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読書は人生に退屈な教養善 [読書]

例えば、<読書に人生一般の教養は

あるが、あなたのための答えはまず

ない。もし、そこに共感して、それ

が継続しているのなら、あなたの

知性だけが満足している(可能性が

ある)>というのをテーマにして

語ってみると、:::

(注::

途中で飽きたら、最後の「:::2.」

だけ読んで下さい。)

こちら側にいることがまだしっかりと

意識できないでいる。

長い間、こちらは留守に近い状態

だったせいだろうか。こちらで調子

がいいのは、およそ夢を見られる

からだろう。夢なら十分に、見てきた。

それはこちら側からではなく、夢の中

で十分に生きた、という意味だ。

落ち着ける場所をそこでも探したが、

それは場所ではなくて、むなしさが

すがすがしいほどに気持ちいい状態

というのが、まれに時々訪れた。

その時が透き通るように落ち着いた。

そういうコンタクトが無意識と取れた

時が何も言う必要がなくなって、何の

疑問もなくなった。それはこの世にも

その他の膨大な世界の数々にも、

なにも尋ねないということ、どんな

謎も存在しないと思える状態だ、と。

自意識がありながら、茫然自失の

状態ということだろうか?

人を愛したいと想った自分もいない。

自分とか他人とか、誰かを必要と

するとか、またはひとりでいい、とか

のことではない。そういうことを問う

必要のない精神の清明さと言えば

いいのか、僕もはっきりわかっている

わけではない。一種の幻想に囚われた

のと似ているのかもしれない。しかし、

幻想のようにあとで、あれは欺瞞だった

という匂いは感じたことがない。

それを明晰な、と言いたいが、それを

実証するような例もないし、比喩も思い

つきそうもない。

つまり、自分では一種の未知な状態だと

言うよりないのだ。

なにかを信仰したからとか、理由がある

とは思えない。

あれはなんだったのだろうか?

