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知と解剖 概知の~探る7. [思考]

じっとしている。特に、待っているというのでもない。

待つと、早く来ないか、という焦りを感じるが、それはないから。

来るとか来ないとかではなく、なにも待たずに坐って、待つような構えをする。

ずいぶん、おかしな心象の態度があるものだ。言ってみると、今していることが、

一見おかしなことだとわかる。

あまり言わないほうが身のためだということを言ったよ、という本が書かれて

いるが、それが少し増えたかと思うが、そういうことなら自分にも似たことが

言える、と誰でもが思うのではないか。僕の場合は本の直訳的な感想を述べる

ことで、それがとても無駄に思える。自分で本を読んでその感想をいくらでも

持ったりするのはそれなりの良さというものがあるが、それを人に伝えると

いうのは、才能の無駄だ、と。伝えるほど面白く書ける、ということだろう

から、それはどんなに真実とか真理とか標榜して、真摯に書いても所詮は

人の書いたものを評価する、評論するという、二番煎じ、四番煎じになる。

原著でさえそれは一個人の感想である限り、特殊なものである。それをまた

特殊な一個人が色をかぶせて評論するのだから、重ねれば重ねるほど色が

変わり、どんなさわやかな色でもどんどん黒に近づいてしまう。

特に、例えばマルクスの考え方を借りて、ある抽象を論じるとなると、

その著者はどうマルクスを理解しているのか、それによってその本をどう

読み解くのかが変わってくる、というのは厳密な意味でもなく、当然のこと

なので複雑極まりない。それでその論点の欠陥を見つけても、その著者を

批判するのか、マルクスを批判しているのかわからなくなる。

そういうことで読書感想会などで議論になるのはその議論の元になっている

ものからは離れた誰のものでもない論点について議論していることになるので、

そもそも無意味だ。議論する価値などありはしない。あるのはその論について

自分のほうが理解しているというプライドの主張だけだろう。ディベートの

ためにやっているのならいいだろうが、そうでないなら、始末に終えない。

だから、非常に目端の利く哲学や評論を語る人が、簡単に陥ってしまうのは

一人ではどうにもならないが・・、とか自分にはそれだけの力がないとか結論

から次に進まず、悲観に落ちてしまうことだ。

つまり、状況の整理という頭の整理はお上手だが、現実問題としてどうするか

と考えると、立ち止まってしまうことだ。言いたいことは言える、答えは

それなりに出してしまえる。が、その先が暗い。結局、どうしようもない

という結論を抱えてしまうからだ。

これは単純な「知」というものの持つ本来のミスで、思考の世界から行動の

世界へは意識のジャンプをしている。自意識で考えるが、なにかをしている

最中は思考は行動にまつわる計算思考だけで、それもない場合が多く、

ほぼ無意識状態でないと、ジャンプとかの実際行動はできない。ジャンプ

しながら今4メートルだから、あと3メートルで世界記録なのでそこまで

飛ぼう、とか反省はしていない。単に1,2、とかタイミングの計算はするが、

それを組み合わせて、ああなったらどうだ、こうなったらとか考えていては

飛べない。

できないことをしようとするから、それはダメだ、とか自分ではできない、と

なる。反省や頭の理屈からはその否定の結論になるのが決定づけられている

からだ。科学の思考方法はこれと違って、はじめは仮説(反省)を立てて

実験を積み重ねる。この実験(経験)を通して、くりかえして理論通りになる

ものを正式にその理論として認める。それは狭い範囲での経験と仮説との反復

から誤差の少ない理法を発見・確定する作業なのだ。確立された理論は始め

から理論だけで確立されたものではない。量子電磁力学では答えは確率でしか

示せないので、実験をくり返して、理論に修正を加えている。現在、それを

始めてから50年くらいになるというから、驚きだ。

そういうことで知識人や文化人の弱さは、知的結果に寄り過ぎていることだ。

どんな思想も現実問題にかぶせて考えていると、暗く沈んでゆく。知とは

一定の認識世界(概念)を組み立てることであって、現実とは始めから乖離

している。それで自分の人生も賭けてしまうから、自殺も肯定するようになる。

せざるを得ない。そして、自分の頼る現実の妻とか、友とかと死別してしまう

と、寄る辺をなくしてしまう。もう、自分の理論は死んでいるから。

そういう時には、保守とかリベラルとかいった態度は死んだ鎧になってしまう。

正しいことを言っているだけでは、なにが起こるのか実際にはわからない現実

を相手にしていることにはならない。それがどんな答えであっても、その答え

をどうするか、またはどう生かすのか、どう克服するのかが、ほんとうの僕ら

の問題だからだ。答えは重要だが、他人の答えほど頼りにならないものはない。

僕らがひとりひとり出会う問題は一人ひとりが違う人間の対応をしなければ

ならない問題だから、それには半無限のタイプが存在するだろう。答えが

ひとつであるはずはないからだ。その人にはできないことをアドバイスされる

こともあるだろう。

それを本に求めることを考えたら、それは馬鹿らしいことだと気づくだろう。


誤解のないように、以前のことをくり返すが、本やその道のプロが役に立つの

は人間が発明した言語・数・数学・時間・法律・規則というものを学ぶ時に限る。

つまり、漢字辞書や参考書や理系資料や法律全書や時刻表や図鑑や地図やマシンの

マニュアルなどの主にハウツーものの類である。

哲学はその著者の真理との触れ合いの物語であって、それは特に独自のものになり

やすい。真実とかこだわって求めるなら、そこには砂粒ほどのヒントしか転がって

いない。思考の世界でサーフィンして、そのさまざまな哲学世界を楽しむには

いいだろう。そして、どの天才の考える人たちも若い時に本を捨てて、学びに出る

のは、この世間という書物である。その部分ではミケランジェロもダ・ヴィンチも

デカルトもそれを確かめるために人体解剖を行っている。君も、真実を知りたいなら

いろいろあるが、まずは、人体解剖を見学に行くべきだ。

夕陽.JPG

五島列島の夕陽
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