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呉越同舟のうざい様相 [うざい]

(長すぎたので、2回分に端折って読んでちょうどいい)


呉越同舟は呉という国と争っている越という国が、一時 

手を組んで共通の敵(または災害)に相対する、そして 

恨みも忘れるだろうという故事で、敵同士が 同じ船(目的) 

で一緒になることをいう。 中国の「孫子」からの故事。

僕等の人間観関係はもっと複雑で、そこから中国の 

春秋時代はもっと人柄が素直で、そういう故事が生まれ 

やすかったのだろう。 もっとも呉と越は37年争いを続け 

たそうだ。ヨーロッパでは、14世紀から15世紀にかけて 

イングランドとフランスとの間で百年戦争があった。これは 

領土の所有権をめぐっての争いだった。17世紀には 

カトリックとプロテスタントのあいだで宗教で争いが起こり、

次第に各国が加わり、これが30年の宗教戦争になった。

戦争が長引くのは、いつもそれが教訓だけでは、また 

語り継ぐだけでは抑止にならないことを示している。 

歴史は感情という要素が大きい。それは原因ではない。 

それは人々の感情が煽られ、為政者の思惑に従い、 

利用されるからだ。政治が操らない戦争はない。利益や 

意固地が導かない戦争もない。被害者である人びとだけが 

そこに参加するのは、せいぜい実戦で、弾に当たらない 

為政者の犠牲になるのみだ。だから、そこに戦争の悲惨の 

現実と真実がある。しかし、それだけである。 

常に人々はその国民感情を煽られ、利用され、戦争の犠牲 

であり、為政者・権力の理屈のあおりを食うのである。 

しかも、常に騙され続ける。そうして責任の一端を家族の 

死や苦痛によって支払わされるのだ。 

パレスチナ問題はそこに聖地エルサレムがあることによる。 

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地が共通のエルサレム 

だからだ。20世紀初頭にユダヤ人国家イスラエルを建国する、 

という宣言から緊張へ、そしてユダヤ人とアラブ人は戦闘へ突入 

した。キリスト教のプロテスタントとカトリックの争いよりも 

より複雑な様相を帯びている。 

停戦を幾度かして、そういう小休止の年間をはさみながら、 

戦争は継続している。通算で、2021年で百年を超えたところ 

だろう。 これは旧約聖書から関わる、古くて長期の問題で 

謂わば、西洋精神史だ。1000年の問題だから、2~3000年 

は解決まで直線で進んだとしても、その時間が必要だ。その 

期間を短くするのは、誰かが神の如くな力を行使できれば、 

簡単なのだが、 ・・・。 

それはエルサレムをまず、最初に沈めてエルサレム海にして 

しまうことだ。初めにエルサレムの地を3mほど沈めてしまう。

それから世界に提案する。10年間の余裕を与えるから、全人民 

のそれぞれの(貧民からも)代表を同数だけ選出して、平等な 

領土・国境・安全の保障を話し合い、宣言せよ、そうすれば土地 

を元に戻す、と。 さもないと、3年後にはさらに10m沈んで、 

オランダと同じと海抜にしてしまい、1年でそこに海水を満たして 

しまう、と。 ま、夢の話でそんな人は現れないだろう。 


それが別な解釈・提案の呉越同舟だ。 

その詳しい分析をすると、ほぼ感覚的な仮説にすぎないが、 

少しは見取り図の替わりになるかもしれない。 

敵を憎むと言っても100%憎むのは心の構造上?できない。 

表に出る部分が70%以上になって、残りは引っ込んでいる 

からそう見えるし、行動もそうなるからしかたないが、争って 

いても両国にまたがって彗星でも落ちてくるのがわかったと 

したら、協力して対策をせざるを得ない。その時、憎しみは 

お預けになる。どうなるのだろうか? 

