SSブログ

夢は感傷的に、もっとセンチメンタルに [感傷]

僕は  学び屋 だった。  なんでも、 なにかから

課題を見つけて  そこからそのテーマを  自分の

ものとして考える。   そんなことをしてきた。  

そんな学びが、 長くあった。  

映画やTVのドラマ番組を観ても、 そこに感情移入する

のは、あまりすることではなかった。感動は来るときに

くればいい。それよりも、その主人公なりが、どうして

金を稼いでいたのか、このストーリーのどこで生活費が

出ていたのか、工面できたのかは、最も気になること

だった。中学生の頃から、経済学に興味があったが、

当時の経済学はまだ未発達で、人心の流動性や

無意識な購買傾向という心理の考察にも欠けたもので、

肝心の金融のバックについてが抜け落ちたものだったので、

役に立つものではないと、わからなかった。 

ただ経済が世を動かしている原動力の一つだという勘が

あった。そういう学びの傾向は、それでいつしか経済には

向かわなくなった。1番ではなく、2番以下になったのだ。 

それでも上位だった。  

だんだん、お金がどうでもよくなってきたからだ。お金を

自分の運命から除くのは、ふつう怖くてできない。生活は

どうなる?とすぐ不安がのしかかるからだ。 

この時の課題が、お金なしでもどうにかなる、もしくは

持っている人から、金のある処から調達すればどうにでも

なる、と思うことだった。 

まるで笑い話だが、お金なしでも生活できるのじゃないかと

考えた。それはバイト生活で資本主義がどういう下層住民

を生んだかを見てきたバイトや下請けで長年苦汁を舐めて

きた生活熟練者が思うことではない。逆にお金の儲け方とか、

貯め方、投資の仕方、商売の仕方とか、集中するようになる

のなら、わかりやすいのだが。 

僕にはお金が見えなかった。僕らが同じ営為でお金なしで

同じ仕事をして、同じ作物を作ったり、事務仕事をして、

同じ生活をして、そのお金がしていたやり取りを、誰もが

見えて納得いくものになっているのだったら、その具体的な

方式やソフトはできていないが、そうだとして、僕らが自然と

社会生活を営為しているのなら、僕らはこのまま続けられる

のではないか、と。コインやお札は食べられないが、畑の

生産物は見えないお金で売られて行き、清算も銀行がする。

ただし、銀行はボランティアの仕事で、誰も金利は払わない。 

それがうまくいくかどうかは、まだ未確定な問題で不確かだが、

問題はそうであっても僕らは同じ仕事をしていられるし、物流や

販売で同じように店で消費を、つまり購買できるのではないか。

お金が世の中から消えてしまっても、畑や田がなくなってしまう

わけではない。衣食住は僕らの労働を対価にして続いたように、

仮置きにして仕事を続けることで、どこかの破産はどこかの

利益超過で調整できるし、衣食住に関わらないサービス業も

書類の山も、データの山も捨ててしまえばいいのではないか。

という、世の権力からすれば、とんでもないことを考えていた。 

それでは税金も搾取もペーパーマネーも成り立たないから。 

もっと単純に僕らがそれが正しいと50%が認めたら、それは

できてしまうのだが、その前にそういう価値観を共有しておかなく

てはならない。軍隊も警察もその国に必要な道徳律だけで

すべてを取り締まる。軍隊は要らないだろう。その時は

世界中がそういう認識で一致しているだろう、少なくとも

50%が。 

そうすると残りの問題は、武器を所有して、平時の民衆から

略奪・簒奪する者たちをどう阻止するか、となる。それもどう

にかなるが、答えは今、要らないだろう。  

現実に戻ろう、  

ある程度の現金は毎月必要になる。それは多額ではない。

自給自足に近い生活でも、山奥でも電気・機器が必要だからだ。 

そういう細々したことを問題ない、と割り切れない。生活が

あるから、と考える。だからこそ、そうではない、と僕は考えた。

それでどうにかなる、というのは信じがたいし、狂気の沙汰と

思う人も多いはずだ。 

そこに僕の反抗精神が応じて、自分を信じてみようと思った。

お金がなくても、そこまでいったら、どうにかすればなんとか

なるのだ、と。どうしてそんな無謀なことに、任せられるのか。 

それくらいなら、いや、それ以上に厳しいのがこれまでのチャレンジ

だった。そう思う。だから、これくらいのバカをやらないと、それを

越えられないのだ。生活は一人ではないから、子供が巣立つ

までは待たなければならなかったが、親の遺産もすべて使い

切った。生活費のことは大まかにしか考えずに、海外でできる

ことをしてきた。世界を、日本を知ること。 

3年前には借金生活になった。計算は強かったので、50万に

なった時に100万になったら、その返済と生活費で毎月いくら 

必要になるのか、はじいて初めてゾッとした。それまで平気で

暢気なものだった。就活もしたが、数か月、いやもっと落とされ

てもなんてことはなかった。そういう風に自分を信じてみたのだ。

でなければ、すぐに先のことを考えて、震えあがっていたのだろう。

なにも考えていなかった。それで計算をしてみて、初めてこれは

ヤバいとなった。何を今更、なのであるが、その時まで借金が

いくらであろうが、なんの心配もしなかった。そういう風に信じた、

と言ったが、それはそういう風にするまでには、なかなか葛藤が

あった。すぐに心で承知できたのではなかった。どうにかなる、 

というのは、どうにもならない時を含んでいる。その時はどうする

のか?その時に、僕は気がつかなかったが、無意識に山に

帰ったのだろう。暖かい日の、清浄な山の空気の中で草を食べて

いた。それだけだったら続かないだろう。ではどうするか? 

