまたディアミールの斜面を見上げた。戻ってはきたが、

ずっと上のほうまで行ってきたのではない。山の挑戦は依然

として行く手にあった。独りでやろうという考えを忘れてしまう

ことはできなかったのである。」::>


そして、彼はいったん、帰国を決める。::

「 ゆっくりと夜の帳(とばり)が降りてくる。少し歩いて空気の

匂いをかいで天候を確かめたり、夕べのそよ風の中にたたずむ

とき、ぼくにはいつも、この大きなスケールがひしひしと感じ

られるのだった。この山は、ぼくには無限に大きなものに

思われた。この山がひとりの人間によって単独で登られるとは、

いくら考えても信じられなかった。失敗に帰したのはすべて、

ほとんど無限の中で独りいることに耐えられなかったぼくの不安

と無能のゆえだったのである。」::>



巨大な山岳というものを前にした時に、人は同じ感興に入る。 

彼は単独でやる、という挑戦以外には考えられないと言い、

またひとりで登れるとは信じがたい、と言う。言い方は矛盾

して聞こえるが、それは山へ向かう激しい闘志と山の威容

に感激した感情が同時に起こっていること、それを別々な

場所で別々な考えや気分を味わうことが許されている時に

発言しているからだ。だから、ナンガを見た時にわかった、

と言ったのだ。山は目の前にいるのだ。::

「 
 「あした故郷へ帰ろう。たぶん、二度とここへは来ないだろう。」

と慰めるように自分に言い聞かせる。峰々の上空に最初の星

が瞬きはじめると、山々には澄みきってひんやりした気分が漂う。

マゼノの支稜の鈍く光る白い万年雪の円頂とガロナの山並に

囲まれて、西の地平線に褐色の森のある山が見える。あのあたり

からぼくはやってきたのだ。炎熱と埃の中を数日間山麓を進めば、

ギルギットにいちばん近い飛行場に着けるだろう。」

「 「飛行機はしばらく出ないかもしれません」と事務所では言った。」

「予期に反して、一日遅れて最初の飛行機がやってきた。」

「 ぼくの眼にはいきなりはるかに遠く雲表にそびえるナンガ・

パルバートの頂がとび込んできた。パイロットはぴたりとナンガ・

パルバートの方角に機首を向けた。」

「山塊の下の部分は霧の中に消え去っているが、上のほうは

何もかもはっきりと見える。ぼく達は稜線上を南に向かって

飛んだ。突然左手にディアミール斜面が見えてきた。ぼくの心の

中のすべてのものが震えた。興奮してはいなかった。何かが

ぼくの体内を貫いて走ったのだ。ぼくは、自分がこの壁に強い

きずなで結ばれていることを感じた。ぼくの心は完全に壁の

中に入っていた。壁がぼくの中に入ってきた。ぼくがここへ

また戻ってくることはわかっていた。不思議な力がぼくを

立ちあがらせてくれる。誰かが「ティケ」と言っているのが

聞こえるようだった。ぼくは自分自身を取り戻していた。

 飛行機は前山を越えて南下していった。ぼくは後ろを

振り向き、一心不乱に眼を凝らす。だが、もうナンガの姿は

なかった。」::> 



なぜ、メスナーは孤独に遭遇して、それに耐えられないと

悟ったのか。それは自分(というもの)が壊れてしまった瞬間

だったろう。今、ナンガを追いかけてみて、この部分がそれ

だとわかる。夏目漱石が修善寺の大患で30分間死んだように

メスナーの自分もこの時死んだのだ。彼がナンガの前で

「この山は、ぼくには無限に大きなものに思われた。」のは、

偶然ではないだろう。彼は無限と交叉したのだ。最初の

経験ではそれに耐えられないと思うのが通常だ。それは

気分なんかではなく、酸素の薄さから来る幻覚のような

ものから生じる錯覚でもなく、ナンガがメスナーを認めた

ことなのだ。僕には手に取るように、壁に張りついている

その岩の感触がわかる。そして、そのなんとも言えない

厳粛な空気の張りつめた感じ。山に登るのはその高さでも

なければ、労働でもない。ある神々しい無意識な瞬間に

出会う、そのために山男たちはそれに惹かれて、引かれて

いることを知らない。気づいても、瞑想的な感慨があるだけ

なのだ。どれほどの屈指の男たちが山から戻ってこなかった

だろう。エベレストで亡くなったマロリーも言うようにそれでも 

”そこに山があるから” だ。


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ナンガを追う 1. [山岳]

