SSブログ

個性や人格は感性のパターンなのか? [個性]

以前から気がついていたけれども、

しっかり突き詰めなかったのは、

やはり自分のことだからなの

だろうか。

読書が苦手だというのは、何回も

書いてきたので、うんざりだろう。

中古書店でも買うのは少なくなっ

たが、その所為か、行く理由が

呑み込めるようになった。

書店に行くのは夢を感じるためだ

と随分以前から知っていた。

けれども、それが自分の気質に

左右されていたとは、最近の気づき

だ。

書店で好きなのは、背表紙の題名

から流れて来る本の恣意や思想、

考えという雰囲気が好きでそれら

を眺めるのが趣味です、みたいな

ことだと思っていたが、そうでは

なく、それよりもここを訪れる人

が本を求めてくるわけだから、その

意識が信号のように書店の中で渦

を巻いているのだ。

その渦の匂いが好きなのだ。

それは本に対しての主に夢を見る

方向だから、ちょうど図書館や

大学の研究室のように学問を尋ねる

空気があるのだ。

その夢を共有したいがために、書店

に足が向くのだ。コンマ数%しか

読み切らないのに、なぜわざわざ購入

するのか、無駄ではないか、という

反省文が心で読まれているのを聴いて

いるのだが、好きなものは好きなのだ。

何千冊買っても、やはり家では積読に

なり、手に取らない。

図書館では興味のある本をその日に

借りて来るが、返却日の二週間が

経っても、ついに読まなかった、とい

うのは時々あるのではなく、ほぼ借り

る度にそうなる。なんのために借りる

のか、ということで、わかっていない

のだ。今日、興味を持ったら、今日

借りる。が、なぜか読まないのだ。

それでも借りたのではない別の本を

部屋で眼にして読んだりするが、

10ページも読んだら、それは特別な

日で、よく本を開きました、ブラボー砦!

