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リラックスはためらいながら [リラックス]

リラックスしよう

時間は  ある  

無限にはないが  必要を  

満たすには  十分  

それが  どういうことか  

秘密を  教えたい  

教え・られれば  躊躇は 

しないのだが 

ものには  順序が と  

教えられた  

それは  僕らが決めたもの  には 

という 意味があって  

決められないものは   今も  

無秩序で  無法だ  

それが  美しいと  思う人は 

手を挙げて ほしいが  

あなたは   どうだろうか?  

僕は  迷わずに  教室に  

いる時のように  挙手 する 

美しさは  定められる だろうか  

人に気にいるように  名前が 

つけられる だろうか  

どの人も  それで  賛成してくれる  

だろうか? 

僕らの心では、無秩序は不安に

結びつけられている。結びつけたのは、

遠い昔の誰かで、初めは一人だったが、

それは病気のように、伝染したのだろう。

親が怖がらないものは、その子供も

怖がらないが、怖がると、子供も怖がる

ようになる。

不安はその雰囲気だけで、伝染する。

その雰囲気に気づかなければ、たぶん

不安はないのだろう。

だから、リラックスしよう。

それでリラックスすると、それですべて

終わる。それができれば、あとはどう

過ごそうか、暇に明かせて、考えるだけ。

ふつうはそうならない。

不安から逃げようとするので、それを

忘れようとする。心の片隅に置き去りに

しようとする。それはあなたの反抗期

の(反抗期は正しいが)子供のように

腐る形で成長する。やがてカビになる。

根付いたのだ。心に根付くと、取るの

は厄介だ。

それを見えなくしたのは自分なのだが、

それを忘れさせたのも、もう一人の

自分だ。自分は自分を守るようには

好都合にできている。

ここをどう抑えたらいいのか?

