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君は誰? [心理]

僕は僕の 個人を超える問題を 考えざるを得ない  

それは 悲劇な皮肉なのか、  喜劇なのろまだったのか  

自分という  枠と  知性という  変幻な物差しを  

手中にした  と思ったが   

それは  今までの拠りどころを  失うことでもあった  

それは  承知していたので  痛手にはならない、 と  

思っていた  

昨晩は、  その前から 胸騒ぎがして  僕は  

寝床の中で  僕を見つめた   自分ではない僕を  

どうやって  見るのか  考えた   

わからなかった   それは  意識の奥で  

僕である 主体自体を  見ることなど  

叶うわけわけないと、  思っていたから  

むなしさが  直接でなくなったのは  初め  

喜んだが  そして今も それでいいと思っているが  

どうにも  その極度の緊張を 失うことの代償も  

大きい、と  今更ながらに   感じている   

全力を出して  対峙する  相手が  いなくなった  

生活が  楽になるはずだったし、  そうなったが  

立っているための 手段でもあった  相手が  いなくなり  

僕は  自分を  ”失う”   

この失うは  これまでに考えていた 「失う」という  

全般での意味での  失う、 ではなかった   

だからまた  この感覚を現わす 言葉はない、と  

逃げてみるが    ・・・・・・・・・    

   
僕は  この世のあらゆるものが  あてにならないと知った時  

何もかも 自分から作り出さねばならないし、  作り出すものが  

皆、  自分の烙印になる、 と思った   

それは その通りだが   それは わかりやすい烙印どころか  

伝わることが  ほんの 糸の一筋でもある、 という  

頼りない 印になるとは  まだ 気づいてはいなかった  

ただ  後の者が  拾ってくれるさ、と  気楽に考えていた  

僕は  精神的には  大変危ない位置にある  

僕は  自分を信じないのではなく、 信じることはできないと知っている  

ので、  信じるとかは  問題外だ  

そして、自分を 信じることが  生きる関係をつなぐ、 ということも  

知っている ので、   信じないのは  問題外である   

この矛盾に見える矛盾は  論理の矛盾ではないので   

フラットに 並べられない  

でも 僕は 毎日の生活の中で  枠の中に  自分を置く  

創造する   関係をもつ  そうした時に  通常の判断が  

そのことについては できなくなる   

以前は  僕は  どこにいるか、 と  余裕だった   

どこにいても  僕は  支えられているのを 知っていたから  

今は?   自分として 生きようと思うと  非常に  

心もとない    緊張して 強い綱引きを しなくていいし  

勝手に  放り出された  このあてにならない世で  

それを 感じすぎる 自意識を  避けるように  

落ち着こうと  思って  ただ もがいているようだ   

だから  昨晩は  枕を頭の下にして  尋ねた  

(自分ではない僕、そういう)君は 誰?  

この質問にも  君(僕)は答えてくれるのだろうか?   

無意識に向かって  こういう質問を  するとは   

まったく 思ってもみなかった  


君は 誰?  


なぜ君は  僕なのか、 でも同じだった  

花々の咲く  公園のような  広い中庭で  

君に 案内されて  歩くのは  いいだろうね  

こうして  静かで  穏やかな日に  友と 話せるのは  

素晴らしい   それが  どんな会話であっても  

流れるに まかせて  なにを  話しているか  

何を  話したか  忘れてしまって   そんな光景が  

思い浮かぶ   

そうか   あの 中庭か   インドへ渡った時に  

高額な宿泊費だったけれど  インドの カルチャーフラッシュに  

興奮していた僕を  天国と思わせた  静かなクリシュナ系だったか  

ホテルに  案内されて  そこに  日本人もいて  

これからの  準備を  させてくれた  あれは  奇跡だった  

そういう用意を  してくれたのは   あの頃からいた 君  

だったのかもしれない   

僕の心の準備を させるために   手始めに サンティニケタンへ  

なにかを 届けに行ったのも  これも 抜群の緊張を  

強いられたけれども  それが  とても役に立った  

あの頃は  なにも  知らなかった   

27歳の頃と  今と  なにも変わらない気がする   

なにも  変わっていない   それがそのまま  

自分の胸で  受け止められるのに  あの頃は  

なにも 知らなかった、 と  言っている   

たぶん、 僕らは  過去の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  いつになっても  

これから先も  今の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  言い続ける   

そういう 動物なのだ   

そういう 言葉を好きな 動物の種、なのだ   


この気持ちを  どう言えば  なんて  可笑しカルラン  

言えば  いいのか  嬉しい   

この嬉しさが  条件なんてないよ、  ただ  嬉しい  

ともかくも  と 謙そん調で   気持ちいい  

この世にいる我、   無意識な自分、   悩む僕が  

それを  そのまま感じて   充実する  

それを「存在」という  無意味な  無機的な  言い方を  

したくない   それは 柔らかいボ-ルのように   

僕と  ともに   ある  


僕と共にある  やさしく 頼もしい一面と  

僕の思うようにさせる、  そのためには  

人間を 超えさせようとする  危険に  踏み出させる  

躊躇ない  厳しさの   こわもて?の一面と。   

これは プライドと   深い気持ちを 感じさせる  

それらの  調べのように  心を 回転させる  

僕が  想像することを  踏み越えず  僕の  

性質を  知り尽くしたように  容赦ない   

操られるのが  心地いいように  できている   

自分で 獲得したように  思えるように  進められる   

それが  君、 ではないのか?   

君は  人間の心の  主体というようなものでも  あるのだろうか?  

そこでは 人が 成長と共に  自分を形成してゆく過程、  

それも自然な  創造であるのかもしれない   


ここからは  書かなくていいだろう  

こういう認識が  いつの日か  古い認識だね、と  

思われることを 期待して  書いているが   

急ぐこともないし   先端は  変化があるから   

余裕を 取ったほうが  いいこともある  


こうして  僕は  毎日のように  

精神的に  倒れてしまって  立ち上がる、 という  

ことを  行っている   これは 日課なのだ、と  

自分で  気づこうとしている    

正確に 気づいている、という感覚は  もう  

僕には ないようだ   

僕が 信じているという状態と  信じていない状態とは  

別々の場所で  僕と共にある  ”君” なのかも  

しれないね   

                       3.18
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独言 コロナの最近 [感染]

