SSブログ

妄想体験とや (自己知を) [妄想]

自分が何をしたいかもわからない時を、自分に 

尋ねる用意がない時でもあると、そう思うことは 

なにかのルールに従っているだろうか、とか 

そんなことを考えるようになった。 

それはまるで監視カメラのようなしぐさで、 

背後やつけてくる何らかの存在を警戒すること 

でもあると思うのだが、それは僕には単純な  

理由から出てくる。僕らの行為はどんな前意識 

によって規制せられて、形成しているのかを 

知ろうとするからだ。それは前を見ながらでも 

後方を気にするような、背中についた眼のような 

ものだろう。 

どうしてそんな神経質なことが始まったかというと、  

ずいぶん古い話だ。誤解を受けて、陥れられる 

という経験をすると、目に見えない存在を気にする 

ようになるからだ。それは神のようなものだ。しかし、 

神を気にするとはそのまま、悪魔を気にするのと同じ 

ことだと気づいて*から、悪魔大全という本を読んでみた。 

イメージの悪魔は邪悪で知恵が働く恐ろしい存在だと 

アメリカ文化で植え付けられていたから、本は役に立った。 

なんとなく感じてはいたが、悪魔はやはりイメージという  

たんなる概念の存在だった。怖いのは人間だった。邪悪さ 

を求めるのは人間の貧しい、偏見な、卑しい性(さが)で、 

虐げられるとその方向に進む人が出る。しかし、本の 

どこを読んでも悪魔を崇拝する人間が変身した悪霊が 

出てくるだけで、その因である悪魔親分は姿を確認しな 

かった。この長い歴史で、一度もその確認の証明は  

どこにもない。少し考えたら、それは当たり前だと気づいた。 

僕らの考える一般のありがたい神が概念存在にすぎないなら、 

そこからしか生まれない悪魔という反対のイメージが実存在  

するはずもない。 そういうことだった。 

それで無用の恐怖は取り除かれた。ただ、悪魔崇拝や求める 

人びと、それと同じくらい信じようとする人々、アメリカでは 

ほぼ信じられているから、長い信仰は方向を誤ると、碌な 

ものではないと、思った。 エクソシスト(悪魔祓い)の映画で 

気絶する婦人方がいたのも、そういう訳だ。アメリカでは 

実際に悪魔的な能力でキリストの母、マリアに化けて 

奇跡現象を起こし、少女を誘い、殺してしまった司祭だった 

悪霊(人間)は存在したと、僕は考えている。


僕の最大の錯覚・妄想の話がある。それは何度か話した。 

が、ここでもう少し、明瞭に思い出して、付け加える事実は 

ないか検討したくなった。少し、つきあってもらう。 

ヒトラーのいろいろ本を集めていた。彼が悪魔だという小林 

の言葉もあり、そのイメージは強かった。沖縄へ初めて行く 

ことになっていた。飛行機の予約を断りたくなかっただけだが、 

風邪をひいたと思った。それが行く日が近づくにつれ、ますます 

ひどくなった。熱も出始めたが、解熱と風邪の薬を携帯して 

飛び立った。そういう時は思うようにならない、のはどうして 

だろうか。体でも体が、心でも悪ければ心がよくならないし、 

悪い方向に進むのはどうしてか? 

薬で抑えたが、非常に不愉快な気分で景色も太陽も楽しむ 

ことはできなかった。ふらつく頭で、せめて帰りの日に 

空港へ行く時間までどこかの映画館で時間をつぶそうと 

思った。探して、時間の合う映画を観た。清潔な二枚目の 

イメージのあるケビン・コスナーが主演の映画だったが、 

内容は半悪役で、殺人鬼?のストーリーだった。精神を 

病んでいるのだろう、殺しが性なのだ。その娘もやがて 

父親と同じように殺人に手を染める。 アメリカの病巣 

心理らしい。父親が殺人に目覚めた娘に殺される夢から 

覚めて、これから二人どうなるか、というのが最後の  

シーンで、結末のない映画だった。熱のある時に、どうして 

こういう意に沿わない珍しい映画を選んでしまうか、この 

パターンは不思議に定まっていた。 

問題は帰ってきてからだった。 

調べると、平成20年の9月、今から13年前だ。まだ 

無意識にたどり着いていない(未交渉)。  

たぶん、持病が起きたのだろう。薬で抑えられていたが、 

旅行で疲れていて、微熱が残っていた。確たる病気 

ではない、確たる病状のない、だるい精神状態。 

僕は3万人のユダヤ人の亡霊に囲まれていた。この 

時に僕はまだ僕にそれを引き寄せた愛(の死霊?) 

