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自分でも神でも他力でもないもの [精神の流れ]

今まで気づかなかったけれども、

書く行為に入る時が、不思議な

断面を見せる、というのを今日は

感じた。

書く前にどうするか、どうなるのか

という先の見えない不安が心地よく

もあったのは、書けることが内面の

プレス(表現の圧力)で無意識にも

感じ取れていたからだ、それは前に

書いた。

それで坐っていて、何もしなければ

坐ったままだというのは、常識で

当然のようにそういう結果になる。

しかし、まっさらなキャンバスに

最初の一点の絵の具を塗る瞬間が、

画家にあるように、僕にもその

キーボードを押す瞬間がある。

それは必ず、書くことを思い出し

たり、そのヒントが浮かんだから、

ということではなかった。

なにかきっかけになる言葉が浮か

んだから、次の瞬間にはキーボード

から打たれた文字列がパソコンの画面

に出るだけのことだった。それから

先のテーマとか、何を書くかなどは

決まっていないし、何の(自)意識

もない。

ともかく書き始める。それだけで

続けられるのが今までで、たぶん、

今日もそうなるだろう。


そんな期待も むなしく 

僕は ひとり  坐っている

それだけで  ただ 退屈でなく

時が  渡ってゆく のだろう

それが 心地よいのではないが 

それが 嫌だというのでもない  

・・・・・・・・・・・・

なにも  なにも  なにも


ついに  バックの ミュージックも

止める 

無音のほうがいい  今夜が そうだ

それでも この場に  いるのだ 

それが 何? と 聴くまでもなく

なにも ・・

ただ  なにも  ・・  

なにも  なのだ  


ここでも 僕は どのように 

落ち着いて いるのだろう 

なにも  なにも  

なにかが 起こったのでも

何も起こらなかった のでもない 

そういう 出来「こと」の 

狭間に 白く うすい紙切れを 

挟んでみる  そっと  

そういう調子で  鎮座して

落ち着いて 

そんな感じ なのだ 


その部屋の 日常空間に

賢さは  必要ない  

ずるさも  選ばなくていい  

引け目を  感じる  

なにものも  ない

なにも   また なにも  


が いずれ

僕らは なにか 言わなくては

ならない 

そして  なにか  言うたびに

こぼれ落ちて しまうもの

それが 何、と言えないもの

言ってしまうと  こぼれるもの

なのだから  

何を間違えて  それを 言おうと

するのか

混乱を 広めたくないので  

言わないが

言わねば 社会は 人は

動かない 


そこで

混乱を 深めて 指摘したくて 

言い方を  工夫するもの 

これは こうだよと

ベタで 言わないために 工夫する

それは したくて していること

とは 違う 

内容が  真に 受け止めるもの  

危機の 緊張を孕むものなら  

人は そうするはずだ  

だが 

人は その人の自分から 

わかったように 話してしまう

概念の、言葉という 鎧を着せて 


歩いて  

忘れてみよう  

なにも  なにも  

なにも かも 


それでいい と 

思うだろうか 

思わなくても いい  

わかったつもりの 自分(主観)の

世界は 広いから

いつか 脱出の  穴に

たどり着くまで  

そこで 人はなんと 言うだろう?

ごきげんよう、 この世という

小島のみなさん、  とか

意気揚々と  入口だと思う

(客観の)穴に入る  かもしれない 


でも その人も 

この世に 戻ってくるだろう  

帰る場所は 

この世にしか  ない  

あちらは 天国でも 地獄でもない

なにも  なにも 

形あるものは  この世にしか

ないから

人間として 生まれ  

人間であることは

どこまでも  人であることで 

自分だけが  人間以外の

ものに  なろうとする


面白いね



::

神とか、如来とか、真実、真理とか、

なにか哲学や科学・宗教染みたものに

憧れを抱く人は概念上の真理を信じ

たいのだろう。

なにかそこに人間以上のものが

(絶対に)あるはずだと、期待し

たいのだろう。突き詰めればそれも

自分への保証や他力本願なの

だろうが、それぞれの事情もある

かもしれない。親がその状態だと、

子供は影響を免れない。それは

心理的なモラハラのようなもので、

思想や主義にかぶれた家庭環境の

空気は悪かっただろう。

そういう信仰上のなにもなくても

平気だ(愛はあるということだろう)

というのはキリストも言っていた

ように思うが、その後で神の国がある

から、と語るのは矛盾している。

また、人の信仰というものは、大抵、

言論で否定できるものではない。

自分でなくなろうとする自分は、

否定された自分を意味するが、それ

は自分が人生でこれだと思うものを

否定することに等しい。19世紀の

ロマンスという退廃の種子を今でも

美しいもののように引きづっている

ように、僕らが皆で引きづり続けた

善とか強さとか、それを修正するべく

一度自分が死んでみるという、それを

自分に対して自分でする人は、まず

いない。

だから、地上で(内面から)他力に

ならないで自立する人は少数派になる

しかない流れなのだ。
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