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I'ts All Right すべてよし [批判]

人間関係は不自由なほどしがらみ

や絆が生じている訳で、そのほう

が幸福度が高い、と思う。

僕は冷たく、それをそれだけと

する。それで満足が得られるので

はないから。気持ちが大きく、

深い生存のあたたかさを与えて

くれるのはよくわかる。それで

活かされた瀕死からの生還した

場面は僕にもあったから。

でも、それが人生で一番大事な

こととは思えないのが、僕の中心

であり、性根なのだろう。僕に

最も大きな影響を与えたのは、

サバイバルで九死に一生という

窮地を乗り越えた時の感激・感動

だと思う。それで危険のまったく

ない平穏な日常生活はとても退屈

に思う。生に感動し、死に直面し

て感動する、という実際に自分に

起こるドラマが好きだ。

人は望めば与えられる、という

楽観論が運命にあるので、こう

いう感動は人は経験したことが

あるのだろうか、という稀有な

体験は多いと感じる。

ただそれは振り返ると、体力や

気力や神経が丈夫で元気な頃の

話だ。

今は外で他人と緊張を要する、

それが楽しいことでも、作業を

するとそれだけで微熱が出るよう

だ。たいしたことにはならないが、

そこで無理が効かないというのが、

現状だ。自分の体を宥(なだ)め

ながらでないと、持病に発展して

発熱してしまう、と考えている。

微熱は夏に弱い。体がそれだけ

でも寝を浅くして、2-3時間で

眼が覚めてしまうからだ。

それが続くと不眠という状態に

なってしまう。

こうなってしまうと、人生に

発展方向は望まなくなる、そうい

う覚悟をするようになる。それは

弱気になるのではなく、我慢とい

う慎重さを強いられるのだ。

だから悔しいが、無理をしない。

その無理をして乗り切るのが、

楽しみの一環でもあるのだが、・・。



・・・・明らかに、書きたくなく

なってきたのだろう。愚痴を書い

てもある程度は放っておいている。

前は輝きだけ、新しい刺激とか、

そういうものを書くことに集中した

が、今、それを自分に課すことも

なくなってきた。

いつも気分で坐って書いているの

だから、もう何を書いてもその気分

だけが主人公で、なにか人に役立つ

ことを殊更、書こうとはしなくなり、

それは無理をしないことでもあるが、

そういうこと自体がしがらみに感じ

出した自分がいる、ということだと

思う、最近だ。

何を書いても自分だ、というのは

自分の見方や主張という主観からの

ものだということを言うものだが、

僕はそれ以前に自分の言葉になっ

てしまって、ここに僕が居る、と

いう以外のことがあるのだろうかと、

自分でも疑問に思うほどの自分空間

を想うようになった。

実は、「それは何か」と尋ねても

いいくらいの、その先があるのだが、

うまく説明できないので、いつも

ここからは書かないで、スルーして

いる。



それをまとめると、書いているテーマ

を除いて、僕はどうもそのどうにも

書けないものをしょっているので、

いくら書いても書き切れることがなく、

そのためまた、いつも書けている、

ということになっているとも言え

そうだ。

こんにちわ、ハッピーな皆さん!とい

う気分が底にはあるが、それと対比し

た自分の憂鬱や悲しみを書きたいよう

だ。それは憂鬱や悲しみが愛に変換し

たり、ノスタルジーをもたらして、

泣きたい気分にさせてくれる一級の

材料だからだ、栄養と言ってもいい

のかも。

こうして斜(はす)に構えていないと、

椅子から落ちそうなのも、自分の個性・

癖である。姿勢が悪いのも、そのほう

が楽だと思っているからだ。


天国は あるだろう 

僕らが望んで 長く長く

待っている ものだから 

天国は ないだろう

それは 別な形で 

僕らを うんざりさせたり 

嫌な気分に させる 

迷惑な  隣人かもしれない 

それでも 

天国は  天国で  

それでも 僕らは お互い人間だと

お互い やさしい気分に  なり 

彼らを  許そうとする 

そんな時も  あるにちがいない 


そういう僕らの 恣意は 

僕らの意志だから 希望でも

あるのだから 

そいつに 必ず  騙されるに

決まっている 

そして、塩に 混ざった 

わずかな  砂糖に とても 

異常に 喜ぼうとするのだ 

それが 自分を活かす 

栄養だから 

僕らは  騙され 溺れる 

必要があると 

言ってる かのようだ 

僕らは 自分に必要なものを

しっかり 知っていて

それを 吸収する 

だから それを反省しよう 

なんて  とんでもない 

僕は  癖が 必要に 

入っていて  聞き心地の 

悪い言葉を  吐かないと 

落ち着かない 

もっと癖が悪いと 

ネットで 勝手な誹謗中傷する 

ばかな 輩になってしまうの 

だろうか 

そうに違いない 


そのブレーキは どこに あるのか 

そんなものがあっても 

尻の穴に 栓をしたように 

落ち着かないの だろうな 

僕らの なくて七癖は 

そうやって  隠れているのだろう 

バカらしいが マイ・スイート・

ロード なのだろう  

剣呑で ご苦労様なこと だ


時々 バックミラーや 

歩いていて街中の 鏡に 

偶然 自分の顔を 見る 

今までなかったが  初めて

苦痛を 秘めていそうな顔が 

そこにあった 

どんなに 苦しいと思っても 

大抵 事実は  鏡の顔で 

平気な 顔をしていた 

それは 成長と 言えるのか 

誰かの 同情を 買って 

しまうのではないか 

