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奇跡としたいものは、ある [奇跡]

昼も過ぎて、陽が射してきた。 

窓の外が森だったらなぁ、と嘆く。 

自然の風景には癒される、と人は言うけれど、 

僕はどうだろう。癒されるというと、自分が病人

みたいで嫌なのだけれど、森林には感じるものが

どういうものか、書ければ、という意欲を感じる。 

緑には人を落ち着かせる要素がある、と思う

だけか。 

癒されたいとは思わないので、それは考えないが、

音楽には慰められる、といった効果はよく感じた。

今も感じる。それで自分が癒しを求めた、というのを

知るのだが、知ると速い。すぐに癒しは断ち切って、 

その原因解明に向かってしまうからだ。

だから、癒しを求めて、というどろ~んとした時間は

僕にはない。

休憩のゆったりした時間は好きだ。そういう時は

多く、何もしないでいる。はちきれそうにある娯楽や

慰めなのか、そんな作品があるが、まったくそれを

求めるどころか、小さな嫌悪感さえ感じる。 

PCに向かうことさえ、鬱とうしい。 

なにもしないのは、とても気持ちいい。そう感じる人

は少ないのだろうか。たぶん、自意識を解放させる

ことを知らないのだろう。時間も自分も、自意識を

立ち上げることで、起きて、始まるから。

我を忘れる、ということがあるのだから、それを

利用して(自意識を捨てるように)自ら我を忘れて

もいいのだが・・・・。 

誰も自転車に初めから乗れない。ある程度手伝って

もらい、幾度か転びそうになって、でも、やがて手は

離されて、助けなしでいつの間にか”乗るコツ”を

掴んでいる。

見ると簡単そうな自転車、やると、そうじゃないと

わかる。練習してコツをつかむと、簡単どころか、

何十年経っても自転車にいきなり乗れる。この

コツってなにものなのだろう? 体が覚えたものの

不思議さ。

僕の、僕らの、何もしないのが気持ちいい時間の

秘密は、そのコツにある。自意識をどうにかしないと、

孤独とか、不安という自分を呼び起こす。僕はそれが

真には存在しないことを知っている。そういう時間から、

暗闇という状況から、ひとりという極限の状態から

それを知ったから。生きることは人やモノと関係する

ことで、それに逆らうような生活は誰からもどこからも

推奨されることはない。だから、誰もしてこないのが

通常だ。 

ただ、人が変わりたい、自分は変わりたい、と真剣に

望むような状況になった時には、僕らは今までの

生活とは反対の方向の生活をしてみることで、反省点

がより早く、より楽に見つけやすいようだ。友達に言われ

たからとかで、気持ちも向かないのに「やってみる」のは

やめたほうがいい。

また、僕の経験を話さないと、となる。しかたない、僕は

経験主義だから。 

どんな時でも、怖がっていても、それに向かう気持ちが

あればOK,だ。それに気持ちを無理やりでも向ける自分が

いれば、同じようにOK,だ。 

僕らは不思議にそれに立ち向かってさえいれば、まず

自分が望むほうにそれを摑むべく、一歩を踏み出している。

それは僕らには予測できない。予期さえできない。そう

いう中で運と言われるわからないものが動き始める。それ

が自分の枠ばかりか、内奥に照らされるものに呼応する 

のは、そのことが過ぎてみると、気づき、実に不思議な

思いがする。だから、僕らは導かれたような気がして

しまう。そのことは深く気にすべきものではない。 

肝腎なのは、生きるべく生きようとする者は、その流れを

引き起こしている、ということ。経済学で需要と供給は

見えざる手として説明されるが、それは神などは出て

こない。人の想念の流れなのだ。

社会の様々な想念の流れから離れることの中にも

別な流れが存在する。あまりに体も感覚も悦楽や

官能のステーキやスィーツに映像や激しい踊りや

高揚の歌声に浸し過ぎている。僕らはそこでそれらを

過剰に浴びたいと思う。それらは一時的に正しいだろう。 

でも、グルメをくり返すと、僕らの体はグルメがなにかさえ

わからなく、感じなくなる。強い刺激に向かう。  

そこから超えないようにすることだ。そこからは病気の

領域で、いずれ依存症とか、重い病を経験しなくては

ならないから。チョコレートだけ食べて、生きるのは

