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自分と鏡(知)の裏側の徹夜の散策 [孤独]

知のことを考え始めると、そこ

には必ず自分という、個という、

孤立という、なにかひとつのもの

があるという想定をしようという、

ある衝動がその背後にあるのを

感じてしまう。

この衝動によって屹立するのが

知であるなら、これは自分と同義・

同じようなものという気がする。

なにかであろうとするこの衝動は

X X X X X ・・


そんなものを書いてもしかたない。

それは意味や意義を求める僕らの

知の衝動の根源を見るだけに終わ

ってしまう。それも見るとなれば、

あまり現実的ではないテーマだ。

考えないようにして書いてみようか。

その方が非現実的だと思われるが、

なにかが浮かぶかもしれない。

なにかがあぶり出されるように浮き

出るかもしれない。

ものは三次元である、という言葉が

浮かぶが、これも知識に拠っている。

物質の三次元世界のような観念を

いうのだろう。こういうものや事への

既成概念で頭が埋まっていることを

伝えるものだ。

言葉はそれ自体で関連性というもの 

だろう。つながる単語がすべてつながる

ように僕らは考え、そうしなければ

デタラメになる、と。そう思ってい

るが実はそれほどデタラメにはなら

ない。

デタラメな文を作るのは困難なことで、

単語をつなげるたびにデタラメか確認

しないと、すぐに単語ふたつでも意味

が通じてしまう。それほど僕らは物事に

対して既成値に関連してしまう言葉群

を持っている。

そのために散文詩を書くのはそう難しく

ないが、言葉の意味から離れた詩を

書く時は奇異な言葉への感覚に頼ら

ざるを得ない。意味はないが、感覚的

に面白いのだが、それも少数派の意見

かもしれない。

よくわかるのは、人は人だということ

だ。

それだけではなんのことかわからない。

人がものを理解すると表明するたびに

「ああ僕のと違う」、と思う。それで

その違いがわかることで、その人との

違いがわかることになる。部分に過ぎ

ないが、違いはその時は鮮明に感じる。


だんだんぼやけてくる。僕らの脳は

相手や物事を認識すると、それ以上に

追及しない場合、その確認で安心する。

安心すると、それへの反発や抵抗が

頭で整理されたのでその衝動が収まり、

初めからわかっていたという感覚に

化けるのだ。初めの違いの感覚は

劣化して、そうして忘れ去られる。

よほど強い時にその印象ばかりが残り、

経過はやはり忘れられる。

これは人間の認知機能の自然な経過に

思えるのだ。細胞の活性化するエネル

ギーにも関連しているのだろう。

細胞分裂が盛んな時期には記憶力は

それほど鍛えなくても、強い人は

驚くほど強い。知識が増えて、いい

加減になるのは、知識の必要量が

爆発的に増えるので、やがてそうなる

のは避けられない。

立て板に水のように、切れるほど口が

回っていた落語家も年齢で、回らなく

なる。


こうして考えないで書くと言っても、

相変わらず必要最小限に「考えて」

書いている。

これは僕の場合と言えるのか言えない

のかはっきりしないが、僕はしゃべる

ように書くから、以前のように書こう

と思う事に囚われて、うまく書こうと

しなくて済むので、書くことは楽なの

だが、以前は考え考えで苦しかった。

どう言おうか言葉の構成を考えるのは、

おしゃべりではないからだ。

なにか確実や確かなこと、期待に応え

られるようなことを書こうとすると、

その意識が書きながら、その文章に

チェックを入れようとする。これでは

後戻りばかりで思うようには書けない。

思うという、あるいは考えるという

のを言葉の組み立てではなしに、行為・

行動に切り替えて考える(チェック)の

は後回しにして、ともかくノーコンで

いいから書いてしまうことが秘訣だ。

おしゃべりに言い直す暇などないの

だから、ともかく最後まで言い切って

しまう。最後まで書き切ってしまう。


もうこれまで書いてきたことがあと

から後から出てくるようだ。まるで

放課後に残って廊下掃除をしている

ようだ。それは自分の頭の記憶回路

のような場所のことだが。

音楽を、メンデルスゾーンを聴いて

いるが、相変わらず曲名に興味がない

ので聴き流しているが、以前のよう

に曲に誘われて気持ちが動くことは

今日はないようだ。

動くと、今頃は詩文に変わって、その

興に入っている。

夢はどこへ行ったのだろう?

