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つまらないが、シンクロすること [シンクロ]

どうでもいいことを、ちょっと書いてみる。 

どうでもいいことだから、つまらないのだが、それは 

心から除外できる。シンクロは大なり小なりがあって、

大なりは書かないし、気になる。 

結果、今の処、40年も経つが、どうでもいいままなのが、

三島由紀夫とのシンクロだ。中学の時、江戸川乱歩の

少年探偵団の小説を読み漁っていた。僕の少年時代と

乱歩の少年探偵団、怪人二十面相の書かれた時代は

重なっている。全国で中学生を中心に、簡易少年探偵が

生まれて、少年探偵団の小グループが生まれただろう。

流行だった。5,6人から10人くらいが街の中を事件を

求めて彷徨する、というのが流行ったのだ。 

映画にもなった。親父が映画を観ながら、すぐに犯人を

当てるので、不思議でしようがなかった、そんな初心な

頃だった。

話が長い、で、その小説の裏表紙に近い最後のほうに

宣伝が載っているのだが、初めは乱歩の小説だと思った。

もしかしたら、真似で書いたかもしれない。若い修行中の

坊主か?その男が金閣寺に美を見出して、惚れて、

最後には寺を燃やしてしまう、というストーリーがあらすじ

で書かれていたように思う。三島由紀夫の「金閣寺」の

宣伝だったのだろう。僕はこれに衝撃を受けて、この

テーマを、最愛の物を死(焼失)をもって昇華してしまう、

という印象をずーっと持ち続けた、乱歩の小説だと

思って。

高校になって、剣道部に入り、小説を構想していた。

それは剣道大会で高校生が優勝して、美術品として

真剣の刀を贈られる、というもので、テーマはその

高校生がその刀で自刃する、というものだった。

小説は書かれなかったが、年齢的に観念的に自殺

を考えていたらしい。そうこうして3年後(だろう)、

三島が市ヶ谷で自刃した。ショックだったろう、三島

が自分の代わりに死んだという考えになった。気が

つくと、外へ出て地下鉄の駅のほうへ歩いていた。

どこへ行けばいいのかわからなかったので、戻って

きたというエピソードがある。 

三島はカンボジアに旅行して、アンコール・トムで

癩王のテラスの遺跡(壁)を見たらしい。後に最後

の戯曲となる「癩王のテラス」を書いている。東南

アジアに旅行する時にそれは知っていたので、

アンコール・ワット(トムと隣)を訪れた時には

見学しようと思っていたが、実際には現地で

すっかりそれを忘れていて、見損なってしまった。

見ようとして、その門を入るまでは覚えていた

のに、である。

アンコール2 072 (2).JPG


アンコール・ワットもトムもヒンズー教寺院として

建てられたが、長い歴史のうちに改宗と改修で、

ヒンズーの神々と仏教の像とが混合したものに

なった。

アンコール.jpg



三島はインド政府に招待されて、インドを訪れる。

そして、「インドには行ける人間と、いけない人間が

ある」というような言葉を言ったことが書かれている。

本人がどういうつもりで言ったかはわからないが、

僕はそれで断然、自分が行くとしたらインドだろう、

と思うきっかけの一つになった。ビートルズがインド

へ行ったことも、その一つ。スマホを生んだスティーブ・

ジョブスがヒッピーをしていた頃、インドに行ったことも

後で知った。僕の結婚の仲人は当時駒澤大学の教授

だった奈良先生にお願いした。仏教学者、曹洞宗の

僧侶である。

結婚直前にインドへ行き、招待された家で坐った

ソファの位置が三島が最初に坐った処、と言われた

話は何度かした。

三島の本はそれで買っているほうだ。全集を買う、

とは大学のクラスの連中に聞かれて、そう答えたが、

買っていない。それほど好きではなかったからだ。

自刃にも、文学にも批判的な立場だった、確証は

まだしていない。 

それで三島とのシンクロもなくなり、それだけだった

のだろう、と思っていた。数十年も経ってから、いろ

いろとシンクロしたのがわかった。従姉が作家で

57歳で亡くなったが、彼女と連絡するようになって

知ったのが、その誕生日がうちのと月日で同じだった

ことで、夏目漱石の親友だった正岡子規も同月日

だった。同じ十四日で、三島も十四日生まれだった。 

それどころか、僕と三島と従姉とは夫婦関係で、子規

は親友との関係でそれぞれがすべて二月生まれと14日

生まれのカップルだった。三島の奥さんは2月生まれ

だったのには驚いた。