もう元気いっぱいという、子供時代の

ようではない。君が側にいてくれるだけ

でいい、それだけでいい、という状態を

鏡に映したように、そこにいる自分に

感じるようなものだ。そこに自分は見え

ないが、たぶん、それを悠々と感じて

いるのだ。

気が抜けた、透明な気分のしあわせの

ような、味わってみなければわからない

だろう。

考えなければ、それは最高の気分の

ひとつに違いないだろう。そういう

あなたがいればすべてだと思えるなら、

同じだろう。将来に起こることなど

を考えなければ、もう一つの最高の

気分だろう。

ひとりでそういう気分になるのが

珍しいのか、わからないが、小説

でも他でも読んだことはない。

僕らが今に向かえば、それはただち

に未知に向かうことになるから、

僕らはまったく知らなかった経験を

することになる。ところが、それ

は過去になかったのだから、ほぼ

書かれたこともない。

どんなに古典を読んでも、貧しい

古典の数では、百でも足りない

だろうし、その一つの秘密にでも

たどり着かないはずだ。僕らは

いろいろな過去を知って、中には

自分の血肉のように染みついた

過去もある。

その時に気づくのだが、注意深く

ないと、自然に惰性で今までの常識

の考えや習慣に流されてしまう。

気のせいにしてしまうこともある。

過去に照らし合わせられないだけで、

僕らはそれを勘違いのせいにして、

新しさを遠ざける。

忘れてしまう。

僕は自分を取り去る作業を、仏教の

考えの真似を偶然して、途中で気づ

いたが、そのまま続行した。そこでは

役に立って、本当に気づくまでの仮の

案内灯であった。そして、数十年して

案内灯も消えてしまって、すべての

思考が消えてしまった瞬間が訪れると、

僕はどこにいるのかがわかった。

それは言い尽くせないが、それは

それを現す言葉がないのもあるし、

言葉に頼ることでは見えなくなって

しまう、そういう状態・状況を示す

事柄だからだ。

その言葉は言い古されていて、もう

陳腐になっている。言葉で言い表せ

ない、とかそうではない。言葉を

見ることで、それは見えない。僕ら

が勇気を出してそういう類の行為を

した時に、成功失敗に関わらず、

ショックが落ち着いた後は、ほぼ快晴

な気持ちになる。後悔するより、

やってよかったとなる。それによく

似ている。

なぜか。それが自分をひとつ開放した

からだ。その分だけ自由になったから、

しばらくは開放感を味わえる。

そういう「感」のない感動は自分に

言い聞かせているだけのことか、

またはどこかで聞いた考えを頭の

中でまたくり返しているだけだ。

それしか残らない、という意味だ。


僕は読書から直接な教えを受け

取ったことは一度もない。矛盾する

が、小林秀雄とJ・クリシュナムルティ

に気づかせてもらったが、彼らの

考えに共感したことはない。

彼らは自分の考えは述べない。物事

の在り方を、苦労して(小林)述べ、

そのまま(クリシュナM)述べたので、

考えて読んだ人はわからない。それで

小林の本は難しいと一般受けはし

なかった。ベストセラーはなかった

のだ。

出版社が一般向けに編集した「考える

ヒント」がベストセラーになっただけ。

クリシュナムルティはまったく無感動

な文を書いて、読者などはそこにいな

かった。なんとなくわかるような部分

はそれでもあったので、少数の人たち

が読んではいたが、・・・・。

クリシュナムルティはなんでもないこと

をなんでもなく、書いて、それを感動

して讃えるが、読んでも僕らはいつも

見ているものに思えてしまう。感動は

ない。そこにひとつ、意識の壁があって、

それを瞬間でも一度超えた人であれば、

気づけばその感性が伝わる。

その中味は?という ・・・。(それ

はもう、考えの範囲だ)