ここがポイントだから、ここを抑える

だけで、すべての不安を呼び起こす

事故・事件は起こらなくできる。

そうなれば、もう、終わったのだ。

あとはリラックスしよう。



僕は空白のように、無秩序だ。

それは恐らく、秩序と並べて無秩序だ

とわかるから、という無秩序なのでは

ない。ただ、何もない状態では、そこ

にはなにか決まりがない。

それは人間社会の話ではない。

僕らがほんとうに秩序を理解するのは、

心の無秩序に慣れた時だ。

何のために、とすべてが目的のために

秩序が求められている、と知った時だ。

また、その方向に向いてしまった。

リラックス しよう  

ほどけて ゆく  時間も  

言葉になる 心の鍵も  

水になる  

夜なら  夜でなくてもいい  

眠いなら  起きていてもいい 

僕らが  人であるのは 

生物だ からだ  

生物には  命の記憶があって  

そこに  快感の メロディが  

いくつも  どこにでも  ある  

が  

聴く気に ならなければ  

そこから 話す気にならなければ  

どんな言葉も  音楽も  無駄だ  

言葉に  魂は  ない  

言霊は それを  思い出すので

ない限り  

ただの ためらいで  慰めにしか

ならない  

不安は  それを  妨害している

だから  何度も  言ってしまう  

リラックス しよう 

地図でも載って いない のなら 

道が見えなくなっても  そこから 

先は  続いている  

迷うのは  そこから  正しさを

求めてしまうから  

道は  初めから  知っている

それを 指示されるように  うまく

思い出すのが  不得手なだけ 

愛に  秩序は  ない  

満たされると  生きるのを

やめてしまうほど  永遠に

そこに  留まろうとする

言葉に  秩序は  ない  

平安の  母音も  片言も

現代では  古語という  外国語だ 

肩書には  秩序が  あるように 

見えるが  実際には  ないことが多い 

あるものが あるというのは

秩序のことでは ない  

ないものが ないというのは  

二通り 

すべてが  ある状態か 

充実した感興に  虚無を感じないこと 

あるものとは  なにかわからない 

ないものとは  なにかわからない 

だから  あるか  ないかを  

考えないことが  大切になる  

すべてを  持っている という考えは 

もうなにかを  欲しいと思えなくなること  

すべてがない という考えは  

まず そう思えるから 生きていられて 

そして 生きているから  今の瞬間は 

生きるに足るものを  すべて 

持っている  

でなければ  生きてはいない  



それを  どう疑っても  それが  

原点になる  

その原点を  僕らは 知らない  

そこにいないから  

そこが 美しいとは 思えないから

一度も  訪ねた ことはないのだろう。

夕陽が沈む、ある10分くらいはそこに 

美しい夕焼けの美しいバランスで  

景色が赤い。 

通りかかるのは偶然だと思うだろう。

それが知らない証拠だ。ほんとうに  

美しい世界にいることを知ろうとしない、  

初めから顔をそむけるのといっしょだ。  

僕らは引き寄せると言うが、それは  

おかしなことだ。自分中心に考えるから  

そう思うが、ほんとうはなにかに招かれて、  

そういう場面や光景に出会う。  

招かれないのなら、気にすることはない。 

でも、ここにいるとは音やなにかの感覚の  

ひとつでいい、その秩序のもとにすべてが 

解き明かされる。  

それが出会いというもの。偶然でも、必然

でもない。世界はそこにあり、僕らはここ

にいて、招かれるのを待っている。 

いつか出会いは起こると知っている。それ

を求めない静かな、たゆみない歩き方が  

いるだけだ。



リラックス しよう  

それが 招待される 服装だから  

僕らが目的を持たないことがどれほど

困難なことか、僕らの外の現実の矛盾

にどう対応するか、それらには一度、

すべてが捨てられた状態に身を置く

のがいい。動かずにそこにいてみて。  

その位置という精神と感覚の糧を得る

ことができたなら、次にそこからの世間

への評価が始まる。終わるまでは

いつもどおりに、どんなに矛盾でも現実

に従えばいい。  

僕らから矛盾した行動は奪えない。  

その標準を生きることができるまで、

不安は僕らから去らない。それだけ

で新しいことではないだろうか? 



ためらい  迷い  (はふつう)

そこから悩むという  間違いを

してしまうかもしれない  

僕らの心の対応は、もっと広いし、

広くできるのだが、自尊心がそこに

絡むと、そこにこだわる。感情的に

なる。抜け出ようと、考えるが、それ

はルールの中での問題なら、考えて

抜けられるが、思考(精神)より心は

広い。心はそれよりもさらに広いもの

から感覚で構成されているから、そう

いう部分での経験をしないと、それが

知識に固まらない。

僕らは内面で道を尋ねつつ、現実で

主に社会や機械の法律や信号的な

ルールで働き、行動せざるを得ない。

それでいい。

美しい世界が姿を見せ始めれば、

やがてルールは後退する。どこまで

従うかがわかってくる。

だから、いつでも

リラックス  しよう  

内面と社会の双方で、おかしさを

顧みず正しく努力していれば、それ

は溶けだす。

この二面性を認めない限り、分離は続く。

そこにいかに、僕らが在るか、という

状態を造り出せるか、矛盾を否定しない

で、いかに整合性を見出さないで、

僕らはそこにいられるか。

無秩序と秩序の双極性に、いかに慣れる

ことができるか?

