気を拾うことをや [気]
まず、4句。
榛(はしばみ)を マスクに遠く 木の香り
ラオックス 重ねる家電も ラオックス
CM の 梅にはメジロ ばかりなり
ラテックス アナフィラキシーの アレルギー
寝ていて3句できたので、ごそごそ起きだして、
パソコンを立ち上げる。2句を書いたが、3句目が
思い出せない。古くから、ド忘れは、思った場所で
思い出す、というのがあって、それが早かろうと
また寝床に入ってみる。10回くらいはこれまでに
そうしてきたのがあるが、いつもそれで思い出す。
今回も10秒くらいはかかったが、うまく思い出す。
これは何だろう、と思う。今夜もそう思う。そして、
同じ仮説を思い出す。ポイントは場所だろう、と。
それを考えた場所になにかある。すると、科学的
には脳波だろうか。僕は「考え」も一種の”気”では
ないかと思うのだが、その場にまだ気が残っている。
そう考えると、納得しやすいのだが、針治療と同じ
で「気」は科学的ではない。だが、例えば、賽子
(さいころ)をころがして、 一の目を出すと、
無為に1000回振って出る回数よりも、一の目
を出そうと念を込めて出そうとすると、回数が
多くなるという噂を聞いたことがある。確か、
一度大昔に試した気がするのだが、はっきり覚え
ていない。
しかし、それで大して違わなければ、その話は嘘
だと記憶しているだろうから、どちらかと言えば、
任意に違うと言えるほどには違ったのだろう。
それとは違うが、男が女を好きだと思うと、そう
いうはっきりした態度も見せなくても、たいてい
バレている。女はそれを早く知れば知るほど
有利になるから、そういう感覚が発達したのだろう、
と推察されるが、それにしてもその場合は、ほぼ
男の「気」を察知したのだろう。僕もその女の
鼻の形が好きで、朝礼で少し遠くから隠れて眺め
たが、いつも絶対にバレていないと思っていたが、
そうではなかった。この例などは「気」を感じ取る
ことだと見て取れるだろう。すると、僕らの考えも
「気」で構成されるのか、というのが残る疑問だ。
それは、ただありそうだということ。このWi-fi に
してからが、細い電線に光ファイバーの通路だけを
選別して、かなりの情報を流してくるのだから、
量の面だけからでも、その場にわずかな考えの
気なり、脳波なり、エネルギーなりが残って、浮遊
していてもいいのではないか。僕らは常識的に
「空気を読む」と言うではないか。それって、空気は
読めない。空気という言葉でなにか別のものを
察知している。雰囲気とかいうもの、それって
たしかに雰囲‐「気」‐だ。
気持ちもあやふやしている。「気」を「持つ」と書く。
そういう解釈でいいのではないか。僕らはそういう
ものがあるのを、大昔から認めている。
ど忘れたらそれを考えた場所にもどってその「気」
を拾ってくるのは、(戻るのが可能なら)役に立つ
ことなのだ。
榛(はしばみ)を マスクに遠く 木の香り
ラオックス 重ねる家電も ラオックス
CM の 梅にはメジロ ばかりなり
ラテックス アナフィラキシーの アレルギー
寝ていて3句できたので、ごそごそ起きだして、
パソコンを立ち上げる。2句を書いたが、3句目が
思い出せない。古くから、ド忘れは、思った場所で
思い出す、というのがあって、それが早かろうと
また寝床に入ってみる。10回くらいはこれまでに
そうしてきたのがあるが、いつもそれで思い出す。
今回も10秒くらいはかかったが、うまく思い出す。
これは何だろう、と思う。今夜もそう思う。そして、
同じ仮説を思い出す。ポイントは場所だろう、と。
それを考えた場所になにかある。すると、科学的
には脳波だろうか。僕は「考え」も一種の”気”では
ないかと思うのだが、その場にまだ気が残っている。
そう考えると、納得しやすいのだが、針治療と同じ
で「気」は科学的ではない。だが、例えば、賽子
(さいころ)をころがして、 一の目を出すと、
無為に1000回振って出る回数よりも、一の目
を出そうと念を込めて出そうとすると、回数が
多くなるという噂を聞いたことがある。確か、
一度大昔に試した気がするのだが、はっきり覚え
ていない。
しかし、それで大して違わなければ、その話は嘘
だと記憶しているだろうから、どちらかと言えば、
任意に違うと言えるほどには違ったのだろう。
それとは違うが、男が女を好きだと思うと、そう
いうはっきりした態度も見せなくても、たいてい
バレている。女はそれを早く知れば知るほど
有利になるから、そういう感覚が発達したのだろう、
と推察されるが、それにしてもその場合は、ほぼ
男の「気」を察知したのだろう。僕もその女の
鼻の形が好きで、朝礼で少し遠くから隠れて眺め
たが、いつも絶対にバレていないと思っていたが、
そうではなかった。この例などは「気」を感じ取る
ことだと見て取れるだろう。すると、僕らの考えも
「気」で構成されるのか、というのが残る疑問だ。
それは、ただありそうだということ。このWi-fi に
してからが、細い電線に光ファイバーの通路だけを
選別して、かなりの情報を流してくるのだから、
量の面だけからでも、その場にわずかな考えの
気なり、脳波なり、エネルギーなりが残って、浮遊
していてもいいのではないか。僕らは常識的に
「空気を読む」と言うではないか。それって、空気は
読めない。空気という言葉でなにか別のものを
察知している。雰囲気とかいうもの、それって
たしかに雰囲‐「気」‐だ。
気持ちもあやふやしている。「気」を「持つ」と書く。
そういう解釈でいいのではないか。僕らはそういう
ものがあるのを、大昔から認めている。
ど忘れたらそれを考えた場所にもどってその「気」
を拾ってくるのは、(戻るのが可能なら)役に立つ
ことなのだ。