が隣にいることは知らなかった。その発見まではまだ 

3,4年があった。 

熱に浮かされているからか、恐怖はなかった。自分が 

それを信じ切ってはいないのも、感じていた。それでも 

そういう亡霊を感じているという、事実があった。これを 

どうしようか考えた。帰ってもらうしかない、そう思った、 

僕にホロコーストの悲惨から解放する力があるとは 

思えなかった。3万人だ、家でそれを説明する場所は 

ない。僕はその晩から、相模川の河原に出かけた。 

河原なら、対岸にそれくらい収容できる広さがある。 

僕は演説した。君たちが来たところへ帰るように、 

それは墓場だろうけれど、説得を試みた。30分 

話した。頭のどこかで、不思議だった。見えもしない 

亡霊という錯覚に対して、無駄に話しかけている、 

それが現実なのだから、怪しい。 妄想だろう、と 

思っていたが、妄想に囚われているのではなく、 

その現実に対して、現実的な対応をしているつもり 

だった。はっきり意識していたわけではないが、これ 

にはアフリカの呪術が利くと考えていた。呪術師は 

病気になった人に「あなたの病気はこの筒の中に 

入った」と、そしてその筒を捨ててしまう。それで 

病気は去ったから、もう大丈夫、と。村は共同体で 

あるばかりでなく、共同幻想体でもある。宗教染み 

たことは全員が信じていて、呪術師は一種の神で 

あるから、村民はその人が治った、と言えば信じる 

のだ。その村民自体も自己催眠にかけられるし、 

また自身も自分にかけるのだ。そして実際に治って 

しまう。これは反対に呪いも同じ作用で、同じ村民には 

強烈に効いてしまう。体の骨が折れてしまうことの程でも 

自分で自分の体に起こしてしまう。これが僕らの信じる 

力の逆作用だ。 ブードゥーの呪いはこれを利用している。 

恐ろしいことが実際に起こる。催眠術でやけどをおこさせ

ると、ほんとうに皮膚にやけどが広がる。不思議だが、僕 

らは信じるとなんでも起こせる。 

僕は半無意識にこれを利用したのだろう。その知識は 

あったから。しかし、そのひと晩では済まなかった。3万人が 

1万人に減っただけだった。次の晩も、しかたなく? 