たぶん、70だったら、49以下に抑える。初めから残った 

20か30を協力する体制を高める。それは嫌いの感情を 

抑える力と融和の感情と知性を高める力に分散されるので、 

バランスを取りながらするので、強力なリーダーシップも 

必要になるだろう。迅速な機動力がことを左右することに 

なるからだ。 このことが理解されるのならば、呉越同舟の 

仕組みのおおよそは想像できる。それは僕らの心に起こる 

ことと同じなのだ。理性的なるというのは、そのことをいう。 

僕等は心のリーダーになり、お互いに反する感情の分離を 

ある仕事で協力して、バランスで両立するように指揮しなくて 

はならない。無理を少なくして、我慢も自己主張もうまく配分 

させること。大変だが、できないことではない。 心なら、 

世界の強国のように(隠された)嘘をつく必要はないから。 

そして、それができないことが僕らの戦争状態を長引かせ 

ている。これを大局では心の問題は世界の問題と同じだ、 

と結びつけても構わないが、大事なのは小局でも大雑把には 

同じ部分から異なる要素に分かれる部分が広がり始める 

ことだ。これはそれぞれ個人の事情が異なるのを思えば、 

速く理解できるだろう。  大元は理論的に言えるが、実際は 

複雑になりゆくので、その理論ですべてを押し通そうとすると、 

間違いを犯すことになる。 

それなら、そこで呉越同舟を思い出しても、いいのではないか。 

あなたとあなたがこさえた自分という世間、その間にある、 

本来の争いがあるはずなのだ。それをどちらかがどちらかを 

抑え込もうとして、争い(不適応からの葛藤、自分同士の抵抗) 

になり、それが不安や迷いを誘って、それが憂鬱や孤独を呼び 

寄せる。どう?簡単なシステムでしょう? 

