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紙の上を滑ってないで雪を滑ろう [自分と知]

 ”紙(観念)の上を滑ってないで 雪(リアル)を滑ろう”



ともかく 僕は 頭に狭い世界を  つくってしまった  

狭いと言っても 地球の全世界だから  一言では  

片付かない   

それでも だ   狭いものは  狭い   

どうしよう  この軋(きし)みながら  

そばのように 伸びるもの  

もう 実践して  経験する  貴重な時は  

去ってしまった     

それでも  ここに 残らねばならないとする   

ある意志 が ある   

その”意志” を 机の上に 置いて  

話しかけてみるのだ   君に   

「君は  このままでいいのか」   

「君は 意見を 言っているだけでいいのか」  

「君は 正しさだけで  いいと思っているのか」  

君に 言いながら  どうやら   

僕にも  言っている   

この 正しさという 呪縛から  どうやって  

逃れたらいいのか   

それは 知に頼らないことを 示しているのだが  

”知に 頼るとはなにか”いう処から  始めなければ  

ならないのだろうか   

考えていることは  ほんとうは 正しくない  

というのは  半分で  それが  正しくもあり  

正しくもないという  命題を抱えてしまっている  

これから 何年経っても  これは子供が成長するように  

いつも  ついて回る   

他に 指摘してくれている 著書(小林秀雄)もあるし、 で  

ホカして  先に進んでしまっていいだろうか と 

今 ここで  考えてみてしまうのだ   

逡巡とか  迷うとか  いうのが そうだ   

この程度なら  君は そのうちに  考えてくれるのではないか、 

という 甘い期待もあるが  自分の”知の働き” を  

そのシステムにおいて 疑うというのは  やはり  

高度な 技に なるのだろうか?   

技というより  知の 負の面に気づくという  

少し ややこしい 気づきのことなのだが ・・  

自分というのは  この知とは 親戚のような 

双子のような  親しい  また  似たもので  

くっついて 動く   

自分が  気づかれたくない面には  知も  

同調して  遠慮してしまう  もちろん  

その意識はない  

知に 気づくか  自分の負の動きに 気づくか  

どちらから 先でもいいのだが   そこには  

自然には(自分に まかせては)  行かない  

ストップ装置が かかっている   

それを外すのは  先入観をはずす  とか  

偏見を なくす   と 呼ばれている   

それを そもそも 偏見とか 先入観とは  

思っていないから  そう呼ばれているので  

気づくまでは  それは 正しい指針とか  

正しい信条と  自分で  思っている  

自分で  決めたつもりでいるが   ある偶然が  

世間の常識(誰かの著書とか=認められたこと) を  

君が 取り入れたものだ  

君は 賛成しただけで  それを 作り出したわけではないが  

それは君のものに なっているから  さらに その上に  

君の一部になっている  なぜなら  それを  

疑っていないから。    疑うにも  正しく疑うことが 

必要で   なにを 確信にするかは  その時  

大切なことになる    

For Example:  

「地球が 丸い とかいうのも  僕は 疑っている  

僕は 地球を 一度も この眼で見たことはないし  

飛行機からも  地球というものは  見えなかった」  

この 例え話は おかしく聞こえるかもしれないが  

なにも前提に していない点で 正しい   

どんな映像も  どんな記録も  どんな噂も  

自分で確かめたものは 一つもないのだから  

たった ひとつも。   

そこまで 疑っていては  なにも確定して  

そこからの話や 推論を 進められない と  

言うのなら   君は  自分の話をする時  

どこまで確かめたことを 基準にして  それを  

話すのか   全部が無理なのかは  わかっている  

問題は  大前提として  すべてのことを  

疑うことができる、という点だ   

すべてを疑え というのとは 話が違う  

それは カン違いというやつで  本筋は  

疑うのは  常識と自分では思われることこそ  あやしい  

そこから 疑うのでないと  僕らは ただ  世間の知識を  

上塗りしているだけ  となってしまう   

自分を がんこにさえ  している となってしまう  

(これに 気づいて  ほんとうだと  確認すると   

話は 速いのだが ・・・ )   

不思議なことに  その意識がないと  その知識が  

引き寄せられない   意識があると  それなりに  

TVや  書店や  広告でも  違和感があって  

そこに  疑いが発するのを  感じる  

またややこしいが  常識も必要   

歴史を 疑っても  なにも 始まらない  

いくらでも 乱暴な仮説を  それなりに 説得力を  

もって  語ることは可能だからだ  

歴史の常識を  覆していたら  キリがない  

そうしたら  なにを  疑うのだろう?  と  

考えた人は  すでにハマっている  なにに?  

自分という前提を  すでに 信じている   

すでに 信じてしまっている   ここに問題があるのだが  

大きな意識の壁が  それを見させない  

鏡のように  それが鏡ではなく  自分の顔だと  

確認させているのだ   

自分の顔を見ているので  それを映している鏡に  

気づかないように  僕らは 自分の正体に 気づかない  

そういうように  知が させている   

そういうように  自分という あり方がある  

めんどう?  

まだ  時間は  あるよ   

僕の趣味は  スキーで  

直滑降をすると  風に乗る瞬間がある  

その時  風は止まるのだが  風と一緒に  

滑降しているのを  感じる  

なんと言っていいか  風の空間世界が  

シンクロして  世界ごと動いている、という

この感じは  経験しないと わからない  

スキーでさえ  そうなのだ   

紙の上では  世間なんて  チリほども  

わからないよ   



*親父がアルバイトで彼の雀荘で便所掃除をさせられたが、  

 それが大層いいことだみたいなことを言われたが、それは  

 もうすでに知っていたことだった。 仕事って嫌なことが多いが

 便器に向かって気持ちを正面にして積極的に、便器をきれいに

 してやる!と手を抜かないと、不思議にきれいな便器に満足する

 ものだ。時給とかのケチくさい計算も必要だろうが、なんでも

 一生懸命にすると体が満足するものなのだ。その仕事がわかって

 いないのに中途にしたり、サボると、自分はそれでいい、と適当、

 つまりいい加減になる。サボるのは、仕事を覚えてしまえばあとで

 いくらでもできる(笑)。それは緊急・重要の優先と体を動かす

 健康の調整ができるようになるから、自分のための、また仕事の

 ためのサボリの調整もできるようになる。悪いと言われる常識が  

 ほんとにすべて悪いわけではない。これは言ってはいけない  

 ほんとのことだったろうか?(笑)



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コーヒータイム 焦げ茶の時間 [お茶時間]

いつも 最後のところが わからない  

あるいは  これぞというものを  見たことがない  

継続は 力なり は本当だろうが  

書き続けることが  そうだとは  思えない   

振り返れば  多くのものを  捨ててきた  

それで進んだことが  何らかのことである、と   

信じたかった   

だが やはり   快い日常には  いられない   

楽観視するには  意識の切り替えが  必要になる   

悲観するほうが  楽で  今の心情に 合う  

と言って  なにか 特別  悲観しようにも  

それを 見つけられも しないのだが ・・・。   

諦観が 合っているだろうか、  あきらめ  

そういう  羽の生えたような  軽い 慟哭  

あれば ・・  

過去と時間を 頭に 探せば  人は  

楽に悲観になれる  

そして  僕も  楽に バランスを忘れる   

自然を 置いてきて しまう   

過去を  どうしようと  それは ロマンスのひとつなのだ  

花を咲かせようとして  悲しみが  染まる  

それは  ふつうのことで   永続を望む方向が  

僕ら  死を待つ生物に  満たせるはずもない   

という   わかりやすい  事実   

僕らは  その夢と 現実  永続と あきらめ  

死と 生との間で   さまざまな理由で  ストーリーを  

つくって  浮かんでいる   

そう泳がせてくれる  なんらかの媒体を  求め  

その時の(そうは思っていないが) 生きる糧にしようと  

している   

そういうのって  それなりに  しあわせなんだろう   

考えてないもの   大まかに 見て  

深くとか  感じていない  それは 才能?  