難しい。遭難して、チョコだけで10日間も生きられた、と。

そういう場合は例外で、遭難はふつう、生活ではない。

そこで「遭難生活」というのを思いついて、実験して

みるのは面白いだろう。そういう話は聞いてみたい。  

基本的に僕らは何をやっても自由だ。しかし、不調を

感じたら、一度健全な状態に戻るべく、方向を変える

のがいい。だんだん、そういうバックすることと冒険が

できて、その切り替えをコントロールすることで、自分の

限界を越え続けることができるだろう。  

自分の限界は、自分がここが限界だと思う、そのことに

ある。真の限界がない以上、それは秤や物差しに類する

ことだから、僕らが決めているにすぎない。 

今はダメであっても、またトライする、時機を数える、待機

する。そういう時間もある。

空を眺めて、ヘリコプターが飛んでいる。ヘリはスカスカ

だから寒いだろうに、気の毒に、と思う時間。北アルプスの

巨大な一枚壁に向かって、ロックしている時、体は熱く、風

は暖かいだろう、という時間。

自分はどこまで行くんだろう、その果てしなさを感じる、そう

いう時間で自分が感動してしまうおかしな、センチメンタルと

イモーショナルという、感傷と情熱のないまぜになる時間。 

僕らが無制限に無秩序になるとか、無制限に自由を許す、

とかを考えるのは、弱った知性のすることだ。そんな無秩序

とか自由とかがあり得ないということを経験しない、引っ込み

思案の思うことだろう。  

そんなバカげたことと軽蔑しているが、それをしてみるといい。

自分がどこまでできるか(今、)その時の、その時点の限界

というようなものを感じてしまう。そうしたら、そこがまた

新しい出発点になるだけだ。

今できないことは先になってもできないと感じるのは、正しい

が、僕らは成長しないでいられる生物ではない。できない

その因を見つければ、それを克服する準備ができる。そして

また始まるだけだ。それらは僕らのひとりひとりの物語だ。 

それがどれほど懐が深い物語になるのは、その道を知った

から知ることだ。

だからそこで、僕らは新しい人間になる。

誰もがそこに想像もしなかった未知の扉をそれぞれ開いて

ゆく。それを発見するのは、どうして君でなければなら

なかったのか、それは君が数十年もしてから、好きなだけ

自分の時間でノスタルジーに浸ってもらいたい。


森に入りたいね。昔のヨーロッパの森は深くて、迷子になり

やすく、迷ったらすぐには出て来られなかった。燃えにくい

性質だったのだろう、切り倒しているうちに、それ以上に

森が広がる、という成長のスピードだったらしい。 なので

森にまつわる童話は多い。赤ずきんちゃんも青い鳥の

チルチルとミチルもそうだ。

アーサー王伝説か、森で敵を追いかけているうちに、

森の中でその敵を追い越してしまったらしい。それほど

に森は深い。

そうして僕は、僕の心の森に入る。深い森に入るのなら、

自然の森はどこかに存在していればいい。一応、僕が 

迷うには、そんな森には不自由しないようだ。

たぶん、愛の一部はこれまでに亡くなった人が想い切れ

ない想いの先端でつくってしまった空間がある、と思う。

どうにもならない想いが突きつめて生じさせてしまった

ある種のビッグバンのようなものだろう。こんな想像を

してもしかたがないのだが、僕の失恋からの想いが

そこにたどり着いたとしても、あまりに納得してしまう。 

それにはいろいろ段階があって、2年間落ち込んで

その人が現在(当時)生きていることだけでよし、としよう。 

その妥協は妥協でしかなく、10年くらい、気づかない

未練が続いた。その想いを断ち切る機会があり、そこで  

断ち切れたと思った。それから25年が経って、ある晩

それが急に甦った。それにはその人への想いはなく、

ただ、「想い」だけがあった。僕は新しくそれについて

考えざるを得なかった。数年後にはその人の若き再来

とも言える学校の先生にスキーの帰りに出会った。驚き、

感激したが、その人にそっくりでも、未練がないのを

はっきり確認できた。

そして奇跡的な再会を喜んだ。

では、僕の消えないこの”想い”は?不思議だけが残った。

昔の想い人には、昔の生き写しで逢えた。まさかと

しながらも・・・。

でも、強烈なこの想いは、以前残っっている。どうしてか?