ラインホルト・メスナー    鉄人であり、哲人。むしろ、 

超人と呼ぶべきか。 世界には山岳の最高峰はエベレスト、または 

チョモランマ(中国政府によるチベット名)で標高は8、848mと 

される。世界の屋根にはチョモランマの他に17峰、全部で18峰の 

8,000級の山岳しかなく、これをすべて頂上制覇した人類最初の 

男がメスナーだ。 

と、言うのは簡単だが、僕は言いながらため息が出る。僕らは 

8,000mという世界がどういうところか知らないから。僕は山岳 

の経験から、それを拡幅して実感を比例させて、想像することが 

できる。想像するだけでも、死なないのが不思議なくらいだ。 

少しもオーバーな言い方をしていない。それが事実であるから 

それがどれくらいケタ外れなことか、明かしてくれる。  

少し、肩を落として、深呼吸する。 

探していた本を見つけた。「ナンガ・パルバート単独行」である。 

メスナーが書いた本はいろいろだが、この本は珍しく内省的に 

書かれている、唯一の著作だ。 瞑想しているのである。 

この本にだけメスナーの数ある本から最初に出会えたこと、 

それが唯一の本であったことに感慨を禁じ得ない。その時に 

は非常に興味深く読んだ。 

このように書いた本がメスナーに他にはないことに不思議な 

感を覚えた。因縁があった。この山でメスナーは弟を亡くして 

いた。一緒に登ったが、最後のアタックで天候の悪化予報の 

ため一人で登頂を目指したが、弟が自己判断でついてきて 

しまった。一人分のザイルしかなく、登頂はしたが、弟が 

消耗が激しく同じ壁を 降りることはできなかった。 

壁の途中で厳寒の中一泊しなければならない。そして、行き 

の壁を諦め、比較的楽な裏側の壁のルートを選択したが、 

メスナー最後には弟を見失い、自身も倒れ、凍傷になり、 

動けなくなったところを地元の人にかつがれて助けられ、 

通りかかったパキスタンの兵士のジープで帰還できた。 

本国に帰ってから、凍傷した足の指6本を切断した。そして、 

この後17年をかけて8、000m峰18峰の制覇に乗り出す 

のである。 

このナンガの本は完全にひとりでナンガに成功した最初の 

記録である。それも直前にエベレストを無酸素登頂を成功 

させた、そのすぐ後に登っている。 


僕が追うのは、この本の記録だ。メスナーを兄弟ほどにも 

感じた、その内省の記録だ。 

目次の後に5行の言葉が全1頁に::

「思わぬときに心の中からほとばしり出る孤独感には

きみを殺してしまうほどの力がある。 

だが、うまく役立てることを心得ていれば 

今見える地平線のはるか彼方まで 

きみを運びあげてくれる力がある  」  

この言葉は自然とお互いに共闘する人間のための言葉 

なのだったと、改めて思う。僕は自分の内省を一般的に 

感じて、一般的に使ってきたが、ここに書かれていようとは 

思わなかった。読んだのは恐らく40年近く前だったから。 

「ナンガ」という最初の章の見出しにも8行の言葉が載って 

いる::

「サーブが自分を駄目にしてしまうのは

なにもかも知ろうとしながら、何ひとつ見ていないからだ。

サーブは技術しか信頼しない。

サーブはどこでも、いつでも分類したがる。 

サーブは孤独を恐れて集団をつくるが、

かえってその中で孤立してしまう。 

サーブは死を黙殺しようとして、絶えず考え、考え、 

考えてばかりいる・・・・・・。  

      パンポチェ出身のシェルパ ダワ・テンジン  」 

この言葉にも最近のブログ記事と重なるので驚く。 

ことは柳宗悦が「蒐集物語」で述べていたのを端的に 

現わしただけで、どうも死の危険と隣り合わせの、なんに 

してもエベレストの死者の40%は登山者に随行する 

シェルパというからどれだけ危険かわかる、そういう人 

たちは同じ真実を見るようだ。考えるな、まず見るんだ、と。 


<一人の男と一つの山>::

「切り立った岩の段を攀じ登って上に出る。息を切らせながら、 

もう後には退けないことに気づく。体はまるで萎えたようだ。 

テントの中は寒いのに汗をかいている。顔のすぐ上にある 

薄いテント地に霜がついている。ぼくは何かどなるのだが、 

その声は聞こえない。ぼくは自分をとらえたこの恐怖感を、  

膚で感じとっている。不安のあまり叫び出したかった。

 半ばうとうとしながら、前もって考えた登攀動作をあらかじめ 

心の中で思い描いてみようとした瞬間、突然自分が孤独で 

あることに気がついた。腹の筋肉が不安のあまり引きつる 

ほどの孤独を感じたのだ。 」  

彼がいるのは岩の壁の途中である。ちょうどサナギのように 

テントにくるまれるように、ぶる下がっていて、夜の中で氷結 

と闘う。両腕、両足を星を眺めながら、マッサージする。  ::  


「自分を取り戻そうとする必死のあがきが、体内を渦巻いた。 

どうしてこのようなパニックに襲われたか説明はつかなかった 

が、この恐怖状態はまだまだ続いた。これは、そこにいるという 

恐ろしさ、これから先もやらなければならないという恐ろしさ、 

そもそも人間であるという恐ろしさだったのだ。僕の体を萎え 

させたのは、墜落を恐れる気持ちではなかった。自分自身が 

この孤独の中で失われてしまうのではないかという恐ろしさ 

だったのである。  」  

これは1973年に1日張り付いた壁を途中であきらめて、翌日、 

ベースキャンプに戻る時のことであるが、突然の孤独に対し 

ての独白が綴られている。エベレストとナンガに向かう5年前 

のことである。



* このレポートは僕が気に入っている個所まで書いたら 

終わりにしようと考えているが、今、改めてこれに挑戦する 

意味が感じられる。その意味を思うと、僕がそれに納得を 

図れるようなことが起きたら、そこで止めてしまう可能性も 

ある。どのみち出たとこ勝負だ。

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