で、よく考えると、こういう偶然はよくある、と気づいた。

これよりももっと単純な偶然で、僕らは早とちりをする。

そこにはなにもない、数字があるだけだ、という観点

から調べると、身近に出てくるものがたくさんある。

三島が亡くなったのは、11月25日だが、僕の両親は

母が一日違いで26日、父が二日違い23日、同じ11月

下旬に数年おいて亡くなっている。 

数年前に気づいたのは、持病をネットで調べて見つけ、

東京に通った医院があった。馬込にあったが、なぜか

その医院へは迷うことが多く、初めはたいてい隣の

ブロック(町の)を探していた。3ヵ月に1回薬で通うように

なって6年目に三島の年表を見ていて、気づいたのは、

彼の自宅が馬込だったことだ。行ってみたら、あった。

その医院から300mしか離れていない、「三島」の表札

が出ていた。 

IMGP0152 (2).JPG


これが今の処、最後のシンクロ。

僕は軍人は好きではない。嫌いというほどでもないが、

自衛隊で毎年自殺者が一定数出る、ということに

関わってその軍隊体質を疑う。その小説もやはり

生命感のうすさが気に食わないらしい。そういうこと

で、三島がどうしてシンクロしやすいのかは、わから

ないが、今でも、どちらかと言って、どうでもいい。  


数字というのは語呂合わせのように、ダジャレと同じで

簡単に作れる便利な記号だ。四つ合うと、または四度

重なると、偶然ではないと、確率論から言われている

けれども、そんなことはない。

マカオのギャンブル場で観たが、奇数か偶数かで賭ける

場があるが、そこで奇数が9回続いたのを目撃した。

確率こそ迷信で、あてにならない。30分もそこにいれば、

いくらでも見られる現象なのだ。

僕は三島由紀夫が夢に百回出てきても、気にしない

つもりだ。(そう言えば、一度も出てきたことがない)

百と一回、出てきたら? ・・ そうだな、・・・・・

そういうことは、聞かないこと。(笑) 


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ロア (精霊) [シンクロ]

君は 冷めた詩人の 眼を 

している  

情熱は  曲がりくねって  君の  

思うように ならない  

森を  散歩している時が  

自分が  様になっていると  

思っているよね  

眼が  さわやかだ  

静かな自分を  自分で  想像できる  

ライフ タイム  飾らないように  

歩いて  呼吸を  稼いでいる  

人生を、と 口ずさむのが  

好きなのだ  

人生を 言葉の上で  ころがすのが 

楽しい?  

眼を 閉じて  なにを  

想うの?  

モーニング  ライツ?  

気持ち  いい?  



なにも  進まないみたい  

手が  止まったまま  

気持ち  いい?  

Air を  なでるよう? 

戦争の  声も  砲撃の 音響も  

山を 越えては  

届いて こない  

枯れ木の 林を  白い 妖精に  

見せて  

君は  少女に  なろうとする  

君は  すべて 準備が  

いい?  

続けて  続けて  

Go O~~n  

文字の上に  指を重ねて  

alone を なぞる?    *

ほのかに  感じる、 

ものが   

ルゥ  フゥ、  

ある。  

目覚めるの?  

自分に? 

裸足に 刺さりそうな  

小石を 

受け入れるの?  



そういう風に  

もう 生活が自由に  なると  

逆らえなくなる ことって、 ある  

なんでもできるのに  

過去を  歩きたくなる  

心に 風が 吹くように  

郷愁に  

逆らえない。  

森に 消える君には  

なにが  見えている?  

眼を  閉じているの?  

その奥で  なにを  

見ているのだろう?  

光が 足元から  

指してきて 

あたたかさに  喜ぶ、 

生きている、  と  

感じる  ね。  

あこがれを  仕事に 取り入れて  

みただけ、と  

思っていたけれど  

ちがうよね、  

この 感じ。 

逆らえない ・・・。 



あの人が  こう言った  

言葉たち、  音たち、 ・・・

聞いてみたい  今は  

古くなった  窓ガラスが  少し 

割れた、  民俗の  風景、  

あの人が  いて、  

この人と  肩を  くんでいた  

語り合うのは、  

なに ?  

なに ?  

まだ  たどり着けるのだろうか?  