あまり、いいことは書かない。新型コロナだが、どうも雲行きが怪しい。  

その前に僕は予測を自分の特別な直感にしたがってするのは、とうに  

やめてしまっている。(外れたからではなく、あいまいな部分が残るし、  

また、当たり過ぎるから)   当たれば、次に期待され、プレッシャーに

なるし、外れればふつうに恥をかくし、自分の直感に傷がつく。傷つくだけ

ならいいが、自分の直感を区別しづらくもなるなので、判断にも影響する。

なので、

それは僕の裏帳簿のように、僕個人で読みを進める。ここで書くのは、

状況から帰納法とか、分析の方法で考えたものである。その場合でも、  

はじめに気づきがあるのは、もちろんである。  

コロナの感染を防ぐのが一番であるのは、当初から言っているが、これ

は間違いない。数学でその予想式がいくつか考えられるが、それは単に

数的な予測で任意の数字を、例えば、一人が何人に感染させるかで、  

それを1,5とか、2,3とか式に挿入して計算するが、その任意の数字が  

正しいということは、あり得ない。その他の要因もあるので、そういう式を  

信頼はできないが、ある程度の目安にはなる。そうした計算をいろいろな  

研究所で用いるので、コロナの死者が世界で少なくとも130万人とかの  

数字になって出てくる。最大となると、数千万人という数字さえ出てくる。  

それは信用ならない数字である。  

しかし、注意しなければならないのは、事態が激変した時である。これは  

コロナが進化した場合で、これは現代人の体内には多くの薬品などの  

化学物質が含まれるので、ウィルスにとっては変化しやすい媒体である。  

中国が一応の収束になったので、注目すべきだろう。新型が新々型に

変化してしまうと、致死率も感染率も高まりやすい。より爆発しやすいわけだ。

当然、さらに長期化する。  

感染者が多いほど、進化の可能性も高まるので、ウィルスを次世代に  

進化させないためにも、適当な自粛が必要だ。その”適当”が説明しがたいが、  

なんでも好きにしていいが、それは周囲の感染にならない注意を十分に備えた  

方法・気配りの下で、ということになる。  

ともかく、「高齢者でなくても重篤になる感染者が見られる」ようになってきたので、  

感染率を数%下げるだけで、数字では10万から100万人に変化するくらい  

影響するので、今のところ、東京と神奈川の感染をみると、電車での感染が大き

そうなので、電車に乗る時は特に注意して、防護してもらいたい。降りたら、早め

に手を消毒・殺菌したい。  

また、日本でのコロナは致死率が異様に高い。イタリア、スペイン、フランスより  

も低いが、アメリカや韓国などから比べても、高い。イタリア、スペインなどは  

高いと言っても、感染者は日本の10倍以上いる。だから、これは政府が感染者を  

少なく見せていると言われても仕方ない。潜在感染者が多過ぎるのだ。もう、軽症者

でも入院でなく、隔離した環境に置くべきで、早く検査を全員に進めるべきなのだ。

これでは見かけだけなので、時間を長引かせれば長引かせるほど、ウィルスが  

進化するチャンスの度合いを増やしてしまうことになる。 ― と。  


なんにしても即効する一時薬でも特定できて、それで抑えながら、早く来年のワクチン

につなげてほしい。 


自粛中の健康: 

自粛中に外出を控えると、日常が変わるのであるから、健康状態も変化する。  

運動不足で体を使わないと、睡眠が採りにくくなる。あまり眠くならないかもしれない。

が、気にしないことだ。体のことは、体が考えている。心で悩む必要はない。  

食事も、お年寄りなどは無理して3食採らないほうがいい。それでなくても  

動かないのだから、成人でも2食と、スープとか麺くらいにしてもいい。  

無理して2食にして、おやつをバリバリ食べるくらいなら、3食にしたほうがいい。 

くり返すが、不眠症はともかく、睡眠時間が短いくらいは、体が承知しているから  

大丈夫だ。必要になれば、いくらでも寝てしまう。必要がないから、起きていら

れるのだ。   5,6時間でも体を横にして休めば、十分だ。短時間を気にして  

二度寝、三度寝をしてしまうと、疲れが出てしまい、残りの1日がだるくなって

しまい、逆効果だ。  

食事は、栄養価が高くても、軽めのものがお勧めだ。腹一杯にしないほうがいい  

のだが、ストレスもある。食事でストレス解消に向かってしまう人は、自粛以外に  

なにがストレスになっているか、心に聴いてみるのが大切だ。
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四首 [句]

されど待て  さても待て待て  ほどなくに  

まどろみに  底打つ鬱の  音もなし  
                      3.16

うまだれを  垂らしてうまし  もやしそば 

みぞれでは  積もるものかと  銀世界  

                        3.29 

20.3.29 雪景色.jpg

どうせ、みぞれとバカにしていたが、起きてみたら雪景色だった。


*一般に和歌は一首、俳句は一句で数えるが、俳句の語数でつくったものは 

 どちらとも言えない。
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ちょっと暇なので経過報告: 3-22 [報告]