小林に教わったのは、考えではなく、

だから、教えられたのでもない。彼は

ライターでも見つめていると、違う

映像が見えてくる、といい、40年も

バラを見続けた画家がいる。それが

なにかが見えていたという証明では

ないか、と言う。そういうくり返し

から、僕はうまく直感することができた。

自分でも試してみようと決めたのだ。

考えたら、ライターはいくら見ても

ライターだ、馬鹿らしいことだ。だから、

(小林が嘘を言うはずがない)やって

みたのだ。考えたら、無駄で時間が

損するだけだと思えることを。


僕は早かったのかと思う。何度も言う

が、別々の西洋画展に3回通うだけで、

時間も合計しても4-6時間だろう。

見る、というのは人間が持つ特別な力

だとわかった。それは美術品を見分ける

眼を持つまでそれなりの修行をする

のによく似ている。ふつうは一朝一夕

ではできないのだろう。

そうして、自分のやり方で絵画を見る

ことで席巻して、内心では小林を追い

抜いただろう、と自負していた。

そして、ふとした機会に小林の「近代

絵画」を読んで驚いてしまった。僕が

自分で獲得したと思った絵画について

の思想が、ボードレールのドラクロア

についての評論で表されていた。それを

小林がすでに書いていたのだから。

僕はその部分を読んだはずだが、その

時は理解に及ばなかった。そして、後年

しっかり修行を積んで、レベルが上がっ

ただろうと勝手に思い上がっていたが、

すでに書かれていた。

小林は努力タイプで直観は補助の形

を採っているのだろう。僕はタイプ

こそ天才だが、呑み込みは速いが、

それほどには進んでいなかった。小林

はだから、尊敬する巨魁なのだ。晩年

も絵を眺めて長い時間見ている。退屈

したら、つまらない絵など見ていられる

ものではない。だから、彼は楽しんで

いる、同じ絵を30分でも眺めまわして、

味わっているから、自然に時間が経って

しまうのだ。そこに僕ら一般が知らない

世界がある、と言えるのだ。

僕らの僕もまたもう一人の僕だ。が、

僕は眼を持った。お陰でおまけに視界

が広がっているのだ。これは何度も

経験しているのでその都度、実証済み

だ。

それは書店でのこと。背表紙で題名を

探していると、今探しているのでは

ないが、気にかかる固有名詞を見た気

がする。頭の映像には映っている。が、

今探している場所を、またその近辺を

見てみると、確かに見えたのに、ない

のだ。おかしいなと思う。意地になって、

というか、必ずあるのは知っているから、

探し出さないと気が済まないのだ。

そして、見つけるのだが、眼の焦点が

合っている探している場所から30cm

から時には40cmも離れた場所に

確かにある。

眼の端には映っているだろうが、探し

ている居場所からは、見ようとしても

見える筈のない処を見て、脳の記憶に

一致すると、教えてくれる。

これは最初は不思議だったが、何回も

あったので、僕は見ている方向だけ

ではないくらいに視界が広くなっている、

としか思えない。これは見るという、

視野の副産物で直観的にものが見えたの

を説明するものではないが、普通では

ないことが起こることの説明にはなる。

そうして僕が自分を捨て、さ迷い始めた

時に、少しの不安の後に、僕がいる世界

がわかった。それが「なにがあっても

大丈夫」という表現をつかった感想だ。

僕らはすでに十分満足のいく世界に

いる。美をわざわざ見る必要がない

くらいに、世界は美しい。それを僕ら

は殺しているが、それは文明文化の

代償だと考える人も多いと思うが、

それはまだ批判という、考え方を

考えていることで、それが見ることが

できていないという証拠にもなる。

僕らは自分がそれを無視していること

を知らない。そして、そうは言っても、

その賛同者を見つけるのは難しい。

考えで賛同してもらっても、なにも

ならないからだ。


僕は父の認知症を見てきた。両親は

タイプの違った認知症になったが、


たぶん、収縮する脳の部位が異なる

せいだろう。

父はまだらボケになった頃は、まだ

頭が働く時間や気分があったらしく、

人の言っていること、医者が説明

していることがわからないと、オレは

バカになった、と言っていた。だから、

まだよかった。認知症にほぼなって

しまうと、不具合なことをして、とう

とう被害妄想から孤独老人になり、

食事もままならなくなり、脱水症状に

まで追い詰められた。そこで無理に

入院させたが。

僕は中学生の後半だろうか、固有名詞

を覚えるのが苦手になった。よく、あ・・、

い・・、う・・、とアイウエオ順に

その忘れた固有名詞を思い出そうと

して、50音を頭で辿っていた。

それが今では、最近特にもっとひどく

なってきた。思い出せるのもあるが、

思い出せないものは、ドラマの題名

であったが、ちょうどCMで出てきた

ので、そうだこれだ、と思い出した。

と思ったが、ほんの10分くらいで

また忘れて、今度も自分では思い

出せない。

六本木クラスだが、初めが「ホ」だ

とばかり思っていた。「六」と「ホ」

の字の形が似ていたのだ。今は、

うまく思い出せて、まだだいじょうぶ

か、と思った処だ。

僕も父のように、数年後には「馬鹿

になった」という日が来るのかも

しれない。

そう言えば、老化に抵抗する意識

がなくなってきたようだ。歳をとる

ことがどうであろうと、さして気に

するようなことではないと思う。

ただ、体の自然状態はよくないので、

その点には日常生活で気をつけなけ

ればいけない。

ほんとうに記憶もひどい状態に

なったら、真っ先にブログを中止

するだろう。もう「わからないもの

についての思索」は自分自身で

どこかに陥穽に落ちそうで、信用

ならないだろうから。

ただ日常の日記を書くのみか。それ

も良し、なんだろうな。


:::1.

まとめとして、くり返しになるが、

読書が教養や楽しみであり、それ

以上を人生に求めるのは本末転倒

になる、という初期の(10年前?)

