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迷いの前哨戦 [迷い]

鋼のメンタル、という言葉で精神的にタフ 

なのを示そうという題などの表現が目立つが、 

中世の騎士道精神のように現代から見ると 

それほど強そうには見えない。

鋼は堅いからだ。堅いだけではなく、柔軟さ 

を兼ね備えないと、精神は強くはなれない。

迷っている。ここに座る前に30分も逡巡して

いた。坐ってからも、書く態勢に入ってしま 

おうか、どうするかとためらう。 

パリの郊外で器を楽しむ女性が、同じく 

陶芸家が住んでいた家を買って、自分も 

陶芸を始めたという女性の処を訪ねる、 

その番組(録画)を観た。とてもよかったという 

感想が急いで、出てしまう。その陶芸家の 

言うことがいい。前に住んでいた陶芸家の 

器を見て、すぐにこれが私がやりたかった 

ことだわ、と感激したことだ。一生できるものに 

巡り合えたと言ったので、よくあることだと 

思ったが、それだけではなかった。 

器を楽しむ女性が個展のように並べられた 

作品から4点を買うと、それが置いてあった 

場所に、なにかの実(小さな栗くらいの大きさ) 

を願いを込めて、ひとつひとつ置いてほしい 

と女性に頼んだのだ。それは彼女の世界観 

だった。そして、釉もその調剤をノートに 

取って、その焼成でどんな色に焼けるのか、 

サンプルも取ってあり、ちゃんと自分の 

器を焼けるように植物の灰とか、パッケージ 

にとってあり、段階を踏んでいた。いつしか 

見終わったときには感動していた。

当然、自分もやりたくなる。10年に近く、 

材料もあり、計画はもっと以前からあったの 

だから。

このクリスマスを含めた3日間はほぼ精神的 

にはなにもしなかった。もう心理での進展は 

ないものと思っていた。それならちょうどいい、

粘土の番だ。 

そうして、夕食後にいつものように半瞑想の 

黙想をしていたら愛と死、知性と感情、社会の 

在り方と個人の在り方の相似、絶対・真理・ 

真実というものの不透明さの正体じみたもの、 

それらの大きなピースがつながりあった。 

なぜそれぞれがそうでなくてはならないのか、 

という絵が出来上がった。そして、それが 

僕という自分のきれいな仮説だとわかった。 

そこに不明な部分は見当たらなかった。 

自分から照射する絵が当てはまったので 

進展したことが分かったが、喜べなかった。 

多少、悲劇的だからだ。例えば、人間の 

祖先は猿だと証明されても、喜ぶ人は 

いなかったはずだ。聖書を信じる多くの 

人は進化論を未だ信じず、学校で教え 

ることも禁じている。現代の米国の話だ。 

僕の仮説の絵の世界も複雑に見えるだけ 

にそれを善く応用したり、利用したりできる 

かは予想できず、いろいろな伏線・条件 

を検討しなければならず、未知数のことだ。 

せっかく陶芸の道に出発するきっかけが 

見えてきたのに、また後回しにしなければ 

ならないのか。二つとも集中を要すること  

なので、両方を交代でやっていくとか、 

僕にはできないだろう。そういう要領は 

持ち合わせないし、航海に出ながら、 

ヒマラヤを登る準備をするようなものだ、 

としか思えない。 


仮説もその範囲は大局的なものだから 

そのひとつひとつでのピースの内容は 

小局であろうと、一つ違っていれば、 

最大なら、ひび割れが起きるだろうから、 

もう少し、考察を加えたい。散文思考なので 

それほどの長いものにはならないだろう。 

ダーウィンは「種の起源」から主題である 

人間の起源を書くために12年かけている。 

迷っていたのもあるかもしれないが、僕 

には猿のような衝撃ではないと思っている。 

気に入らないのは、自分に閉じ込める結果 

に陥っていることだ。それで正しいのか、

周囲のピースとの関係とをより詳しく考察して 

みたい、まだそこから1時間しか経っていない 

のだから。  


カバネル1(2.jpg

カバネル : アダムとイブの楽園追放 1867 


カバネルはフランスの成功したアカデミック 

画家で、歴史画家、肖像画家。当時の印象派 

画家からは敵対視されていたとのこと。

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迷うのは悩むことじゃない [迷い]