ちょっと、うつっぽいのかと思っていたが、そうではないらしい。  

暇なのだが、力が出せないのだ。その暇だが、無意識ゾーンにも  

自意識下の僕よりも高い知が育ったらしいことを、以前に匂わせたが、  

その知が働いている時は、自意識の自分があまり頭が回らない、

とも書いた。つまり、そういうことらしい。 

先月末から、書いた記事が6つほど溜まっているのだが、そのうちの

2つは集中力で後半を書いてしまえるし、他3つはほぼ97%完成している

ので、省略を入れるなら入れるで、そのまま出すなら出すで、決めてしま

えばいいものだ。ところが、頭も、体もとんと動こうとしない。 コロナの関連

もあるからすぐに気づかなかったが、どうも今の時期で難しい質問を投げ  

込んだのがいけなかったようだ。  

TV録画も、レンタルDVDも、少し気晴らしで観てみたが、どうも現代の  

政治以外は自分に関係ないように思えて、気が乗らない。娯楽が  

退屈になるのは、いつものことだが、音楽さえも気を乗らせることが  

できない。 今に合うような音楽を探したりして、1時間も過ごしたりする

のだが、その音楽に求める気分さえない。  

思うに、これは内奥の知が相当にフル回転しているのではないかと。  

ブログ訪問も考えているばかりで、1日に3つも訪問するのが一杯なのだ。  

あとはなにか疲れたような気になってしまって、先送りしてしまう。  

確かにこれまでにしたことがないような、精神バランス調整が可能か、  

不可能かくらいの難題を考えるように指示したのが、つい3,4日前だろう。

すぐに大きな下痢をした。風邪が治る兆候かと思っていたが、それだけでは

ないのかも。  今は、風邪の症状はまったくないが、なにかしようとすると、  

急にだるくなる。どうも考えずに、今を初心のような気でバカになって  

呆然と生活するのが最良なのだろう。 これで本でも読めればいいのだが、  

新しい情報も受けつけ難いようだ。 アダム・スミスの紹介文を読み始めた

が、「国富論」には入れそうにない。  

アダム・スミスは道徳のために、その立場から国富論(経済学の祖)を書いた  

というのを読んで、気になっていたので読んでみたが、どうもそうらしい。 

「道徳感情論」を書いて当時倫理方面で有名になった人で、そののちに  

経済学者と交流して、国富論を書くに至ったらしい。この著名な「国富論」  

が副業であったとは驚きだ。その副業が世界的な書物になってしまった。  

それはニュートンとも共通している。 彼は生涯の半分は聖書関連、神学系の  

論文で占めていて、有名な「プリンキピア」(自然哲学の数学的諸原理)で  

万有引力の力学体系を示したが、それも彼には神学から比べたら、副業の 

論文の数で多くはなかった。科学と経済の黎明の書が、ともに著者にとって

は副産物だったというのはいかにも天才・変わり者らしい。 余分だが、ふたり

とも生涯、妻帯しなかった。すべての天才ではないが、カントも、ベートーベンも  

独身のままだった。記憶力と創造力のふたつの才能を併せもった最大の  

天才と言われるモーツアルトは妻帯して、貧乏に陥る晩年の手前までは  

幸福な結婚生活を送った。コンスタンティンという奥さんも平凡で、モーツアルト  

なみに子供だったのかもしれない。自分の息子を、モーツアルトが亡くなって  

しまったので、モーツアルトと同じ名に改名させて、音楽の先生をつけたりして  

天才を作ろうとした。もちろん、子供が天才音楽家になることはなかったが、  

それくらい天才をつくるのは簡単、と思ったことだ。

モーツアルトはベートーベンのような努力する天才ではなかった。彼が  

苦労したと語るのは、先生だったハイドンから教わって弦楽4重奏曲のセット

をハイドンに贈っている。ファンによると、古典的な形式音楽なので、最も  

モーツアルトらしくない音楽だそうだ。 モーツアルトは努力することが似合わ

ない天才だった。 

モーツアルトは非常に短時間、数分?数秒?で作曲をして、あとは世間話を

しながら、それを写譜していたのだから、奥さんには天才は簡単に見えたのだ。

だから、結婚生活は他の気難しい天才たちとは違って、よほど陽気なものだった  

ろう。ただ経済観念と、スポンサーへの配慮に欠け、フランス革命に浮かされて

しまったことだ。一時は、1000万円くらいの年収があり、成功していたというのに。  


彼が算盤を使っているうちは、僕は算盤を使えないだろう。それはそれで  

緊張が避けられるので、気楽にやるしかない。そのうちに算盤を回して  

来るだろう。  (頭が集中していないので、ずいぶん推敲した。10か所も  

言い方を変えて、6行くらい、つけ足したろうか)  

アンコール2 128.JPG


アンコールワットで 2012.
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君が走っている :子供の僕と子供たちへ [感謝]

< 子供たちへ >


誰かが 僕に、  

もっと 勉強をしろよ、 本を読めよ、と  

言ってくれることは  なんと  心強いことだろう   

僕は  冗談でなく  本気で そう思っている   

これは なんだろう?  

それは  たぶん、 勉強でも  もっと違う  

学びのこと ではないかな   

読書でも  もっと違う   観察や 視察のこと、  

ではないかな、  と 

陽のある 野や  フィールドに出て。
  

それとも  応援を求めているのかと   

それについては  僕の気難しさが  顔を出す  

それを期待して  期待したくない という  

どちらも  実際に  そう 願っている   

ちょうど  街角で  期待した楽曲が  

記憶の底から 甦って   頭の中で 鳴りだすことがあるが  

そんなように   歩いていて  

とんでもない時に  それを聴きたい   

そんな 超 贅沢な  期待がある   

僕が  何の考えもなく  街の  通りをあるくという  

そういう 理想の  シチュエイションで   

これぞ、という  僕を 鼓舞する   音が  

耳の奥から  高らかに、 あるいは  しめやかに  


僕は  思う  

そんなに 応援してくれるのなら  

やれるところまで   やってみよう、   と  

そんな気にもなるの  だろう   


それが  僕の  活かされる 形式なのだ  

晴れやかな  人の 気づけない  儀式なのだ  

それは  神経や   体の記憶に  触発される  

恐らく  

しあわせの  一形式なのでは  と 思うのだ  

僕は  心の深い 箇所で  

人との 関係を求めている  自分を  

知っている   

それは  人に知られてはならない  箇所で  

そこまで  近づいてくるまでに   僕が  

引き寄せてしまう  そういう人に 違いない   

そういう勝手な  空想を  弄び  

夢に  浸るのが   

涼しくも    気持ちいい  


僕の 思う処を 超えて  

はるかに  調和した世界に  変換して  

僕の一歩先を  示してくれる  

これが  君の  予定調和  なのか  

どこまでも  僕に 寄り添いながら   

それの背景に  細やかに  気にかけてくれる  

それを  退けることは  僕の未来・ 未知というものを  

受け取らないということ   

僕は  進む   

間違いのない  自信の  もとに  

僕の 望む方向に  僕と君の  建設した道 を  


死の丘を 越えて  

生の 生きたままの情報を  ダウンロードして  

僕は  そんなこんなで  

ひとつの アプリ、なのかもしれない  

他の アプリも  立ち上がっているのを  見る  

森林の 中で  奥から 湧き上がるように やって来る  

白い霧  その大群が   押し寄せて  

世界は  白さに  包まれてしまう  

また   

霧が晴れたら  何が起こったのか  わかる  

目の前で  起きていたことが  ほんとうは  

何だったのか?  それは何だったのか、 が    

わかる   

新しい時代の  息吹を  呼吸する日が  

来たことを   


まだ  早すぎる期待が   駆け足を している  

どこを  走っているのか  

いつ  ここに  届くのか   

君が  走ってくる、  

ああ  走ってくる   

君 だったんだ   

僕が  応援しているんじゃない   

まだ来ていない  君が  

僕を  応援していたんだ   



誰かが 僕に、  

もっと 勉強をしろよ、 本を読めよ、と  

言ってくれることは  なんと  心強いことだろう   

僕は  冗談でなく  本気で そう思っている  


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野良猫がゆく [猫]

猫にあって、人間にないもの。それは人間のオーラを見る感覚。  

人間にあって、猫にないもの。それは人の視線を感じるという感覚。  

猫はそれほど利口ではない。しかし、人間にエジプトの古い時代から  

愛されていたから、4000年の歴史がある。そのはじめはわかりやすい  

倉庫の食料を荒らすネズミ対策で飼われたのが最初。現代ではネズミ対策では  

家庭では飼われない。

しかし、東京の千代田区ではドブネズミが、少なくも20年前まではいた。

(今は? どうだろう?)  

いた、なんてものではなかった。下水を住処に繁殖して、しかも東京である、  

飲食店が多く、食べ放題だったらしく、体が肥大化していた。これがネズミ! 