それは その周波数のように  その波長で  

人生 やっていくんだろう   

うらやましくはないが   それもいいね、とは  

思ってしまう   

そうだ  僕も  今の  考えられる 不調を  

全部 放り投げて  それをやってみようか   

できないことはないはずだ   

そうすると  ロマンスの いいとこ取りも ありかも  

考えない  感じない   

見たままで  それだけでいいと   

あとで  面倒なことになるけど  考えない   

それでいい、 というのが  その方程式だからだ   

あとで  悲しみ 裏切り  憎しみ  わんさと やってくるけど  

考えない   それでいいんだ   

考えていたら  なにもできない   

でも 倒れたら?  そう   

付き添いの 一人は いないといけないかもしれないな  

一晩中  トイレの度に  肩を借りて  

連れて行って もらわなければ    

なに  5,6回 くらいのものだ   

そんなことは  どうでもいいんだ   なってから  

どうにか すれば  


もうひとつ  クリアーしないと   感じるよ  

それは  なに?  重金の箱にいれたような  「なに」?  

今 この場で  手に入れたい  その 秘密は?   

な に ?  

ウワィ  ゥゥ   

そう  ここにいる  というだけで  

感じる  この 力  エネルギーは   なに!?  

感覚が  より 広がる   鋭意な  ポンパ  

黒と  光の影  うまい土と カエルの串刺し  

こんなところに 出てしまったけれど   なにか 違くね?  

そうだ  悲観することはない   はじめから  

なにも なかったのだ   それを弁明したつもりだった、けれど  

なにも なかったって  説明になっていない   

それでよかったって  思っていたけれど   

なんか  違っていたんだ    そいつを  捕まえなきゃ   

なにもない  それを どうやってか   

わかるように 言葉で 示せるはずだ   

なにか 先入観に引っかかっているから  

なにか  偏見に  つかまっているから  

わかんねぇんだよ   

それ、  オレのこと?  

ちゃんと  見て  オレに 惑わされるな  

カードを  ひっくり返すのさ  

なにもないことを  お前は  どうやって知ることができるのか  

なにもないのに どうやって  それを知ったの?  


思い出すのは  君を  愛していたこと  

そうでないのなら

君を  愛そうとしていたこと  

そういう  想い、 想い、 想 い というもの  

そこに  はじめがあるような  ・・・  

そこに  囚われては いけないが  

近づいて  みなければ  ・・  

なにも ・・  なにも  ・・  言うことが  ・・  

なくなってくる    まずいが  ・・・  

それは  ・・・・・・・   

・・・・・・・・・・・・・・ How   

・・・・・・・・・・・・・・ どうして  

and ・・・  down 

Step  ・・  five   

投げやりに  この風景を  捨てましょう  

歩く お尻のかたちが  気になります?  

フィードゥン  チャコール  ロール?  リバティ?  

Did  You  Own My  しおりぃ?   
 
ヌン  ヌン  ヌン   toi  et  moi  

てぽらいず  こんとろーる   背筋しょう   


恨んでいる、 君を  

カバーしようとして   好きでもある と 気づく   

そう 嫌いじゃない  でも、あの時は  

君が  親しいから  恨んでいる   

わかってくれてもいいのに  そういうのを 

親しいとは  言わないの?   

恨んでいる   Long  is  Life     

君は  地獄から  上がってきた?  

ジェンダー?  レスビアン?  ヘタイラ?  

僕の 友を 寝るのに誘ったよね?  

僕が 愛しているの 知っていたよね  

そうかあ   そうなんだけれど  わからない  

どうして  友を  憎ませたのか?  

罪を 認めなければ  罪から逃れられる  

わけでは  ないんだね   

そうかぁ   僕は  それをくり返しているのか  

愛をレイプして  精神を レイプし返しされて 。 

見つけたよ    

僕が  自分に隠した  過去を  

始めはいつだったか  もう  何世代もの過去だね  

覚えてはいない    

過去は  罪なもの   祖々父の またその ・・・  

それに  責任を  求めるの?   

現実的じゃない そうじゃない?  

戦争責任って  どこに境界線を 引くのか?  

関係者でもないのに  罪を問うの?  

非難じゃなければ  批判かい?  

君は  どうやって  境界線を引くのか  

上手く やってほしいよ  

非難しないで 伝えるって  難しい  

君の 動機を 尋ねておかないと  いつか  

むなしくなる   

へい! とうさん  

あなたは いない  

気にもしなかったが  自分が  

気にもされなくなってみると  その強情さが  

戦争帰りの  変わってしまった体質の  

その遺伝子が  僕であるのが  よく   

わかるよ   

結局  負けるのが  嫌だった   

おさらば  白旗さん  

意地の強さは  内面だけでは なかったようだ  

いい加減は  なかったから  気づかない  

気づいても  いい加減に できない  

世間が 手の内にあるだけで  

その手間暇は  変わるわけじゃない  

それらの 心に残した ゴミを  取り払ったとして  

なにかを 発見できるだろうか?  

この重いタッチから  抜け出せるだろうか?  

人間の鎧は  重い、  そうではないか?   

アゲイン ・・  

もう 「僕ら」 とは 言うまい   

もう 重いのだろう  

もう 「君」 とは言うまい  

もう 区別が つかない   

もう  なにも 言うまい  

もう  この 石畳 ・・  

この バッドゥ タオル  

・・・・・・・・・・

ムッ ムッ とか

もう そんなにしなくても いいよ  

そう言って  また いい加減に もどるのかい?  

それも いいじゃん(笑) とか  ヘヘ  

この論理の空気は  ちゃんと  張り付いてるよ  

自分の世界は  もとのままさ  

なにか 起こったのかい?  

僕に  火をつけなよ  

コーヒータイム さ  焦げ茶の時間 さ  

僕に 笑いかけて   そう  そう   

スマイルは  おー  Own  

君に  笑いかけて   おう  おう  

オン ミー  僕の上で  生活は進むよ   

君が 君の社会を 愛する限り  

君は  地球を  守る   

そうだろ?  (笑)  

僕が 僕の家族を 愛す限り  

僕は  僕の地球を 守る  

ね、 そうだろ (笑)  

悲しみは多く  笑いは少ないと  感じるね  

悲しみは残り  笑いは消えると  感じるね

それでも 生活は  イージーに進むね  

なにもしなくて いいくらいに  

それは 僕が決めるから   

体が ぶっ壊れそうなのは  初めてじゃない  

いいじゃない  体は 僕のすべてじゃあ ない!  

