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I'm so Tired [疲労]

今日あったことを思い出して、その時、なにかが

起こっていたと思うことはないだろうか?今、東京に

行った昼間を思いながら、その映像や自分がどう

行動したかを意識で紡ぎ出すように思い浮かべると、

そこはもう遠い世界になっている、という夢じみた

ことがよく起こっている。 

なんでも他愛ないことが起きているだけで、注目する

ようなことはない、自分とは関係のないことだと感じ

ている、そういう自分の映像を見る、それは貝殻の

中が空洞である時に、多く起こるのだろうか。

そこに哀れさを感じるのは気まぐれだろうか。

迷ってはいない、迷わないと確信しながら、それを

確信してしまっていいのだろうかと、小さな疑いを

かける。それが迷いになっているのが、哀れなのだ。 

すると僕は、なにかスロープのようなものにくくり

つけられたその紐を解かれる。するりと紐が解け、

落ちて解き放たれるというのが順序なのだが、

その解き放たれてからというその世界がない。 

それはどこにも固定されてはいないのに、そも

そも固定されてしまった状態というもので、紐が

捉えていたから自由であったのかも、という 

詭弁の匂いもするルーチンワークを描く。 


そこにどうやって孤独を感じればいいんだろう?

なぜならそれは孤独や絶望を感じてしまう心の

傾きに不安を感じるようなことだから。

今は光もない。登場させる感性がないのか、もと

もと光は想像上の灯りだったのか、空気もない

空間に凍ってしまったかのようだ。 

この虚無感から唯物論とかの欺瞞を編み出した

のではないかと、思えるほどの乾燥した心。 

道がないとわかる道なき道。そういうものは心でしか

編成できないのだろうが、そこでは佇みながら、立ち

尽くしながら、この体の感覚の範囲の全体がそのまま

ひとつのかたまりになって進んでしまう、そういう気が

する。押し出されているだけになる。  


わからないのは、この死の上で僕が何も感じることが

できない、ということ。ひとは落ち込む時があるのが

ふつうであるようには、これを言葉に定着させることが

できない。これに平衡していて同じ状態を保っているから

と考える方向になるだろう。

どうやって死んでいられるのか。死んでいるから、孤独も

絶望も感じる義理も必要もない。そんなことができるのか?

できるからこうなのか? いや、やはりおかしい、できない

だろう。これは自己の強力な防御だと考えたほうが腑に

落ちる。死を受け入れないために、自身を死と化す。

だから、これは一時の仮死状態を整備することなのだ。

こういう動きを心理でみると、大変な複雑さに見えるが、

要は生活語に訳せば、なんのことはないのだ、騙されまい、

ここまで描いたことを一言で表す言葉がある、

― それは 「疲れた」、だ。 (自嘲笑)

答えは出た。ふつうに書こう、久しぶりに歩き回って、電車や

乗り換えの階段を上り下りして、疲れた。疲れて考えるのも、

まともに今を受け取るのも嫌なので、感じたくない。それが

今日だった。



**
1年ぶりに東京に出かけた。パンデミックは変異で勢力範囲を

再開拓して、歴史をくり返している。では次は何か。

明日考えよう。ゴーッ、布団へ (笑)。
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