と驚くばかりで、ふつうの猫では太刀打ちできなかった。体力差で猫が圧倒的に  

負けてしまうのだから、人がそれを見つけた時には、恐怖を感じるくらいに  

大きかった。  

僕も、長崎の離島の家では、ネズミ対策をずいぶんした。留守が多くなって、  

食べ物がなくなると、自然によそへ行ったようで、最近は現れなくなった。  

ふつうに齧られた跡などが見れるのだが、一度もネズミの姿を見ることは  

なかった。 壁の穴から侵入したのかも、と壁の穴を埋めたのも2年前だった

ろうか。  

野良猫ルーシーは時折、エサをねだりに玄関前に訪れる。この時の待ち姿が 

きちんと背筋をのばし、これぞ猫のおすわりの代表の姿と言えるものなので、  

僕はその姿が一番気に入っているのかもしれない。と言うのも、彼女は僕の  

家の前ではその姿で、僕が出てくるのを待つからである。以前は、ニャーニャー  

鳴いていたが、うちのが嫌がるし、僕が必ずしも聞きつけるのでもないので、  

鳴くのはやめて、おとなしく待っている。自分で時間のカテゴリーがあって  

たぶん、お日様の傾き具合で決まっているのだろうけれど、だいたいその時間  

というのが決まっている。  

エサはおやつくらいの量の、こっちのほうが人間としては上等で、うまいのでは

ないのか、というものと、猫缶で量はあるが、少し味は落ちるのではないか、と  

いう2種類があって、僕のきまぐれで与えている。腹具合がいいと、ほとんど  

鳴かずに無言で食べる。むしろ、食べてやっているという態度だ。 

だいぶ以前にカリカリのエサをやってみたことがあったが、フンッと一口も食べずに  

去っていった。あの頃は、勢いがあった。 

腹が空いていると、よく鳴く。それでもしつこくはないのは、僕が嫌がるのを  

学習しているからだろう。   

少ないおやつの時に、上から覗いていると、まだ腹が満たないのか、坐り姿で  

待っている。これが癒しになるのだろう、可愛い。  

すぐにきょろ、っと辺りを見回して、もう出てこないだろう、とまた駐車場の  

ほうへ去ってゆく。何度見ても、猫がこの僕(人間)の視線に気づくことはない。  

その(特定の)人間が何を好んで、何を嫌うかがわかればそれで食っていける、  

と千年以上前に悟ってから、それ以上の感覚の開発(進化)はしなかったようだ。  

視線なんか、エサと関係ないし、危険でもないから、それは当然なことなの

だろう。 しかし、この冬は少し、弱っていた。エサを渡すときには必ず、身を  

隠すのだが、寒さがこたえるのだろう、僕の前から逃げない時が2回あった。 

(滅多にないので、寄る年波なのだろう、最近、「長生き猫の暮らしとお世話」と

いう本を購入した。今年中には読めるだろう。) 

来年の冬にはその時に、抱き上げてしまおう。 楽しみだ。
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コロナ最中に、アフリカとかふつうの話 [感染]

陽が落ちるのが遅くなった。この何か月前から、5時過ぎには暗くなっていた  

夕方が、まだ陽が落ちなくなって、日が延びたと思ったが、もう6時近い。  

それでまた1時間、日の延びが延長したと、計算してしまうが、日頃の  

感覚は同じで、5時だろうが、6時だろうが、それは関係ない。ああ、まだ  

明るい、日が延びたなぁ、というだけ。   

このもっと陽が延びたというのは、時計を見ない限り、気づかない。それで  

時間というのは自然とは、違和感がある。 例えば、学校で明日は夜中の  

0時から始まると教わって、暗いのに、明日になってしまうのだ、と最初は  

違和感をもったはずなのだ。小学生の頃だろう、もう忘れているが・・。   

アフリカが近代化するには一番遅手になった。国家になったので、時間も  

決めることになって、僕らと同じに0時から一日が始まるものと思いきや、  

6時からが一日の始まりに決まった。 彼らの感覚では始まりを6時間も  

ズラしたのではない。朝陽が昇るのは6時ころなので、それで6時に決めた

のだろう。 違和感がない、夜が明けるとともに一日がはじまるという生活の

習慣に従っただけなのだ。そういうことであるなら、彼らの方がよほど健全な  

対応をしているように思う。   地球の暑い地方や温暖な地方、寒い地方、  

凍える地方によっても生活への対応は変わってくるから、そこで感覚を  

重視するか、考えを重視するかという選択でも、かなり違ってくる。 僕の  

個人的意見としては朝は6時から始まるほうが受け入れやすい。いっそ  

6時を0時に国際的に変更してもらってもいいと思っている。 ただ世界が  

地方ごとにバラバラにそれをやれば、各地方で同時刻をその都度計算する

不都合が生じて、欧米の経済界・金融界では承認できないだろう。    


情報収集のために、いくつかメルマガを見ているが、中でコロナのデマ屋とか  

マスクの転売屋は、テロリストとせよ、というのもあった。この過激な発言は  

本人を知らないのでわからないが、考え方はふたつある。  

一つはネットでの炎上的なものを狙ったこと。それで自分のメルマガに人気が  

集まる可能性があるし、注目されれば成功、といったところ。 ネットでは  

ガセネタもあるが、ただ感情を煽って、誤った考えに導くガセな情報もある。  

質の悪い情報だが、彼がこれを本気でアップしているのが二番目だが、その  

場合は人々の迷惑を思い、その怒りから発信したとする。それはよくある社会的 

な正義感が根元にあって、むしろその正義感を擁護するために社会のためと  

誤って思っているだけだ。なぜなら、その正義はすぐに暴走しやすいし、すれば  

ちょうど”あおり運転”の根底と同じになるからだ。子供への虐待も同じで、子供の  

ためのしつけを隠れ蓑にして(本人は言い逃れと思っていない)、子供に暴力

(しつけ)を、あおり運転は社会正義のために「お前の運転をしつけているのだ」  

と心で言い訳している。  

多少、飛躍したが、テロリストが爆弾で数百人を死傷させるという、残虐な行為  

の現実と、マスクを高値で売って儲けるコソ泥行為を、同じ現実で同等に扱う  

ことはできない。そういう過激発言をメルマガで用いていることが、もう信用  

ならないのだが、どう思うだろうか?   

製造部門での工場生産では、同じ生産ラインで1日の生産の2%は不良品が  

出たものとして、生産予定を数えている。実際に機械は100%精確には製品を  

生産できない。特に食品や医療品では、生産物ではなく、そのラベルが1字  

でも間違えば、納入した全製品を工場に送り返してくる。銀行で計算が1円  

でも出入りが異なれば、夜までかかってもどこで間違えたのか、すべての  

預金出入伝票・手形・貸付・債務などを見直すのと似ている。 

僕はある工場で働いていて、誰かのミスでチョコレートの包み紙の生産工程で  

チェックの紙片を外すのを忘れ、もうチョコレート工場にロール紙が運ばれ、本  

生産がはじまってから気づいたという事件に出会った。生産した2000万円分  

のチョコレートが、確か明治チョコだと、無駄になった。それで工場の僕らも  

そのどこに紙片が包み紙に紛れ込んだかわからないチョコレートを2000円分  

(強制ではないが、雰囲気で)買わざるを得なかった。もちろん、市販よりも安い

から、2000円で段ボール箱が届いた。周辺に配分しても残り、食べきれなかった、

笑える思い出がある。  

僕は比較できないが、人間の生産=出産は機械で生産する製品よりも、もっと  

複雑で、出来損なう部分が大きい人間を生んでいるはずだが、それは表に現れ  

ないと思う。それはそれと同じ程度に、それ以上かもしれないが、子供が不幸な

環境にさらされることが多いからだと。  

品物は2%の不良を見込んでいるけれど、人間はいろいろな条件があるので、  

それをカバーする統計はないので、わからないだろう。  

それでもただの目安で、2%の10分の1で0,2%、100分の1で0,02%。  

人口1億人なら0,2%で20万人、0,02%なら2万人が身体障害を負い、 

虐待や疾患で精神や神経の心的障害を負うとすると、これらの内からおかしな  

連中がおかしな行為をするのは、その2割くらいだろうか?  