の意見に変わりはない。

だから、ドストエフスキーの「罪と罰」

を読んで、同じことをする若者が

ロシアに現れて話題になったが、

それは小説の影響だとしても、実際

の行動は著作(考え・話・夢)とは

切り離された現実として処理される

のは、合理的なことで作家は殺人を

書けなくなったら、困る。虫けらの

ような老婆を殺しても、私が世の中

のために金を使うほうが、よほど社会

のためになるから、私は老婆を殺し

ても、罪ではないのだ、と言うのは

どうかしている。頭の思考が先走った

人ほどそれがどうかしてるということ

がわからない。

科学者は数学や数字で宇宙から

人間まですべてが解き明かされると

信じている、論理を妄信している

人間が多い。思考という AI・

コンピュータ(例えば、あいまい検索、

アルゴリズム)と、人間の情・感覚と

いうむしろ体の記憶や思考器官から

飛躍する発想という違いが(情や感覚

に助けられないと、自己という知は

十分に働けない、ということを)十分

に理解されていないのだ。

読書は素晴らしい教養だが、それで

人生が豊かになるという誤謬はなか

なかなくならない。くり返しだが、

言語の勉強や資格などの知識の獲得、

マニュアルの勉強、ノウハウもの、

それらは通常の小説や教養の読書

ではない。役に立つのが初めから

わかっている。そこから読書は人生

に役に立たない、というと、言い

過ぎになって、教訓というのも、

読んだだけでは役に立たない。それ

に近い経験が、それは本当は何か、

ということを発見させる。

それが人生の土台の第1段階になる、

と言うと、話しが終わらない。わから

ないものに達するというのは、大抵

その土台をぶっ壊したあとにわかる

ことだからだ。人生は謎だらけだ。

追及すれば、が、その条件だが。

          9.2

:::2.

最後に人生への良書が教訓に満ちて

教養であることについての誤解を

書いてみる。

人生に役立つと思われる良書は主に

古典になっている。そういう古典を

読むと、他の本は読まずとも、すべて

書かれているではないか、という気に

なる。古典読むべし、他は捨てよ!と

いう具合である。

それは一面で正しい感想だが、古典は

古い時代の背景で書かれたもので、

現代とは異なる。これは想像よりも

大きく深いことで、その当時は今より

規則や法も少なく、空気も汚染が

酷くなく、薬も長期には毒になる

化学物質も少ない含有で、雑音や

騒音も相当に少なかった。

それは僕らが僕らに対する時に

ストレスは何倍から10倍も少ない

ことを意味する。だから、相手の

情や感覚やその発露が神経で閉ざされ

ていないので、直接伝わりやすかった。

そして、小説・演劇・歌謡・オペラ

などそういう発露・表現の中で難しい

話・思想・随筆も考えられ、感じられ

書かれていた。

だから、僕らにはわかりやすく思える

のだが、それは読み違いである。

時代が遡れば、遡るほど、感情も

感覚も明るく発するのが普通だった

からだ。例えば、小説の「ジキル博士

とハイド氏」などは、二重人格の犯罪

を扱った小説だが、今では陰惨でもなく、

むしろ健康にさえ思えるストーリーで、

安心して読める。当時はそうではなかった

だろう。(ということは、当時よりも

不健康な状態で読んでいるから、そう

読めるのであって、気づくべきはそう

感じる自分の環境はよくないというと

いうことだ。)僕らはその今では味わ

えない、情や感覚、小難しくない思想

をわかりやすいと、勘違いして読んで

いる。それがひとつ。

もう一つは、古典が読めば読むほど

味わい深いものになる、という誤解だ。

書かれたものは変わらない。一字一句

同じだ。内容も表現も読むたびに言葉

が変化する、といった魔法じみたもの

ではない。だから、変わったのは読み手

なのだ。読者の自己が成長とともに

人生経験を増やして、思想の細かい点に

気づき、人情の機敏に触れ、感覚の

変幻さの面白さに気づいたので、同じ

言葉を読んでも、そこから別な意味を

読み取ることができるようになった

からだ。魔法の本はない。あなた自身

が経験を増して、考えではない実感を

言葉に寄せることができるようになった

から、人生を新しく学んだのではなく、

そこから新しい展開・パターンを復習

できたのだ。あなたはそこで自分を

振り返って見ることができる。味わい

深くなったのは、あなた自身のことだ。

古典の本自体のお陰ではなく、それ

に対応できるようになったあなた

自身のお陰で。



齢を取ると、余計になつかしい情の

当たり前な発露、例えばハッピーエンド

などを望むようになる。水戸黄門の

印籠のようなわかりやすい正義を

求める。

進化論のダーウィンは若い時に

ヴィーグル号で世界を航海したが、

その後は旅行などしなかった。

ほぼイギリスの田舎の自宅で研究

に過ごし、晩年もハッピーエンド

の物語しか読まなかった。

人間が猿から進化したという説を

発表するまで「種の起原」から

十数年、教会からの反発は覚悟の

上だっただろうが、心労はあった

だろう。それは神への冒涜であった

から、その批判に耐える自分でなけ

ればならなかった。心臓に悪い

物語などは、読むに堪えなかった

だろう。

読むにた易い人生への読書・良書と

いうものはない理由が、これである。

古典を若者が嫌うのは当然で、年寄り

が大いに自分を味わい、楽しむ本の

ことである。
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目的のある読書と目的のない読書 [読書]