特に切り離して思っているのでは

ないが、夢で言葉をつなぐ作業は楽し

くて、適当な緊張感のうちになにかが

言葉のうちを流れてゆくようだった。

そこになにがあっただろうか? 


君は いたのだろうか 

その 君 という言葉でなにを

表そうというのか、 確かなことは

何も知らないで書いてきた。それは

少しは、引っかかり、疑問があっ

たが、それにこだわらなかった。

リズムに乗るように 言葉が走る

ほうが 先で 速かった。気にして

いたらお喋りは止まってしまう。

お喋りは会話だから、思考は入るが

むしろ気持ちの部門なのだろう。

気持ちを中心にして、知が言葉を

介在させる。気持ちが先導するから、

女たちの井戸端会議は有名だが、

男の井戸端会議は聴いたことがない。

しかし、実際はある。会社帰りの

飲み会では上司の悪口が通例だ。


そういう飲み会もコロナでどうなの

だろう、それともコロナ前から廃れ

ていたのだろうか。


この平板な感覚。自在感のなさ。

それほどに自己世界の問題は解決

してしまったのだろうか。これが

ただ世の中はなるようになるという、

一面の真理を代表していることを

表している、それだけのことで

なければいいのだが。

しゃべっていることは、行動を

促していることではないが、行動

の動機にならないことでもない。

そこにまた、この文章の意味を

読みとろうとしてもらっても、

半分とか、5mmとかズレてし

まうのだが。



このように意味のないことを読む

のは僕らは慣れていない。慣れても

しかたないという考えがすぐに想起

されるだろう。そういうシステムは

確実に存在するのだろう、頭の中に。

損した、金返せ、時間返せ。

また読者が減って、このブログが

終わる。


離島にまだいた時に、夜の堤防に

子猫を連れて行った。ケージから

出てくると、少し歩いただけで、

ここがどんなところかわかったら

しい。周りは海ばかりだと。

そこで猫はケージに自分から入った。

もう帰ろう、というのだろう。

まるで、自分の子供のようだった。

理由は書かないが、息子を抱いて

夜の街を徘徊したことがあった。

説教のつもりだったが、なにも

言うことはなかった。やがて息子

が「もう帰ろう」と、こちらの心

を見透かしたように言った。

子猫も同じだった。

人も猫も、孤独になるとどこかへ

帰ろうとする生き物なのだろう。




帰ろう、  家へ

還ろう、  人間へ

そう安心しておいて、思う、

一体

どこへ?

どこに?



そんなものが  

どこに?



::


あと2時間25分で

日の出が見られる。

天地の 雷同はないだろう

寝ている!
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孤独を思い出しかけた時の心象 [孤独]