バカなのは わアってるって   

家へ 帰れるって  いいよね  

帰りたい家が あるって  素晴らしいよね  

そこに  誰かが  いるから  

・・・・・・・・・・・  



*そこに なにかがあるって だけで  賞賛の対象にも  

 批判の対象にも なる  それが  世の中  

 くさるな  

 千人も 人間がいたら  うるさい奴がいて ふつう  

 1億人なら  そんなのが 10万人いるよ  

 1万 2万の炎上って  要は 普通のことじゃん!  

 ネットの炎上って  基準を 間違えてる   

 10万超えてから  騒ぎなよ   




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朝起きる時は起き、時は習慣にしたがう [習慣]

< ”時間の感覚” を知る >


朝、起きて 同じ一日を思う。  なにか食べてから、薬を。  その薬も

もう 終わっていた。  ご飯、 パン、 ラーメン、 そば、 お好み焼き。 

豊かより、貧しいほうが 選択に迷わずに 済む。  バナナも残っていたな。 

寝床から体を 起こす。  調子は、いいようだ。  今日は晴れている。  

階段を下りながら、 なにかを心に 探す。 挨拶の気持ちだろうか。  

晴れやかでも、 厳かでも ない。  朝は低血圧で 皆、 こんなものなのか。 

玄関裏まで 下りてくると、 頭の中で郵便受けに 届く予定のものはないか、  

習慣で チェックする。  出かける予定も ない。  静かに 見守ることになる、 

今日も 一日 自分を。  自分を数える一日、 その時だけ 時間がある。  

長そうだと、 考える時だけ。  あとは過ぎ去る 早い時があり、 決まった 

ように 昼になる。  

共同生活は いろいろと交換する。  特に 夫婦は お互いを 交換するが  

気づくことは、あまりない。  気持ちの交換は もちろん、 感覚も 選り好み 

で交換し  あまり交換しないのは  うちでは 知だ。  エネルギーは 

法則があるかのように  片方が疲れると もう片方が 補充する。  

それぞれの エネルギーの限界までだが、 交換し合うので  一気に  

疲れることが 少なく、 合理的である。  妻が 携帯をいじり始めてから  

知の交換の 下地ができた。  妻も 仕事を辞めて  余裕ができると  

見なかったクイズ番組 なども見て、 前もって考えた 会話が増えるように  

なった。  もう 余分な深入りは、しないし、 させないが  それでも  

妻は 12日ごとに  文句を言うのを やめられない。  ある一定期間の  

日には 機嫌がいいのを  知らない。  TVの 星座占いとか いうのだが、

それが 数えることができる定数であるのに  気づかない。  

僕も 教えない。  天気予報と似ていて、 当たるほうが  カミナリを  

避けやすい(笑)。  人は 知らずに 自分で無意識な 予定表を作って  

しまうらしい。  僕の生活も  あらゆる観察を  習慣で内含している。  

考えずにいるほうが  目に留まるものを  見るようだ。  違和感があれば  

そこで、見つめなおす。  そんなものが溜まるのだろう、 昼の食休み、  

中心もなく ぼんやりしていると  観察したものが  急に意味を形作る。  

この技術が人間特有で  感覚や 感情を越境して、 中心につなげる。  

それが 発見につながることも あるわけだ。   リンゴが落ちて  

引力を直感するのは  人間の芸当だ。  

夕方に 妻が帰る頃が、近づくと  急に時間を感じる。  なにかして  

暇をつぶそう、と 頭の中に出かけるからだ。  集中して なにかを  

忘れてしまう 夕暮れ時はこれまで まだ、ない。   書くには 早い。  

なにか本を 読もうとするが、読むよりも なにかを探しているほうが  

よほど 長い。  昨日、面白かったものが 今日も面白いというのは  

僕の場合、 滅多にない。  短く読んだ本が 何十冊と 増える。  

今、読みたい本を 図書館サイトに検索している時間が 長い、という

のが もしかすると  僕の一日の、暇のつぶし方 かもしれない。

今日も、明日も?  いや、 今日も  今日も、だ。  くり返しに感じる

のは よほど、観察力がないか、  面倒を避けて、日常の感覚を 享受して

いるからだろう。  日常の楽観に からめとられると  バランスを失う。  

嫌なことは 習慣にならないが、  必要なことは 自分で考えることで  

習慣にしなければならないのだろう。  集中と ぼんやりを セットに  

しなければ ならないように。  

朝起きて、大量の情報が  部屋を満たしているのに  遭遇(想像)

させられる。  

「だいじょうぶ、上手くいく」 呪文を唱える。  

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”自分の感覚” を知る [自分]

僕らは どこにいるのか   

僕は  どこに   

そういう不安は  今は  ないようだ  

そうして ここに  坐っている   

坐っている ここを  なにかの空間仕様に  

感じないことは  むずかしい   

この ゼリーのような 空気を  

ちょっと 押すだけで  その向こうに   

それが ある気がする   

心も  体も  それを破るようには  できていない  

だから  おおよそは  安心していられる   

だから  こうして安心しているということは  

それが 日常に 現れることはない   

それは  秘密だからだ  

それは  秘密だとも 知られていない  

そういう約束で  秘密なのだ   

それを 言葉で 暴いても 伝わらないので   

それは 秘密のまま  ここに 置かれている   

目の前に   

誰かが  ちょっとの違和感から  それを  

疑問に変えて  その微妙なありかたに  

心や 体を  沿わせ  合わせるまでは  

なにも  起こらない   

それは 伝わっても  僕らの知らないところで   

伝わるので  また不思議に 惹かれてしまう  

引かれてしまうという  非合理で  

不条理な形でしか  それを 辿れない   

その間に  僕らは  僕らの知っているもので  

それに沿わせ  合わせようとするので   

それは 別なものになってしまう   

それは  錯覚ではないが  微妙な  

錯覚の形で  訪れることもある   

勘違いで  間違いないが   その  

間違いに 微妙に  それが挟まっていて  

見えないので  やり過ごしてしまう   

証人も  証拠も  依るべきものも   

とても  少ない     


それが 絶対というものであったら  

それは 正しいというものではない   

だから 「絶対に正しい」という 言葉は矛盾している  

同じように 「絶対は必ず正しい」も  おかしな言い方  

それが 絶対であったなら ・・  


どうしてそれを ここで断っておくか と言うと  

それは いつも絶対のような フリをする  

僕らは  それを 確率でしか 信頼できない  

75%だったら  今度は 4分の1なのか  

4分の3の 範疇に入るのか   いつも  

確かめねばならない  そうして  ・・・

結果は 100%なのだ  それも  そうなのか  

見方を変えてしまえば  そう言えない  

では  次の結果は?  次の・・は?  

