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天才が定義するのが音楽 [天才]

「天才の勉強術」という本を購入した。読みたくなかったが、

読んでおく無駄も必要と、我慢した。で、その通りで、本来

読む必要はなかった。天才が勉強していたら、天才とは

呼ばれないだろう、という感じだったが、勉強は嫌いだったが

勉強もした、という点では間違いではない。また、それが

勉強術という、天才になるやり方を発見したり、教えてくれ

たりするわけではない。 

ともかく、読みたくないのは、欲求不満になるからだ。それでも

自分のわかっている方向とは反対のことを書いている本を

拒否せず、読んでみる、というのは物事を正確に知るための

基本方針だと自分で言ってきたのだから、多少の不満は仕方

ない。 そこでまた新しく”天才が出現することが意義である”、

という別な面が新しく追加される形で見出すことができた気が

する。それで書いておくことにした。 



まずは、通常の欲求不満から:-  

「天才の勉強術」は9人の天才を取り上げている。はじめから、

モーツアルト、ニュートン、ゲーテ、ナポレオン、ダーウィン、

チャーチル、ピカソ、チャップリン、平賀源内である。 

中では、チャーチルが最も天才から遠いのではと思う。

また、平賀源内も才能の絢爛さはあるが、独創という

創造力には欠ける気がする。ビートたけしもそうだが、

彼が金獅子賞だかを獲得したのは、子母沢寛の短編

小説「座頭市物語」を勝新太郎(俳優)が主演して、

映画制作し、シリーズものに育てている。その

「座頭市」にタップダンスを取り入れたりしたビート

たけしのオリジナル脚本だが、ストーリーは勝のもの

と変わらず、パクリである。

ビートたけしはエンタメについては豊富な才能があり、

たけし城などのバラエティ番組でその才能を発揮

していたが、映画は暴力映画以外のシリアスなもの

は興行的には成功しなかった。所謂、何でもこなす

タイプの、中心は芸人の才能である。時代にも

新しいオリジナルな創造をして見せたというもの

ではない。世間は才能だけ豊富でも、天才と喧伝

して売りたがるので、ビートたけしも、自分と闘う目に

陥って、何人も本人(自分)が登場する映画を撮った

りして、自分を確かめたのか、膨張する自我を発散

させたのか、その両方かもしれない。 

それはさておき、モーツアルトしか読んでいないので、

モーツアルトを語って、これは終わりにしたい。


さて、著者のモーツアルトの天才の説明が、ちょっと

しただけでそのすごさに入って行かない。表題は

「真似の天才モーツアルト」になっているが、これ

は音楽そのものを誤解している。

ゆっくり行こう。

「四歳で複雑な曲を短時間でおぼえて演奏する

ことができ」と書いているが、その頃モーツアルトは

門外不出とされたミサ(?)曲を教会で聴いて、その

1時間以上もする曲を帰ってから、楽譜に書いた、

ということができた。短時間で覚えた、というのは

おかしい。そして、驚くべきはその記憶力で、楽器別に

写譜したのだから、耳の音程の聞き分けの正確さも

すごいが、1時間もかかる曲である。こんなのいくら

勉強したからといって、身に着くものではないのは

わかる。だから、天才なのだが、モーツアルトには

それはただの記憶力だ。彼はさらに36歳(ほぼ)

で亡くなるまでに1000曲以上を書いている。単純に

計算しても11日くらいで平均1曲書いていることに

なる。このあふれるばかりの曲想が勉強して出て

くるなら、モーツアルトの息子も天才になって名前が

残っていただろう。

モーツアルトは一時年収1千万くらいあったが、晩年

はフランス革命で貴族の批判をして、パトロンを失い

貧しかった。残された妻はモーツアルトが作曲に

苦労したところを見たのが一度もなかったので、

息子をお父さんと同じ名前に改名して、偉い作曲家

を家庭(音楽)教師にして、天才をつくろうとしたのだ 

が、見事失敗した。

この重要な事実をおっぽらかして、晩年の「レクイエム」

がハイドンの弟のレクイエムにそっくりのメロディが

あることだけを取り上げて、モーツアルトはパクったのだ

としている。そして、::

「私は次のような仮説を立てたい。

 天才とは、学習の産物である。

 この仮説を、世に天才と呼ばれる人びと、あるいは

もっと広く、過去にすぐれた仕事をなしとげた人びとの

生き方や学習法、仕事ぶりなどを通して検証し、その

「勉強術」の秘密をさぐり、それは決して天才だけの

ものではなく、程度の差こそあれ、ごくふつうの人びと

にも可能であることを考えてみたい、というのがこの

本の意図するところである。」::

 それはよかった。

東大文学部卒業の彼の言うことは、どうでもいいの

だが、モーツアルトのパクリについては説明が必要だ

と思う。著者は盗作だとまで言葉を選ぶが、そういう

ものはパクリと呼べるかどうか微妙だ。例えば、大

バッハ=ヨハン・セバスチャン・バッハであるが、彼の

家族は音楽一家で親戚、家族それぞれが作曲を

していた。それで研究家が調べたところによると、彼ら

の曲で共通する(楽曲の)小節が200もある、というの

である。皆がそれをそれぞれ使い回して、展開させて

新曲を作っていたらしい。中でも大バッハが一番見事で

天才の面目を保っている、という。これは日本の演歌に

当て嵌めたら大変なことになり、たぶん、5-6割は

パクリ(一部が似ている)に指定されてしまう。京都先斗町

に降る雪も~、という「お座敷小唄」はヒットして、作者不詳

ということもあって似た曲が前後で6曲も出た。ヒットした

のは1曲だけだったが ・・・。


大バッハも彼の天才が認められたのは、死して80年後

だったというから、よくぞそこまで細々と作曲家たちの

支援が続いたと思う。同時代ではベートーヴェンも

モーツアルトも大バッハの曲を認め、学びもしたらしい

のだが、・・・そこが類(天才)は友(天才)を呼ぶ、

だろうか。

また、ベートーヴェンの「田園交響曲」でもカッコウ

だったか、鳥の鳴き声がそのまま演奏されて、加わって

いる。これは著者の論法で言えば、鳥の声は自然の模倣で

少しもオリジナルではないから、自然の表現として

取り入れたものも、パクリだ、というのだろうか。

著者の天才弁護があって、聴き比べると、ハイドンの弟

のレクイエムよりもモーツアルトのレクイエムのほうが

感動的で人びとに忘れがたい印象を残す(=すぐれて

いる)と補足している。

僕は坂本龍一の「Put your hands up 」を聴いてさらに

納得したのは音楽は総合であることだ。その曲は

アメリカのある曲にメロディの初めのほうがそっくりだった。

ところが、アメリカの曲は元気で力強さがあるのに

坂本のほうは昔のことを彷彿させる、日本の哀愁に

満ちていて、同じメロディとは思えないのだった。 

テイストがまったく違う。

だから、音楽はメロディではないのだ。同じメロディでも

違う音楽を紡ぎ出しているのならば、それは喜びが

悲しみではないように、別の音楽なのだ。

例えば、同じクラシックの音符を同じ指揮者が指揮棒を

振っても、時や場所が変わったり、隔たったりすると、

演奏時間が10分も短くなったり、長くなったりする。

演奏も変わるのだ。楽譜は目安に過ぎない。

その一部がそっくりだからといって、いや、やめよう。

言いたいことはもう言ってある。



モーツアルトは亡くなり、230年経ち、彼が真似の

天才だというのなら、もう次のモーツアルトが何人

も出ていてもいい。まだ彼のような超天才はひとり

も現れていない。 


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