SSブログ

動物からの過去、連鎖の源 [過去]

このところ、日々の印象日記が続く。

内省の印象なので、どれだけ現実的

であっても、想像の域を出ることは

ない。それは表の感想で、内省では

確実に精神に捉えている、と考える。



いつも事実から出発する。空想して

いても、幻想と現実的な想像とは

区別がついている(ハズだ)。

オランダの自然保護区があるそうだ。

オランダは埋め立て地がすべてだから、

自然の地を作ろうとしたのには、驚き

だ。開けた考え方という文化の背景を

感じる。

その保護区でのキツネの親子の生活を

1年にわたって記録したドキュメンタリー

映像を観た。

見ていて、自分の感性に反省が戻って

来ているのがわかった。新鮮なのだ。

春の間にカモが子育てをする。ヒナは

まだ飛べない時期だ。この頃が狩りの

季節になって、ヒナはキツネやカラスに

狙われる。子育てをする母キツネは

狩りのベテランで、わんぱく3匹の

子がいてエサがちゃんと獲れるのかいな、

と心配する必要もなく、なにかと狩りに

成功する。草原なので生態系ができて

いる。そこに暮らすだけの生物の食物

連鎖の余裕があるのである。

ヒナは飛び立てるまでの3週間?だっ

たか、危険から逃れればいいのである。

面白いのは、ヒナでもキツネに追いか

けられると、途中でズッコケたように

転んでそのまま死んだふりをすること

だ。2羽のヒナがそれをやり、キツネ

が来るがなぜかそのヒナの匂いを嗅ぐ

だけで注意が他に逸れる。その隙を

見逃さず、ヒナは素早く起き上がり、

またスタコラ逃走劇をくり返す。

本能と言えばそれまでだが、生まれた

時にはもう組み込まれているのだろう。

ベテランのキツネがそれで戸惑うのも

面白い。

子供を育てるということはその3匹が

独立した時に、彼らのテリトリーも

その草原にあるということだ。しかし、

テリトリーがいっぱいであれば、それは

若いキツネ同士がテリトリー争いを

して、それを自分のものにしなければ

ならない。そこはふつーに過酷な自然

である。そこに居る生物の種類と生体数

などが生態系を微妙に変化させ、それ

ぞれを増減させるのだ。そこには手加減

の一文字もない。

その厳しさゆえか、面白いのはキツネも

カラスも食べ残しを草原のあちこちに

埋める。後で食べるためであるが、これ

は自分の口に入らないことが多い。

それはキツネも同じように、草原の

あちこちに食べ残しを埋めるからで

ある。そうして、秋から冬へは温度

が下がるので、隠した肉は腐らない。

そして、誰が埋めたかわからない肉

を嗅覚で探し出して、掘り起こすの

である。

これはわかっているのかいないのか、

相互に助け合う行動になっている。

最早自分だけのためにではない、

それでも自分のためにと思って

相互秩序を生むかのように、取って

いる行動に思えてならない。

母キツネがエサを加えて巣穴に戻っ

て来ると可愛い3匹がその獲物を奪う

ために母親の周りを走り回る。

しかし、その時が来ると、母親は邪険

に子供らを巣穴から追い出すか、自分

が消えてしまうのだ。もう二度と帰っ

てこない。それがわかってから、子供

たちも巣穴から独り立ちする。

僕はその点に感動するのは、今に

始まったことではないが、今回は

非常にその生活に密着した。干上がっ

た沼から魚を摂ろうと、草むらに

隠れてじっとしている時のキツネの

心境が手に取るようだった。風の

なびき、夕闇に向かう匂い、泥の

感触。そういったものが全編をとお

して感じられた。そして、なつかしく

感じた。

社会での仕事のない今、それがより

よく感じられたのだろう。仕事の時間、

帰宅の時間も、駅も住所もなかった。

今、ここにあるのみ。

まるで、数万年前の動物時代の遺伝子

があって、そこにコンタクトして、

自分が動物であった過去を再び生きて

いるようだった。幻想なら楽しいだろう

に、これは過酷な自然の記憶で感触だっ

た。 明日がないから、明日への不安

も一切ない。代わりにするべき行動に

待ったがない生活があった。

今生きるかどうかで、明日生きてい

たら、腹が空き過ぎて動けないかも

しれなかった。この、夕暮れが来る

ような、何とも言えない感触があった。

人間ならば、街を夕方歩いていて、

どこかの家から醤油やみそ汁の香りが

して、家に帰る歩きを速めるような、

そんな生活の感触があった。

僕らの考えるような弱肉強食の世界は

ここにはない。それは人間の感想に

過ぎない。彼らには明日がないのだ。

その日を生きなければならない。それ

だけがある。弱肉強食を言ってられる

のは、気取ったことであって、僕らの

ささやかな傲慢に過ぎない。

それがその懐かしさをとおして、それ

だからこそ感じられる。いつでも生き

ようとして生きなければ、明日も、

いや今日もなくなってしまうのだ。

僕らはあまりに僕らの見方から動物を

見るのに慣れて、慣れ過ぎてしまって

いる。それで彼らを知らないままだ。


僕は動物保護を訴えているわけじゃない。

鶏肉も豚肉も牛肉もラムも僕は好きだ。

そういう畜産業とも関係はない。自然

環境を残し、作りそこに今の動物たちが