ホッとするのは 100%が その都度わかるから  

ホッとするのは それが事前に  いつもわからないから  

僕らが  不完全であることの 証明は  

そういうように それが「絶対」だとしても  

それを 信頼できないということだと  

そう思う   だから   いつも   

行動する時は  大丈夫だと  

自分に 言い聞かせる   補正をしてやる  

信頼しない行動は  軸がない  

それは しないほうがいい  

信頼と行動は  ほぼ  同じことだ  

それは 心に 同時に起こる  起きている  

信頼は  知的認識を 必要としない   

信頼するから 行動する  

行動する時には  すでに信頼しているからだ  

それは  どんな結果も 意味しない 保証もしない  

生きることは  それに 乗っかっている  

結果があるから  行動するんじゃない  

先が わかるから  行動するんじゃない  

知の双子である 自分は  それが わからない  

考えれば  必ず  行動しない   

僕は  必要な準備を  考えに 考える  

そうして  やるか やらないか 決める  

決めようとは 「考えない」  

決めた時は  もう戻れないことを  心に  

しっかり 叩きこむ  

あとは  知には目をつむり  先に進む  

それは 追随しやすいものに 自分も 乗っかることではない  

それなら はじめから  不安ではない  

皆がしていることだから  

自分が  自分のために  こうしよう、ということは  

どうして かくも 重いと思える 決心が  

必要なのか    でも  そうじゃない  

そういうことを してこなかったので  習慣に  

ない、 というだけで   

何回か  やっていると  慣れてくる   

はじめが  きつく感じる のだ   

そう自分に 言い聞かせても  やはり  きつい  

なにを 感じるか   それは 孤独   

自分が寄り添って 依頼できるそういうものから  

離れるのを 感じる   

自分は ひとりになってしまうかも しれない、と  

それは 孤立を  恐れることで  

まだ 孤独にまで  昇華していない   

この道を  ひとりで歩かなくては ならない  

そして  歩きはじめると、 強い孤独感が ある  

仲間が いることもあるが  仲間がいるから  

それを 決心したのなら  それは 皆と同じこと  

なにか 勘違いしている   

誰かがいても  その道を  最後はひとりでも  

歩く というのが 身に染みてわかる時  

孤独とはなにか  が わかる  

そうでなければ  孤独になる 意味など  

まるで ない   


そこには どうしても  僕らが 孤独にならなければ  

わからない 意味合いが  あるからだ  

行動の果てに  現れるものに 遭遇しなければ  

まったく わからない  そういうもの   

そういうもの  そういう秘密  

それを そう言っても  伝わるものではない、  

そういうもの   

それを 言ってしまうと  同じだ  

毎回 何回でも 言ってきた  

ここに 坐っていて  感じてしまうもの  

空気が  破れる   

破れないように 恐れるもの   

客観という言葉が  客体化したら と  

想像させるもの   

ありと あらゆる ものを 想像させる  

「究極」という言葉が  なんと  

貧しい言葉か、と  嘆かしめる  

その「嘆かしめる」と言った だけで  

その陳腐さが  恥ずかしい  

そういう 客観が  広がっている   

いくら言っても  ダメだ と   


日常で  睡眠を 異常だとは思わない  

気絶は 体の 異常を危惧する  

発狂なら  異常だ  

では  発狂していないのに  気絶して  

数秒の気絶で  意識は元通り  

世界の  感情的にも  感覚的にも  

知的にも  質感が 変化してしまう  

帰って来た 日常が  もう もとの場所ではない  

同じ時間  同じ場所に  戻ったのに  

これから どうしていいか  不安に  

それが 起こるまでは  想像もできない  

そういうことが  その時に 実感で  わかってしまう  

そういう 全体感覚を  なんと  呼べばいいのだろう  

周囲は なにもかも  元のままなのに!  

それは   


僕が  入れ替わってしまったこと  


多重人格の 病気の話ではない  

客観的に  自分という器が 外れたこと  

その感覚、  ・・ としか 言いようがない  


死の 意味が”あるとしたら”  そこに ある  

それが ほんとうに ”あったとしたら”  

一般論理 でだが   

生きている  答えも  そこに”あるはずだ”  

(めんどうだが) もちろん 答えはない とも言える  

その時は  

僕は  こう 答えようと 思う    


僕の答えは  語れない    

表現でしか 言えない  

だから  日々に  こう生きよう、   

こう生きようとして  こう生きている  

それを  出し続けている   

どんな形で あれ  

どんな色合いで あれ   

こう 生きたいと!   


それが  答え だ か ら      ・・  

それが  答え だ か ら      ・・   



生きる 限り   

それは  続く    

たぶん   それを   

望んでいるんだろう   

”こんな[×]な” 世界で  あっても    

その反対の ”こんなに◎な” も   言える  


面白いよね  

それが  僕の潜在意識とやらで  創れるなら   

僕は  驚かなかっただろう  

そこに 自分は  なかった  

自分に 感動というのは  あり得ないのは  

すぐに  わかった

簡単なんだが   

いつも  どこでも  どんな場面でも  

それは  僕を 超えた   

越え 続ける   


グアムに 行った時に    ( 海で )    

タチウオが  僕の 周りを  泳いだが   

一緒に回ると  それが 3匹だったのには  

感動した   

日常に すべてがあると 言っても   

それに 囚われると   

僕らの 想像は  卑小になる   


それは  僕を 超えた  


どんな時も  

越え続けた   

・・・  

・・・   


どんな時も  

・・・   
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基本的な自然の在り方を態度・姿勢から [自然]

自分の世界なのだが、どこまで行けばいいのかわからないくらいに

広いので、なにもせずに2、3時間は平気で経ってしまう。それでも

考える、というよりはお喋りをしているようで、ふと止まってこのテーマ

の前に何を話していたか、どこからこのテーマに移ったのか、と記憶を

たどろうとすると、何も浮かんでこない。僕らのふつうのお喋りも似た

ようなもので、どこからこの話になったのかはどうでもいいので、その場

その場で話がつながって、その経過には注意を払っていないものだ。  

自然について書こうとして、自分でも気づいていないほどに、当たり前だ

と思っていたことが、その本質だと気づき始めている。   

それは実に様々な方面、角度、見方からいろいろ言えるので、自分の見方に

それほど注意を払ってはいなかった。それは基本的な自然の在り方について、

となるものだろう。以前に書いたことも加えて、くり返しからまた始めて

みたい、と思う。       


魚の話は一番、人に話したことだ。 

最近気づいたことで、近くの目久尻川では道路脇なので、車の振動は毎日

なので観察できないが、相模川とか沼の魚はずいぶん遠くから僕らに気づい

ているようだ。ひとつは歩く時の振動であり、小石に靴が擦れた音であり、

そういう普段では聞かない音だろう。この魚の「普段」を考えると、川なら、

川岸から外の眺めを見ているのだから、ほぼ一年中同じ景色だろう。人が

通る歩道でなければそれこそ、ちょっとした影でも、少しの動くものでも

すぐに気づくだろう。毎日毎日同じものを見ていて、その変化に気づか

ない方がおかしい。

魚が人影に遠くから敏感に悟って、すぐに姿を消すのは、敏感さもその

優れた感覚にあるだろうが、それだけではなく、気づきやすい毎日の同じ

景色にあるのかもしれない。     

数十年も前に病気で、その病み上がりで相模川へ行った時に、土手で車を

下りて池になった川の支流に下りる。その時、腹を出した魚の死骸を見た。

魚、死んでる、と思った瞬間にその魚が水面でくるりと反転、川の底へ

姿を消してしまった。はじめ、意味が分からなかった。なんだ、今の?  