正確な数字はわからないが、知的に優れてもおかしな奴というのはいる。  

上を総合してしまうと、4000人から4万人が反社会的行為をしている人数に

なるが、重要なポイントは健常な人でもおかしくなるから(その参加の仕方や、

年齢・機会などは複雑すぎて計算不能だろう)、半数としても、2000人から2万人

がいて、その多くはネットなどの炎上などに参加しているだろう、と想像がつく。  

治る病気もあれば、治りにくいものもあるだろう。 日本で年収が180万円に  

満たない貧困層が1000万人に達しているという情報は、本当だろうか?  

ちょっと調べてみる:::

日本の就業者数は2020年2月で、6687万人とか。そのうちの16,1%が  

年収200万円以下の貧困層だという。とすると、1076,6万人! このうちの

昔の統計では、40万人以上が若者で、生活がカツカツなので夢も希望もない  

状態。相当数?が結婚もできないのだから、むしろ戦争に行きたい、と。 

生きる方向が戦争というのは、もう絶望状態  ・・・・。

わからなくもない話だ。 実際にカンボジアに現金20万円だけ持って豚を飼う

という事業をしに海外に渡った女の子がいたが、すごいと思った。明治政府の  

海外へ渡った志士みたいで、養豚の「よ」の字も知らなかった。志士もフランス  

へ渡った時に、フランス語ができるという嘘をついてついて来た者しかいな

かった。その場でフランス語を学んだのだろう。驚きである。女の子も、日本へ

養豚業の本を注文で取り寄せる、というのだから、まったくその場で勉強する

という、ほとんど日本を脱出したかっただけではないか、と。あまりに日本社会

の資格や規律・決まったやり方に頼った、息が詰まりそうなシステムに愛想を

つかしたからではなかったか、 ― というくらいの思い切りの良さ。  


就業者の6人に1人が不満の貧困層を抱える日本って、危なくないだろうか?  

危ないよねぇ。だから、こうした時期には、息をのんで世の中の混乱のさまを

見ていた方がいいだろう。様々にこんぐらがった糸を少しずつ解きほぐして  

さらに解きほぐして視界がよくなってから、その残った条件から、世の中の  

なにが見えるのか?  つまらない正義感や、過激な意見は無視しておいて 、 

言わせておけばいいのだ。

だが、問題は出産は今までと似た条件の環境でされて、子供は成長する、  

ということだ。僕らは平均的に生まれてくるわけではない。様々な困難を  

処理するうえで様々な知恵をつけてきた。だから、この先も今まで以上に  

新しい困難が出るだろうとは、十分に予測される。いつでもそれに対応する 

そういう枠組みを作っておく必要があるだろう。  

それが今後の必要と認識するのならば、納得するのならば、相手をやっつける  

名札貼りとか、やっている場合ではないだろう。   それはまた、周囲の状況を  

利用するつもりで、結局は周囲のあおりの風に流されることでもある。そうして、  

煽っているつもりで、煽られ、それでさらに煽る。ただの悪循環なのだが、そこに  

はまってしまうと、気づけない。 今、出されている世界の国の状況を見ておく  

のも、このコロナの混乱の中でしておくべきことではないか、と僕は思う。  

生活のために動く、コロナ予防のために動く以外は、息を殺して見ている。  

うまくいかないかも。それはこの状況がそうすべきだと、感じ取れていないから。  

今までと同じ生活をしようと、”自分という心も体”も、今までの習慣で生まれた  

生活感覚で同じように継続して暮らしていこうとしているから。いろいろ生活の

変化に工夫しなければならないが、まず今の状況を乗り切るまでは、煽りの風に

近づいたり、気にしたりしないことだ。
 


ああ、暇だ。 ― (これでいいのだ、なんだか天才バカボンみたいだが)  

家ではレース編みの製品が何十枚も生産されている。独り言を言いながら  

レースを編んでいるうちの姿は、不気味だ。何気ない会話をしている自分も 

会話が気にかかり、その気にかかることが、なにか普通ではないような気が

して、一緒にだいじょうぶか、と思う コロナのこの頃である。   

猫は 喉を  ゴロゴロ。 やはり、変か。(笑)  



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愛を振り切れない [愛]

さっきまで  窓から見えていた 月 は  隣の屋根に  

隠れて  見えなくなった   満月だった

人は  どうしてこうも  自分を顧みずに  

他人を助けようとする  その行為に   感情移入しやすいのだろう?  

人は  愛を 疑うことを  しない   

これまでの 長い間に  裏切られて  人を否定するために  憎んで   

そのために  愛をも 否定した人はいた   

ほぼ 無理やりな感情で  ひねくれた  すねただけの  

幼い 感情とも   

でも そうでもなければ  愛を 拒否とか  認めないという  

そういう表現は  見かけない   

それが  その重要さ、  重大さなのだろう   

愛は  友達ではない  

僕らは  少なくとも  そういうようには  感じていない   

それは  救いであり、  もしかすると  望むことのすべて、  

という人も  いるだろう   

僕の 心は   弾けないピアノを  弾きながら  

高まり  踊り    舞台に  立ってみる   

ここは どこだろう?   

君を  探す必要が  あるのだろうか?   

まだ  そこにいるのなら   僕の疑問に  

手助けを  与えて ほしい   

こういうことは  今までに  なかったことだ   

だからって  恩着せがましく  思っているんじゃない  

久しぶりに  会ってみたい、  ふと  

月を 見て       

そう、 思った   

ああ  そうだ、  それだよね   

ゆっくりと  もっと  ゆっくりと   

近づいてきてくれ      

僕の 息が    止まらないように   

その君から 流れてくるものを   調べと  言ってもいい   

それは  やはり  ひとつのことしか  しない   

愛したいんだ   

誰かを  愛したくなる   その  やわらかさ ・・  

僕の胸から  取り巻くように  円を 描いて   

すっぽり  愛に  包まれる   

何度も  何度も   書いてきた  このことを  

同じで 変わらないのに  それには 意味がないと  

新しく  甦る   君という  存在  

でも  僕は  もうここへ  来てはいけないことを  

知っている   

少しだけ  それを  許してもらう   

僕の疑問は  愛についてではなく   

この  壮大な  熱いオペラが  どうして  

ここにあるのか  という  位置についての  疑いなのだよ  

僕は  現実に  幾度も 死に損なって (海外で、国内で) 

ここまで  

生きてしまったのを  反省している   

それは  後悔ではない、  検討に迫られている、といった  

意味合いなのだが  理解しがたいと 思う   

自分には 当然と思っていたが、   人には 理解が  

困難なのは   最近  思うことだ 


まだ 覚えている  

昔の人を 想って  心に響く 巷の曲を  

聴くたびに  胸張り裂け、という しょうもない表現が  

ピッタリ 当てはまった   

もう 家庭をつくっていたが  ある日  ついに  

耐えられない時が  来た   

これ以上、 自分の想いに  耐えられない  

これ以上  想いが 募れば   死ぬだろう  

そんな 気がした  

それで  迷いもなく  他に心配もすることも なく  

死ぬことにした   

(5年くらい前には  今は書けないが、 いつか  

書くのだろう、と  思った  その今日が 来たらしい)  