生きることは自然のために必要なことだ。

僕らが必要なエネルギーを不必要に

増産することでも、自然にストレスが

かかっている。それは恐らく、自然に

生きる動物たちを観察する中で自然

の変化をよりよく掴めると考える。

不自然の線引きは難しいが、自然に

絶滅する種は絶滅してしまって構わない。

そうではない、自然に生きる動物生活

が僕らの未来のためには重要な要素を

含んでいる、まだ未知ではあるが、新

発見はいつも自然から起こるのだから、

これからも自然環境は必要な生命維持

の条件を人類のために提示・発見し続け

るに違いないだろう。

だが、それをコントロールできると考え

るほど、残念ながら僕らは愚かだ。

効率・合理的・便利・安心・安全という

世界を社会的に、科学的に、経済意志に

よって実現させればさせるほど、それに

見合う頻度・確率・規模で危険と暗黒・

死をいつか大規模な形で増大させて

しまうという、自然の鉄則をまだ教育

の根幹にさえ置けないのだ、我々は、

僕らは。


そこから歪んだ支配が行われてきて

いる。新聞もTVも正確な報道を欠き、

国の安全に関わる法案も知らない間に

可決される。

僕らは耳のない猿であることに慣ら

されたのだということに気づけない

ような社会にいるということが、

信じることができない。なにかの

おかしさに危機感を持つことが緩め

られてしまっている。

緩んだ感覚なので、酔っ払いになにが

わかるかみたいなことになっている。

そこで根底的なことを学ばずに、何が

本当に何だ、ということがわかるの

だろうか。



僕は過去から発言している感覚に居る。

それは現在を未来のように感じる力だ。

まだ未来も今のように、助けられない

ほどの状況じゃない、ということだ。

過去に戻れとか、動物になれ、とか言う

ような馬鹿げた状況のことではない。

ただ、そういう状況は確かで豊かな感覚

を生む。自分が高校生になったら、と

考えるだけで僕らは高校生の自分には

なれない。

しかし、なれたとしたら、そこにはどんな

感覚野が広がっているか、なってもいない

のになにがわかるのだろうか。

僕らが忘れているのはそのことだ。人類

の起原にも連なる記憶がどうしてこれ

からの存続のヒントにならないと言える

だろうか。 

今というこの地平に未来があるためには、

それと同じくらいの希望に満ちた過去

という場所に立つことぐらい確かな

ヒントはないと思うのだが。 





:::


ひとつの可能性であっても、この

仮説は潰したくなかった。この

ストーリーの中身は長すぎるが、

僕が感づいているのはひとつだ。

それをロハにはできない。感づい

ているのは僕という事実だから。

それがどれくらいかは問えない。

仮説の範囲を超えてしまう。
nice!(15)  コメント(0) 

新しい過去を可能性と見るか? [過去]

まだこの感じが続いて、空想は続く。

未来と過去はイレギュラーな感覚で

その心の表象には触れたのではないか

と思ったが、検討してみるとますます

不思議さがからまるように、実態が

遠のいてゆく気がする。

そして、それが正解なのだとしたら、と

視点を飛躍すると、また新しい困難な

点が浮かぶようだ。

もう数日かで、この感じは離れて行くと

思うので、自分でも気が進まないながら、

もう少しつきあってみる。

天国の夢はもう見なくなったが、地獄の

夢はたまにだが、見る時がある。体調が

悪いか、心象が悪い時に見ること多し、

なので見たいと思う絵ではないが、興味

はあって面白くはある。地獄の何が地獄

なのかはよくわからない。血の池地獄

とか、昔の江戸時代?地獄図が出てくる

わけではないので、いつも目覚めてから、

あの雰囲気は地獄だったのだ、と顧みる。

全体を平均してみると、それは洞窟

が多い。暗いが、夕暮れくらいで、見え

ないほどではない。多くの貧民がバザール

を開いて、何物か売っている。

がいこくじんだ、そう言えば、外国人の

夢ばかりだ。そして、見えはしないが、

誰かが監視していて、トラブルが

起こるとやってきて取り締まる。1度

だけ、そいつらが来たことがあって、

洞窟の住民がそいつらを非常に

恐れているのが、その表情で

わかった。洞窟は広かったり、狭かったり、

通り道は細かったが、壁をくりぬいて

商売の店先にしたり、たむろする場所

だったりした。

こういう夢を見ると、今の自分状態を

調べ始める。体か心かの調整が必要な

時だからだ。そう言えば、最近は随分、

見ていない。

その地獄だか天国だかだが、夢は

まだいいが、そういう亜空間がある

としても、僕には無縁らしい。いつも

誰もいないからだ。これは自分でも

自信のない記憶だが、天国も地獄も

僕が行きがかった時は、いつも誰も

いなかったようだ。天国だからいい、

という訳ではない。そこに誰もいなけ

れば、なんの面白味もない。

例えば、この地球上ですべてのもの

が自分の所有になったとしても、その

時、他の人間がすべて消えてしまって、

自分一人だけだったら、地球の王者

になって、何の意味があるのか。

それでも動物好きで、人間に興味が

ない自分なら、ある程度はいいかも

しれない。だが、次は?

