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迷いの範囲・規範を聴いて、発見したもの [発見]

新しい困難は幕が開いたようだ。どうやってそれを  

特定したらいいのか。どうにも考えようがないのは  

新しい幕開けに相応しい。が、まず何がどうなって  

いるのかがわからないと、自分が何に陥っている  

のか、陥りそうなのかもわからない。  

この世のすべてには因果にその答えがあると言って  

もいい。この世の部分というもの、そのすべてには  

一過性の法則がある。答えはその中にある。 

すぐに見つかる。満足するかどうかは別として、 

法が崩れる前に見つかる。崩れてもやがて別な  

処から新しく立ち上がるから、そこを見つければ  

いい。僕はそれが盤石だと思っていた。問題は  

その次の解決にあると思っていたから。  

今は?その問題の形がわからない。単純に  

プライドと知性、自分との関係で解けない。自分が  

客観化しない展開ばかりになる。

単に自己を取り戻せばいいだけのことだろうか?  

時間が逆行しない限り、自己喪失を取り消せる  

ことはないだろう。今は考えるための足場である  

物事の規範がないことにあるのかもしれない。  

規範を取り外してしまえば、あらゆる秩序は  

散り散りになり、普通は混乱するが、それは 

規範が信じられた状態だからだろう。無や永遠  

にはそれは常態になる。無常の原液とかはない  

のだろうが、それはこんな味がするのかもしれない。  

僕はどこにいるのか、と言いたくなくなる。それは  

どこにもいなくなるからだろう。しかし、自分の枠は  

しっかり残って知的活動はできる。  

説明できている感じなのに、霧や煙を掴むような  

それで概念的実体さえ掴めない。  

なので、これは社会的見地から自分とは何だろう?  

(それは今まで散々述べてきたことだ)ではなくて、  

ほぼ生物的見地から自分とは何だろう?とつぶやく  

ようだ。

これは考えようで当たり前にも受け取れる。この世  

の規範・範囲はすべて自己に尽きている。それを  

脱皮するのが可能だとして、脱皮したなら何が 

起こるだろう?  

もしかして、それは動物に近づくことだろうか? 

それは一理ある。なにしろ動物になった人間は  

いたとしても、その記録は残せなかっただろうし、  

その意味がわからなかっただろう。知性を残して  

動物になるのが可能だったとして、それはどういう  

状態で、心はどんな様変わりをするのか、何を  

失って、一体人間の知らない何を得るのか?  

そういう考え方でいいのか?  

モチーフはこんなところで見渡せただろうか?  

因果はやはり、人間の知性からできている。  

問題は悩みの社会化から起きている。それで  

僕の状態は何の問題なのか実感がないの  

だろう。この状態は問題だと考えうるが、それで  

不自由や不足を感じるわけではないのだ。  

ただ今までのように、自在にそれを扱えない、  

ということ。何でも扱えたのに、因果も悟りも  

役に立たない、という意味でそれが言える  

だろうか。  

そうだとしても、もう意味がわからない。

想像としては、原意識の荒野という空想をして  

しまうのだが、 ・・・・・・・・・・。   

つまらない期待をしても致し方がないが、少し  

はこの状態が何かを発見する可能性は捨て  

切れないと思う。  

音楽性もない。哲学性はまったくない。科学は  

あり得ない。それらは人間の一部だからだろう。  

人間性となると、ようやく比較が難しくなる。想像  

できない。精神は危うく、体に吸収される要素が  

多いのではないか。例えようがない、この言葉が  

一番ピッタリくる。比喩できない。比べられない。  

言葉を使えば、なんでも冗句や冗談になりそう  

な、希薄さ。それはその実態が希薄なのではなく、  

捉えどころのなさを言う。  

詩にさえ、ならない。  ・・ようだ。

どうしよう  あれでない   これを  

どうもなるも  ならないも  そもそも  

そういうものでない  


まいったな。ほんとうに書けないものに出くわした  

という、冗談にも、真剣にも、冷静にもならないで  

それがある。ものではないから、崩れようがない。  

概念ではないから、言葉で固めようがない。寒い  

と起こる肋間神経痛のようなものか。  

ピアノの裏側で、無限な数の虫が鳴いている、  

かまびすしい沈黙が広野の遠くまで、果てしなく  

鳴り響く。これはなんだろう? 雑音だが、  

ピアノはピアノで聴こえるのに、雑音も交響曲  

なみにジーンと鳴り渡る。神経のせいだろうか?  

聴こえるようで、と、 聴こえないようで、聴こえる。  

アブラゼミの激しさ、見事に統一した雑音。  

それがふつうに聴覚に聴こえる音ではないと  

ふつうにわかる。ヘッドホンを試しに外して  

みると、驚くことに、ピアノは消えるが、虫の  

大合唱は続いているのだ。音楽のせいでは  

ない。 なんとこの静なる雑音を邪魔している  

のは、ピアノのほうだった。  

すると、結論が下った!  

意味は、すべての意味は僕らが創った。  

意味はあるものではない。元からなかった!!  

それに意味づけをした。僕らは物事には意味が  

備わっていると考えるが、それはなかった。  

おお、ほんとかよ!  

僕は、長年、言えなかった、わからなかったから、  

意味のあるものなんて、初めからなかった。  

意味がなければならない理由があるとしたら、  

それこそ、なんにでも意味があることになる。  

生きる理由が、そもそもなくて、僕らが人間で  

あるからこそ、生きる理由を創ってゆくのが  

ひとつの答えになることも、そういうことだった。  

― と言える。  

この定義は、広がりがありそうだ。いくつものこと 

を言い換えなければならないだろう? 僕らの  

地平は無事でいられるだろうか?人間として  

知的に生きてきた僕らは、このことを受け入れ  

られないだろう。それこそ、僕の満足する答えだ。  

人の持つアイデンティティが壊れなければ、それ  

はそれだけの力がないことになる。さて、真実に   

どれだけの力があるだろうか?  概念なら、  

いくらでも否定できるが、それこそ意味がないこと  

ではないのか? 検証は各人がいずれ行うこと  

になるだろうし、その必要があるだろう。 



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