<4月下旬は雨が多かったのだろうか。

個々が転換期の前兆になるとは、思い

もよらなかった。 6. 2 >


孤独を郷愁する心がわからない。

これは自然に生起する感情なのだろうか、

と考えてみる。今少し前に、孤独を思い

出した気がした。そう思った瞬間にまた

失ってしまった。いつかの自分に戻った

気がした短い瞬間だった。

孤独はまず自分を気負うという姿勢が

あるのではないか。そこに自分が投射

されて、切り離されて回復しない自分を

感じる。それが今それを見る自分に

反射されて返ってくる。自分がひとつに

なって、切迫した息苦しさも感じる。

この透徹した閉塞感。自分は閉じ込め

られて、もはや行く場所がない。それが

余情に感じられて、哀切に感じる。

これは確かに、文学になる。僕が

憧れる要素はこれなのだろう、文学に

内包される孤独感。・・ ということなの

かもしれない。

こんにちわ、文学。こんにちわ、孤独感。

その屹立感の、届いているのは人間らしさ、

という場所なのだろうか。

Bachとukuraina.png

ウクライナとバッハ  陽秋:画 


::
孤独は寂しい要素に見られているし、

そういう心の様相を示すけれど、どうも

心の養分を含んでいるという感触から

逃れられない。孤独感により、侵食される

のは、なにか欠陥があるせいで、僕らは

健康な状態なら、侵食されずに、孤独感

とは違う形で心に、なにかを受け入れて

いるのではないか、と思考が繋がれて

ゆく。ふつうにそれを支えるものがあって、

それに照射される心の光線の違いに

よって、或る時はそれが孤独に、また

或る時は、何になるのだろう?それが

わからないが、わかればこのシステム

の存在が公になるのではないか、と

ここまででたどり着いた。

若いと、老い、時間がそれを陶冶する

ように自意識に配置されなければ、

・・・・・・ それは突然、背中が見えて

他に何もないのを悟ってしまう、といった

黒い画面に小さな白い点を見つける。

時間感覚が崩れて、感触が時間では

ないものが現れる。それを世界と仮に

位置づけよう。世界が現れて、それが

真であるように(実際は真でも、偽でも

ないのか、どちらでもいいのか、わから

ないが)、振る舞い、それを認めようと

すると、その固定が固定化されようと

する瞬間に自分自身が壊れる、のを

感じる。その世界ではなんでも自分

独りで何もかもしなくてはならない。

なにもかも、できるわけがない、と

考えさせるために出されたのが、背後

が見えない暗闇からのサーチライトの

ようなものだ。彼は一人だけ照らされて

絶望の淵に立たされたように感じる、

まだ見ていないから、それは暗闇だと

感じさせられて。

その痛み。そのつらさが、自分を知り

たくないという潜在的な思惟だ。自己

防衛だ。その痛みで止めようとする。

そこで止まるために、せつなさが押し

寄せる。これが僕のうちで起こる、また

は過去に起こったことのある”孤独”と

いうやつだ。

ここまで思考のスピードにほぼ合わせて

通過したが、詳しくは何を言っているの

か、検証してみる、あとで。


ぶり1-1.JPG

次のブログは ブリ。 になるかも・・。


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孤独を解題する [孤独]

何が謎で、なにが明快になったことか、という区別が

曖昧になった今、一つの問題を解いてみようとする

ことは、その辺の事情を見通しよくするかもしれない、

と思い、いつものように思いつきだが、始めてみようと、

(言おうとした言葉を飲み込む、思い出さず、そのまま

捨てる)・・。 


それは孤独のことだ。それを孤立という、村八分や

仲間外れに考えてもいい。どうして僕は孤独になれ

ないのか、それどころか、それを望んでため息を

ついたりすることがあるのだろう?それがまず、 

取りあえずの問題だ。 

それを気にしていなかったのは、無意識との関り

から、僕は一般的な意味で一人になっても、その

つながりがあるから、結局は一人になることは

できない、のだと考えた。それはどうにもはっきり

したストーリーではない。無意識に手を加えるとか

は、思いつきもしないし、考えもしないことだ。 

そんなことができるなら、教えてほしいくらいだ。 

ほんのわずかな感触があるだけで、それを何年も

追う。そうやって得られた感触が溜まったのか、

ある程度の厚みを感じるようになってやっと、その

感触の色合いとか、傾向とか、こんな感じ、という

ものを想像できる。蟻の一歩なのだ。 

僕には無意識を理解することで絶望することは

できても、社会化するということなら、できないと

思う、僕には。 

おおよその理解はしてきた。入口まで30年、入口

から進まないまでも、10年もすると、なんとなく

これはあれでない、くらいはわかる。死と愛の大きさ

の比較ができなかったが、死の中に愛があると

わかったのも、偶然だったし、ひょんな感じで直感が

来た。死は死ではないし、その先は僕には行けない

ことも。

それがなにかわかったことになるのだろうか? 

いまだ象を触って、それぞれ勝手な推測をする

6人の盲人の話と、それほど変わりないという、

そんなレベルではないだろうか?  

ここからは半分、間違う覚悟で発言する。わかって

いるのだ、僕らが過去において、どういう誤解をして

きたか、それは十分な対象の感じをつかむ前に、もう

推測で知的判断をすることで、早とちりをして、ズレた

”もの”や”事”を築いてしまうことを。 

だから、発言すべきではない、ということなのだが、

それはもうストップしてしまった。もう調査中、ではない

のだ。再開の見込みもないから、ここで7年分?の考え

だけでも、それが誤っていると知りながらでも、書くのは

致し方ないと思うのだ。どこまでヒントになるかもわから

ないが、今の誤解を指摘するのだけはできる。指摘は

正しいだろうが、指摘して、その本当の中身はという処で、

その内容が危ない、ということだ。 (話半分の例で)