それが課題である。

愛に拠らず、溺れず、愛を利用すること

はできるか。裏切らないために、裏切り

ながら、それが理解されるように、相手に

適した方法で伝えられるか。とても困難に

思える、最初は。

死に拠らず、だから死なず、死を利用

することはできるか。絶望や孤独に

留まらずに、死の膜を突き抜けることは

できるだろうか。

その時はわけがわからなくても、後に

なれば、気づくので、できる。

愛と死が、ある意味一体であることも

その時に理解する。それまでは愛は

生で、死は滅びだと、勘違いしたまま

その概念を保持したままだろう。

長く先入観になってしまったものなので、

一朝一夜ではひっくり返るはずもない。

パズルではない。



少しずつ、自分では本当のことだと

思えることが書け始めてきたので、

僕も楽になってきた。

それがここにあり、という場合に、

それをどう表すかというのは、技術の

問題以外に、僕らの固定化し始めて

いる常識やルールであることが大半だ。

それは誰でも直感的にわかるが、聴い

たこともない言葉を直接に訳しても、

訳した文章は日本語だ。聴いたこと

もない言語ではない。生まれつきの

耳の聞こえない人に、どうやって音楽の

美しさを伝えるのか。長い長いそれを

どうするかの煩悶がある。それを解決

するのは言葉ではできない。ところが、

音なら、それを修復する手術の技術が

発明されればいいように、言葉で直接

与えることはできなくても、ある行為を

促して、それを実践することで、その人

には音を聴く可能性が生まれる。

偶然、それに近いことをしたり、それに

巻き込まれたり人も、少数ながらいる

だろうから、伝えることは無駄ではない。

まず、そこに自分がいた。

だから、彼が確かである、という自分を

信じることから、このブログは始まった。

それも僕の自意識の知らない処から

だった。



ありがとう、と言いたい。



自分の内面がそれにふさわしい状態を

作ることが、その人のしあわせにつながる。

それにはその人が自分は何をしたいのか、

明確な意識ではなくても、知っていなくて

はいけない。(その時の)自分を知る必要

がいつもある。

体が要求する食物と、グルメが要求する

食べたいに負けた食べ物では、同じ食物

でも自然な必要度が違う。それは生に

直結しているか、やがては死に至るに直結

しているか、ほどに違う。

ある程度の管理が、自分をコントロール

するのに大切だ。このコントロールは

単にガチに支配するのではなく、適度

に好きな方へ放縦することもある。

ルールを無視しがちな自分なら、しばらく

はそれを認めるのはいい。それを自分で

自分を責めてはいけない。

この無秩序さを容認しながら、一方で

覚醒剤などはそれをするくらいなら、

自殺も辞さない、という矛盾した覚悟も

必要なことに、=大切なことになる。

そう、あなたのルールはあなたが、外

(家族や社会)のことを踏まえながら、

自身で造り、何かあればその都度

変更し、修正し、改善するということが

目指すことになる。それには終わりが

ない。生き続ける限り、あなたの法は

あなたの秩序になる。そして、それは

現実との矛盾を抱えていたとしても、

現実には守れなかったとして、妥協

せざるを得なくても、それを経験して、

その経験を踏まえて、また考えて

生きる方法を作り上げてゆく。

なぜなら、それがあなたの人生を

つくり、生きてゆくことだから。

人生を生きるとは、好きな人生を

生きるということにたどり着く。

だから、現実と自分の夢の矛盾に

あまりに不必要に悩むのは、愚かしい

ことだ。夢は僕らが現実にはなら

ないことを、いかに実践して豊かに

なり、現実にそれが如何ばかりか

沁みだす。それが誰に伝わるか。

あなたが夢がかなったと思えることは

それはすでに現実になるようなことを

思い描いていたことで、時代によって

それも移り行き、変遷するが、僕らは

夢を捨てたことはない。誰かがそれを

生きようとするから。夢にも、現実にも

それぞれの生きざまがあり、それぞれ

の尊厳さがある。

自然とか宇宙の在り方のそれは偉大

過ぎて、僕らの空想や想像を超えている。

それも遥かにうわまわり、広大普遍に、

意外さも無限大なバックボーンがある。

僕らがそこに人間として参加できるのは、

もしそういう意思があるのなら、自分の

人生をいかに築くかという、その中身に

しかない。人間であること、それは

わかるが、それを説明できない。その

人が人間として疚(やま)しくないのは

どこからだろう?僕らは疚しくては

いけないだろう、と過去の考えに

戻ってしまう。そうではない。僕らが

自己に拠らない尊厳・豊かさ・疚しくは

ない、どれも。それはどこから?



僕は、 どこから?

あなたは どこから? 



僕らは、今、

いかに生きているだろう?



僕はそれを問い続け、そして

問われ続けている。




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