島の北端から (400x200).jpg

もうこれまででこれ以上はいい、いらないと言う時、

それが心の声であるなら、僕らはそこからなにかに

向かって頑張ろう、と思うことがあるだろうか。 

もうそれまでと思うのが当たり前であるのは、その

人がそう思わなければ、そういうことではない。

僕らはそれが当然で、誰もが同じにそう思っていると、

(そう)思っているがそれが想定内とか、自己の範囲

というものであると、あまり自覚しない。

限界というのは、その限界点や限界線まで行って

みて、はじめて決められるものなのだが、実際は

自己という想像内で決めてしまっている。特に自分

が正しいと思っていなくても、長い習慣から、それを

正しいと心に刻んでいる。くり返しそう思った数は

数え切れず、どんな反省もそこにはない。 

それはもうまっさらな自分じゃない、ということなんだが、

そういう波の音もかき消されてしまっている。 

それを捨てる時が来ている。 

捨てられるかどうかは、問題ではないし、結果はそれ

ほど重要じゃない。その気になれるか、なれないか、

それだけが確かな試金石として、あなたに挑戦している。 

それは抽象なあいまいなことに対して、僕らが取る態度が

固まってしまったものだ。人が人為的に約束した法律や

規則のことではない。数式やキログラムとか一平米とかの

単位のことでもない。僕らが自分や他人に対して決めつける

ようになった結果のことだ。あれはああいうものなのだ、と

どこかで決めていくようになったもののことだ。世間や社会、

人間やそれにまつわる神話から、格言、教訓、言い伝えから

過去の名著・書物、名随筆といったもの。そこから得られた

ものがほとんどだろう、それを受け入れてしまっているから。

それをまず、心からほっぽり出すことができるだろうか? 

これが最初の難関だ。物事は変えるのには一瞬でいい。 

それを自然や偶然に待つ必要はない。 

僕らにはそれらを司る能力があるから。

急ぎ過ぎないで進もう。できるかとかは、おかしい、して

みるか否か、なのだから、そこに考えは挟まらない。 

できないとしてもいい、やってみるかどうかなのだ。 

これが真理だとか、真実だとか、自分で納得したものを

一度、ほっぽり出してみる。自分の考えを捨ててみる。

したことがない?それでわからない?いや、わかっている。

踏み出すのが怖いという自分を見ることだ。それが感じ

られれば、そこから踏み出せるかどうかだけだ。

どうしても踏み出したくないこともある。それを見ておくことだ。

それが自分の芯になっているからだ。それは自己防御に

絡み取られた恐怖が隠れて、芯になっている。 

怖くない人はいないから、それができなくても悪いことという

のではない。

それはまず、ありのままの自分を見る準備ができないでいる

自分、というものが今の状態、それでいい。精神の病気でもない

限り、忘れてしまうことはないだろう。いつかまた、ここに返って

くる。 

進もう。踏み出すというのは、ただおっぽり出したという、そんな

気になるだけのことだ。何回もしっかり思えるようになると、自分

と対面する部分が少しずつ開けてくる。そこには多様な面がある

から人が自分のどの面を開いてみるかは、偶然のものだ。 

やがていつかその気になれば、一気に見渡すことができる。 

待つことはなく、その時は一瞬で自分という、今まで見たくなかった

みじめな自分が顕される。ここでまた人によっては、自分を閉じて

しまうだろう。認めたくないから。今まで自分が否定してきた自分の

像がそこにあるから。激しい自己嫌悪が来る人もいる。 

それでもその先へ行く必要がある人なら、こらえるだろう。 

ここでやっと本来の自分を認めることになる。この収穫は大きい。 

みじめになる自分を予想するが、ひとまず自分を認める決心を

して、自分に立ち会うと、その時自分の虚像というものが崩れる。


ここからはなにを書いていいのかわからない。ここからその人の

その人だけの、まさに神話が始まるからだ。それはロマンの喜び

ではない、静かで落ち着いた爽やかな心地よさだ。どういう形で

どんな色調かはその人だけが知る果てないひろがりがある。話して

もらえなければ、それは永遠に秘密としてその人とともに朽ちる。

誰も知りえない。

いろいろあって、書いても無駄な気がする。僕らは一つの世界を

司る全体の一部になり、終わりのない全体になる。ここから神や

スピリチュアルを思い描く人は概念世界に嵌っているかもしれない。

そうでない人は実感を持っているかもしれないが、(僕は信じない)