壁を背に  坐って  思う存分  想いのエネルギーを  

全開にした   気が遠くなったが、  緩めることなく  

このまま  死ぬのだと  ・・・   

もう 30年以上に  なるか  ‥そんなことがあった  

僕の 自殺の意志は  記憶の限りでは  この1回だけ  

だろう     

気がつくと 死んでいない、 ”死ななかった” と   

ぼんやりと  精神だけでは 死なないのだ、と考えた  

そして、 なくなったのに 気づいた   

それを 尋ねると、  彼女への想いだった   

これは  不思議なことだった   記憶から  想いが  

すっぽり抜けて  空虚な残滓(残りカス)だけ  

この時、 彼女が過去のことになったのが  

はっきりわかった   

もう  彼女に  恋していなかった  

それは  顧みれば  衝撃的な事実だったが  

それは  ゆっくりと  セピア色に変わるように  

着実に  後を引かない  思い出になった  

僕という 肉体の事実は  死ななかったのに  

精神の情念は  消え去ってしまった   

どんな曲も  せつなく狂おしく  僕を  

させることは  まったくなくなってしまった

予想外だった   


このエピソードは 今になると、   重要な意味を  

担っていたように  反省する   

変な言い方だが  この時死んだことで  僕は  

行き場所のない 愛が集まる場所へ 行って  

また  帰ってきてしまったのではないか 、と  

それは 死者の  人は存在しない、 情念だけが  

集まる  壮大な渦で 中には個性的な  愛の  

エネルギーも  あったのだろう   

それから  20年以上の 後に ある知的障害者の ホームで  

その障害者の 聴かせてくれた 古い曲で  一気に  

なにかが  噴出してしまった   

なにかに 押されるように  想いが  あふれて  

その晩から  寝ないで  書き続けた、 その想いを  

もう過去になったと 感じてさえいた  その想いを  

書いても書いても  尽きることなく  胸に  

突き上がる  嵐のような  その想いを  

書いた  その職場を  朝に辞して  なおも  

その日の 昼まで  書き続けた  

他愛なく  平凡に  陳腐でさえあったかもしれない  

その想いを  

それは  彼女への想いではなかった   

それは  人を愛したい  ただその想い、 だった  

愛したい、  ただ 愛したい    

他に なにもなかった   ・・


何が起きたのか  わからなかった    

なぜ  こうも  この想いが  あふれるのかも  

わからなかった    

無意識帯に 潜ることを覚えて  いつしか  愛を 

見つけたが   それは  死とともにあった  

見えない感覚で  手さぐりに   探ってゆくうちに  

大きさのわからなかった  愛が  死の内に  ある  

と、 感じるようになった     

それでも  それらが  混ざっているのではなかった  

重なっているのでもなく  それぞれのゾーンが  あった  

なぜか  20年から 30年近くもして  僕は  

その愛のゾーンに  入ることができて  

理想の愛の中で  酔った   

僕の  想像力の及ぶ中で  これ以上の  

しあわせは  なかった   

少し  酔うのを 許されれば  

この世に必要なものは何もない、  と わかってしまう  

そういう気分にさせて  甘く  健やかな  喜びの気持ちを  

何杯でも  何百杯でも  お代わりさせてくれる  

もう これまで、 がないのに  もう 満足したよと言っても  

終わらない  盛大に しあわせが  盛り上がってしまう  

もう  単調な 言葉しかない  言い表せない  

そういう  ひとりお祭り なのだ    


それは 2年も 続いた   

何の 疑いもなく  二重の世界に  生きるような感覚で   

必要な時には  それが夜に 部屋に  あふれた  

落ち込みそうに  不安がもたげて  なにも思わなくても  

君が  来て  そばに いた   

それだけで  天とか、  宇宙とか、  銀河とか、  そんな  

広大で  無辺な  あらゆる世界が 一時に集まって  

その 距離の中心ではないが    - ど真ん中である -、  

という状態、 気分に なる  

はじめは  愛と 僕は  蜜月を続けたが  

やがて  その端の方が  見えるような感じになった  

それは 端切れだったが  恨み、  妬み、  性の支配(奴隷)、

ゆがんだ快楽 という  

愛と  相容れぬ  もののように思えたが、  つながっていた  

それが  疑問に火を点ける  きっかけだったろう  

この愛は  なにもかも  愛でさえないものまで  

同時に 存在を許さない  反発のプライドでさえ  

抱擁してしまうのだ   

入口は  僕の思う 理想だったが、  僕のキャパシティを  

越えている  これほどの 無分別は なんだろう?  

それを調べるのは  簡単だが、  それは 愛を離れること  

捨てるつもりでないと  実現は  難しい   

しあわせを  、  もうこれ以上の幸せには  出会わない  

それを  捨てる?   キチガイ沙汰だった  

それに 救われたのは  知っていた   

それを 捨てる?  あり得ない!   


そして  僕は  それを 実行した   

人生を  残りにして  今それを 検証しようとするのは  

もったいな過ぎて   無謀にも思えた   

でも  それをするのが  自分、  どうしようもない自分だ  

とは、 知っていた   彼は  僕より 常に  強かった  

バカだった   しなければ気がおさまらない、 知っていた(涙、笑)  

(僕の)自分の知は  心の主な 中心であったし、  知りたい

という欲望を 本能にしていた   飯や 金銭より  

知りたかった   それで  わが身が 滅びるとしても!  


愛の方が  勝手には  見捨てなかった、 また  

そう思うのは  僕の 小さな 感傷に過ぎない  

向こうに  見捨てるとか、守るとかいう  損得勘定は  

元々ないのだから   だから  愛を見つけた時に  

それが  人間以上だとは  すぐに   気づくことができた   

”それ”から 離れた  ・・

その頃は  人間の小ささが  ほんとに  身に染みて  

こんなに ちっぽけだと 思う日が  来るとは、 と  

そんな日々を  長崎の島で   また 座間の家で  

しみじみと 過ごしていた  

  
一度、 愛を包む  死のゾーンを 超えてみようと  

死の淵まで  無感覚なので  どこまでが そうだったのか  

言葉にはできないが  行ったことがあった  

そして、闇に落ち、  阻まれた   

精神不安定にもなり  回復に  手間取った  

でも、 それが  効果的だったのか  実際には  

わからないが、   問題を解く  仮説はのちに 閃いた   

( 以下、    中略    )


それからだ   

島が 冷たくなり、   岩場で落ちて  

急回復しても  一月後、持病で  (座間で)入院して   回復しても  

併発したらしい小病は ぶり返しを  くり返している  

そして  新型コロナ、  と来ている   まるで  

映画を 観ているようだ   観客の気分   

安心して  ストーリー進行は  わかっているのだから ・・  


科学的な 一般意見も  書いておこう   

「僕は  その理由は わからないが  瞑想で  

瞑想ハイ(脳内麻薬)になる  ことができるようになった  

愛という言葉を  心に感覚するような  特殊な条件で  

体が 反応して  無窮 夢幻の世界に  入るようになった  

自分の考える 概念から  愛の理想を  そこで  

見るし  感じもするようになった  

- ただ  それだけのこと   そして、  ほんとうのところは  

僕にも わからない、という 」 


: - それは ちがう  

そうじゃない、と ヒステリックに 否定する気は  ない  

事実は そうじゃない、と  しっかり感じるから  

そうだ、というだけだ   

考えというのは  同じ真実でも、 時には否定したり  

時には 肯定したりと  自由に 気ままにできる  

僕が  正しいとは言えないが  ただ 誠実な感覚で  

事実はそうではない、  愛たる、そのものは あった と 

(たとえ、それが 一般で愛と 考えられるものとは 

ちがっているかもしれない にしても) 