自分が自分の人生の主人公であるのを  

実感するのは難しい、と考えてもいいと  

感じられるようになった。  

少し前まで、ほんの数年前までは、その緊張の  

連続からもう逃れてみたいと、淡い願望を持って  

いたのが夢のようだ、それで正しいのだろう。  

この状況は。

しあわせは瞬間に訪れるもので、それで  

なおさら、甘さは格別だった。おやつで飴を  

なめるようなもの。 

愛でなければ支えられなかったのだろう。  

それから比べてしまうので、幸せはおやつの   

ようなものだった。 脱出できてからは、しあわせ  

であるのは日常のこと、当たり前のことだった。  

恐らく、貪れば、幸せはあふれるほど湧いて来る  

にちがいないと、思えるのだった。精神の洪水を  

経験してからは、おやつを貪ろうとは思わなくなる、

自然に。精神的に?虫歯になってしまう。  

だからといって、その半世紀が不幸で暗い時代  

だったとは言えないし、思ってもいない。何度も  

出てきてしまうことになって後悔しそうになった  

のだった。  

悪い時代というのは、僕の場合は通じない、それ  

は感じたことはない。僕がこうなるためには、必要   

なことだった、そのために必要な試練があった、と  

いうことだった。  

よく鐘が鳴る時代だった。それを聴くと、僕は夢の  

世界へ出かけた。僕を呼ぶ鐘なのだ。 過去の或る、

チャーミング・ポイントへと、僕は命の雨や、泉を見た。

初めはそうだとは気づかずに、過去の温かいもの、  

そういうやさしさを感じただけだったが、10年、20年  

の内には、鈍い僕でもわかってきたらしかった。僕の  

中には無意識下を歩いた経験が積まれているが、  

それが五感や心や体の感覚に顕現はしないから、  

常に隠され、溜まったままになっている。

たぶん、そういうことなのだ、僕が書き続けるのに 

なにかに背中を押されるように感じるのは。  

それが書かせる。それが僕をひとりにして歩かせる。  

それが夢を生きるという、僕独自の意味なのだろう。  

現実には僕は楽をしたいから、全部やめて、山へ  

行ったり、虫や雑草の生きる居場所を探したいし、  

海にもぐって、夜はバーベキューでもしたい。  

皿や湯呑を作りたいのだが、今日はその陶器用の  

土で歯を作った。前歯が差し歯で、数か月で取れる  

のでうまく嵌る隙間を作って、簡単には外れない  

構造にした。乾燥させて、焼成して、色付け、また  

焼成して完成だが、やってみないとちゃんとしたもの  

ができるものなのかはわからない。まったくだ、陶器で  

一番最初に造るのが「歯」だとは想像もしなかった。  

Bプランがあって、その歯を鋳型で歯医者に持って  

行って、技術者にセラミックで同じものをつくってもらい、  

それを医者に接着してもらうというプランだが、このほう   

が現実的だ。陶器の自己製の歯がどれだけ嚙む力の 

強さに耐えられるか、危うい。  


僕らはどこまでも広がる。果てなく、どこまでも歩いて  

行ける。だから、僕がひとり呆然とする時。気を許して  

いると、あれもこれも、あの分野もこの分野も、あの  

始末もこの始末も、あの意味もこの意味も、あの思想も  

この思想も、その進むべき道を探って、四方八方に  

広がってしまう。もう手が付けられない。だから、静かに  

広がるそれらを鎮静させて、収めてゆく。それはすべて  

一度に辿ることができないことだから。鎮まるのをじっと  

待つ。それから、今に戻ってくる。できることを、今から  

すればいいから。いつもここからしか進むことはできない  

のだ。論や思想を唱えても無駄だ。   

ここからは各人のやり方がモノを言う。  

僕の考えは、前から言っているようなもので、例えば、  

俳句を人生に例えるようなものだ。五・七・五の17文字  

しかない俳句に人生を込めよ、と言われたらどうするか。  

そういう想定をいつも日常でするのが僕のやり方だ。  

朝なので   歯を磨くのだ  朝歯磨き   

という俳句を作ったら、無駄だと思う。朝も歯磨きも  

