SSブログ
美と歴史 ブログトップ

過去の僕らと今の僕ら:美と歴史 [美と歴史]

真贋について書こうと思って来て、ずっと 

忘れていたのにも気が行って、どこまでか 

わからないが、書いておこうと思った。 


まず、美についてだ。 

美とは何か。いざ尋ねられると、即答に 

困るような題だ。美と「綺麗さ」は何が 

違うか?感じがするでしょ、その違い。 

同じだと言う人はいる筈だが、感性の 

鋭鈍は天然だから、しかたない。 

多くは違うと感じる。なにかを当て嵌めて 

やると、その違いが浮き出る。この場合 

に相応しいのは、神秘だろうか。綺麗さ 

はすっきりして、完成に近いことを表す 

が、神秘さのようにつかみどころがない 

という感じではなく、凛とした明確さがある。 

美は、しかし、ただ綺麗さでは片付かない 

人を惑わせるような、神秘さも含まれる。 

ここから陶芸とか絵画での真贋が問われる 

のだが、美について真贋にどれほどの 

意味があるだろうか、ということを書く 

つもりだ。  

世に人気のある茶碗や名画の贋作が 

出回るのはその作者の作品の人気が 

高いせいだ。偽物だと知らずに買うのも 

あるが、偽物でもいいから、その銘の 

ある物を買いたいという人も居る。 

この美というのに捕まると、それが好きに 

引きずられることになる。なんでもその 

作品(名)ならなんでも本物以上にさえ 

見えてしまう、といった時期が訪れる。 

一種、憑かれてしまうのだ、美の魔術 

というのだろうか。やがて、その趣味の 

歪な偏向に気づくが、それまでは自分 

のおかしさに気づけない。 

小林秀雄が器の売り買いで暮らしていた 

時期があるが、土器にはまってしまって 

なんでも土器が一番美しく見えたと書いて 

いる。白磁より土器が美しいというのは、 

おかしなことだったと反省している。 

例えばここにある著名な茶碗があって、 

それを寸分たがわぬように作成した 

偽の茶碗があったとする。ほとんど 

同じ茶碗を見て、それを片方だけ 

見せられたとして、偽物に感動した人 

は果たしてその感動はにせもの  

だろうか? 本物と同じものを見たと

いうのだったら、感動が偽になるという 

ことはあるだろうか?ないだろう。 

パンダを見て、可愛いという思いは 

ぬいぐるみを見ても同じはずだ。 

美はその人によって左右されるという 

他動性があるから、必ずしも偽物と 

見分けられなくてもいいし、見分ける 

必要はないだろう。もちろん、それは 

感動のことであって、買うのなら、 

本物なみの高額を請求されたら、詐欺 

であって、話は売買に移り、美ではなく  

なる。 

僕らの関心はその中心が、美に感動 

するということで、真贋は実は二の次 

なのだ。土台、有名作家の名前で感動 

するのは美とはなんの関係もない話だ。

真か贋かという正否の話ではなく、 

心のそれぞれの反応の話だ。そして、 

その形・姿・様式・光景を作ったものは 

人間であるから、そこから不思議に 

思想や情感が読み取れることがある。 

それが美と相まっていて、一体に 

なったものだから、僕らは感動し、 

驚くのだろう。ビートルズの音楽でも 

初めて聴くアルバムでは、3回聴いて 

からわかり始めるのだから、真贋を 

見分ける眼ともなれば、一昼夜どころ 

では身につかない。 

’美の真実’というのは想像できない。 

なぜなら、美が真実というレッテルの 

中にある、その一つだから。ので、 

真実の美というのもありそうにない。 

というか、わかるようなことではない。 

理解できないとか、理解を超えている

という範囲のことだ。まるでりんごは 

果物であると説明したり、果物は 

りんごであるという、奇妙な間違いを 

言っている気がする。

愛は絶対でも、万能でもないように 

真実としての美も、絶対でも万能でも 

ないだろう。 しかし、その定義を 

知らず、また説明できなくても、僕ら 

は美を感じる。それは正確には知って  

いることではないが、美をわかって 

いることだ。小林はそれを「美しい花 

はあるが、花の美しさはない」と表現 

した。 

真贋を持ち出したのは、歴史について 

思う処があったからだ。歴史の真実も 

ないだろう、と思った。それはその事実 

をあぶりだし、証拠で固めることだろう 

が、残念なことに事実には限界がある。 

僕らに残された、歴史の状況を知る 

手立ては文書と考古の物質・地形くらい 

しかない。古ければ古いほど、そういう 

ものは残りにくく、消滅してしまうもの 

なので、ほぼその時代の権力のいいよう 

に書かれたものが残る。韓国や中国の 

ように大きく改竄されないだけでも幸運 

だろうが、それでも資料は限られて、また 

歴史の仕来りから現代感覚で過去を修正 

してしまうという無意識な改竄は避けられ 

ない。 

ある程度で満足するしかないのだが、 

白黒はっきりさせたい志向の人がそれ 

を極論に持っていき、なにかすっきり 

するんだろう。これが真実だ、と言い 

たがる。

歴史は事実を決められればそれで 

よい、というものではない。時の権力の 

改竄も歴史の内と、その上で現代に 

関わるなら、現代をどうしたいのかと 

いう状況を政治・経済・社会全般を見通し 

て、それが真実であろうとなかろうと、 

事実であろうとなかろうと、嘘を語ること 

もあるのが僕らの態度であり、任せられた 

立場であり、また歴史というものだ。この 

理解の仕方を納得・理解して、また別な 

歴史への見解をもってほしいと僕は考える。 

歴史の不可解な状態というものの理解なし 

には、ただの歴史裁判をしているだけに 

なってしまうからである。僕らは歴史の 

裁判官は気取ることができても、それに 

なることはできない。 

言ってみれば、歴史は僕らが今、どう 

生きるかにかかわっている問題として 

捉えなければ、過去の人たちも生きられ 

ないことだからだ。それは古代や平安や 

奈良・鎌倉時代では、それぞれ異なって 

いる。当時の日本語の発音でさえ異なって  

いるのがわかっているが、聞いたことは 

ない。 それを聞ければ、少しは当時の 

空気がわかり、その人たちの方向や 

生き方の嗜好がわかるのだが、・・・。

研究の今後を待ちたい。

一応、区切りがついたので、ここらで。



世界の名画センペンバンカより::


シニャック1-2.jpg

シニャック : サン・トロぺの港 1901-1902 

シニャックは新印象派の代表で初めはスーラ 

の影響が強かったとされる。
nice!(18)  コメント(0) 
美と歴史 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。