それは信じるに足るとか、  ほんとだったとか  その  

言葉は  いらない   

僕は  こう思う  それだけだ  

僕は  生きていると、すでに信じて 存在している  

だから、  それと 同じくらいに  ”それが 僕を  

はるかに凌駕して、あった” と   知っている   

それを まだ  ホントがわからないからといって  

否定したり、  事実ではないと  僕が自身に  

言うことは  できない   ― ただ、こう思う   

今は  僕は  それで  生きている   

違うのなら、 それがわかった時に  訂正して  

初めから やり直せばいい   

今は  僕の事実は  こうなのだ  

それは  考えで 否定するとか、肯定する その以前の  

ことだ   それが  僕らの あり方ではないか  

そうではないか   

僕は  そう思う (のです、 ・・・)  


どうしてか  こういう時に  感謝の念が  

湧きおこる  

なぜだろう   君や  あなたたち  

人に  感謝したい   

理由も わからずに   愛が ・・・   



                    3.11 満月の次の晩





*長崎の離島は、隠れキリシタンの教会の、世界遺産がある。  

 初めて上陸した日は、よく雨の降る日で晴れ男の僕にしては  

 珍しいことだった。 年が明けて、車で来た港から、始めに行った  

 場所が頭ヶ島の教会だった。まだ、世界遺産ではなかった。 

 そこでマリア像に思わぬ場所で会って、その放射エネルギーに  

 驚いてしまった。あとから、それが積もり積もった虐げられた信者の

 祈りである気がした。悲しみに裏打ちされた、救いを求める愛だった。 

                               3.12



 
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コロナ桜算 ・ペスト [桜]

桜の開花予想が、東京は3月15日ごろらしい。  

それは2月1日からの累計で最高気温を足して、600℃を超えると  

開花する、と予想するものだが、すぐに自然ではない、と頭に警戒音が  

ピーンと来た。  ネットで調べると、やはり600℃を越えたからといって、  

一斉に開花するわけではなくて、単に目安だった。達しても、それから4日  

しなければ、開花しなかったり、と累計600℃に達してからの前後、という

ことで、 数字を出されると、つい科学的と勘違いしてしまうが、例年の統計

から目安として、割り出しただけの数字で、累計600℃に科学的根拠は  

なにもない。  

僕は暖かいので、晴れてもいるし、久しぶりに散歩に出た。側溝に渡された  

鉄の網板の上を歩きながら、それについて初めに考えたのは、桜の気持ちだ。 

いや、感覚か。生理か。  

その土地の桜が、日々の温度よりももっと大きく、気候をなにかで読み取って  

いるのではないか、と。彼らは連日で晴れて、何度以上が何日続いたら、とは  

考えない。温度の内奥に季節を伝えるものがあるはずだ。それは僕の体から  

類推で判断している。  

例えば、熱っぽいのが確かでも、体温計には平熱しか示されないことが、度々  

ある。それから数日して、軽い風邪の症状が出たりするのだが、そういう予兆は  

体が教えてくれるが、どうしてかは謎だ。まだ解明されていない。  

また、気象庁が冬に逆戻りで、寒くなります、と言っても僕は信じない。2月の  

中旬くらいまでだったろうか、僕はズボン下を履くのは嫌いだったが、寒さに今年

は用心して我慢して履いていた。ところが、慣れてしまって、ズボン下が毎日  

当たり前になってしまった。またまた、「ところが」で、温度の内奥に春を感じ  

始めた。大気にこもる陽気とでもいうのか、体の芯を温めてくれる 「気」 で

ある。 これを感じると、季節が変わるのを毎年感じ、知っていたので、ズボン下

は脱いで、もう履かなくなってしまった。寒い日でも、前のように芯から寒さを  

感じなくなった。 

たぶん、僕らはこういう感覚のことを、まだ未知で、何も知らないのだ。名前が  

ないのだ。むしろ、文学や服装などで、人々が生活の内に自然に表現している  

ものだ。  

スーパーマーケットは昼間なので、空いていた。アルコール消毒は、帰りに見た

ので、店を出る時に手を洗った。陽射しのある駐車場に出ると、徒歩で来たの

だが、とても変な気分だった。コロナの最中だとわかっていたが、気持ちよくて  

普段の晴れた日と変わらず、暖かく気分がいいのだ。 それでもこの空気中に  

何万という微生物が浮遊しているのだ。それは見えなければ、いないのと同じで  

感じようがなかった。  コロナは終わった、と言っても、嘘を言っている気には  

ならない、だろう、 そんな気がした。   

小さな公園を細く、小さな流れを見たが、子供もいないのに、小魚はおろか、  

どの小さな生物も動きがなかった。水の中ではまだ春が訪れていないよう  

だった。そう言えば、マスクもしないで歩き回っていた。風がコロナを吹き  

飛ばしているだろう、と脳天気なことをことを思っていた。   


17世紀の ロンドン「ペスト」  :- 

デフォーの「ペスト」という当時のロンドンの記録文学じみた小説を、少し読んで  

みた。致死率が高かったので、感染はゆっくりだった。感染者が生きて、あちこち

に、コロナのようにばら撒けば、感染は広まるのが早いが、まず交通手段は  

馬車などで、飛行機も鉄道もなかったので、人々の移動が緩慢だった。それで  

少し感染がゆるまると、もう収まったとばかり、市民は忘れてしまった。で、 

また死者が出て、終わっていないと慄いた。それが何度も繰り返すので、次第  

に(金持ちたちは地方に疎開してしまった)市民たちは、ペストの惨状の環境に  

慣れ始めて無関心になって行った。それほど何度も何度も、流行のぶり返しが 

くり返されたということらしい。

さて、このペストはロンドンに苦境をもたらしたが、人類の発展には、特に  

科学というものの発生、その興隆には大きな貢献となる機会をニュートンに  

与えたのである。ペストでロンドンでは7万人が亡くなった。翌年にロンドン大火  

が起こり、4日間燃え続け、市内の家屋の85%が焼失したとされる。この大火に  

よってペスト菌が消滅して、収まったというのが有力な説だ。  

ニュートンはその間、18ヵ月もの間、大学の雑務から解放され、のちの「光学」、  

「微積分法」、「万有引力」についての核や肉付けとなる思考に存分に集中する  

休暇を得たのだ。まだ20代。  2年後には教授に招聘されるが、彼の発見した  

「光学」は新しすぎて、講義に学生が一人も来ないことがしばしばだった、という。  

それが真の”新しさ”というもの。  

夏目漱石ははじめ、英文学者だった。それでデフォーの評論もしている。さんざん

に気に入らない点を述べているが、それについては準備不足で言わないが、  

その漱石の不満があるということが、彼がやがて他人の作に不満なら、自分で  

書けばいい、いや、書きたい、となる”てこ”でもあったようだ。 だが、日本に帰って

も、また小説を書く機会が訪れても、すぐにはそれがわからなかった。 

「吾輩は猫である」、が売れて、それでいろいろな小説や、俳句小説のようなものを  

初めての小説と、新しいものと、自分では思っていたらしい。そして、修善寺で 

胃病で死んで(医者は30分だと言っている)、また生き返って、それが晩年の 

「こころ」に結びついている、というのが僕の勘である。  

デフォーは「ロビンソンクルーソー」で売れて、少し傾向を変えて、3部作まで出した  

が、これまでに印刷され続けたのは、断然、第1作で、少年少女の文学に動かせ

ない定位置を決めている。子供の頃、これ読んで、実体験ではなく想像上の物語とは

思わなかった。 デフォーの「ペスト」については注目した点があったが、それはまた  

いつかということで ・・・。

(デフォーの「ペスト」は他に「ペストの記憶」「疫病流行記」「ロンドンペストの恐怖」

など別名で出版されている)