そこでその時は、魚が昼寝をしていたのだろう、と笑った。    

今はそう思っていない。想像だが、魚は体に着いた寄生虫や細菌を日光に

当てて殺菌していたのだろう。大きい魚が小魚に体に着いた虫を食べて

もらう、共生?とかの作業を似たように、日光の紫外線の殺菌力を利用して

いるのだろう。    

そこでもう一つ、疑問があった。いつもは敏感な魚がどうして気づかずに

僕が近づくのを許したのか、という。そこで思い出すと、僕は病み上がりで

精神的には幽霊のようなものだった。まあ死んでいたのだ。そこでふら~っ

と池面に3mも近づいて、昼寝?魚を発見したのだが、死んでいるのか、と。

次にそれを確かめようとじっと目を凝らした瞬間だった、魚が逃げたのは。   

この時、人間独特の”観察しよう”という「気(意欲の)」を発したのだ。   

この「気」というものは、生物全体に知られ、感じられているもので、なんと

昆虫もこの気を捉えて反射(逃走)に利用している。   

それはこれも数十年前だが、僕は手でゴキブリを捕まえることができた。彼は

その動き回る姿が気持ち悪い、僕もだ。が、ある時、その顔を観察した時に

意外に可愛い顔をしているのに驚いた。彼の気味悪さはきっと動き方にある

のだ、と思った。その頃、心の動きは波で、そのバイブレイションが相手に

伝わると、考えられる小さな事件が個人的にあった。それなら「愛」の波は

どうなのだろう、とゴキブリで試してみたのが最初だった。

これには先人がいて、動物作家の畑正憲だった。彼は野生動物公園(アフリカ?)

で草食動物から50m離れた場所から、無言で相手に言葉を送る。危害は加え

ないよ、とか友達だよ、とかささやきながら近づく。それを2時間続けて、その

草食動物の1m近くまで達することができた、と言う。僕もそれに倣ってゴキブリ

に近づこうとしたのだ。これはゴキブリへの嫌悪感を抑えながらだったので、なか

なか難しかった。けれども、驚くことにゴキブリが逃げないのだ。あのすばしこい

彼が、あきらかに戸惑っている様子で、小刻みに動いているが、逃げない。  

そうして3cmまで近づいたところで、さっと捕まえた。驚いた。あり得ないこと

が起こったと思った。そこで反省したのはやはり、人間が虫をつかまえようとした

瞬間に出す気が、ゴキブリにとって逃げる反応になるタイミングだったということ。

そう思った。僕らはそれを相手に前もって、瞬間早く教えていたのだ。それで彼ら

はその瞬間がわかったから、逃げる動作が瞬間早くできた。僕ら人間は昆虫や動物

に、もしかすると植物にもその「意欲の気」を数万年前から教えていたのだ。

彼らはそれを学んで、それを自分たちへの攻撃の合図と読んだのかもしれない。 

僕らがそうであるように、自然を、また自然から学ばない子供も彼らが僕らを

よく知っているのを知らない。虫取りでも魚とりでも「意欲」むき出しで虫に、

魚に向かってゆく。うまくいかない。相手を知らないのだ、そうなる。   

僕は山登りや瞑想をするうちに、そこら辺りを学ばせてもらった。だから、

近所に亀山公園というちっちゃな細長の公園があるが、そこに湧き水のある

これも小さな池がある。昔は湧水が豊かで流れ出ていたので、池にはそこまで

辿れるように置き石が”置いて”ある。お茶や珈琲の水を汲みに来る人が多くいた。

今は奥の方から染み出してきて汲めないので、訪れる人もいなくなった。

が、水量はそれなりにある。その池の水面は静かでとても水流があるとは

思えない。ところが、池から小さな水路があり、そこはやや下り坂で、水が

波打って流れている。その違いがあまりにはっきりしているので、返す返す

両方を眺めてしまうのだが、静と動で、変わりない。この静かな池のどこを

あれだけの水が流れているのか、見てもわからない。   

それは余談だが、この池にも小魚がいる。一匹になってしまったが、フナの

20cmもいる。静かな時間にそこを歩く時があると、そこで立ち止まって

みる。あとはただ突っ立っている。だいたい、10分くらい。すると、魚の

姿が一匹もいない池に、大抵魚が動き始める。景色に動きがないので安心

するのだろう。あちらこちらから、生き物が動き始める。   

これが自然の観察で、決してこちらから「意欲」で参戦してはいけないのだ。 

ただ心静かに待つ。そうすると、自然のほうでいつものように、いつもの姿を

見せてくれる。これは自然を相手にする時の作法のようなものだ。僕らが

よくする記念写真を撮る、網を持って追い回す、というタブーを冒さずとも

ただ待っているほうが、より豊かな世界を彼らのほうから見せてくれる。

そうすれば、彼らが彼らなりにどう人間と付き合うかに対応した歴史に

出会える。・・こともある。  

僕は最初、グアムでそれから日本の相模川、千葉の外房でそういうものに

出会った。100匹からの自然の小魚に囲まれるというのは、そうある

ことではない。当時はそれが当たり前だと、思っていた。それもいつか

話すかもしれない。

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どうもなんね 猫さ [気持ち]

まだ 体調が完全ではない。それで まだ 遊んでいたい気がする。 

声がしわがれて、おかしいと心配を寄せるのは、猫のことだ。  

元気な野良猫は頼もしく、見ていてうれしいが、声がまともでない。  

エサをもらいに来る回数が増えている。このまま増えれば、記録を  

更新する。そうなると、もう具合がわるいのではないか、と。  

人は自分の体調に合わせて、とか、自分の考えに合わせて物事を 

決めるから、そう考えてしまう。 困った。 なにもしてあげられない。 

虐待などで逃げ出して、野良になった猫はわかるつもりだ。警戒心が

並外れて強いから。  

猫に人相があるのではないが、彼女には貧相がある。そう見えて

しまう。空き地などの見えない隠れた場所を死に場所にするのだろう。  

見つけたくても、簡単ではない。一度住処を見つけようとそこら辺りを  

探したことがあるが、人の家の庭までは入れない。ちょっとしたところが 

探せない。不法侵入とか、法律がうるさい。猫探しの時の特例がある  

はずもないし。  

猫缶を買い増ししたが、あとのことはわからん。なるようになるんだろう。  



楽になれない  

気楽に  何でも書いていた  

書くことで  なにかが 償われた  

それは  次への  階梯だった  

でも  今の君(自分) は どうだ  

自分の意向と  体の意向とに 挟まれて  

身動きが できないと   

おお  そうなのかい   気の毒に(笑)  

だってそうだよね  

それを跳ね返せないのなら  

そう 跳ね返せないのなら  

もう  人間 やめるぐらいの 処にいると  

そうかな?  

落ち着いて  物事は ひとつ ひとつだ  

やるのも  ひとつ ひとつ だ  

なにを  中心に置くのか  思い出せばいい  

それが わかるまでは  展開を求めても  

おお  何の意味もないよ   わかってるだろうに  

それは 焦っている と  それだけだ  

焦るつもりはない  そう  考えているよね  

でも  思うように ならない  

だから  それでいいんだ  

思うようにならないのだから  無駄な手押しは  

要らない、 ということ   

多少は 外出して  気晴らしして  

空気を  吸おうよ  

呼吸から  始めようよ  

すべては  僕のもの   君のもの  

そうさ  焦ることなんか  ない   

何もない時は  実は   ほんとは  

すべてが  引き寄せられ  最も  君に近い  

それに 気がつかなくてもいい  

そういうように  されているから  

それが  そういうルールだから  

さあ 風船を  ひと突きすれば  割れる  

どうする?  

まだ  まだ  続ける 意欲がない  

では  もう少し   待とう   

僕らは  そういう時は  非常に  揺れているから  

簡単な タイミングさえ  捕まえられないかも  

しれない、  そうだよね?  

じゃあ  少し  ふらふらしながら  街を  

歩いてみようか?   