とか言ってもいいくらいなのだから、

それほど僕は読書に退屈してしまう。

困るのは、これを読んでおけば、先々

役に立つのが、頭ではわかっている

つもりでも、実行には遠く及ばない

ことだ。もう嫌いとかではなく、一種

の病的な体質だと考えるくらい。

まれに資料読みで集中して、200頁

以上の本を小1時間でざっと読み分け

してしまうが、あとでもう一度詳しく

読んでみよう、などと思っている。

そう考えているだけで、それを実行

したことは、まずない。

読みたくなければ読まなければいい

のだ。基本、それで済ますことが

できるので、それで発見するのは

自分の自閉症的な病的な気質だが、

それが治せればと思ったことがない。

それは自分のことをすべてとは言え

ないかもしれないが、どうしても

逆らえない性質があると認めなけれ

ば、理解が届かないからだ。

まるで心の生理であるかのように

よくないとは知りつつも、自分の

思うように、またはストレスの無い

ようにやらないと、気持ちが悪い

のだ。ただの我儘とか、根性が足り

ないみたいな、叩き直せるものなら

いいのだが、そんなことでは一時的

にできるのだが、やはり違うと感じ

るのだ。

あまりに困るので、数十年もすると

そういう自分を認めざるを得なくなる。

他人を変えられないように、自分の

個性はそれがホルモンとか神経とか

からの影響だと、変えることが無理

なのだ。

そうやって自分を尋ねると、性格やら

性質とか気質と言ったらいいのか、

そういう有象無象が心から分類されて、

分離はしていないが、矛盾した性格と

なって10人くらいは自分を数えること

ができるのだが、他人はどうなのだろう。

僕にはそれが複雑には見えないし、誰

の中にも認められるのじゃないか、と

思っている。

それらが区別できるからといって人格

が分裂しているわけではなく、ふつう

に一人前の分量の人格がひとかたまり

にある、と感じている。

そういうものに人はタブーとかを感じ、

信じているのだろうか。そうなると、

それが平気で頭は使い方で八つくらい

に分けられるし、そのすべてに優秀な

人はいない。それは不可能らしく、

記憶力のずば抜けた障害者がいるが、

なにかに異常に飛びぬけていると、

対人でのコミュニケーションがうまく

できないといった、社会性が阻害され

るようだ。

あまりに細かく心理的に人間を分析

結果で捉えようとするのは、よくな

いようだ。それは分断されたイメージ

で捉えられるからで、僕らは人格を

ひとつのものと見做し、かなり曖昧

な状態で人とつき合うことを選んで

いる。それがつき合いにはストレス

少なく、便利で合理的だからだ。

裏の性格とか想像するらしいが、実際

にはそんなものはなく、建前と本音に

しても建前で言える本音であり、社交

上隠したほうがお互いに都合がいいから

隠すのであって、それを晒せば、建前と

同じ土俵に上がってしまう。

本音も変わる時があるから、そういう

本音を強いて知ろうとするのは品位に

欠けるし、お互いに害を及ぼすときは

そういう条件や環境が整うとそうなる

のが自然だと知っておくだけでいい。

それでも人は人を心から信じたい、と

思うだろう。70%だけ信じるという

のは、ふつう人は得意ではない。

そこは信じるなら曖昧に全部信じてし

まう、ただ自己責任分だけ意識して

おけばいいのだろう。

そして、心の狭きは自分の壁を見な

いし、越えもしないので、次第に人

を信じることに欠けて来る。お金

だけを信用する。認知症になったら、

それさえも思い通りにならず、救え

ない。お金ばかりでなく、自分をも

救えない。

しかし、意識も死ぬわけではない。

誰が看てくれたかは、態度や言葉に

は出さないが、不思議に知っている。

時に死ぬ間際にそれまで文句ばかり

の義理の母が最期に急に病状が回復

したかのように看護してくれたお嫁

さんにお礼を言ったそうだ。そうい

うこともある。


僕は見えない自分に随分助けられて

きたので、何某(なにがし)という

姓名をもった自意識の自分はあまり

信じていない。それよりも無意識下

の自分とでも言ったらいいのだろうか、

彼のほうが僕よりも頭がいい。

僕の望みの狭い要求を、かなり全体で

考えて、僕よりも上等な結果を出して

来る。なので、その結果に驚くのは

僕のほうなのだ。そこまで考えていな

かった、君に任せていたほうがいい

ようだ、といつも思わせられる。

それがいいことなのか、よく判断に

載せられないが、事実はそうなの

だから、僕はまず、非日常の思い付き

や発想を簡単に捨てられない。一度

確かめる必要を感じざるを得ないのだ。

ともかく、僕は日に日に考えなくなっ

ている。

これはできることなのか、できない

ことなのかを考える必要はない、どち

らでもいいのだ、無意識下でわから

ない自分を無条件に、まず信じる。

検討をして、それが彼からか、そう

ではないかの判断から始めるのだ。

これはブログの書き方と同じで、

思いついたまま書いて行けばいい

のであって、何を書くつもりなのか

と過去に戻って検索や推敲したり、

その意図を探る必要はないのだ。

終わりまで書きっ放し、これが僕

のブログだ。

明かな文章上の間違いしか、後で

直さないので、大抵文章は少し

増える。よく文章を削る、短くす

るのがいいとか言われるが、それを

したことはない。

そして、書き終えた、と完璧に思っ

たことも一度もない。誰かと会話し

て、ああ完璧な会話だったと、後で

思ったことなど誰の経験にもない

だろう。それと変わりない。

僕はあらかじめ、テーマを決めて

それを網羅して結論を出すように

書き始めたことはないのだ。


確かなのは、無意識下の自分と

自意識下の自分とは言葉の上で

分けられるだけで、それを分離した

二人だと明確に感じたことはない。

僕は「僕の個性」というよりも、

僕が「個性」なのだとでも言った

ほうがより正確に自分を表している

と感じる。

例えば、水は化学変化で1.液体

にも2.固体にもなり、3.気体

にもなる。もっと高温で電離して

荷電粒子の、4番目のプラズマの

気体に変わるらしいが、変っても

化学記号は分子だからH₂O は変わ

らない(ほんとか?)。


心は様々な形態をとってそれぞれ

に変化した感情や思考・感覚など

を流動させているようだ。

その主なパターンが他人にその人

だと、認められるような個性の

主だったひとつの違い(感性)

を発揮するのだろう。

それは神経障害者でも、病的な

閉塞性、その特徴による性格は

あるかもしれないが、それぞれ

の人間の個性は変わらないから、

面白い。この人格の個性という

統一感はどこから来るのだろう?



nice!(11)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。