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夏休みらしさと、雨のアプローチ [夏]

まだ決まらない。決まっていたのだが、いざ書く段になると、 

異なった道筋から書きたい気がしている。 

少しだけ書いておこう。子供が幼稚園だったから、僕は 

30代後半だったろう。息子のクラスに乱暴な子がいて、 

どうしようかというような話だったと思う。すかさず、やっち 

まうしかないな、と息子をけしかけた。まだ子供の頃は 

それを見過ごさずに、直接相手と対決・対話することが 

必要だとは知っていたので、子供の頃は喧嘩が手っ取り 

早かった。今ほど確信していたのではなかったが、 

プライドが発達する前に暴力を経験することは大事なこと 

だと感じていた。勝っても負けても、そこは子供なのだ。 

いずれ、自分で修正する。息子は喧嘩に勝ったらしい。 

呼び出されたのは母親だろう、僕にその記憶はないから。 

クラスの周囲からはよくやった、みたいな声があったらしい、 

と聞いた。そして、その子と仲直りした。それで息子は 

もう喧嘩はしないと決めたのだろう。それは成功に見えたが、 

副作用もあった。父親の僕を恐れはじめたらしい。喧嘩を 

推奨したからだろう。それは時間に修正されたが、ある時、 

なにかは忘れたが、息子をその時小学生だったか、激しく 

叱責したことがあった。漱石のように短気だったが、明治の 

時代ではない、すぐに度が過ぎていたと反省した、謝らなけ 

ればと思った。すぐに謝らなければ、たぶんもう謝る機会は 

なくなるだろう、と。 

それで気が変わる前に、取って返して、息子に謝った。と、 

事実はそうだが、この謝るには大きな葛藤があった。父親が 

謝ることはないというプライドが立ちはだかったのだ。 

それを押しのけての謝罪で、その瞬間の強い葛藤は家族の 

誰かは感じたのかもしれない。が、僕にはわからない。その 

きつさだけが記憶に残っているからだ。謝るのって、簡単じゃ 

なかった。 



知識というのは学問の匂いがするが、その特定の分野で 

人の知らない知識を持っていることはあっても、知識が 

すべて学問的で、専門的であるという人はいない。 

僕はそう考えてみて、自分の知識が相対で中学生レベル 

ではないか、と思った。知識のほぼすべては派生したもの

で、枝葉末葉が膨大にあるといった、その根本・芯は 

わずかであるのが通常だ。だから、理想の空想じみたこと 

を言えば、物事の根本とそれらの関係性が理解できれば、 

それはすべてが因果に見える。そこからすべてが説明 

できるはずだ。これは知的な想像ごとで、実際にはその 

バージョンとかバラエティとか、バリエイション次第で、 

それを固定させることができないから、T.P.O.(時間・場所・ 

場合)という現実の現象・事象の様相に合わせて、知識を 

活用することが求められる。昨日は晴れていたが、今日は 

雨だとか、昨日は社長はご機嫌だったが、今日は機嫌が 

悪いといったようなことの、もう少し込み入って複雑な 

複層・階層の諸事情を勘案した様相のことだ。 

それらは枝葉末葉の知識を動員しても解決しない。ただ 

混乱を増やすだけだ。そこにどの知識を動員して、いかに 

活用するかを判断するための、統合の知恵が要る。 

それは経験を重ねた熟練者が必要だということで、有体 

に言えば、失敗を多く経験して、それを肥やしにしてきた 

という経験だ。つまり、知識を正しく適応させて使うため 

には、そのために失敗の経験の積み重ねとそれを活かす 

ための努力をすることを怠らないことが必須になる。 

だから、今のうちに自己保身の姿勢が固まらないうちに 

できないと考えていることでも、どんどんやって経験を 

積むのが早道で役立つ。それはその時の自分の限界を 

知ることが、それこそが自分を知る王道だから。 

まず、失敗してその位置を確かめることで、その後に 

ステップアップをする時に、自分の成長の刻み方が 

わかるし、成長した結果を受け止めることができる。 



今日は曇り空の下、図書館の隣で盆地になった広い 

公園に行った。樹木が多いので、すり鉢を円に沿うよう 

に下りの道が整備されていて、渦巻きを描くように 

一周して、底にあたる池まで下りる分かれ道がいくつか 