相模川の河原に出かけた。少し、時間は短かっただろうが、 

また無駄な演説をした。そして、その次の晩も。1000人の 

亡霊?を相手に演説をぶった。それからはもう行かなかった。 

残っていてもかまうものか、諦めて帰ってもらうしかない。 

そうして、それから3日後には僕のしつこい微熱も下がり、 

収まった。自己催眠は成功したようだ。起こっていると思う 

事実を迷信とか、妄想と否定するのはやさしい。だが、それ 

では解決しない。その人が納得・満足する方法・やり方で 

対処してやるのが正しい。その時、常識という知識では 

対応できない、不適応になることがある。だから、そこでは 

既成概念・偏見・常識・世間の通念という自分を捨てて、 

臨機応変に対することが肝心になる。そういう時は、自分の 

信じる正しさのほうが迷信になることを知る、のは困難な 

ことだ。 

それでは、何を信じればいいのだ?となるが、それはない。 

だから、僕らは常識を頼りにする、それで社会に寄り添える 

から7,80%の正しさで世渡りはできるから。 

僕らが世代交代とか、世代の意識が違うのは、お互いの 

迷信を信じ、新しい迷信がいつも生まれるからだ。 それは 

その時代や世代で、古くなり、新しくなるものの、混成なのだ。 

だから、今は現時点で判断できない。子供の反抗期は健全な 

意識の発達で親の迷信・規律から離れようとする心の運動 

なのだ。親が最高の対応するには、自分を殺すしかない。 

なんだ、自己知を知らずに実施している親もいるわけだ。 

もっとも、現実には問題は複雑な要因がからんで、自分を 

殺せばいい、とかで片付かないことのほうが多い。 

 
もう亡くなったが、娘アンナが悪い男を好きになった時に 

父だった俳優、梅宮辰夫が言った言葉が思い出される。 

なぐってわかるんなら、殴ってるよ、と。殴って問題は 

解決しないとわかっていた。初めは口喧嘩もしたのだろう、 

父親としては、強引に別れさせるのではなく、娘が気づく 

まで、正しい情報を伝え続けるしかなかった。そして、なる 

ようになった。 

いろいろだ。






*  ::
僕らの頭がこさえるものは、その対象物がついてくる。 

これは習慣からだろう。実際に対象はないからだ。 

それはイメージに集約される。旧約聖書の神からは 

それはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の唯一神と 

されているのだが、彼の性格から(人間を虐めること 

もあり、それは盲目にしたり、子供を生贄にしろとか、 

手厳しい)相対して、悪魔の性格が映し出される。 

鏡に映った姿という。 

善悪とか、真偽とか、黒白とか、清濁とか、愛憎 

とか、反対物を生み出すのは知性の癖であり、 

習慣であり、本質である。だから、神という 

(一般に)最高善の存在を求めた時に、イメージとして 

最悪のものが浮かび上がるのも、自然なことだった 

ろう。それですべての宗教経典には、いいことが 

教えとして含まれる。そういうものは批判や否定の 

対象ではないが、細かく分離できない。それに 

どこがよくて、どこがよくないということを示している  

のではないのだから。妄想とか、神とか、悪魔とか 

ほんとうはどうでもいいんだが、それを言うと、 

真面目ではないし、無責任・投げやりに思われてしまう。 

存在しないものに証明を求めても仕方ない。哲学とか、 

それ以前に僕らが信じなければならなかった、そういう 

事情が古い歴史のどこかにあったはずだ。3000年も 

以前に。 だから、現代なら神という彼が現れて、テレビ 

にも全世界放送に出て私はこうで、こう考えるし、こういう 

存在なんです、と人に丁寧親切に説明、語りかけてくれて、 

それで本物といえるだろう。 

僕らがガタガタ言って、それがなんだと言うんだろう。 

その人が目の前にいないのだから、それはただのあなた 

の意見、ではないか、と見えてしまう。僕はその人間を

信じることと、その人の意見を疑うことは別々のことだと  

思っている。親は僕を愛している、けれど、僕たち子供を  

わかってくれているとは限らない、そう思うんだが、 ・・・。



次回は、神への肯定を予定している。
nice!(12)  コメント(0) 

妄想めいた進行(ひと言だけ、その後のフロー) [妄想]