同じ言葉を二回も繰り返して、なにも表現するのでも  

ない、という二重に無駄をしている。  

だから、例えば、読書でも目的の読書と目的では  

ない読書に分けてしまう。目的の読書は研究のためとか、  

何かを追及して、またはなにかを調べるため、知るため  

という読書は、ほぼ読まないで読む。何度も書いたが、  

オックスフォードかどこか有名大学の教授が論文を  

書く学生に教える初めの読書法だ。その本の、その  

論文のエッセンスは20から30%のページ数の箇所に  

書かれているから、それを見つけよ、というものだ。 

初めにとか、最後にとか、目次とかをまず最初に注目  

して、重要個所を見つける。そこから推測して、その  

ページをパラパラして、何が書いてあるかを数秒で掴む

(飛躍して言ってるのではなく、やっているうちにできる  

ようになる)そうして大量の本から、資料の本とその  

エッセンス個所を見つけてしまうのだ。  

例えば、ロシアの文豪トルストイは「戦争と平和」を書く  

ために3万書という本を読んだ?と言われる。小さな  

図書館ができるほどだ。そうして、当時の風俗や貴族の

衣装などまで調べたそうだ。3万という本を通読して  

いたら、単純計算で1日1冊でも82年以上かけないと  

読み終わらない。だから、トルストイも速読か、ポイント  

だけ読む技術を知っていたはずだ。「戦争と平和」は 

書かれたのだから。  

目的の読書は、まず最初はなぜこの本を読むのか、 

という目的意識がはっきりしていなくては成り立たない。  

それは畢竟(ひっきょう)、自分はなにをしたいのか、  

という根底の意識をしっかりつかむことに他ならない。  

もしも、そういう意識がないのならば、それは目的の  

ない読書で、ふつうに小説などを読んで味わい楽しむ  

ことだ。人生を傍観者として、そこに自分を重ねたりして  

ロッキングチェアに揺られることだ。楽しむのだから、

ゆっくり1ページずつ、最初から読み始めて、展開を  

楽しむのだ。優雅なことだ。  

それで間違えていけないのは、目的のために他人の  

書いたものを懇切丁寧に、1ページずつ読むのは  

合理的でなく、無駄であることだ。人の頭には基礎から  

積み上げて、高みを目指すという理想があるが、現実  

にはそんなものはない。人生はそのためには短く、本は 

その分野だけで何万冊では足りないくらいある。150年  

もかけて読んではいられない。それで現代ではどうしても  

すっ飛ばして、30%だけで読んでしまい、エッセンスを  

盗んでしまうというテクニックが必要だ。  

そして、本の70%を捨ててしまうという経験は、その人を  

強くする。できることをするというのは、そいう無駄を切り  

捨てることが必要で、それは自分の意識を切り裂くこと  

でもあるから。勇気がいる。  せっかく買った本を読まず

に見捨てていくなんて、と思う人はなるべく図書館で本を  

借りるなど工夫すべきかも。

ベストセラ-などの要約されたものを集めて、読めるアプリも  

あるが、それがいいという人もいるだろうが、人間力を信じる  

なら、自分で努力してそのエッセンスを嗅ぎだす力を自分の  

ものにしてしまったほうが、後になってアプリに頼らず、効率  

がいい。僕はそれがどれだけか計測はできないが、ある  

超能力じみたものがそれに関わっていて、僕も経験している  

だろう、という感触を持っている。例えば、極端には、辞書で  

開いたページにずばりその目的の英単語が出ているような  

もの。そういうことが起こりやすくなる。次第に当たり前に  

なる。人によって、三日、3か月、・・1年、‥3年、7年の人も  

いるかも知れない。   

僕は運転仕事が長く、15年も足の運動をサボって  

いて、階段登りで息が上がったのに驚いて、運動を  

始めたが、普通の体力に戻すのに結局、7年かかって  

しまった。それでも軽いランニングができるまでになった。  

それでもありがたいものだ。高齢になると、(初めて)  