どうやら  君だけではないぞ 

そんな顔を  しているのは 

安売りしては  いけないぞ 

コッケー 

しっかりしろ 

自分を  わかってもらおうなんて 

しかたなく  弱い人間の

特徴だ  

自分を  出して平気なほど

強くなる 必要もない 

中途半端だ と自分を 

思うほど  正常ではないか 

正常の 意味は  問わない 


その人にとって  坊主さえ 

殺さなければ 大丈夫だと

考える 殺人鬼(ロシア)の

正常さは  そんなもの 

僕らは  あまりに多くの事実を 

見る気がして  事実を見る

正常さを  失う 

簡単な 答えはない 


ハードだ、生きるのは  

そういう人もいる 

だから  楽過ぎる、生きるのは

そういう人が わずかでも 

いるのは  不思議ではない 

自由を満喫して あまり 

声に出さない  遠慮して 

そういう人も  いるわけだ 



それで僕らは  人にどう

見られるか 

気にする  気にしすぎるの

だろうか 

それは 枠の外の 僕が 

わかる 範疇にない 



わかるのは 

ものの占めている  存在という 

在り方が 

わからないだけだ 

どうして  形のある 陶器は

精神の 腹を  満たすのか 



そこには 何を詰めても 

教育とか  裁判とか 

哲学とか  神とか 

健康とか  科学一式とか 

歴史の裏側とか  音楽とか 

茶道とか  マナーとか 

まとめて 文化とか 

文明とか  ・・・

つまりだ  人間の営為という

ものを 

詰め込もうとしても 

弾かれてしまう 

そういう 逆説が 

僕らの好み という 気まぐれ

ナノかも知れず 



ある朝 玄関を 出て  

外を  歩いてみると 

過去が 見えるようなもの 

未来を知ったような 

昨日の行動を 思い出す 

何気ない、・・・。 



空気が  青く 

黄色にも光って  胸を 

刺すように 

なんだ  生きてるじゃないか 

と 思い出すかのように  

今を  見つめる  

目の前の  すべてが 

ただものではないと  想えない

のに  すでに それを

知っているかのように  

呼吸している 自分が  いる 



脳が バグるなら 

僕の 等身写真の 看板が 

バタバタ 限りなく 

倒れ、 風を 起こしている 



僕らは 何に拠るのか 

拠らないのは むなしさだと 

想像しているのか 

実際に 知っているのか 



僕らが  1万匹もの 蛍が 

一斉に シンクロして 真っ暗に 

また明るく 明滅する 奇跡の夜に 

感動するのは  どうしてか 



さらば  君たち 

僕は スピリチュアルとか 

信じない 

盲目が 象を 触って 

太いとか 細いとか 

柔らかいとか  硬いとか 

部分の誤解を 

巻き散らしているようなもの 

無駄に 想わないのだろうか、

個人的な 観想だけで 

単に 側面の考えなのだが 

考えは 事実じゃないし 




見ているかい 

ここにいるよ 

よく 見えるかい 

ハンバーガーなら 

うまそうかい 

君の おとうさんに 

なれば いいのかな 

ハムエッグなら つくれるが 

亡くなった人が  恋しいかい 

そうか 

そういうことも  あるんだ 

そこは  きつく  結んだ

ほうが いいんだ 

遭難なら  前もって 危険を 

読んでから  出発する 

そういう意識が  必要 



まわりを  見渡してよ 

見えるものを  数えて 

見えるものが  見えなけりゃ 

考えに 気が向いてしまうなら 

山には 登らないことだ 

下界で  溺れていることだ 



時間の存在が  ほんとうに 

遠いなら 

僕らは 時間を 気にしないだろう 

それは 約束の時間観感覚での

数字の看板に  他ならない 

時間のない生活は 怖いだろう 

慣れたものを  失うのは  

なぜ  恐怖なのか 

なにも 変わらないのに 



1ヵ月が  あれば なにか 

できる 

1日があれば  なにか 

できるだろうか 

1日が  なにもできないならば 

それが30回あっても 

変らないではないか 

と思っても 

僕らは  時間を 貯金のように 

蓄えていると 

思って いるのだろう 

時間が  あれば 

ほんとうに  いいのだが 



夜明けが  始まる 

静かに この身を 抱きしめて 

今 を 感じたい 

唯一  確かと 

考えるものが 

一番 そばにあるのに 

手に入らない 



気がつくと 

手に入った 過去が 

記憶に  残った 

では  今は?

そうなのだ 

意識する処は 

今が  いない場所なのだ 

自分は 

そこに  いられない 

君の  人生は 

つまりは

夢に 終わるのは 

そういうわけ だ 



我を 無くすだけでは 

やっていけない 

ただ もう少し 

我を なくす恐れに 

飛び込む 回数を 

増やすだけでいいん だが 



さすがに 

あくびが 



子供の頃  給食に 

期待したことは なかった

それよりも 脱脂粉乳に 

憤慨していた 

あの遠い時代 より 

僕らは 豊かになった はずなのに 

なぜ  給食でしか 腹を  

満たせない  子供・家庭が 

あるのか  

おかしなことには  すべて 

それなりの ちゃんとした 

理由がある 

全体を  なにかが  支配して 

いなければ 

戦争とて 起こる 

はずもないものを


それで  どうして 

It's All Right なのか
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