SSブログ
哲学風 ブログトップ

非前提の前提、またはア・プリオリかも [哲学風]

今、「純粋理性批判」(カント著)の緒言、Ⅰ純粋認識と経験的

認識との区別について、を1頁半ほど読んでみた。僕らの

心の根の発生について考えていて、地球の自転での体験を

書くのが適当と思われたのだが、書き出してみると、前提

を必要としない無意識があるような気がして、そこから書く

のが良いと思われたのだが、「前提のない」ということから、

カントの「ア・プリオリ」を思い出した。(ア・プリオリは、より

先なるもの、先験的というラテン語)

昔、「純粋理性批判」を読んで、理解できるという感触だけで

その時にはまだ難しいという印象で、読まなかったのだが、

その印象を得る、たぶん、30から50ページは読んだのでは

ないか、と思う。まったく覚えていないほどなので、記憶を辿る

ことはできないが、最近感じていたのは、僕の書く処は、その

「ア・プリオリ」と内容は同じではないか、ということだ。それを

確かめるのに、カントを読んではいられないので、1頁半だけ

概要の印象がわかるくらいを読んでみたが、形而上学なので

言葉で世界を組み立てているために、その著者と同じ思考

回路を辿る苦労をしないと、理解し得ない。感覚的理解や

情感的理解では何も掴めない世界だからだ。 

なるほど、これは同じになる可能性があるので、僕は言葉

ではなく、経験の事実から類推する。それが結果として

そうなるかは、近い将来カントを読んでわかることだろう、

だから、ここはいつものように自分流に書いてしまった方が

いい、と判断した。 

書くのをためらったような気がしていたのは、強く意識しな

かったが、このことなのだろう。だから、これは僕の側から

のア・プリオリの説明になる。 


僕らの意識は認識を伴う。意識するとは、そのまま対象を

言葉や色や音で、肌合いで、匂いなどで特定して、それを

当て嵌まる言葉でその時に定着させる行為だ。要は、

電車という対象を見て、「電車だ」と思う(認識)ことだ。 

それは見る、という経験を通して、認識になる。経験が

初めに来るもので、対象を認識するために、経験より前に

認識が来ることはない。電車を見る前に、電車だ、と思って

から電車を見る、ということは起こらない。 

これで認識は経験的事実によって起こる、と考えてもいい。 

電車という例を省けば、僕が読んだ1頁半には、そんなこと

が「純粋認識と経験的認識との区別について」で書かれて

いた。 

僕の経験に入ろう。まだ完全を追及して、実験を繰り返して

いた頃で、30代から40代のどこかで、その日記資料は

ないので、これも昔の話だ。よく散歩で、まず車で相模川

まで行っていた。暗闇の林の中を灯りなしで、多少躓いて

も、平気で歩いていた頃だろうか。川の本流と並行に

細い支流があって、池もできていて、そこにテトラポットが

沈められていた。その上部は川面からは上だったので、

気をつけて歩くことができた。僕はその上に立って、地球

の自転について考えていた。僕らは自転を感じない、

気づいてもいない。どれくらいで動いているのだろう?と

計算してみた。地球の円周は光で秒速30万km、地球を

7周半するから、そこから割り出せる。前に書いたが、この

時は計算違いをして、7周半を割り算しなかったので、

1秒で300m以上だと思った。実際は42,3mくらい。

そうか、自転方向は東だから、あっちのほうへ秒速

300m以上で走っているんだ、と思ったその時、体が

そっちに持って行かれそうになった。グラッと来た処で

瞬間、体の重心を支えたが、なんだ?と思った。

もう少しでテトラから池に落ちる処だった。危ねぇ、と

思いながらもすぐにこれが自転の勢いだと思った。

テトラが揺れたわけではなかった。地震ならすぐ

わかる。突風が吹いたわけでもない。池は平穏

そのもの。それにテトラが揺れたのでも、突風に

吹かれた感じではなかった。持って行かれそうに

なったのだ。ここからは推測だが、体が僕が

秒速300m(誤り、実は46,2m)で動いている

と考えているのを、勝手に元の状態に戻そう

としたのではないか、と。元の状態というのは

自転した地球に乗っているのではない、静止の

状態の自分である。そうしたら、電車に乗って

いて、急ブレーキでもかけられたら、慣性の法則

で進行方向に倒れてしまうのと同じで、体は

持ち上げられるように東へぶっ飛ぼうとする。

瞬間でなければ、何mか先の水面に投げられて

いただろう。この感覚、これが錯覚であるなら、