答えは簡単だ。食うものも食えなくなったら、飢えて死ぬのだ。

そう思ったら、肩の力が抜けた。なんだ、そんだけのことだった

のか、と。ほっとした。今までに幾通りに死んだだろう。今度は

肉体ごと、そうなるだけなのだ。なんだ、それだけのことか、と

ある程度は終活も必要だな、と思ったぐらい。  

それはもう10年以上前に思った想いと同じではないか、と

思い出した。その頃は生きるのにうんざりしていた。もう生きる

のは退屈との闘いばかりだという想いだった。その時は、

無意識に飛び込むという無茶をやって、また人生が開けて

しまった。 死や愛を具体的に感覚的に陶冶するように捕らえ

られた。  それは散々、書いてきた。  

100万になったら僕の労働や投資キャパで稼ぐのは大変と、

何年振りかでビビったら、あっという間に就職が飛び込んできた。

今までで一番楽なのに、一番高給で、数か月で借金が終えて

しまった。それから一年後だった、コロナに見舞われたのは。 

その前に、岩場で岩に頭を打ち、海に落ちて半分死に

かけたが、 ・・。 

確かに、平穏だとか、運がいいとか、ぴったし言えるような

生活ではなかったが、ひとつ、どうにかなっていることだ。 

なぜ、膝の激痛に耐えて、それを医者なしで治してしまえ

たのか?僕の意志を越えてそういう風に働きかけたのは

誰なのか? 強敵コロナで外に敵がいる時には、どうして

内部の敵?の持病は去年のようにぐずついたりしないのか? 

ぶり返さないのか? なぜ、なにもかもバランスが取れて、

一方的に負け戦にならないのか?僕は僕でライフワークを

それなりに相変わらず、進めることができている。 父は86

まで生きた。100まで生きる、と言っていたが、それがよく

わからなかった。 頭がおかしいわけではない。そうまでして、

100までという時間を自分でいたいという気持ちがわから

なかった。僕はもう生きるのはうんざりしていた頃だったから。


今はもうそのことに、積極的にも、消極的に死んでもいい、

とかは思わなくなった。恐ろしいほどに自分は変遷して、

めくるめく生活は変遷・変化するから、何もしていなくても。 

僕が今は5000冊だが、その本を集めた理由について

思い当っている。本は僕にとって、幻滅と夢なのだ。

現実に(ノウハウではなく)役に立つことはない。僕には

つまらないことばかりだ。それは全体の印象のことで、

本は僕に細かさで時々、新しい印象を与えてくれる。 

僕はその印象を夢に託して、新しい世界を創造できる

気がする。だから、いくら本があっても足りることはない。 

そして、まともに読む気も起らないのだろう、ただ、そこ

かしこを読む。最も贅沢な読み方になるのではない

だろうか?と思っている次第だ。その著者の言わんと

していることでは僕はうんざりするが、その述べる過程

で多くの宝が、宝石が眠っていると思う、思える、という、

そう云う訳だ。それで僕はその本の中身ではなく、本

という造形が本棚や部屋に散乱、積み重なっている

のを見るのが楽しいのだ。本という存在へ愛着を感じ

ているのだ。それで未だに、一冊を通して読むことに

こだわらないのだろう。本という物質が好きなのだ。 

中に夢がある、ということに寂しさや郷愁、時には

恐ろしいドラマ、あり得ない事件、そういうものを

予感させられる、それが好きなのだ。 

お金は要らない。僕は夢を食って生きる。 生きれる

だけ生きればいい。そして、終われれば、それが

いい、最高に、  ・・そう思う。 

そういう夢は、なにも本ばかりにあるのじゃない。

すべてが、     ・・いや、
      

朝の光りに、  

扁平な君でも  その横顔は、  

肩にかかる  長い黒髪、  

夕に 美しかった  枯葉の緑が しおれ、 

ブロック塀に 咲く珍しい花は  

取れば、 わずかな根も  涸れてしまうだろう、 

明日は  雨を 教える

野良猫が  エサをと、 前日に、 

風は  冷たく、  

陽射しは  あたたかい、  

1秒の狂いもなく、 信号が変わって

少し遠くから 歩いてきたのに、  

なんでもないのに   僕らは なにかであると  

信頼するものがあるのは  どうしてか、 

奇跡でもないのに  僕らは  

生かされていると、  考えるのは  変なのに、 

子供のころ、 

王子や お姫様、 

冒険や  英雄の話を  創っては 

それで   遊んでいた、 ・・
  

夢を 食むのは  同じらしい


・・・・そう言ってしまうと、雀のように

僕に群がってくる夢の子供たちを思い出してしまう。 

僕の愛する子供たち。 ・・・・・・・・・・・・・・、  

人間には ならない 子供たち、 


きっと   そうなのだろう  


いつまでも、  ・・・


nice!(12)  コメント(2) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。