子供が生まれない。ただ一人の人間

として老いて、亡くなるだけだ。

半分は、そういう自然な世界に憧れる

人は必ず、いるだろうが、200人以上

いないと、まず絶滅を迎えてしまうらしい。

交配とか遺伝子や生体のルールらしいが、

先細りになり、一家族では言語も失われ

始める。親が亡くなると、子供たちが幼い

と、他の動物に面倒を見てもらうように

なる。

すると、今までの狼に育てられた子

などの記述を信じると、人間の子は

その育ての動物に近づく。感覚器官も

人間とはまったく異なり、人間なら聴こえ

ないような、かすかな葉のこすれあう音

や小枝の落ちた音に反応することが

できる。手より足が長いのに四つ足で

走り回ること出来て、大人が追いかけても

掴まえられないほど速い。

狼に育てられた子の場合、顔が前に

伸びるように、やや骨格が変形し始めた

そうだ。つまり、狼の顔に似せて。


動物と人間の子と共有なのは、お互いに

野生の間柄が残っている、野生である、

ということだ。どうもここに原点がある気

がする。それは大飛躍なのだが、僕が

過去にいる気がする、というこれまでに

書いてきたことである。

未来が天国であろうと地獄であろうと、

それを見て、誰もいなかったら、僕は

それを拒否するだろう。今、という時点

は未来とともにあり、本当の未来はない。

それは夢などの思考が意識と形作った

知の構築した未来であって、ほんの

近未来だけが重なっているものだ。

正夢はそういう事情なのだろう。近未来

を見るが、10年後に、ああこの目の前

のことを夢に見た(10年前に)という人

を聞いたことがない。

近未来、それがうるさいと感じるのは、

知がうるさいからだ。しゃべり過ぎる

のだ、知の未来は。

動物も子供も、知の未来は生じない。

認識は主に感覚によるもので、知は

たぶん、生体で未発達に留まっている

からだ。チンパンジーが人間とDNAが

200個(基?)ほど違うだけで、見た目も

あんなに違うが、子殺しや、詳しくないが

動物では珍しい、人間じみた犯罪?を

犯すらしい。

簡易な算数はできても、数学はできない。

言葉の区別ができても、俳句は歌えない。

認知症になった父の施設での短い期間で

その行動を見てみると、外の景色が

見える椅子を自分の場所にしていて、

誰かがその椅子に座ったり、眼の前を

塞ぐようにすると、怒る。それは外を

通る自動車やバスを見るためだった。

動くものにはまだ興味があったようだ。

そうして見ていると、こちらからは気の毒

と思うが、父自身はそうでもなかった。

しあわせとは言えなくても、それに

近かっただろう、とは想像がついた。

あまり表情がなく、喜怒哀楽は影を

潜めていたが、外を眺めるのが楽しみ

であったのは、確かだ。そういう自分の

状態にも気づけないのは、半動物状態

だとも言えた。

僕は未来から離れるのは、今から離れる

ことでもある。しかし、それは空想の距離

のことではない。心の棲み分けの問題

だと思う。僕の何かが動物と通じている

のはこれまでの彼らや見知らぬ子供たち

からの挨拶などの経験から、疑えない。


僕には思い出の過去という心情がない。

人にはよくある過去は郷愁である、という

その人その人の過去の記憶とともに

込められた心情が心に根付いていない。

ある音楽を聴くと、必ずその過去の事情を

思い出して、胸がせつなくなる、という

その根が死んでしまっている。または、

剥がれてしまっている。

そこで僕は過去を造り出す必要に迫られ

たと、仮定すると、今の状態・状況に

辿りついたと納得する。

心は勝手に、自分に必要な状況を造り

出してしまうものだ、としても非難はでき

ない。その状況を確実に把握しておくのが

大事だ、と感じるのみだ。

人間はなんでもかんでも、好きなものを

作ってしまう。過去と言っても、昨日の

ことでも、小さい頃のことでもない。

過去は実在としては存在しないのだから、

この過去は、変だが、新しい過去なのだ。

そのうちにこれが誰かがしている、実は

よくある行動だった、という例をなにかで

見つけるかもしれない。僕にとっては

新しい事例でも、概念化されて社会に

出回っていないだけで、人々の隠れた

歴史にはよくあることだった、ということ

になるのかもしれない。

不思議は終わらない。まったく、そういう

ことだ。

飲めない1..JPG

バター入り珈琲というのはあるそうだが、
飲みたくない。スプーンも大き過ぎ。
飲みにくい珈琲に見えるが、中はコーラ。
現実はそんなもん。(笑)
nice!(12)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。