あの 家に  

あの  静かな  穏やかだった  

合奏のような 

あの  家に  

あの人たち に  



そよ風とか、  そぞろな とか、  

そんな感じで  

風が  頬を  なでてくれると、 

いいね  

木の実が  もう  潰れている  

誰かが  この道を ・・・  

白っぽく 日焼けした  

木の実の 皮を、   

乾いた音に  聴いたよ  

カリッ  とした  

弾けた 音が   空に  

昇って  ゆく よ  


・・・・・・・・・



それは 

精霊の  音に  

聴こえた。 

君は  ロア  

いつか 

また、  

還って来て  

ほしい  




めぐり  めぐり合う  

僕らの  さだめ  

Sound、   響き  

Na ~ aaa ~ i 

Sa ~ aaa ~ i 

just  

Close your eyes  ? 

Na ~ aaa ~ i 

Sa ~ aaa ~ i 

眼を 閉じるの ? 

Na ~ aaa ~ i 

Sa ~ aaa ~ i 

・・・・・・・・・・・








ここまで12.25。 中断すると、急に胃が

痛み出した。これが原因か。

**
書いていて、 日本のことに

心が及ぶと、故郷は違っても

同じように希求するものは、変わらないと、

気がつく。すると、急に肌が寒気だつ。 

なにをしているのかが、わかる。  

わかるのは、そういう時だ。  12.26。
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空腹を振り切れない [シンクロ]

ここに坐るのはなにかを始めることではなかった。 

そう思うのだが、それは自分の意志を持って始める、

という意識がなかったせいでもある。だから、いつも

思うのは何かが起きる、という僕の未知数への期待

だった。

今、眠れなくて、心はそれを期待したのだが、ただ

ポカンとしてしまって、自動書記ではないが、そんな

ものが始まる、という気配が感じられない。

なにかをもって始まるのではないが、なにをもって

始められるのか、そういうことがまったく自分には

わかっていないことが露見した。それは瞑想のため

に坐っても心が騒ぐばかりで、空白になれない、

瞑想を迎える準備が取れない、とそういったこと

だろう。

深夜だが、部屋の蛍光灯は点かない。(明日)昼間、やはり

LED照明を買いに行かなければならないのか、と考え

ている。

珍しく、書けない、という空白が続く。

書けない。

なにも入ってこない。

ふつうに日常的な充実感があり、軽い満足感がある。

気分が悪いほうが書けるのではないか、とまで考える。

と言っても、悪くはなりたくないが。

現実にここにいるという感覚が、不思議に今まで感じて

来た、「ここにいない」ということだとわかる。

ここで言いたくなかったことが急にわかる、それは

僕がいよいよそれに対して死ぬのではないか、潜在意識

の何かは知らないが、それと没交渉になるのではないか、

ということだろう。

いよいよ、・・・・・・・・・・いよいよだ。

不思議なシンクロがなくなってしまうとは思えない、と

感じているのがかえって不思議だが、僕がそれに自由に

入れるということは無くなってしまうのかもしれない。

まだ、蛍光灯は点かない。代わりにLEDスタンドを持って

来ている。今、試しに4回目の点灯を試みたら、点いた。

ここまで30分間、点かなかったことになる。

気まぐれだ。自分が気まぐれだから、迷惑だと考える

ことはなかったが、なるほど迷惑だ。 (電気の故障、

いずれ、コンデンサーかなんかのヘタレが来ている

のだろう、お化けではない。)

ここでわかったのは、今までのなんでもいつでも書ける

という自在感が、実は潜在的に隠されている、創造の

入口があるということだ。これは潜在意識との交流が

始まってから、相当早くに気がついたが、考えて書く

のではなく、(先行きを)考えずにしゃべることだ。

(詳しく書くと、ややこしい。過去を整理しながら書く

という手間ではなく、思いつくままどこへ行くのか考えず

にそのまま書いて進める、との意味)