わかる。 



のんびりと読書はいいものだと思う。だが、僕にはまだ  

無理なのだ。そんな時期ではないと、もしかしたら、  

そんな時期は来ないのかとも思っている。それは僕が  

それを強くは望んでいないからだ。僕の性格が僕の  

運命だ。そこまで僕は裸の自分を見てきた。裸に  

ならない限り、僕らは裸の王様だ。  

なので、裸の王様は裸の自分が怖いが、裸の自分に  

怖いものはない。

テーマが反れたので、またに。
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空から降る一億の星 [読書]

ここでこれを書こうとは思わなかった。 

数十年ぶりになるか、小説を読んだ。それもなつかしの 

徹夜で一気読みした、というやつだ。面白い小説の 

醍醐味だが、30年ぶり、いや、40年ぶりかもしれない。 

夏目漱石の「それから」が最も近年で読んだ小説だが、 

ところどころ飛ばし読みで、2回目に戻って来た時に 

気になった処をよく読んだ、という読み方で、とても 

最初から最後まで読んだとは言えない。 

北川悦吏子の脚本をライターが小説にしたもので、 

心理描写も少なく、台本調なので読みやすい。 

昔と同じように夢中になって読んだと言えるが、 

やはり全部同じとはいかない。 

まず、この本を見つけて購入した動機がある。 

それは深夜のTVドラマで韓国の現代ドラマを観た 

ことによる。はじめに見た時に主人公の容貌に魅せ 

られたのが一番だろう。日本でTVドラマにした時は

木村拓哉だったらしいが、韓国の俳優は配役は 

ピッタリと当てはめてくる。役柄に当て嵌まる俳優を 

探してくるのがうまいのだろう。つまり、日本のリメイク 

なのだが、韓国版のほうがよくできている。 

まだ半分しか終わっていない。その途中で、原作を 

読みたくなって、探したら見つけた。書評で結末が 

せつないというのを読んだので、おおよその見当は 

ついてしまった。 それでも最後の最後までは自分 

をのめり込まして読めたが、最後はよくあるパターン 

になっていて、そこに気が行かないようにしていた 

らしいが、結局はそうなるだろうというところに そう

なった。ふつうは感情をつかまれて、せつないの 

かもしれない。

しかし、現実はこういう悲劇にはならないだろう、という 

最後においての数多い選択肢があるのがわかる。 

これは小説の、物語の特有のテクニックなのだ。それは 

抑えられて書かれていたので、いいストーリーなのかも 

しれない。でも、自然じゃない。 

TVを観ていて、二人に火傷があるのを見せ合った場面で 

すぐに兄妹だと感じた。25年経っているのでお互いに 

知らないのだが、ここは韓国の俳優陣がいい演技を 

している。 

読んでいて次はどうなるのだろう、と展開が速いのも 

手伝って、適度な感情移入がしやすかった。僕らは 

恐らく、そういうストーリーの展開を先に読んでしまって 

いる。しかし、その先の展開の扉を開けないようにして 

いる。興味が削げてしまうから。 

そうして、その先の読みに蓋をして、興味を引きずられる 

自分を無意識に演出している。気づかずに、感動を 

先に残そうとしている。それは僕らがうまく騙されようと 

していることだ。落語を聞きに行けば、笑いを準備している 

ように、小説を楽しむとは、僕らがうまく乗せられて、泣いたり、

笑ったり、感動したいからだ。恋愛小説を読んで、初めから 

感動なんかしないぞ、と構えて読む暇人なんかいない。 

くしゃみをする時のように、うまく調子を整えないと、くしゃみ 

ができないように、僕らはうまく泣きたいのだ、うまく感動 

したいのだ。それは満足したいから、だから、泣くにしても 

慰められるにしても、なんにしてもそれは僕らを気持ちよく 

させるという意味で、それらは楽しみなのだ。それでお金 

を払って、映画を観たり、小説を読む。それがどれほど 

大衆的であろうと、高尚な趣味であろうと関係ない、

浪花節であろうとクラシック音楽であろうと、また 文学 

小説であろうと哲学であろうと、ゲームであろうと 

理論物理であろうと関係ない。要はそれである種の 