ある。ブナを食べる虫がいるらしく、カバーで養生して 

いたり、虫殺しの液体に誘い込むトラップが仕掛けられ 

ている。一本に10のトラップがあったが、その虫は 

写真が貼られていたが、一匹もいなかった。 

そういう養生を見ると、自分の動植物・昆虫に関する 

知識はいかに貧しいかがわかる。僕の想像は食い 

意地の張ったもので、ある特定の大きな葉の低葉木 

が隣の無被害な葉と比べて、ほぼ大きな穴だらけで 

食われているのを見て、その葉の区別がまったくでき 

ないのを知る。それよりも、その穴からイモ虫がその 

葉が大好物だったのでは、と思い、そいつはどれ 

くらいうまいと思いながら、その葉を食ったのだろう、 

と今度は自分もあく抜きをして、その葉を食べて 

みようかと、食欲を煽るのである。うまかんべぇ。 


シダ類の葉だろう、ネムリソウに似た葉に、丸まった 

広葉樹の葉がついている。これは知識が邪魔した。 

すぐに中にサナギが入っているのだろう、と。そっと 

していたら、それが間違いだとは気づかなかった。 

ちょっと吹いてみたら、葉はひっくり返って、裏側が 

見えた、何もいなかった。しかも、サナギが丸めた 

のではなく、自然に枯れて丸まったものだと。 


歩いているうちに雨がシトシト降り出してきた。頭上 

に樹木の葉があるうちはいいが、下まで行くと、休憩所 

までは濡れるだろうな、と。トイレに行く都合から、それ 

もしかたない。屋根のある池周辺の休憩小屋では 

家族連れやぶらぶら歩きの近隣の人が雨宿りを 

して、にぎわっている。 

民俗資料館のような古民家が建っていて、そこが 

公園で一番大きい建物だ。隣に公衆トイレ、その隣に 

なにやら道具や装具が入れてある、倉庫がある。 

よく繁った樹木の下の、木の根を模(かたど)った 

椅子の座っていると、隣の古民家の前で雨宿りを 

している婦人の話声が聞こえてくる。どうやら蛍が 

ここで見られるそうで、わぁ、私も見たいわ、という 

話だ。(実は急いで書いていて、これまでの話でも、 

端折っている。その感想を書いていたら、最後の話 

にとうてい行き着かない。ここも続けない) 


こんな公園でも一周歩くと20分か30分かはかかる。 

道も間違えると、反対方向に歩いていたりする。それで 

また池のほうへ戻ってきてしまった。雨が小やみになって 

休憩所を出てきたのだが、また降り出してきたので、屋根 

のある小屋でベンチに座った。隣り合わせのベンチに、 

もう一人婦人が坐った。そこへ小さな子供3人、一人は 

若い父親が前に抱えている、家族連れが来た。しばらく 

屋根の下にいたが、少し離れたベンチがあり、樹木の下 

なので父親がそちらへ移動した。上の男の子二人は 

雨も気にしないので、3段下がった扇形の踊り場へ出たり 

して、母親に注意されている。まだ驟雨は続く。 

10分もしたろうか、また小止みになってきた。そこで 

家族連れは移動し始めた。それと入れ替わるように 

何が来たかと言うと、飛んでいた。ヤンマだ。トンボの 

7,8の群れが飛び交っていた。そして、二匹で番(つがい) 

になって飛んでいるのが一組いた。その他のヤンマも 

塩ヤンマ、通称塩辛トンボでうす青い胴体が特徴だ。 

番の相手は黒に白い腹の模様だった。

この雨止み待ちが自然との扉を開いた。僕ら知的動物は 

この公園に目的をもってやって来る。子供のための 

家族サービスや、歩いて運動しての健康目的や、日曜の 

コロナ自粛の気晴らしとか。雨が降るまで休憩小屋は 

どこも無人だったに違いない。皆、せっせと自分の仕事

をしているのだ。

僕も歩きに来ている。自然のことは忘れて。人間の気は 

彼ら動植物・昆虫にとって殺気と同じである。残念ながら、 

これは事実だ。人間が考える時、意思決定する時、気を 

放つ。これは意識が飛ぶのですぐに感知できるらしい。 

新横浜の川べりを歩いていて、5m先でドボンッという音 

がしたら、それはカメが日光浴をしていて、人間が近づ 

いて来たのを察知して、川に飛び込んだのだ。まだ姿 

も見えていなかっただろう。 


シオカラトンボは2mまで近づいた。何度か来て、近づいて 

ホバリングしてからは、また飛び去るが、また来る。 

なんのことか?想像だが、警戒しているのだ。なにに? 