丁寧な言葉というのは、意識できない気がする。どういう

ことか? 自然に相手によって言葉遣いを変えるという 

習慣が身について、意識しないで切り替えているようだ。

怪しげな敬語も使う。 

Need You Now を聴いていて、曲はいいと。和訳の歌詞を

偶然見て、白けてしまった。愛は男と女の劇をベースに

それぞれの心に意訳されているのだろう。そう見える。 

僕の中心はそこにはない。それがふつうとは違うのでは

ないかと、気づかされたが、そうなのだろうか。

僕には体の要素は強く感じられる。恋が心のものだとは

少しも信じていない。体の感覚のものだと思っている。

心はむしろそれに錯覚させられる、騙される、ということ

だと。 それが美しいのだと。だから惑わされる。それが

魅力的で惹かれる。騙されるしかない、そういうものだと

思っている。そこでは迷う場面があって、あり過ぎるほどだ。

しかし、迷っているだけなら、実は悩まない。悩むのは、

どうしていいか対処の行動がわからないからだ。それは

錯覚の中にいるのだから、当然の帰結なのだが、失敗

するしかない。その中で恋を成功させることは不可能。

そう覚悟してしまうのがいい。僕らはそうできているの

だから、小利口に構えてもしかたないのだ。ただ、相手が

それを見越して、それを利用することはある。その時、

僕らはその正しい忠告を聞くことはできない。信じられ

ないのだ。すでに心は決まっていて、それを認めるのに

時間をかけているだけなのだから、結果は見えている。

周囲を悲しませるくらいのことなら、しかたない、想定内、

と諦めなさい。それ以上になる場合が予想できるなら、

それはとても慎重にならないといけないのだが、難しい。

その時、自分の気持ちを裏切って、それを確かめる

勇気が必要になる。大金を渡す時、大事な契約に印を

押すときは一人で決めない。バカバカしいと思っても、

それを押し切って、確かめる。その困難に打ち克つこと

が、自分の気持ちを信じすぎない限度を知ること。 

それはこの先きっと必要になる。 と、ふつうにすべてに

言えることを書いたけれども、今はオレオレ詐欺の応用系

の詐欺が多く、これに当てはまるのに気づいた。 

つまり、それほど僕らは自分は大丈夫だと思っていることで、

そう思う人ほど、実際を知らない。困難は自分を信じないで、

気持ちを切り替えることは思ったよりも、できないことなのだ、

と誰もが認識に不足していること。その時を振り返って、

自分の考えていることに、実際の経験が伴っているかを

確認しておくことは役に立つ。できれば、自分のそういう

座右の銘にどれだけ自分の経験の裏打ちがあるか、チェック

しておくことが望ましいのだが、・・・。 

僕らは感動したことを信条のように心に留め置いて、信じるが、

映画でも小説でもそれらは撮り方、書き方がある幅、ある表現に

限定されている。しかもその範囲で感動するように撮ったり、

書かれたりしている。それが監督や作家の技量というものだ。 

僕らは恋に落ちるように、それらを見たり、読んだりしたがって

いる。そういう前提が自分の内にあるのを感じないだろうか?  

静かに見つめてみれば、感じているのを、その期待を感じる

はずなのだが、 ・・。 

そういう僕らの「自分」が、恋に落ちる。それはこれは確実な

投資だと思い込んだり、息子の危機を救いたいと思う、その

人道のイズムを親の役目だと思い込むのも、そういう前提を

心に持っているからだ。 

僕らのこの憧れは古い。遥かに昔から僕らはそういう自分に

憧れてきた。なのでそういう期待がされる機会が来た時に

それを裏切るまいとするのだ。そして、罠の中に飛び込んで

しまう。いついかなる時でも、急ぎ過ぎることはない。待つ。

少しでいい、待つ。短い時間で、それを確かか、確かめる

方法を考え、それをする。 

恋に落ちたら、それがまったくできなくなる。だからこそ、

それに騙される経験はとても貴重で、常識的に限度を

越えなければ、それに騙される必要がある。わかる

だろうか?  僕らが世間体や暴力に弱いのは、そういう

経験が少なすぎて、経験から学ぶ機会が少なくて、それ

から身を守る方法にたどり着くまでの習慣がないからだ。 

あの人のことを想うと、もう胸が騒いで、高鳴り、涙ぐんだり

さえしてくる。それは少しもクレイジーなことではない。 

僕らの体に備わった生物的な精神作用で、ちゃんと体内

では化学物質がホルモン関係?にか、放出されるのだ。

酒を飲んだら、酔うように、それも僕らをそれなりに狂わす。

そして、酔いたい時があるように、僕らのほとんどは恒常的

に恋に落ちたいのだ。滅びると知っても、その火に焼かれたい

と願うのだ。― 眼が覚めるまでは。

(ここからひと言がふた言に・・・)