神秘に魅入られているかもしれない。そこは不可触領域のまた

別なもので、仮想空間を現実ではない、と言うのと似たようなものだ。

数字の示す数も、流れる感覚に示される時間も存在しないが、

仮のもの、幻想や想像上には存在する。それを実在しない、と

概ね主張するのだろうけれど、概ねはそうすればいい、僕は

実在しないと思っても、そうではないかもしれないので、主張したり

しない。まだ判断しない部分が残っていると感じるのだ。決め切れ

ないものを、たとえ勢いにせよ、断定はしない。 



なぜそうまでして、己を知れ、と昔のギリシアの神殿の柱に刻まれ

ていたのか。それは単純な思いだろう。僕はどう逆立ちしても、なに

か対立や比較するものがなければ、大きいとか小さいとか、美しい

とか汚いとか、優しいも怖いも判断していない。それは生まれて初めて

見るものに眼を奪われ、立ち尽くすように、わからないからわかろう

として動けなくなるように、それが危険な蛇と知らなければ、運悪く

嚙まれて死ぬこともある。そこまでの事態は少ないにしても、

わかっていること、それを何かに比較して知っていることは有益だ。 

人を知ることは有益だろう。騙されないとか、信用していいとか

わかれば、危険も避けやすい。それが己を知る、ということだ。 

自分を知れば、そのありのままを自分という物差しに変えることが

できる。はっきりした自分、つまり人間という標準を人と比べて、

確実に人を知る、その可能性をより高めることができる。

自分が物差しなら、比較して人を知るはやさしくなるのが道理だ。

自分があいまいで、優柔不断で、微妙な性格だったら、いつも

人を恐れるということになりやすいだろう。相手のことが、真意が

つかめないから。また、あいまいで優柔不断で、自分が微妙でも

それがどういうあいまいさか、優柔不断さか、微妙さかとわかるなら、

それも自分を知ることになり、それに合った対応が取れるようになる。

それを適応というのだが、僕らが悩むのはそれがどんな問題で

あっても、それに対して適応した対応が取れないことで悩む。  

子供を知るのは自分も子供になって一緒に遊ぶのが、一番

手っ取り早い。それが適応の一例だ。ところが僕らは大人で

社会人として一人前だと決めているから、そのプライドが

破れないことが非常に多い。自分を知るとは、そのプライドが

どのように自分や知的判断を操作してしまっているかを知る、

ということでもある。

この文でも3回読めば、何が書いてあるかわかるはずだ。その

ように書いている。しかし、一度ではわからないような分野の

ことで、たいてい一度読んでわかったと思って勘違いしている。

そういう動物なのだ、知的動物というのは。

やがて読むたびに意味が異なっているように思えてくるかも

しれない。そうなって、上達したね、って言える。それはわから

ないものが、”はっきりわからない、とわかる”ようになった

からだ。わからない”姿”がわかるようになった。それはやがて

自分を変えようとするその姿が見えるということだ。見える

(その人なりに感じる)から変えることができる。こういうことを

無意識に行動して成し遂げている、そういう人は多い。



僕は夜の海に入ろうと言っていると思えばいいのかもしれない。

夜の海は暗くて、潜っても何も見えず、不安だ。僕でも入る前

では同じように闇の不安を感じる。それは見て、なにかを確かめ

られないからだが、それでいいのだ。サメとか、ウツボとか想像

していたら、一生夜の海で泳ぐことはないだろう。それでもいい。

だが、もう不安を気にしても仕方ない、という選択肢もあるのだ。

その時、ザブザブ、打ち寄せる波に濡れながら、海に入ってしまう。

あとは野となれ山となれ、と言葉は知っているが、意味はよくわから

ない。開き直って入ってしまうと、意外に気持ちいい。もうどうなっても

いいというのは、意外に自由だ。夜の海がわかるというのはそういう

ことだ。知的には何も見えないし、わからないが、暗い水のその感触、

水と一緒になった感覚、不安は小さく、大きな開放感に包まれる。

それを知ることが経験になる。

少し沖に出ると、そこからどこまでも泳いで行ける気になる。そうは

しなくてもそれは不思議な自信なのだ。自分に自信はないのだが、

そこでどうにかするしかない、それしかないならそれをすればいい、

成功を、うまくいくを期待しない不思議な自信。

それを体験するかどうかは、大きな糧になる、と僕は知っている。


**
ま、夜の堤防を眼をつぶってどれくらい歩けるかで、見事

堤防から夜の黒い海へ落ちた人間の言うこと。(笑い)

濡れてはいけない携帯など、万が一と堤防に置いていた。

想定外を想定するのは忘れない。そうしたら、まさかの、・・。

夕暮れ船.JPG

島に着いた頃の映像。夢があって、この頃は自然から

美しい映像を見せた。二年して、飽きてくると島は

凡庸な姿しか見せなくなった。夢があるというのは

美しい未来を形作ることでもあるのだ。山でもなんでも

自然はそういう夢のある人間を裏切らない。いい映像が

撮れないのは僕らの夢が足らないから、と多くの同じ経験

でそう思うようになった。    (不思議だが、ほんとう)
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