そして、そのようにする上で次から次へと自分がいつ

考えていたのかわからない想念を無尽蔵に引っ張って

来れる、ということだった。僕に与えられた才能はそれ

だけのもので、大したものではなかったが、僕には

楽しんで書けるという、有難いものだった。

今もしゃべればいいから、文を考えて推敲という苦しみ

がない。勝手にしゃべって行けばいい。

これはどうやら身に着いたようなのだ。なにしろ、’15年

頃からだから5年間はそれでやってきたわけだ。

腹減った。

忘れていたが、現在自粛ストレス対策で、一日一食を

実行している。一食と言っても、分量が一食程度しか

摂っていないだけで、2回は少ない量の食事をしている。

なので、思い出すと、腹をすかしている。昨日が3日目

で、最初のバウンドが来る日だ。少し、食堂街でふらつい

て歩き、空腹で目が回る、という言葉が嘘ではないのを

久々に思い出した。断食の経験があるので、これしきは

想定内。ただお金はある、いくらでも好きなものをここで

食べられるのに、腹をすかせたまま、紅茶を頼んでいる

自分は、皮肉だな、と思っただけだ。その1日前は頭が

急にクリアになった感覚があって、中国のことを書いた。

あれは空腹のなせる業だと言ってしまえるか、わから

ないが、・・・腹減った。 

スープでも飲んで、ごまかして来よう。

・・・・・・・・・・・・・・・15-20分くらい経ったか。続けよう。



空腹についての格言じみたものはまだまだありそうだが、

端折ろう。 

不思議な「シンクロ」と書いたが、これは意識の交流が

始まってからの見るもの聞くものに、心理的な同期という

現象をよく経験するようになったことを言う。

さまざまに関連する事象が日常的に発生して、これを

まだ経験していない頃の感じで、不思議、と言ったまで

で、日常的に起こればそれを不思議とは感じなくなる。

その頃の僕は一般と同じで、それは不思議なことだった。

それが起立した意味がわかるのではないが、日常茶飯

になると、別な考えになる。今まではそれを感覚する

心の受け皿がなかっただけなのだ、と。見ていても、

気にしたことがなかったので、見過ごしてしまう、または、 

それが関連する、またはそれから重要な連想が生まれる、

といったことが起こらなかったのだ。

世間やブログでもセラピー関連で多いが、「引き寄せの

法則」ということが言われる。街の書店でも、時折、見か

けるが、あれがなにかを集中的に引き寄せる力だと

いうニュアンスで捉えているが、僕には周囲に元々

あったんだと思う。それに気がつかない生活意識だった

から、気づかないだけで、心が解放されれば、周囲は

引き寄せだらけになる、というのが感想だ。

個人の感想に過ぎないと思うかもしれないが、僕らが

ほんとうに無限ともいえる可能性を秘めているのだと

したら、それが急に身に着くというものではないはずだ。

すべてはここにある。見ても気がつかない人は知らない。

子供は恋愛映画を観ても(僕のことだが)、「バカだなぁ、

お互いに好きだってわかっているのに、言えなくて

黙っている、わかっているなら好きだって言えばいいじゃ

ないか」、のごとく、無経験なのでその感情の大きさが

わからない。

見てわかっても、感じなければ、その考えは通用しない

のだ。大人になっても日常はこまごましたことが一杯

なので、すぐに判断にもって行こうとして考えてばかり

いる。それはここぞという時の判断をする時には、無駄な

ことになっているのだ。



あの人の言った言葉、この人の発言、誰それのと、

思い出してつなげればその言わんとした意味に当たる

ことがある。その事実を思い当たるままにつなげるのを

くり返していくうちに、今まで気がつかなかった糸口の

ようなものを自然に見つけられるようになる。それは

そこに着目する、という感覚の新しいビームを発射する

用意ができたということで、そこから世界が広がり

はじめる。十分に広がると、引き寄せどころではなく

なってくる。

それでも自粛をして、10か月も生活を制限していると、

自分で自分の首を絞め始めるらしく、勝手に振舞い

たくなるようだ。腹減って、ふらふらするという状態に

なって、ようやっと自分の勝手な感情に振り回され

そうになっている自分の状態に気づく。もう切れ

かかっていたのに気づけないとは。人生に熟練する

なんてとんでもない思い上がりに違いない。

あと3日で腹減ったは、やめよう(笑)。

シンクロは世の中とのシンクロも範囲内だから、その

真相らしきものからどんどん現れて僕を小声で呼ぶ。

その直感は日常と少し異なっていて、信じてしまうには

希薄だが、これはヤバイと感じる点で濃い。難しくは

ない、そのままだから。それにきちんとした論理的理由

が加わって、確実だというフィット感が出れば、今までの

ところ全部当たる。ブログでわざとズラシて書いたことは

あるが、自分なりには理由あってのことだ。


夜が明けてしまう、今回は、もう端折ろう。



          12.5-6
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