実はさっきから、番のメスが相手から分離して、一匹で 

卵を生みつける動作をしている。そのすぐ周りで飛んで、 

気遣っているようにも見えるのは、シオカラのオスだろう。 

その大事な作業に邪魔が入らないように他のオスの 

役目で人間の監視に当たっている、というのが僕の 

自然での経験から学んだ知識、そこからの推測だ。 

そして、驚くことにその場で謎が一つできた。その 

メスは踊り場の板の上の水たまりに卵を生みつけて 

いるのだ。たぶん、50回以上は移動して、生みつけ 

ただろう。これはどういうことか?そこは人間が歩き、 

踏む場所で水たまりも晴れれば、あっという間に乾いて 

卵は死んでしまうだろうに。 

初めに気づいたのは、雨が上がるだろう、ということだった。 

大雨になるのだったら、彼らはこの作業をしなかっただろう。 

天候については彼らはほぼ100%間違えないはずだから。 

あとは、今夜か明日の朝には雨が多量に降り、卵を池に 

踊り場の板の上から押し流すだろう、という推測だった。 

どうしてもトンボがこのやり方を最初からしていたとは 

思えなかった。雨が卵を流すという計算がなければ、 

この産卵行動は不可解だった。それとも1日や一晩で 

ある程度幼虫になり、池に流されても卵のままでいるよりは 

他の魚や昆虫に食べられてしまう危険性が低くできるの 

だろうか? 憶測はこれくらいだが、偶然だろうか、雨が 

止んで、薄日が見えた。 帰宅して天気予報は明日も 

雨模様だった。推測は正しいのかもしれない。しかし、 

それを早朝、見届けようというほどの、自然観察の好事家 

ではない。 



傘は車に置いてきたが、それがかえってよかった。自然と 

出会うにはどうしても、向うが隠れて警戒している防御を 

解除するまで待たなければならない。僕らは昆虫採集に、 

魚獲りに、植物・野鳥観察に、と殺気を発散して森や林に 

向かう。その目的のために静かにするのを学ぶが、それが 

どういうことなのかを学ぶことはない。学校でも聞いたこと 

はない。それで僕らは自然はそこにあると思っているが、 

そこにあるのは人間を察知していち早く姿を隠した、異常な、 

自然の営みのない自然の状態なのだ。逃げるもの、隠れた 

ものを追いかけていることを知らないのだ。彼らがいつもの 

活動をするのは、皮肉なことに人間が人間であってはなら 

ない、そういう儀式を必要とする。 

そうしてそれを知った者はそこには新しいことが頻繁に 

起こり、退屈しそうもない千変万化の世界だというのを 

わかってしまうのだ。大抵は動植物・昆虫の一分野で 

マニアになって、偏向してしまうのが惜しい。 



雨は今度はぶり返して降ることはなく、傘はいらなかった。 

市役所の駐車場までと、また家の近くの駐車場で車を置いて 

からもついに降らなかった。



公園で拾ってきたもの ::

IMGP0005.JPG

カラスの羽。

IMGP000455.JPG


バッタの踏まれてぺったんこ。
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夏はウスユキ草に会う [夏]

選曲をしながら、だんだん何もかもがわかるような、

そういう幻想な中に入る気分になる。 

なにかでありたい、または なにかになりたい、と。 

それは自分を離れてゆく、遠い、 遠い、 気になる。 

自分を忘れたいのだろう。

どうして今の自分では満足ではないのだろう? 楽しく

ないのだろう? 

特別、なにかの苦しい、悲しい時間ではなくても、その

なんでもない時間に耐えられない。それは無意識に

自分と対面してしまう時間だからか? 

なにか心に気分を盛り立てたい。心動かされるもの、

そうでありたい。 夢を語るものが多すぎる。 

僕らは夢の洪水の中にいる。溺れても、アップアップ

しないし、さらにそれを求めようとする。

そこにはなにがあるのか? もしくはなにがないのか? 

寂しさは、どこから生まれるのか。僕らをなにに誘うのか?  

一人でいたくないのは、なぜなのか? 

この日常的なことが、よくあることがなにも問題ではないか

のように、日々はそれを無視して過ぎ行く。

物もことも、それらを背景にして僕らが要求をのみ込む

ように、立ち上がり、作られ、広まる。 小さなパレードや

お祭りごと、そういう飾りやショウウィンドウが花開くように

多くの製作者が集まり、いろいろと事業を展開させてゆく。 

この一連の大騒ぎをドラマ化するのが仕事であるかの

ように、一大事であるかのように発展させようとする。

そういう一連の作業が僕らの文化であるらしい。 

そういう一連の作業が僕らの目標であり、目的であり、

今や生きがいであり、それこそがなにかであるのだ。

皆がこぞって称賛して、その価値を高める。それで

自分たちがなにかである、と思うから?それで自分は

価値があると思いたいから? 