河津桜.jpg

河津桜だろう。歩いて5分の温泉施設の前にて。


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コロナ暗算 [感染]

新型コロナウィルスについての、不安にかかわる暗算をしてみようと思う。  


僕らは日常で交通事故を、心から心配して、毎日不安に慄(おのの)いている 

だろうか。な、ことはない。それを不安にしてたら、正常な生活に支障を及ぼす、  

と思っているはずだ。では、今回のウィルス騒ぎも同じだ。基本、心配はない。  

まず、心配の第1は、感染だ。感染を恐れている。感染はするかもしれない。  

でも、死なない。8割が生還する、というほどのこともなく、退院する。  

だから、まず自分(たち)はどうなのか、考えよう。  

若年層はほぼ重症化しないと言われている。適当に線引きをするしかない。  

65歳以上は高齢、60歳から65歳は個人差で、グレーゾーン。還暦以下は  

まず、死なない。日本のように皆保険が常識なところでは、インフルエンザでも  

アメリカのように毎年2000人とか、6000人とか、死者が出たことはない。誰の

陰謀か知らないが、医療が民営化されて治療は金次第になったアメリカでは、

風邪で病院に行っても、50000円くらいかかってしまう。アメリカでは、風邪だと

思って家でオレンジジュースとか飲んでごまかしてしまう。それでインフルエンザ

の場合だったら、流行が毎年蔓延してしまうのだ。日本人は医療好きだから、

院内感染も恐れない(???)。  

ともかく、日本人は衛生観念が神経質なまでに強い(TVのCMの影響)ので、

予防策などきっちりやる人の方が、やらない人よりやや多い。  

では、生活は?という心配が今、一番の問題かもしれない。それはまだどうなる

かわからないが、今は予防策を毎日きっちり行うことが肝心だ。それは当たり前

ではない。それについては、後述する。  

コロナの感染率について、TVでどうのこうの、なにが何%とか、細かいことを言って

いるが、気にしても損なので、無視していい。  

その理由は簡単。もう、感染を防げるような状況ではないのだ。ここまで全国的に

なれば、あとは罹るか、罹らないかの、それだけだ。丁半勝負ではないが、言葉

だけでいい、罹るか、罹らないか、それだけ。それを半々とか、50%だとか言うのは  

もうごまかしで、今の状況は戦争なら、最前線に出てしまったということ。 後方支援  

ではなく、流れ弾が近くをビュンビュン飛んでいる状態。それを恐れても恐れなくても  

同じこと、当たる時は当たるし、当たらない時は当たらない。  

絶対に感染したくないなら、90%の防御をする必要がある。  

難しいが、家族全員がそれをする必要がある。帰宅したら、玄関内にアルコールを

濡れティッシュでもスプレーでも用意しておいて、一度両手を手首まで濡らす。  

そして、ドアノブとか、鍵を使ったら、そのカギをアルコールで消毒。それから、  

洗面所で手首まで手を洗い、顔を洗い、うがいする。着てきた服を消毒するか、  

洗濯に回してしまう。または用途によって、その分別をする。マスクに触らない工夫

をして捨てる。  ・・と、ここまでするだろうか?  

その必要があるのは、65歳以上の高齢者を抱えている家族や、免疫力のない人だ。

例えば、幼稚園でどろんこ遊びをさせる園があるが、そういう子は、比較的、大丈夫だ。 

普段から汚れた環境で様々な菌やウィルスに接して、免疫をつくっているから。そうなる

と、反面、汚れにまみれない、過保護の子などは危ない。昔、両親共働きの団地で

かぎっ子で外で遊ばない子がいて、本物の犬に触ったことがなく、ひどいのになると、  

絵本や図鑑でしか犬を見たことがない子がいた。そこまではないだろうが、家の中  

ばかりに居るのを許されてしまう子は、気をつけた方がいい。ひきこもりでも、  

もやしっ子と呼ばれるような、見るからに線の細い青年なんかも、気をつけるべき

だろう。ほぼ、高齢者に近いからだ。  

高齢者はもう好きにするしかない。なにを心配しても始まらないからだ。 まだ自分

の体や判断が効くようなら、予防でもなんでも、思うことをすればいい。 

この際だから、死ぬ前に俳句とか、やり残したことを少しだけでも完成に近づけ  

たりとか、もしかするとそれが成功するかもしれないから、始めてもいいと思う。  


さて、買いだめはどうだろう。それもじゃんじゃんして、不安が収まるなら、そのほう

がいいだろう。ただ、できるだけ家族の人員を数えて、それなりの物資を買うべきだ。  

米にしても、余分に家族1か月分もあればいいと思うが・・。  今は、である。  

この先、供給が増えるので、次第に買いだめする気もなくなる。  そこで僕が  

一番気になる残念な予測に入る。 基本、予測というものはできない、だから、  

これは僕の持病での入退院から、その先のぶり返した経験だけで推測してみた。  

コロナウィルスとは全然関係ない(なんじゃ、そりゃ?)  

問題は、ウィルスの毒性が弱いので、感染者が陰性のまま気づかない、当然、  

誰も判定できないし、気づくこともできない、という点だ。 これから考えられる

ことは、この騒ぎの”収束は長引く。収束しないかもしれない”、ということ。 イン

フルエンザのように毎年流行するウィルスになるのかもしれない。 だとしたら、

今は確かに予防で大事な時期だが、先行きを心配しても無駄なことだ、となる。  

陰性で退院しても、また陽性になる、具合悪くなる。だったら、その時だけ喜んでも  

しかたない。腰を落ち着けましょう、という話だ。  

ここで大雑把に、嘘っぱちになりそうな予測では、ピークや収束は見えないの

だから、だらだらと長引き、それらしい時期は6月末とか、そのあたりではないか、

というのが”超”個人的見解だ。 

努々(ゆめゆめ)、信じず、こういう意見があるということで。自分で確認・思考して。  

政府からの社会的な擁護はできる限り受けるべき事務的なことを確認するなどは、  

子供や高齢者を抱えている家庭では、よくしていることだろうから、それは今まで  

どおりのことになる。 順番を待つ。  ともかく、あなたはまず、死なない。


                       3. 3

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