おお  それは  酔っ払いに  そっくりだよ  

回って  回って  電柱に  

抱きついて  ハハ  いいね  

読めなかった 哲学の本なんか  取り出して  

指先に  水浸けて  ページに  

丸を 描く  何回も  何回も  

おお  そのページに  丸く穴が  あくよ  

その丸紙を  つまんで   捨てるよ  

ハハ  いいね   

どうも なんね  

どうも なんね  


僕は 君に   今  

なにも してやれない  

君は  今  野良猫なんだよ  

警戒心ばかりで  見えていない  

体調を 警戒  

今後を  警戒  

しがらみを  警戒  

否定したい   わかるが   それは  

無理  

僕らは  常に  その中にいる  

避けようとして  拒否しようとして  

君は  今  

自身が  壁になろうとしている  

自分という 壁 を増やそうとしている  

ね  

君なら  もう  わかるだろ?  

もう一度  そう   

心を  開こう  

オープンに!  

今まで  やって来たんだから  

(できる)

今までの  君として  

そう 把握したから  君は  君だった  

そこまで  

行こう  

体調に 気を使いなよ   

警戒なんて しなくていいんだ  

今後を  受け止めなよ  

開かれていれば  なんて  素晴らしいと  

思えるだろ?  

しがらみを 嫌うから  その人たちから  嫌われる  

そうじゃない   

気持ちが  流れれば  その気持ちが  すべてになる  

それは  対人だから  調整するに決まった もの

警戒されれば  誰だって  嫌さ   

心を 閉じる圧力は  見えないが  

いつでもある  

今は  どう?  

そう  まだ  どうも なんね?  

どうもなんね  

腐りたく なるよね  

重くなるよね  

低気圧だから  それを  

どうやって  納得しようか?  

低気圧なら  必ず  高気圧を  

回るように  進む  

目の前に あるんだよね、 高気圧って  

低気圧の中で  グチグチ言ってるだけなんだけど  

そう  まだ  

なら 

低気圧の真上に  坐っちまえば?  

そんなもの どうでもいい、と  

そういう気に  なる  

そう  



まだ  

そう  

君は  僕だ  

ここで 終わるはずがない  

君は  僕だ  

終わるはずがない  



まだ   少し  

どうも なんね   ノラ猫 でいいよ  



ああ  

晴れてるから   街を   

歩いたよ    



” 空が  広い  

 こんなに  広かったなんて ”  
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基本的な歴史への疑問 [歴史]

坂本竜馬の暗殺事件について、書かれた本を斜め読み、もう一冊は結論部分を

読んでみたが、う~ん、とうなる。

出雲の神話と天照大神の神話の発祥や、その関係について読んでみたが、どうも

こうもない。肝腎のことがまったくわからない。それぞれが現代から、または

著者の立場からの意見ともいえる解釈であって、それらしい理屈はこねていて、

読むとなるほどと思えることが書いてあるが、少し考えると、どうしてその点の事実が

わからずにそういうことが言えるのか、という疑問が浮かぶ。そして、その説明の

ためにその理由を持ってくるのは、どうも幕末の実情に、または古代の実情には

合わないのではないか、という・・・。

そして、僕にはどうしてもその結論に興味を惹かれながらも、しっくりこない

部分があって、それは歴史の不明という必然であるような気がする。こだわりたくは

ないのだが、一つの意見・考えを言わなければならないから言った、という本を

書く路線に過ぎないという思いから抜けられない。歴史を知りたいではなく、歴史の

事実を知りたいという要求がどうしても起こってくる。そして、それは本を読むたび

に裏切られる。専門家の知識、作家の想像力も同じように見えてしまう。  

昨日の自分は何をしていたろう、と思うと、かなりの部分は忘れている。そんな自分の

一日さえ、もう闇の中である。歴史は為政者によって書き換えられ、作られてしまう

事実も歴史なら、どこまでほんとかわからない昔の文書というもの、それらの差を

縮めるのは、どうも歴史の本質ではないようにも思える。紀行文はまだわかっている

記録をもとに夢を馳せるようなものだから、すべてを紀行文のように読んでいけば

いけばいい、とも思ってしまう。

退院から1か月、ゆっくりしていて、さすがに本を読もうとして、かじり読みを

してみるが、日本書紀によってアマテラスが創作された傍証も本になっているが、

どうも歴史はそこではないように思う。むしろそれから14世紀も経って、受け継い

できたそのことが、僕らの意識にも創作が事実として根付いている、まさにそれこそ

が歴史の本体ではないか、と。そこには多くの人の祈りのようなものが含まれて

動かせないほどになっている。国民の意識が変わるような大改革でもない限り、

歴史は変わらないし、変えるものでもないのだろう。

僕は出雲へ行き、帰って来てからも、自分がスサノオの流れにある(どういう意味

か正確に説明できないが)という感じが、ずっとしている。熊野神社への小学校

からの自然な愛着(学校の近くにあった)も変だし、島の家の前の山が熊野神社で

あるのも偶然だろうが、やはりその線で調べてみたいとも、親しく思う。

僕らは銘々で勝手に歴史をつくるのを喜ぶ性質を持っているのではないか、との

いい加減な考えが、なぜか一番納得できるのは、可笑しい。
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ござれ ござる時 [明治]

ただ ブログを 開く   

書く予定は   ない   

ただ  退屈に  ブログを   開く   

誰かに  愚痴りたい時に   似て   

おしゃべりが   したいだけ   

そんな 魔 のようなものが   

あって ござる   やれ  トントン  

明治を 歩く  自分の風情  

いつか  僕は  明治の 関りを  

出雲から  歩いてきた   

それは ラフカディオ・ハーンに あった。 

歴史事実を  書くつもりはない  

教養になる  知識を  つづるつもりも  

さらさら さらさら と    ない   

ハーン(最近はヘルンという読みが

流行っている? *) は島根の 城下町に住んだ  

その 松江城に寄った 6年半前  

喫茶店で  詩を 書いた   

小泉 八雲 旧居があり  偶然  

その前を通り  「怪談」を書いた人とは  知っていた  

興味は  なかったが  入ってみた  

出雲で(四日目)  すべての予定の 神社は  

発見できて  明日は  帰宅する  

それで 余裕があった  

それが  今に  つながるとは  思わない  ふつう。 

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ハーンは  初めての日本 横浜に着いて  

感動して  午後から 夕方の 景色が見えなくなるまで  

リキシャ―を 飛ばして  街を  走り回った  

こちらが 恥ずかしくなるくらいの  ほめ方で  

日本の 第一印象を  飾っていた  

彼は  隻眼で  左目の視力が ない  

右目も  弱かったらしい   

それで 薄いベールが  街を  美しく見せて  

いたのかも しれない   

それとは違うが   明治の 古い写真を見た  

僕は  同じように  感動してしまった   

これは 漱石の影響で  彼が見た明治を  

自分も見た、という 重ね合わせの 感動だった  

直接に  今  その街を  見ている錯覚に 落ちた  

殺風景でもある 薄汚れた 貧しい街と 人の  

様子が  こんなにも  なつかしいとは!  