なにかを協力して作り上げる素晴らしさが、僕らの

なにかであるから?  そこには確かに、なにかがある。 

僕らの精神や心を形にする、なにかがある。でも、

それは幸運な仕事の部類とか、運よく自分に合っていた

ツキとかに分類されると思う人は、すべてがそうではないと

知るほかはない。そこからも寂しさは生まれているのかも

しれない。

そこでは逃避の恰好で夢を見るのだろう。そういう人たちが

少ないのならば、金が稼げる風のプロのスポーツ選手や

映画俳優とか、テレビ局にCMで大金を払う企業もなかった

だろう。 

どれほど夢を見たがり、それを憧れる人がいれば、社会は

こういう風になるのか。バーチャルのキャラクターが死ぬと、

実際に葬儀をしたり、なんらかの舞台が設けられ、そこで

演じたりする。現実に存在しないものに価値を転嫁させる

のは何がそうさせているのか。それは僕らに違いない。

これは僕らがそういうものを創造すること、単に想像する

のではなく、そうしてきたことを望んで、長く長く、くり返して

いるのではないか、と考えてしまう。

僕らは心に誓うと、ほんとうにそうすると、それを創る能力

がある。インドの聖者のひとりは、ただの人だったが、古く

からの伝統の女神に会いたがった。何年も希求して、もう

これまでと、あなたが私の前に現れなければ死ぬ、と

決心した。そして、息も絶え絶えになり、気絶してゆく、

その中で女神は現れ、彼はそれを信じ、教えを説くように

なり、聖者になった。僕はインドでその聖者に縁のある

ホテルにしばし、泊まることになった。 

人が思いつめると、どうしてその現象がその人にとって

はまるで現実のように心に結晶化するのか。人は

死ぬ前にどうも自分を助けるように思えてならない。

(精神の死についてであるが)インドではそうして

生まれた神が多いように思える。その人が神という

バーチャルを固定化する。それが強いと、他の人にも

それが見えたりする。それほど、人の一念は強い。 

その人にとって、その神は真実になるだろう。

初めはバーチャルだったかもしれないし、誰もの神には

ならないが、その人にとってそれが中心を占めてしまう。 

聖者もなにかが貧しくて、そこに希求するしか自分を

救うことができないと思ったのだろう。それはその人の

人生なので、誰かが無理強いに否定することじゃない。 

でも、僕はその道を取らなかった。 

そう言えば、なぜだろう?それは僕には当然のことに

思われて、疑問には感じなかったからだ。寂しさから

神を創ることで、心を平安にしなければいけなかった

人はいるだろうけれど、僕はそうしたくなかった。

僕は人間として人間でありたかった、たぶん。神という

イメージは人間が作り上げたものだから、決まっている。

僕らを愛し、僕らを守り、僕らを平安に導いてくれる

ありがたい存在として、皆イメージしている。  

だから、だ。僕は自分に守られ、自分を壊したら死ぬと

思っていた。ある意味、それは正しい。それにはエネルギー

と柔軟な駆け引きが必要で、かたくなな心ではなく、また

肝心の処で踏ん張りきる力が内在していなければならない。

でも、そうではなく、自己を突破する者は無意識にでも

そうして来た、過去には多くの者が。

僕の場合は悲惨なほうだったのだろう。半世紀も死と

隣り合わせで生きなければならなかった。それは非常な

緊張とむなしさとを伴った。それに釣り合うエネルギーが

求められ、精神的にはタイトロープの上だった。 

だから、僕は一般的な神の概念を推奨しない。安心を

求めるのは安易さを容認してしまうことだと、思ったから。 

でも、今からはそれを解除しようと思う。そういうものが

あろうがなかろうが、僕らが人間であることには変わりない。 

蟻は蟻だ。僕らは人間以上にはなれないし、その必要が

ない。と、今は言えるからだ。

僕の前に、これだ、と言えるようなものはなにもない。 

それはそうだ、というものではなくて、僕がそうしたのだ。 

世界が理解できたら、それをすべて捨てる、それしかない

と感じたから、そうする。それだけの話なのだが、あまりに

単純なことで、理解しがたいかもしれない。 

こうしゃべることが、いかに気持ちいいものか。それは

プライドじゃない、素直さのことだ。ほんとに思っていること

を、これがそう、と言えるのは素晴らしい。なにかそれを

小難しく証明するように言ったり、言葉を工夫しなくていい。 

ただただ、それだけを言う、それだけだ。 

ひとつひとつ取り上げて、これがすべての証明だみたいな

話や論調はいらない。今まで散々言ってきた、言うことは

なにもない、というのがほんとうになってしまった。そんな

感がある。あるよ、ほんとに。 



清明さ、という  

山脈が  連なる、  

荘子は  そういう時に  巨大な 

鳳凰になり   天地を  抱きかかえた、 のだろう  

羨ましい  

まことに    まことに   

稀有壮大*、  という  

人が  世界になる、   そういうもの  

僕は  街と コラボして  

夏には  薄雪草と   会って  

電車では  駅弁を食べ、  

また  

縄文や  アイヌの人に 

逢いに  行きたい  





*
正確には、「気宇壮大」らしい。が、この書き方が

広まっている。定着することもある。
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