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新しい創世 [創世]

すべてが 満たされる時 

僕らは そこにいようとする  

そのしあわせを  感じ続けるために 

明るい色が  空を  おおう からか 

心地よい メロディが  空気のように 

周りを  取り囲んでくれる からか  

その 感触は  なにものにも  

替えがたいと  

すべては これでいい と 

わかる  

わかってしまう  

他の なにものも  ここに  

入れないし  邪魔することも

できない  

そんなことも  思わず  

ただ  この流れる あたたかく  

心に  染みる  やさしさに 

遷(うつ)ろう  

それは  はじまりも  終わりもない  

物語を  聴くよう  見るよう  

そういう感じが  全編にあって  

僕らは  それを 知らず  愛する  

そこから  それが  

愛と  名づけられる 


ここに いようとは 

この 感興という  奇跡が  

あろうとは  

それは あまりに広く  

あまりに  広がる  

まだ それが  続く  

とどまらない  奔流のような  

あふれ出し  逆巻く  流れ  

その 中心に   いる  

永遠という  言葉の  むなしさが  

わかってしまう  

手のとどかない  しあわせ という  

それが  嘘に  聴こえる  

これほど  

僕は  

わたしは  

ただ   沈黙だけが  

それを  保証するように  思えて  

その  海原に   こぎ出す  

ああ  生きているとは  

なん      と、 

涙を  こらえる  

これしきで  泣くものか と

こらえることが  

嬉しかったり  する  

でも  

それは  海原を  溶かしてしまう  

地球が  すべて  海原になり  

その大きな波が  覆いかぶさる  

その隙間で  サーフィンをするように  

かろうじて 

息を  している  

世界は  海になり  それが  

宇宙へと  昇ってゆくのが  

遠くに  見える  

海面が  大きく  膨れ上がり  

その 勢いが  すべて  

燃え上がる  

その 激しさの  すべてが  

なんと 静かな光景に

見えることだろう  

自由さがあって  どこまでも  

連れて 行かれる  

どこにも  行かずに  

ここにいる  

わたしは  中心であって  

そこには いない  

中心だと  思えば  

この 地球大の 水の竜巻に  

持って 行かれるのを  

知っている  

ここに  なぜか  

自分という 場所は   ない  


すると  

あなたを  必要と  した  

すべてが ある というのは  

なにもないに  等しい  

それを 学ぶ旅が  

始まるのだ  

はじめは  ひとりでは なかった  

そして また  

ひとりになるために  

別れが あり  

新しい 道を  歩き始めた  

彼女の  言葉は  

「あなたは  人間に  なるのよ」 だった  

意味は  わからなかったが  

それは  まだ  

僕の  道しるべで  あり続ける  


どうやって歩き続けたのか、もう思い出せ

ないほど、遠くのことではないのに。

今も、今日の記憶は頼りなく、しあわせに

誘われる。

若い時の妻と、引っ越しをして、ちらかった

部屋々々を片付けていた。そこへ披露宴

に来ていた見知らぬ人たち数人と、親戚が

押しかけてきた。どうも 気にしてくれて

ありがとう。そんな夢だった。

この後に数時間してから、なにかあると

わかった。パソコンの前に座る。

書き始めると、しあわせがヴァーッと来た。


思い出した。あの時、しあわせに感激

して感謝した。感謝して感謝した。それ

でも間に合わなかった。そういう時には

愛はすべてになるらしい。(生きていれば)

感謝し切れない。感謝は相手への返礼

だが、素晴らしい気持ちをもらったら、

感謝したくなる。だが、その感謝を伝え

るうちに、それよりもまた素晴らしい

気持ちが覆いかぶさってくる。もうそれ

以上は、とビールジョッキにつがれる

生ビールといったところか。

もうビールがジョッキからあふれている。

飲み干すのも間に合わず、ビールは

僕にかまわず、注がれる。注がれ続ける。

それもやさしさと溢れるあたたかさで。

僕らの内のなにものもそれに応えきれ

ない。だから、泣いてしまいたくなる。

はじめは泣いてしまう。これが愛の洗礼

だった。

そして、ストーリーはこれで終わりでは

ない。むしろ、これから始まる。

あまりに多くのことが、書かれていない。

新しさは今の言語で伝えるには不向き

だが、工夫次第でもある。

だから、わからなくてもいい、というのは

書くための最初に考えたことだ。

それはどんなに無常な反応でも受け止める、

という姿勢でもある。それを支えて、支え

続けるのが、それであり、それはその一部

なのだ。その部分のためだけでも、僕は

約束を果たさなくては、と思う。

なぜそう思うのか、とわからなくてもそれ

は僕が考えたり、気にしたりすることでは

ない、となぜか、知っている。教えられた

からだろう。だから僕はひとりではない。

ひとりでもだいじょうぶなのだ。

不安というのは、人間の心のカテゴリー

(範疇・領域)のことで、自分という

時間発生器に従う。自分を知ることが

その場その時で必要で、自分から解放

されれば、不安もその因の恐怖も見て、

取ることができる。そういうことわりだ。

知のコントロールと情のコントロールは

そういう場所にある。

それが死の隣りとか、愛の隣りとか、

またはそれぞれがその中なのか、その

間にまたがるものなのか、その消息を

聴いたことも、見たことも、感じたことも、

まだない。あやふやな感覚に浮いている

のが感じられる、それくらいか。

今は 夢を見ている気分だ。


空を 見ていて  

空を  知らない と思う  

それが 素敵で  

しあわせに  変わる  

人が  何気なく  写真を撮り

犬や猫を  撮る  

そういうことが  理解されなくても

しあわせを  たぐり寄せる 

そういう 無意識な  方法だと

恐らく  知っている  

撮ることではなく  その被写体が 

与えてくれる  ものを  

もっと  知るようになれば

そこに  辿り着けるの  だろうか  

その 道程で  

他の  工夫が 自然に  

用意されて  いるのかもしれない  

いつも  

そう 思う  

しあわせは いらないと 

思うほうが  得である  

それが  近づく  方法でも

あるから  


妻が  夕食後に  

必ず  「おいしかった」 と

満足げに  気持ちよく 言う

僕は  いつも 感心して  

そのしあわせの  おこぼれを

もらう  

ありのまま とは  

それに 似た、 あるいは 

近いことを  いう 


君は 

そこに  

いる  

それは  しあわせ過ぎて  

恐ろしいことでも あり  

問い詰めたい 気にも  

させる  


性(さが)は 

しあわせと ともに 

生まれるのだろうか  


君と   僕は  

僕らは  

何を  したのだろうか?


知りたい  



この 不幸の  源を  

僕の  これまでの  50年

その不幸・むなしさ の比 として  

しあわせは  50倍に

膨れ上がった から  



僕の <死んでも 生きる理由を

見つける> という 狂気が 

とてつもない  しあわせを  

掴んだのは  

間違いないから  



僕の 成功は  

僕の  狂気から  

生まれた 




僕は  それが 狂気だと 

知らなかった だけだ 




新しく  生きることに  

なることも  
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