そういう意味でなら、僕は何度も死んでいる。そして、その都度

死に損なっている。うまく逃れてしまうのだ、自分の意志に

よってではなく。それはその夢の中に、百年も千年も自分の

過去が望んだものの遺影や、カスといったものが匂うから。 

それから逃れられずに、僕らはさ迷う。心が涸れるまで泣きたい。 

もう失ってしまったもの、取り返しのつかないもののために。 

僕らは祈りを捧げる。 

強い精神はそれらを避けることを知っている。そして、行き過ぎ

てしまう。気持ちを無視しても勝ち続けようと思う。頂点が目的

になり、そのために策をめぐらせて、犠牲者を作り、それを無視

するのを信条にする。そして、最後はヒトラー、毛沢東、スターリン

など、他の数多の人々がそれに中途に連なって、最後に愛に

飢えてしまう。

僕らはどちらの方向をとっても成功は叶わない。全体でそれを

得るという方法はない。恋や投資でブレイクしてしまうか、

第一人者や権力を求めて適当に留まれず、裏切りか愛の飢餓

に陥る。これは綱引きではない。どちらにも解決の方法は

初めから「ない」ことに依る。 

小さな幸せはそれだけで十分、美しい。僕はそれを忘れない

ようにしている。いつまで経っても僕らは諦めない。次はうまく

やれると思うから。そういうことであるなら、ことは楽だが、

次はもう条件が変わっていて、それまでの経験を応用させる

だけでは不十分なのだ。それで十分な例はある。それは

その人とその成功の方向が合致している時だろう。それなら

僕らはいつでもうまくやっている。頂点は振り子の極点の

ようなものだ。そこまでで後はない。そこからまた逆に振れる

ようになっている。その自然な成り行きには逆らえない。

頂点で留まれるのはそう長くない。それは個人の力量の

問題ではなく、全体の流れに逆らう問題だからだ。どんなこと

をしても逆らいきれない波が来る。彼は一番大事なものを

犠牲にしなければならないだろう。一人で支え切れるような

ものではない、バランスがある。     

今、君が必要だ、今、君に逢いたいのだ、と切に思っても

彼女の運命をコントロールできない。できる時に、できた時に、

またその時に調子を整える。愛だけでは僕らは生活できない

のを知っている。そして、愛だけの生活ができても、それだけ

では愛を維持できない。愛はそうやって育てられないからだが、

僕らの生きる意欲との犠牲を伴う調整がどうしても必要だ。

ドラマで見るような必要な節制は惹かれている時にはそうでき

ないだろう。絵にかいた餅という昔の言葉があるが、知って

いても役に立たないだろう。

夏目漱石は I Love You を私はあなたを愛しますとは、日本では

訳さない、月がきれいですね、と訳す、と東大で学生に教えたそう

だが、笑い話ではなく、実は理に適っているのだ。愛はむさぼれる

ほどに長持ちする薪ではないのだ。じれったいほどに。 

僕のように短気では育たない。相手が夢で隣にいるので‐は

なにか事情があるのだろうが、・・・。 

語れることが多い各章のことに気づくとともに、全体にかかわる

結びつく肝心のことの等々がまだ見えない。こうしていても

ただ書いているのではなくて、そこからしか見えないものが

見え始めるのがわかる。

誰かが、だから書くのよ、と言っているような気がする。僕は

まだこのコントロールされた生活をまだ続けるようだ。

僕の好奇心という謎好きの肝を掴まれているらしい。そう思う

と、自分で納得がいく。

まったく。どうすればいい、というのか。誰か他にできるのだろうか。

もどる場所もない。大まかな計画の下でさ迷うことをしてきた。

どう進むとか、どう後退するとか、できないように歩いてきた。

そうではないか。そんな判断はいらないと、僕は抜け殻の自分

を道具にして、予感も直感も頼りにせず、街にあふれている

人生の交通標識のようなものは振り捨ててきた。もうどこを

歩いているかではない。 

僕は、・・ 僕は、 ・・ 死んでいないのはもちろんのこと、

生きている気もしない。死からの開放としての生の喜びと

いうテーマ、そういう生活も明るく振り返れる、ただの過去

として。 

なにかあるはずなのだ、この生きていられる手ごたえが、感じ

られなくても。現に、生きてるじゃないか。どうすればこの

歯がゆさを、  どうすれば?  おいおい、  歯がゆさの

理由がわからない。ただ(感覚が)あるだけなんてないだろう。


こういう僕が、 ある。 これは何なのか? 

なにも、 苦しいわけでもない。  悲しいのでもない。  

これは 何なのか?  

君は  そこにいるのか?  ほんとうに  いるのか? 

ほんとうに?  よく聞いてくれ、僕は言葉をひとつ、ひとつ

噛みちぎりながら、 聞いている。 

ああ、   うう、    君も  いるのか? 


I  Need you  now 

君が  必要だ、 という 叫びが  聞こえる  

聴こえる、  

そうなのか?  

これ以上、  人間で いられない  

これ以上  むなしさで  いられない  

これ以上  そういう僕では

いられない  

そうではないか  

自分のためではなくても  

君のためかどうかも  もう  

わからないよ  

僕は  どうにもなっていないよ  

でも  

どうなっているんだ、  

空気が、  酸素が、  

足りない  

水が、   愛が  

足りない  

光が  あたたかさが  

足りない  

このまま  僕は、  

このまま  僕は、  

ああ、  うう、   

話していた、  あの頃  

何を  ・・ 話していたろうか? 

コロラド州に  世界一の  

バンジージャンプが   あるらしい 

400と 何m、  だったろうか  

そこから  飛びたい  

今   飛びたい  

アイム、 ナウ  

Oh,  おおお、  おうおう  

How を 知らない 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・ 

大漁、  

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

イントロ、 

・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・

And  I  ワンダーぁ 

僕は    たぶん  

これまでの  いつよりも

僕、 を   知っているよ  

これが  

この姿が 、 ・・ 


fu、 u、
 
これまでの  いつよりも

僕、 を   知っているよ  

 
これまでの  いつよりも
  
これまでの  いつよりも

ああ、  

これは  何か? 

これは  なにか 

これは  

・・・・  




:: 
妄想めいた進行と、浮き沈みの中から、 

触れるはずのない心の裏を、そのあり方を 

直接に感じた、というだけのことです。
nice!(10)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。