自分でも  変に 思ったくらいだった   

それは  明治を 直に経験した、 という感動だった  

映画や  小説ではない   

触りたいくらいの  その当時の女の 顔があった  

まるで  母を見るように  なつかしく   

不思議な 時間だった   



ハーンがそこで 勧められて結婚  「小泉せつ」は  

関係ないが  僕の女房の  母の名だった  

2月生まれで  僕と一緒なのも  関係なかった  

ハーンは 決心して のちに  小泉を名乗る、帰化したのだ 

それは 東京帝国大学の 英文学講師に  就職した年  

これも関係ないが 退職しての 後任が  

夏目漱石 だった   

僕が 小泉八雲を 見直すきっかけに なったのは  

TV番組だった   ハーンが 八雲と名乗ったのは  


「八雲立つ 出雲八重垣  妻籠みに 

 八重垣作る  その八重垣を」   

  
古事記の歌から  採っている   

その「八雲立つ」 のテロップが  出てきたときは  

まったく  しびれてしまった   体が  

震えるのではないかと  思ったほどに   

一気に  万葉集などの  古代に  

持っていかれた、 と 感じた   

それは なんとも  気持ちの良い  感動だった  

こういう感動なら  避けることは  しないだろう   


そして  

ハーンが  怪談から  導き出したものは  

僕の  愛から 導き出したものに  共通項があると  

すぐに 気がついた   彼は  直覚していたのだ、と  

そうか  幽霊 か  そうとも 言うかも (うす笑い)  

「八雲立つ  ・・・」 そうか   なるほど  

そういうことか  と   トントン  

そうで ござりまする  

僕らは  回り 回って  とか  トントン  

それが そうでござる 時   

時、  

僕らは  もう 百年 二百年も前に  失ってしまった  

自分に  出会うので  ございましょう  


そんな  アホな   

とか   トントン









* ハーンという読みは正しい。ヘルンとは日本に来て、そう呼ばれた音で、 



本人も気に入って、そう呼ばれるのを喜んでいたらしい。
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はるかに砂漠の底を流れて [気持ち]

死にゆくものに ついてゆくのは  どうかと思う  

それでも  見渡しても   それが最後のもので  

最後の 友 でもあるとすれば   

もう  ためらわなくてすむ  のでは  

僕は  死なないのだから  それについてゆくのは  

それなりに 興味が ある  

心が 壊れないのは  強いことだと  

そう  思っていた    そして  

たとえそれが 強さだとしても  

壊れないことが  不自然だからだろうか  

心は  満たされない  

むなしさも  つまりは  壊せなかった  

それには  なんの 栄光もない  

なんの 喜びも  ない   

鉄の 塊(かたまり)でも  

それだけなら  鉄くず と変わりないように  

悲しい   

悲しいと 言いながら   その 悲しさは  

どこにあるのだろうか  

むしろ 悲しさが  寄り添ってきて ほしいと  

そう 想う   

せめて  素直に  悲しみたい  

そこまで 心から  言ってみる  

すると  気がつく   

必要でないことは  自分の生活には  

起こらないことを   



もう 感傷することは  できない  

答えは  やってきてしまったから   

僕らは  そこに到達すると  あいまいな  

感傷は  もうできない   

なにをすべきかを   検討する必要に  

迫られるから   


不思議に  思うよ   感傷なら  

感傷させてくれれば いいのに と  

思うのだが ・・・  

生活は  ”スっと” 待ってはくれない  



冷たい 雨が  足元を  吹く  

まだ  季節は  楽ではないが   

その季節感が  もどりさえ すれば  

やがては  その日が来る、 と 知れる  

そうだよ  その日は来る  

それが わかれば   待っても  

待たなくても  心は  満たされる  

その予感に  街は  通りは   小さく  

輝き はじめる  

はじまるのだ  

生命(いのち) が  ・・・

そんな  小さな しあわせでも  

僕らは  生きてゆくことが  できる  



そして   また  

くり返される、  

それだけでは  生きるに 足りない と  

僕らは  常に  

生きる上に おいて  結果に  

たどり着くことは ない  

そういう 消長を  くり返す   

その 消長に  同じものがないだけ  

同じ くり返しは  できない   



感傷の雨は  気持ちいい  

いつまでも  打たれて いたいと 想う  

君は やさしく  

僕は  ポツリ ポツリ  話す   

その 二人の テンポが   なんだろう?  

なんだろう?   

なんでだろう   いつもいつも  

なつかしいのは   

今 思いつくのは   「 嬉しさは  

気持ちを  表現する   と 。 

喜びが 違うのは  

生の  表現だからだろう  

喜びは  光り 輝き  

嬉しさは  より やさしい  

その間には  あいまいなゾーンがあって  

どちらにも  また  混ぜ併せて  

使われる 」  という  

あまり 時代にも  変わらないもの  

だった    



ここにいるよ と  

子供たちを  案内したい  

僕の 批判を  恐れずに   

僕と  喧嘩しよう  

うまく ・・ね   

いつも  誤解は  避けられない  

秋の 進行のように   深まることで  

色合いを  増して ゆく  

でも  

それを 強要したくはない  

僕らの 勝手な 思い込みに  ( または 状況に )

君を  巻き込みたくは ない   

ギャップのない  関係は ないように  

僕らは  それぞれの季節に  とどまる  

そうしなければならない  時というのも  

あずきのように  ある   



フフ、と  笑いが  もれる   

水のしずくが  頬を 流れて  

冷たく  気持ちがいい   

たとえ  

僕が  砂漠に  埋もれていようとも  

砂で  なにも 見えなくとも  

さあ  はじめよう  

今から  


君が 君である  生活(いのち) を  


僕が  僕である  生活(いのち) を  


僕らが  僕らである という  




それが  ”ある” というものである のを 

それが  私の生活だ  というのを  


ああ   


いつも  

感じたまえ 

・・・・・・・・・・・    


それだけを  

感じてほしい  





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ヒグマのどんべえ [ヒグマ]

僕らは何を知っているんだろう?と、時に思う。   

僕らは一人で処理できないほどの知識を見ているし、抱えている、とも  

思っている。電気の性質や、その法則については、調べればわかる。  

電磁波も同じように、学問として成立しているので、読み切れないほどの  

論文や著書がある。どうしてもそれらは読むのに一生かかってしまいそうだ。  

だから、 僕らは多くのことを知っている。そうだろうか?  