この仮説も何も成り立たない。が、今は事実と

して感じられたものを書くのみだ。 

その原因が何であれ、僕にはこれが自転だ、

という事実が突き付けられた。体感で危ない目

に会ったのだ。そのショックはすぐに感動になった。

生まれて初めて、自転を感じた、という感動。

そう思うと、人類史上初かもしれない(笑、言い

過ぎだが)。

つまり、これが非前提の前提だ。僕らは立ち

止まってじっとしていると、それが静止だ、と

思ってきた。しかし、自転を計算に入れていない。

僕らは生まれた瞬間に、もう時速にすると、

152kmくらいで動いている。その地球の上に

いるのだ。おまけに、象の5頭分の重さの空気

(大気)を抱えている。それに耐えられるように、

初めから生まれついている。だから、物心ついて

も、空気が重いとか、時速152kmで目が回る

とかしない。これが僕の経験的ア・プリオリだ。



これを感じるともっと拡大したことが心に起きる。

僕らは空想的に、ただ想像するのと、実際に

経験するのとでは、まったく違う感覚を得る。

ある意味、飛躍するのだ。

僕の場合は、自転の経験から自分が地球に

なった気がした。地球を抱き込むように大きな

観点から、地球上の様々なものを見るという、

肉質の俯瞰を得たのだ。ただの瞬間的な自転

の刺激で。

カントのア・プリオリがこのようなものなら、それ

は理性(カントは知と区別していないようだが?)

に関して知はその内容を経験という過去からだけ

ではなく、それを判断するための悟性を先験的に

人間は備えている、ということではないか、と

現時点では、僕はそう想像する。 

先験的な悟性とは、恐らく、無意識と言い換えても

いいだろう、その指摘が正しければ、・・。



結論として、その悟性とはこれまでの経験ではなく

して、前体験として僕らの(知を越えた範囲にある)

前判断力として在る、というものになるだろう。 

自分を知るのは、自分を俯瞰することだが、俯瞰

するには、理論上、自分を越えなくてはならない。

言い換えれば、自分という認識知を越えなければ

ならない。なぜなら、認識知では自分の認めたもの

しか見ないし、見えないからだ。それでは永遠に

自分の内側しか見えない。感覚や情感とどう

コラボするかが課題になるのだろう。それにしても、

まず、自分から飛躍するとは?という課題が先に

なる。自分(知)が生まれる以前が、僕らの自分からの

飛躍になるのだとすれば、誤解されやすい言い方を

すれば、動物になってみない?となるのかもしれない。

動物の心になって、その感覚や情感で、知を加えない

で自分を観察したら、それができるのだとしたら、それ

も一つの方法かもしれない。では、動物の心とは? 

それに近いものは子供の心だ。子供は成長しながら

動物から人間へと進む過渡期にある。僕らは子供

のしつけや教育ばかりを気にかけ、子供がそのまま

どうなのか、というのはほんの赤子の時だけしかない。

それは子供が愛を発散している時期で、僕らはそれ

に慰められ、依存してしまって、赤子がどういう感覚

を今育てようとしているか、ということには気づかない、

見ていないから。空腹か、おしっこか、便か、怖いか、

痛いかという泣き声にだけ気が行って。

また、愛と共に自分が豊かな感情を受け取って、それ

がこれからの子供の学費や教育費という十分な見返り

になる価値を与えられてしまっているのにも気づかない。

子供は赤子であることで、それからの成長のための

費用を愛くるしさで先払いしている、と僕は見ている。(フ)

長い観察をするとなると、動物とつきあってみるしか

ないだろう。それが家猫や家犬を飼うように、主に

自分を慰めるためではないことはおわかりのこと

と思う。

他に、今はできないが、海外に一人で旅して、日本人

のいない地域で暮らしてみるのも、一方法だろう。

どれほどに自分が日本人か、その違いを嫌でも

認識させられるからだ。この国で生まれたら、自分は

この日本人としての感覚は持っていなかった、と知る。

それが日本人という自分の一部が自分の絶対条件

ではないことを体感させる。それだけでも、その体験は

素晴らしいものになる。すぐに危険な目に合ったら、

続けないで一度引き返し、時機を改めて、また

再挑戦した方がいいと思う。これは経験の言葉で

しかないが、予告には逆らわない方がいい。

無理すると、結局無駄をすることになる。

僕は海外へ行くときには、実に慎重になる。それで

か、強盗や窃盗にも合わなかったし、事故にも遭わず、

地雷も踏まなかった、実際。(笑)