あの世はここにある。僕らは仮想空間を作ってゴーグルを

かけて遊んだりするが、死者のエネルギーはこの仮想空間

を作って、どうやってかそのエリアでエネルギーの供給を

続けている。いくつあるか知らないが、二つ三つではない

だろう。この世に同じ空間に同時に存在するのが、そういう

仮想「あの世」で、それが一般的に死者の世界と信じられて

いる。精神の死によって死のゾーンを発見するかもしれない

が、それは「あの世」ではない。死という言葉がふさわしい、

冷空な世界と呼べる、”あるもの”だ。死者がいれば、何度も

訪れれば、気でわかる。そんな”気”は感じたことがない。

で、この世にあるあの世は、一例として、仏教の修行など

した僧が、亡くなっても衆生を救うという思想のチップ情報

になって、その精神エネルギーでそういう迷いチップの死者

エネルギーを拾い、集めてしまう。

自分はいいことをしているつもりだから、始末に悪い。本人

は死んでもそれを納得させる本人の自意識は消滅して

しまっているので、自覚という生の健全な機能がない。 

死者からこぼれた情報は信号体だから死を自覚できない

のだ。だから、心霊の仲介者とかがそういう意思のない、

同じくり返ししかできない情報ループと話しているつもり

なのは、滑稽な図だ。 

仮想を構築するくらい力のあるエネルギーチップになる

と、自分の情報内でならば、受け答えができるので、

それを聴いていると、騙される。相手は自覚がないし、

そもそも騙すつもりもない。だから、怖がらせたり、

いたずらしたりするチップがいてもおかしくはない。

どいつもこいつも自覚がないんだから。

そのチップはある種の信号でできている。そこは

コンピュータなどと同じで、プロトコル(または周波数

とか)などがないと通信はできない。それで特定の

人間が周波数が合うとか合わないとかの仕組みが

あるのだろう、感じない者は感じないので、無視して、

無関係に。 

補足しておくのはいたずらの例だろう、悪意というチップ

は厄介で、その悪意に従って、僕らは脳の記憶をそれに

沿って想起してしまう。すると、自分が恐れる映像を自分

の記憶からわざわざ抽出して、それを見て怖がったりする。

そういうことが起きる、と考えられる。自分が怖いと

思っている、(自分では忘れているが、)脳にしまった映像に

自ら 驚く、となる。 

幽霊のシステムはほぼこの応用や、その逆反射のパターン

になる。 誰か感受性の強いのが一人見ると、その映像が

周囲にも移り、見させて(反映)、全員(自分は見ていない

のだが)見た気になる、というもの。その傍証もあるが、

確実じゃないので省く。 

(とても長くなることを書き始めたと、今、気づいて、指が

止まった。長いものにすると、いつ再開するか自分で

自分に約束できないから、まずい。 

この先はスェデンボルグの「霊界日記」を扱う時に

まとめて書こうと思う。) 



この地球全体、というもの。さらに大きすぎて、想像する

のがまるでなにもしないのと同じことになると、わかって

しまうもの、それが宇宙。 僕らが生まれて、6万年?

少し前まで、猿人だと頭ではバカにしていた生物だった

のに、宇宙は地球が生まれる頃から30億年を超えて

いるもの。その営みを追って、まだわずかな手がかりと

技術というささやかな文明にして、なにを言えるの

だろう。

僕は内面で無意識を探ろうとしたから、それを過大に

評価する危惧がある、いつも。 口の中の傷は小さく

ても、舌で探ると、大きい傷に思えるのと同じだ。

それでも、宇宙はどうしようもなく巨大だと、僕の未知

の感覚がそう教える。もしかすると、この地球上で

そういう宇宙進化に沿える特化した感覚の生物が

どこかにいて、そんなとんでもないことも感覚できる

進化を遂げているのかもしれない、と僕は日暮れに

窓の外を眺めながら、思う。

犬や猫の超感覚も、それがどれほどなのか人間は

見向きもしない。遠いエジプトの時代に、その王朝

で猫は貯蔵庫の穀物をネズミから守るのに、役立った

らしい。しかし、それは使役の動物であったはずだ。

ところが、猫はバステト神という猫の女神に昇進して

いる。古代エジプト人が猫を神に昇格させたことは

それなりに理由があっただろう、とは想像できる。 

天文に詳しく、外科手術もしていた古代エジプト人

が本当は何を知っていたかの大部分は、まだ

わかっていないのではないか、と思う。そこを

煮詰めるのは、まだ無理なことなのだろう。

でも、ヒントはある。愛と死が並列な存在ではなく、

愛を死(:一般に誤解されている死ではないので、

ややこしいが、そこは前提としないで、無視して)