僕も若い頃はそう感じていた。そう思っていた。だが、日本のノーベル賞を  

初めて獲得した湯川秀樹博士の本に、物理の教科書でも整合性が優先されて  

すべて辻褄が合うように説明されているが、先端のものではまだあいまいさが

残るものでも、きちんと合理的に説明できる部分だけが選ばれている、と。

それからだ。僕らの知らないところでは、そういうようになんらかの政治的・  

経済的・教育の強要のために操作が加えられているのではないか、と疑い

だしたのは。  

そうして有名なユークリッド幾何学でもそうなのか、湯川氏の言葉を確かめて  

みると、そのとおりで、ユークリッドが明確にできなかったことは省略されて

いた。それからはあらゆるものを、目についたものを調べると、どうもこの世

の確固たる世界と思われてきたものは、そんなに堅固なものではないことが  

わかってきた。数年のうちには、この世には当てになるものが何もない、と  

まで思えた。だから、学校から社会へ出ると、教科書では役に立たないのだ。  


どうしてそれに誰も気づけないかと言うと、そういう教育を受けていないから

だ。僕らは自由な教育を受けている、と思っているが、それは半分正しく、  

半分間違えている。知的教育によるものは、知が優先されるものだからだ。  

知的認識が「ものごとがわかるうえで、絶対だ」という錯覚を教え込まれて

いる。知的認識がものごとがわかることだと、すり替えられているからだ。  

感情的な受容や感覚的な受容でなければ理解できないことは、知に劣るもの

としてなのか、教育科目にない。教養的に芸術や技術工作があるが、それ  

が知的認識を上回っている場合については、なにも教えられて来なかった。  

それはそう考える者がもういないからかもしれない。複雑化した公務や  

仕事の細分化で覚えることが多くなりすぎ、知識を抱えるだけで頭は  

一杯になってしまう。誰も余裕がなくなっている。僕も、これについて  

考え始めたのは、還暦を過ぎ、給与仕事を離れ、自由に研究する時間を  

持ててからのことだ。その下地になったのは、19歳から始めた、人は

なぜ生きるのか、という疑問を発展させてきたからだった。  

初めに社会より先に動物を知らねばならない、と20代で思った。それ

から自然に向かった。偶然が、北アルプスへ向かわせ、山からそれを

始めた。それで動物のことは、それからずっと先のことになった。  


    
動物を知らねばならないと思ったのは、ムツゴロウの本による。

ムツゴロウは通称で、ペンネームでもない。名は畑正憲という。動物学者  

だったが、作家になった。「さよならどんべえ」という本を書いた。  

本来、ユーモアのある動物との出会いを書いたものが多かった。  

どんべえは飼っていたヒグマにつけられた名前で、子熊から成長するまで

育てた。その可愛がったヒグマが事故で亡くなってしまった。それを書いた  

ものだったが、ユーモアはなかった。すぐにその悲しみから立ち上がれない  

著者の例えれば、頭ボサボサ、無精ひげ(これはそのまま)、よだれを  

流しているようなだらしない姿から始まる。なので、読み進みたくなくなる。  

捨ててしまおうかと思ったが、適当なページを拾い読みをすることにした。  

ちょうど、そのヒグマに噛みつかれるところに当たった。  

ムツゴロウさんは夢を見た。金太郎がクマと相撲をして遊ぶ話で、自分も  

クマと相撲をして遊ぼうという夢を持ったのだ。それで北海道で子熊を飼う

ことにした。北海道ならヒグマである。しかし、ヒグマは成獣になったら、  

2-3mになるし、力は桁外れに強い。子熊を叱るにも、バットで叩いた

そうだ。それでもあまり感じないらしい。それでもその怒りの勢いが怖くて

言うことに従った、と。相撲どころではない。 それで  

ヒグマが若い頃にしようとしたのだろうか。しかし、ヒグマがムツさんを 

背中に乗せて遊ぶところまではできた。金太郎のように背中に乗って  

方向もわからせることができた。それでムツさんは欲をかいた。人に見せ

たくなったのだ。撮影もして記録に残したかった。ところが、どんべえは  

二人きりのところでしか、撮影の用意をしても背中に乗せなかったし、人が  

いると、違うことをしようとした。

ある時、やはり見学人がいた時にどんべえに乗ろうとして、失敗した時

だった。がっかりして、檻の隅にいるどんべえに不用意に近づいてしまった。  

いつもは必ず、彼女に心で声をかけるように発信して近づくのだが、その時  

なんの考えもなく、どんべえの背後に近づいた。その瞬間、物凄いスピード

でどんべえが振り向き、そう思った瞬間には顎をガブっと噛まれていた。  

クマの攻撃パターンで次に爪をのばした手を振り下ろして、一撃を加える。  

うしろで弟?が見ていた。クマが手を振り下ろしたので、死んだと思った

そうだ。ムツさんの記述によると、どんべえは顎に噛みついた瞬間に  

相手が親代わりのムツさんだと気づいた、気づいたが攻撃のパターンは  

後戻りできない。振り下ろしたが、ムツさんと気づいた意識が、手を

手前に振り下ろしたので、頬に爪がひっかいただけですんだそうだ。  

ヒグマが手を振り下ろすと、往年のホームラン王、王選手がバットを 

振った力と同じものが襲うそうだ。顔の半分くらいなくしていたのでは  

ないか。  

動物はより本能的に生活する。僕ら人間がキレた時に、アドレナリンで  

売り言葉に買い言葉、または出した拳が止められず、相手を殴ってしまう

ように、クマは危険を感じると同時に反撃のパターンを、なんの考えも

なしに即、取る。その代わりに、その感覚は人の想像を超えて、鋭いもの

があり、自分の気をクマに送るだけで、それを判断することができる。  

ムツさんはそれを怠った。背後に人が来たから、それを敵だとして、 

即反応するのが、自然で生きる掟だ。ヒグマに非はない。ムツさんが  

起こした事故だった。が、ムツさんが死んでしまったら、どんべえは  

銃殺されてしまっていただろう。ここに猛獣を飼う危険や悲劇がある。  

それからどんべえはムツさんのもとに来ようとはしなかった。  

動物は感情で生きる。愛情には難しい面もあるが、愛情で答える。  

犬や猫は人の社会と共存できるまで重宝されて、この数千年も共存  

しているが、それぞれその動機は違う。また、他の動物よりも共感力  

が高く、人間の気持ちを読むのに長けている。  

しかし、それは犬猫に限られないようだ。クマのどんべえも悪い、と

いう気持ちが強くて、親のムツさんに甘えたいのに甘えられないのだ。 

ムツさんはそれを純粋なものとして、どんべえへの気持ちを強めている。  

動物は驚くほど、僕らがなにをしようとしているか、したがっているのか、

知っている。考えはまったく読めないが、気持ちはまったく隠すことが  

できない。それを僕らが見るような感覚で見るように知っている。  

僕らが犬猫を可愛くてしかたないのは、そういう彼らだからだ。その人が  

喜ぶことがわかる。猫はそれを自分のエサのために操作する。猫の

友情を獲得するのは容易ではない。犬は逆に、人がすることを自分も  

することが嬉しい性質があるようだ。例えば、馬もそういう感性を  

もっていて、ムツさんの北海道の道産子の競争でも、ゴールまで  

極限まで走り抜いて、死んでしまうことがある。ムツさんは、馬も勝ち

たいのだ、と言っていたが、勝ちたい気にさせたのは馬主だろう。  

馬は馬主を喜ばせたかったのだ。それで命尽きるまで、走ってしまう  

とは・・・。  

僕は、僕らは動物のなにを知っているだろうか、と疑問ではなく、

感嘆符で思ってしまう。少しでも、動物の不思議な感覚に触れたり  

すると、その不思議がそれだけではないぞ、と僕らの想像を超えた  

世界がいくらでもあることを予感させる。  

これ以上は、予知能力とか、境界を越えてSFじみてくるので、  

そこには陥りたくない。だが、そこに関わっているのは間違いない

だろう。つまり、動物の世界も含めて、僕らは知らないことの方が  

遥かに、遥かに、宇宙を超えるほどに多い。僕はそう感じる。  

目の前に囚われていては、この豊かさに気づくことはないだろう。  

しかし、明日も職場で仕事が待っている。

いつ僕らは僕らを解放できるのだろう。そういう気にさえ、なることが  

できるのだろうか?それは生活費よりも大事なことなのか?  

命あるとは?  生の動機とは?  やむにやまれぬ理由?  

生きる理由がわかった!  =それはいつ?  

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