その人が原因でないものは、いったい何が僕にその

想いを継続させているのか?そんなに軽くはない、

情熱と言っていい、その、この想いはなになのか? 



愛というものの無裁量さ・だらしなさ・弱すぎるガード

というものに着くまでには、そう時間はかからなかった

のだろう。僕はその兆しを感じただけで、腐敗を避ける

ように僕をむなしさから確かに支えたものを捨てる

(離れる)心を決めた。この経過も書いたので

(エピソードだけだが)、その先から話す。  

その時はその素晴らしさにダウンしていて、そこから

ふと思いついただけだ。僕のガンコさは負けを認め

ない。ただ、勝てないとわかっていた。だからか、

愛を武器にするつもりもなかった。

だらしなさとか弱すぎるガードという批判の言葉も

ずいぶん経ってから言えるようになった。愛を批判

するなど、想像もできないことだ、その当時。 

僕はそのこととマラソン・ハイなどの体が死に準じて

脳内麻薬を自然に調合してその苦しみを和らげよう

とする、そのハイと愛の洪水とを区別できない。ハイ

どころの騒ぎではない、という違いははっきりしている、

そのくらいだ。ハイになってももう勘弁してくれ、と

はならない。夜に坐っていて、それが来た時にはもう

泣きださんばかりのしあわせの洪水に襲われる。それ

は自分で造れるような感興ではない。その一波でも、

自分はひとりではない、と。例え太平洋の真ん中を漂流

していてもそれは揺るがないだろう。その灯は僕の

胸で消えないだろう。

自分の(体の)演出?その可能性もあるのは確かだ。

しかし、その内実を想うと、それなしでは意見は無意味だ。

そういう錯覚が2年も続いたのだとしたら、僕も相当な

老ジャンキーか、ばか者だろう。

それは体験して、その人ひとりが決めるものだろう。 



愛については基本として、語るべきではない。この世

ではそれは行為の問題で、考えをあれこれゴミのように

広げたり、捨てたりして散らかすことではないからだ。 

愛の人なら、そのゴミを黙って拾っているだろう。その

行為からその想いが見え隠れする。

その行為がすべてになる人はいない。それには助け

が必要になる。その人が納得して信じているものが、

「それ」だが、それは言う必要がない。それを説明できる

とは思わない。いずれ、その説明への陳腐で愚かな

反論の前でやはり、説明しなければよかった、と落胆

する、そういう事態を招くだけなのだ。よくて、それは

疑問だな、と軽くかわされる。例えば、今度インドに

一緒に死の家(故マザーテレサが作った)を見て来よう、

という人にはほぼ逢うことはない。

できる時にできることをする、というのは多くの課題を

含んでいて、何かしたいがなにをしていいのかわから

ないなら、何もする必要はないのだ。爪でも切って、

自分の爪でケガをしないようにしたほうがいい。 

生きようとすれば生きようとするほど、選択肢が増える。

乗数効果のように人生の拡大化が始まる。そして、

今できるだけ、しかなくなる。もう追いつけない。

だから、今できるだけ。いつまで経っても変わらない、

と気づく。それは君が可能性が拡大され続ける世界に

その身を置いている、というまさにそのことだ。 

それを感じる、なんて僕らは知ることの少なく、少ない

知であっぷあっぷしているのだろう。なんて感じる

ことの少なく、目の前の世界のそのままを見ることが

ないのだろう。手を伸ばせば思いやる人たちが待って

いるのに、なんて臆病なのだろう。でも、気おくれがして

なかなかうまくいかない。

こうしていると、 僕が世界に広がる。浸透するように

果てなく広がる。もうそれは僕ではない。僕を支え続けた

仮の僕であり、亡くなった人たち、この人生を僕の夢に

沿うように創り上げた、そういう人たち。この世から

考えられるすべての世界は人間が創ったものだ。他には

なにもいない。人間を理解し、愛するものは人間しか

いない。



今できること。それはなにか。  

僕らは どう生きようとするのか。

どこまで譲れるのか? 今は、どんな妥協で?

皆が 変わりたいように 

第1段階で  50年?  30年?

世界が変わるように   無理のないように 

世界が  変わる (変えるのではなく!)



それがすべてなんだが、 ・・・・・。 

僕らに 知性の限界(全体)を見て、 それを

疑う時代が  来るだろうか。  

そうなれば、 その時に起こること。

― それを  奇跡としたい。
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