が包括している。または大きな死のゾーンに愛は

内包されている。誰が言ったのか、小林(秀雄)が

ドストエフスキー論の中で言っていたと思うが、

「愛は恐怖だ」というのは、そういう事情を指して

いるのかも。 (そうは言っても、大まかで、よく

わからないが・・)

孤独はたぶん、自分が大切にするもの、大事な

人や人々や物、自己証明やルーツから切り離され、

またはもう会えないとか、その密着を欲することを

できないことから、そしてそのために自分の心の

肝心な部分を満たせないことから来るのではないか。 

飢えから来る空白感、むなしさという心落ち着かせ

ないもの、そういう恐怖を根底にして、不安を呼び

起こすもの、どうもそんな感じがする。 



近所の子供の声がしている。近くに新しい住宅が

一画に建てられて、子が生まれ、育ったのだろう、

いつの間にか、その子たちが集まって遊ぶように

なった。そういう営み、そういう僕らが子供だった頃、

そういうものが押し寄せてくるのは、気持ちいい。

無条件に、今生きていることを、肯定できる。 

彼らが僕らだったから?  そうも言えるのかも

しれない。そこから来て、ここに至るもの。それが 

ぼくらが生きている、確かな「なにか」であること。 

僕にはそういう気がしてしようがない。

君らを愛している、それを初めてそうしているように

感じて、胸が熱くなる。つまり、それはそうなのだ、

始めた時は、いつでも初めてなのだ。いつでもそれは 

新しく、起こる。この瞬間、今という時間、それだけが

すべて、 ・・・・・・そういう気が、 ・・・・・

::ここからは僕という個性の独特な感じ方・感覚に

 なる、と思う。 同じ道を辿る人はいないかもしれ

 ない。:: 

これが僕という、心のシステムなのだろう。なにを

言っているのか?孤独に思いを致していると、その

死のイメージから隣の愛の中に滑り込んでしまう。 

それは死から愛に心を転換させたり、入れ替えたり

した、ということではない。もともと一緒にあるもの

なのだから、何もしないでいいのだ。自然に死から

愛に流れゆく。何かの反対が何かで、その反対が

・・・・、というものが「ない」のだ。それが

”あるものがある”、ということなのだ。

もっと踏み込もうか?  

サザエさんで話そう。死も愛もなぜか一緒だ。家族

なら兄弟のようなものだ。弟は死のように人に嫌われ

ている。兄は愛で慕われるが、手の届かない存在で

その人気は揺るがない。それでは弟は可哀そうでは

ないか。同じ兄弟なのに。たぶん、長い間つきあって

いて、僕にそういう気持ちが生まれた。そういうこと

なのだろう。死を恐れない、のではなく、死を憐れむ、

それが心に内包されるのだ。 

愛も死も、なつかしくもなる朋柄として。 

それで僕は孤独にならない。ひとりになっても、

孤立できない。ひとりにならない、なれないから。 

それで孤独を懐かしく思いさえする。それは

もとの自分への郷愁といったものだろう、と。

愛も死も、彼らはまだ僕を忘れてはいないようだ。

そんな気さえしてしまう、これ以上は感傷になる

だけだ。 

これからの自分にもどろう、・・・・・ 



窓の下に三角形の土地が、通り向こうにある。

そこは畑だが、季節で作物は見当たらない。

畑を隔てる低い塀が続いていて、向こうが住宅

なのだ。その植え込みに低木に黄色の実が

たくさんついている。キンカンくらいに小さい。

それをカラスがついばんで、もぎり取って、口

に加えながら、畑を歩く。いい処で実を落として

辺りの様子をうかがう。二三度、用心して、安心

したのか、足に実を挟んで、ついに実を食べ

始めた。それは夕方のこと。

なんの実だろう?

ちょっと待って。今、持ってくる。18:34 

18:54 畑は土がふかふかでサンダルが潜って

しまった。黄色の実はさわやかな香りがして

予想外で驚いた。蜜柑だった。

IMGP0007 (2).JPG

縦割りにした。大きさは、

IMGP0006 (2).JPG


小さい。うちのに聞いてみると、やはりキンカンだった。

丸実金柑という種らしい。

カラスはキンカンを食べていた。これだけ甘ければ、

食べるだろう。

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