インドでひとつ、石鹸箱と石鹸を盗られたくらいか。

山へ登っても、海外もいいが、そこで必ず、生活を

する、というのが秘訣だと思う。高度の記録を

作ったり、百名山を征服するとかは無駄。それ

よりも山で一晩、キャンプ場ではなく、自然の中で

キャンプして沈黙の音を夜に聞き、孤独と向かい

合うことや、自炊することのほうが”なにごとか”

であるのだ。生活の中から、原始の中からのほう

が、自分を越えられるから。 


自分を越えなくてもいい。今が平和で安全で、

思ったように生活できて、そこそこ幸せならば、

なにもしなくていい。それはあなたがそういう

状態だから、そういう環境にいて、それが

保てるから。それなら、それをさせてくれる人

たちに感謝して、それを続けてもらえばいい

ことで、自分を変える必要はない。

ただ、残念ながら、そういう具合にはできて

いない。心の内側が平和で安全なら、外側

からいつか乱される。外側がいい環境で

家族も安心健全でも、自分が不安定なら、

いずれそのバランスが保てなくなった時に、

自分から壊しに行く。それを止めることは

できないと因果は教える。どちらかが完全

に支配することはないが、それでも暗い

時代は避けられない。

準備は欠かせないだろう、否応なく非前提に。

もう、コロナは来ているし、・・・・・。コロナも

生き残りに必死で、変異をくり返しているし、

・・・・・。



** 
((この先は哲学への愚痴になるので、無視して

無理に読む必要はないので。メモとして。))



< 哲学の模様 > 

今回、哲学の用語を使ったが、あまり内容を

描けなくても気にしなくていい。いずれ観念語

なので、観念をくくるのに便利なために発明

された専門用語というもので、言葉であるので

その著者の意味と同じに掴むのは容易では

ない。その観念と観念とを重ねて括るところ

まで行くと、著者自身もあいまいな部分を

抱えたとしても、それを抽出できなくなる。

時には自分の尻尾をくわえてグルグル回る

犬になってしまう。

僕らは科学にしても自然な物事を扱っている。

科学技術が拓かれて、微粒子も特定できると

されているが、実際には条件がつく。そして、

超微細な世界で存在しているものは、僕らの

一般に想像する物質という枠を超えて

しまっている。一瞬で生まれて、一瞬で消えて

しまう存在をはたして僕らの世界の構成要素

と呼んでいいものか、僕は疑問に思う。例えば、

時計の精巧な技術で、0,0001秒まで測定可能

になったとしても、100m走で0,0001秒の差で

金メダルと銀メダルが決まった時に、誰がその

差を肉眼で見るだろう、まったく同時のはずだ。

それって、金と銀の差だと言えるのだろうか? 

と言いたくなる。それこそ、風が少し、金の選手

の背中に触れたぐらいの差ではないか。それは

ただの運に過ぎない。オリンピックで0,0001秒は

賭けになってしまう。そんなもののために4年も

練習しなければならないのだろうか、と。

哲学も似たような面をもつ。僕らの社会生活や

その適応を内面的に考える際にも、抽象的に

考えすぎると、0,0001秒の差のような観念

ばかりになってしまう。


哲学でそのエッセンスを読み取るのも大変ならば、

それがどういう点で社会や僕らに有効な知恵を

もたらすかについては、さらにエッセンスをそこに

還元しなくてはならない。そういうのでない本は

捨ててしまってかまわない。いずれ、気に入った

書き方で読むのに面白いほど著者と、抽象観念が

共通しているのなら、楽しみで研究するのもいい

だろう。もしかすると、そこから違う面で、発見が

あるかもしれない。

でも、多くは無駄になる。人生で有効性を求める

のならば、その哲学者の全般からそれを引き出す

ことはできないだろう。その一部の成果を引き出す

にしても、彼の歴史から人間を捉えて、それを念頭

に置きながら、知と人間の分離を抽出しながら、

書かれたものの特性・個性を探らなくてはならない。

わかりにくいが、要はその人間を知ったうえで、

書かれたものとがどれほど乖離しているかが

わからなければ、知的な達成点のより明確な

エッセンスが見つけづらい。と、僕は考えている。

観念には観念の独特な閉鎖的方向がある。

そのカテゴリーを俯瞰して、中から知恵のエッセンス

を発見するには、人間を見るのが役に立つ、と

いうくらいの意味合いである。
nice!(11)  コメント(0) 
哲学風 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。