ここまでは以前にも語っていたことなので、呉越同舟を例えに 

出しただけで、新しいものはない。 

自分をもう一つの側面から見ると、それは僕らが子供から 

青年、大人へと変わってきたことがある。その間、自分は同じ 

だったか?同じだったら、気持ちも考えも変わることはなかった 

だろう。だから、自分は体に成長戦略があるように、多少だが、 

成長はあった。自分が萎縮するのは自前のもので、体より早い。

それは自己保身や経験の失敗を固執することや老化へと反応 

することで自己証明されているが、細かくは意見がいくつもある 

だろう。自分を知るのは、推奨されているのは知っているが、 

流行らない。なぜか?いいことだと哲学的に思われているが、 

教育項目にも上らない。それは誰もが嫌がってしないし、誰もが 

嫌がるだろうと、内心、知っているからだ。それは内面的なことで 

知識を身に着ける、向上心や好奇心を満足させる陽性な面では 

ないからだ。むしろ、陰性で自分を止めなければならない。 

自分は日々、進化していってしまうのでその時にその場で止めて、 

チェックしなければ知ることができない。それもただ止めるなら、 

道徳で縛ればいいが、それ以上に無意味なことをしなければ 

ならない。 

動かない・退屈・無意味と来ては、ただ苦しいだけだ。 

そして、肝心なのは、自分を殺すことだ(精神的だが)。 これが 

最も大きい要素だ。生きるのを精神で止めるのだから、それは 

体で言えば、殺す、精神を殺すことだ。これが自然の本能に 

逆らうことになる。それを本能的に感じるから、正しく反応して 

僕等は自分を知ろうとしないのだ、挫折した時とか、必要な 

範囲でしか、それに出会わない、出会おうとしない、真の意味で。 



動いて変化してゆくものは、一緒に流されて生きるのでは、 

同じ時間にいることにならない。外の影響に寄り添った時間に 

支配されている。それも自分を止めてみないとわからない。 

誰も自分を殺す時間を持ちたくない。それが自分を知るのに、 

根本的な難関になっていると、僕は考えている。 

だから、これまではその必要がある人だけが、その道に入った 

ようだ。上山春平という人は若い時、縄で首つりをしたが、縄が 

切れて、2回とも生きてしまった。空海が自殺しようとして、 

やはり3回死のうとして、奇跡的に3回とも助かってしまう

伝説?を知っていたので、そこに縁を感じて、自らも仏門に 

入った。哲学者となり、京大の名誉教授になった、とか。 

悟りに関わったのだろう、空海も上山も。 

これまではそういう少数派がその伝統をつなげてきた。 

しかし、なにしろ自分殺人をできるか、という考えさせ 

られる事件だから、これをうまく裁判で審判を下せないだろう。 

というのが、一般に考えられているようには、自分を知るという 

作業がむずかしい、ということだと。

さて、ではそれではそれに対して、呉越同舟を利用して、知る 

行動に役立てられるだろうか。ま、今思いついたので、(心もと 

ないが)心は確かに一度止めて見渡し・見透しをよくしないと、 

見たものが見ていないになってしまうだろう。まず、自分の内の 

敵をどうにかしないと。

人の肉体を殺すのは単純なことだが、社会でそれを隠し、生き 

延びるのは大変困難だし、予想外に後悔に責められる人、 

亡霊に悩まされる人がいる。それもそうだが、ばらばらの肉体

から、または死体を蘇生されるのは、今はできない。 

それで精神を殺して、または殺すほどに止めて、そこから 

蘇生するのは、その帰った精神の健全を保証したり、安全を 

宣伝はできないから、そこはほんとうにそうした変人しかいな 

かった。僕は通ってしまった道だから、振り返ることはないが、 

精神を守ろうなどと考える暇はなかった。残そうと思っていたら、 

その何かには触れえない。わかるのはそれだけだ。 

そう思うと、指が止まる。感興が蘇ろうとするからだ。夜に  

広がるどこまでも光速で進行する彷徨、そんな夜が幾夜も 

幾千夜もあったではないか。

疲れるな、そんなことしか言えなくなったか。ああ、今言い 

たいのは、たぶん愚痴なのだ。それは言わないでいいこと。 

僕等の暗黙の了解ではないか。どんなにそれめいても、 

それがユーモアやプラスの言葉で昇華されなければ、 

人には受けない。僕らはそういう消化を求めている。 

小説やドラマでも読者や視聴者を意識しない作者は 

存在しない。だからと言って、それがどうしたではない、 

というのも変だ。残り心、30%からそれらしきものを 

探ってみる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、 


昼間、 空気は夏の香りがした。  

曇りで、 湿気は80%だそうだ。その匂いなのだろうか。 

それはやはり、過去からの記憶からだった。 あの頃の 

夏はこの空気だった。それは数字ではないばかりか、 

想い出の雰囲気の、わずかなかけら、というのも 

かすめた。

ヤバい、 かなり。 

生きてない。 なにに対しても、すべてに無関心だぞ。 

ヤバい。すべて 無意味に見えるぞ。 

涙にかなり感動しやすいのに、環境にまったく無感動。  

それもリズムや回転スピードで。 

誰かと 話せば  手がかりがつかめる。お互いの反応を 

チェックできるから。夜勤のお姉さんとか、どこかにいないか。 

かなり、ヤバい、 相談者。   クライ、 CRy、 

答えは  そう、歌詞にもある、 わかりたくない 

とても きれいだ    そうか?  

積み木だって   やたらに  組み替えられない  

そこを抜いたら、  全部崩れても  ありおりはべり、だよ 

腸詰めのソーセージに  なって  

筋肉のなかを  滑っている  

まだ、 終わらない、  エッ、  なんで? 

ここは  逃げ場所じゃないだろう、  

ちゃんと  見つめようよ。  

どうやって僕は、逃走した自分を捕まえているのだろう? 