カタルシス・昇華・消化・発散をしたいからなのだ。 

中でもライトノベルや大衆小説は、僕らの先読みをうまく 

外しながら、結局は僕らの思い通りのまたは、意外でも 

満足させるような結末に導いてくれることを願っている。 



**だから、そこでどんなに感動しようとも、それは架空の 

世界の夢であって、現実の経験にはならない。むしろ、現実 

の悲惨な関りから一時的に避難・離脱するための逃避行 

なのだ。 

老練になったような政治家は漫画を読まない、興味がまったく 

持てない。地位や名誉、利権という財や名前・権力にしか 

興味が行かない。それだけ現実との交渉が楽しいというの

だから、そこには張り詰めた緊張と感情をコントロールした 

気づかいのバランスがあり、隙を見せずに痛くはない隙を 

わざと見せて、四方からの圧力に常に耐えている生活力が 

なければならない。 

一般は現実と虚構の夢との間でバランスを取り、トップたらん 

者は権力と現実との間で夢を見ようとする。そのどちらも 

極端には実行される例は少ないが、僕にはその間で緩やか 

であるにしても、そのどちらにもしあわせはないように感じる。 

そのどちらでもない道はいくらでもあるのだが、そのどちらにも 

僕らは自ら巻き込まれようとして巻き込まれているように 

見える。そして、気がつくものは少ない。少ないから他の人も 

お互いに気づけないのだが、その大きな特徴は現代の情報 

の遮断と妨害によるフェイク・情報操作・デマである。その言葉 

は知っているが、実態には触れることができない。 

日本人は洗脳されているが、精神文化や特殊道徳観によって 

守られている部分があって、それに支えられている。不思議な 

取り合わせでそれによってギャップを知らない不幸よりも幸福を 

感じる大勢の人がいる。 

高齢者からという無料のインフルエンザワクチンだが、予約で 

一杯らしいが、僕は申し込む気はなく、無視している。

ビルゲイツが自分の子供たちにはコロナワクチンを受けさせない、 

と言ったという噂があるが、デマ情報だろう。自分の財団が 

投資している多数の製薬会社の開発よりも進む、他社のコロナ 

ワクチンの臨床実験はスパイや偽患者を送り込んでも邪魔する 

だろうが、自分の支配下のワクチンならどれがほんとうに効果

があって、副作用もないか知っているだろうから、自分の子供 

にはそのワクチンを投与するだろう。 

イタリアのサラ・クーニアル議員が国会演説で::

<この目的としては、農業、テクノロジー、エネルギーに対する

支配権を得ることです。彼はその宣言で文字通り言って

ますよ。「我々がワクチン、健康について良い仕事をすれば、

世界人口を10%から15%削減できるだろう」と。彼は続けます、

「大虐殺のみが世界を救うことができるのだ」と。

 彼のワクチンのおかげで、アフリカの数百万人の女性の

不妊に成功しました。そして、ポリオ流行をつくり出し、インドの

50万人の子供をまひさせたのです。今現在、彼のDTaPワクチン

(三種混合ワクチン)は病気そのものよりも死者をもたらしている

のです。>


::と、ビルゲイツ(文中の”彼”)財団の世界人口削減計画について 

述べているのはほんとうなのだろうか?また、この翻訳がネットで 

ある程度拡散されているが、大元の情報は新聞などに載った 

のだろうか? この手の情報はリブログして済ませる情報では 

ないのだが、・・・・。  なにしろ、都合の悪い情報はどんどん 

潰されてしまう。で、自己責任で拡散するのだが、受け手も 

自己責任になるので本物と自分でわかる手段がなければ 

信じきれない。そこで本物の情報ほど埋没してしまう。 

だから、海外の情報など海外のマスコミの翻訳情報なので 

(日本には本格的に海外で活躍できる人材がいないと言える

くらい少ない)、新聞やTVニュースを見てもわかるのは、偏向 

したニュースか、部分の報道でしかない。しかし、多くの人は 

それが事実だと信じてしまうのだ。まるで疑わない。確かに、 

そのほうがしあわせだが、 ・・・・。

― :: 余談。 
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