そんなことは思ってもみなかった。自分を見失うから  

詩想が、意識の断片となって彷徨するとは。そういう 

カメラの位置は想像しなかった。

ところで、 と、聞きたいよ、 君は影だから、僕を見ても 

いないし、それどころか、わけがわからないのだろう。 

僕は君をそれなりに列に並ばせて、調整していたつもり  

だったけれど、自分に必要な、例えば栄養素のようなものを 

忘れていたのじゃないか、と思ったりする。 

これは何?ときみに尋ねたりする質問じゃないのだろう。 

僕はそこで君を梃子にして心をかき回してたんじゃ 

なかろうかい? それを希薄にしてしまうと、僕の知性も 

薄い割れやすいガラス板になってしまうのか? 

今は、その考えについて行く、といった形で 

スピードに乗ろうとしている。 

疲れか?その考えの尻尾につかまっているのが、 

やっとなのか?  今の日本の新しいポップが一番、 

聴こえるのは、なんなのか?  

ああ、おかしくなってるな。 ヤバい。 

酔っ払いの酔ってないと言う、その状態なら、 

この状態は、なに?どうした? もどってくる? 

僕は、  なによ、 ?  (笑)  

僕、  ボクボク、  ハ、  なによ。 

・・・・・・・・・・・・・・・・、 

どうした?   もう  終わりか  

かげり、  かげりが   ないな 

皆で  楽しむのもいいな、と  

それが どうして  童謡になるんだ? 

また思い出す、すべてを平面化してしまう 

精神の のっぺらぼう  

この世のすべてを 借りるから  すべての  

感動があった  それの連鎖というもので  

しぼりだすんだ、  青春というキャンバス を 

ほんとうに、  フゥ  

これ以上は  ヤバいのかもしれない  

僕にも  自分が 必要だ  

もう、  疲れたよ、   いい加減  

もうどこを  歩いて行っても、  どこにでも  

場所は   あるんだ。 

だからどこへ行ってもいいのなら、 誰が 

迷うことができるんだ? 

どこ 行っても  いいんだよ? 

間違えても、 なんでも どうにか  なってしまう  

どうにか  できてしまう。  

それって  八方ふさがりと  どう違う? 

あれ? 玄関、チャイム   鳴ってない?  

もう  終わっていい?  

雨が ほしい?  光が ほしい? 

愛とか、神とかが   ほしい?  ほんと?  

もう  島の港では  

緑の 光虫が  刺激に反応して  

海面は

エメラルドに  発光しているだろうか? 

もう  子猫は いない  

皆、  記憶になった  

言葉って  記憶のこと、だな  

時間の経つのが  早い、早過ぎるほどに  

そして、  眠らせない  

この 怠惰、  もったいない  

このだるい 快感、 もったいない  

微熱がある時、のように  快なる哉。 

のさばれる時に  のさぼっておけ 

サボれる時に  サボっておけ  

明日がある、と  思える命が  

あるうちに  どう? そうではないか?  

この夜が  いくら続こうとも  

一度も  ただの一度も  明日が来た、 

という 体験はなかった  よ、 

よ   よ   よ。  

無計画に  寝てしまおう。  

君が  そろそろ、急に  沁み込んで  

来る 前に  

確かに  救われたような 気持ちって  

えらい  心が楽になる  無性に  

無計画に  祈ってしまう  

感謝してしまう  

明日もまた  シャツを 腕まくりして 

なにをしてもいい  日々を  過ごすんだろう 

街は  ここにある  そこにある  

僕だけ  くり返していない  日々は 

ああ、  痛いほど   自在だ  

やりきれない、の  反対で  

やりきれる  

やりきれる  

だから  明日が   来ないんだ  

やりきれるって   なんのことだか、 

大きく  息を  吸い込んで  

世界の空を  吸い込んでしまう  

胸が  青い光の  反射に 

放つ!

とかは   ないんだよ。 




::
明日や希望は気持ちの内にある。が、考えの内 

にはない。素直というのも、何に対してかによって 

ひどく景色が変わる。しかし、矛盾と同部屋に 

同棲するのも、慣れたのだろう、その替わりに 

自分が矛盾に変身する。
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