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イデー・ 創造と破壊がセットではないこと [創造]

集中するか、緩めてしまうか、と

いう二者選択ばかりをしてきた気が

する。

リラックスというのは集中してから、

その状態で緊張の中のリラックス

というのだと思っていたらしい。

なので、未だに自然なリラックスと

いうのが不得意で、どうしていい

のか、どうしたらリラックスになる

のかがわからない。それで茫然と

しているのがうまくなったのかも。


死の隣りは不安は無くしてくれるが、

緊張は解けない。体はしっかりさせ、

心をリラックスさせるのが瞑想だと

読んだ気がするが、僕には嘘に思えた。

気分がいいのがリラックスなのなら、

そのいい気分さえ邪魔・不必要なのが

瞑想だと思っているからだ。

経験主義と言った人もいたが、何でも

経験ではない気がする。人間のこさえた

り、決めたり、区別したものは知識や

技術で展開も複合の問題が起こっても、

経験よりも数式や論理が頼りになる。

僕はほぼ経験を中心にして、そこから

オーダーを編み出してゆく。知識と

数式論理だけでは、与えられない結果が

多いことを知って来たからだ。


そこ(潜在意識帯?)には何の知識も

ない。あまりに当然の話だが、それ

ではどうして僕は現経験もないのに、

それを創造だと知ったのだろう、と

いう疑問が湧いた。その時にその接触

はとても意外なもので、知らないのに

そこで天才たちは作品のヒントや素材

を得たのだろう、と直感した。

どうしてそれがそれほどに具体的だっ

たのかがわからない。僕らの内には

あるイメージ=イデーというものが

あって、わからないものが現れると、

その巨大に膨れたイデーからそれに

合うものを当て嵌めようとして、実際

に当て嵌めている。

昨日だが、いよいよ磁器を作ろうと

大泉学園にある教室で体験教室を

ろくろでしてきたのだが、意外に

器用で先生が初めてではできて

いる、と褒めていた。実は工芸の

ようなものを造って褒められる

のは、中学校からのことなので、

褒められ慣れている。それは新

発見ではないのだ。

思えば、もう3年も死と隣りの

緊張から離れようとしている。

それは秤の両方に載せた分銅を

片側からもう一方の側へ移す作業

のように、緊張が溶ける程度に

応じてそれまでの生活意識から

失うものがあった。その反動で

落ち込みそうにもなり、元に

戻れることはないにしても、

生活の意識を変えるのはそう

そう楽ではないと思った。


では創造とは何か?

気づいた時は書けるのでは、と

坐ったのだが、集中が衰えたのか、

なかなかその時の瞬間が想い起さ

れない。よく知っている概念に

結びついたので面白いと、思った

のだが。

陶芸教室には本焼き前の作品、

素焼き前の作品が板に載せられて

いくつも置いてあったが、一人の

作品が目についた。その人の印

が独特なので、すぐにわかるのだが、

見ていて、何も来ない。これはあかん、

と勝手に思う。僕が考えるという

よりも想いが勝手に説明を加える。

これが芸術だと思っている。よくある

勘違いだ、と。

三角錐の角(つの)を何本か大小で

並べ、線模様や粗い肌で雰囲気を出そ

うとしている。それは類似の作品にも

見えたイデーがあった。そういう作品

は思えば嫌と言うほど見てきた。

三角錐をひとつのオマージュである

かのようにそれを見えない基本とした

それのアレンジ作品であって、亜流

にしか見えない。亜流では芸術では

ない。三角錐が何も壊れていない。

創造の一過程がここにはない。

なにかを発見することは多くの場合、

なにかが壊れる時だ。それでまだ

壊れていないそれを、壊しに行く。

それが現代アートであるべきだ。

いつもそれが芸術の価値であるべ

きだ。

創造と破壊はペアとして並べるべ

きものではない。創造するために

その前段階として、破壊があるの

であって、まず創造があるのでは

ない。だから、ただ壊すのでもない

し、壊せばいいというものでもない。

創造するものが作家の目の前に

現れるのが作家にわかるようになれ

ば、なにをするかは決まって来る。

その「なにか」に破壊の「一過程」

が含まれるのだ。鉛筆と消しゴムの

ようにセットで創造と破壊が両天秤

のようにあるのではない。


それは芸術のひとつの形式なの

かもしれないが、ちょっと変わった

工夫とか、想像を超えたいい色が

出たとか、鋭いセンス、とかがもう

芸術、アートだと思っている。が、

そのものはしっかりカテゴリーに

収まってしまっていて、考えた

作品に、結果、なってしまっている。

僕にはなにかある。それがわかる

ようななにか感覚がある。か、それ

ともその感覚が人よりも数倍開い

ているか。

濱田庄司の作品も見たのは、柳宗悦

の民芸運動を見ていて、その紹介で

民芸運動の参加者のひとりとして

知った。五六人いて、陶芸は二人

くらいだったが、濱田の作品はすぐ

に「いい」と思った。迷いがなかった。

なので、それが僕の趣向の作品なの

だと思った。なかなかやるなおっさん、

くらいのものだ。

調べると人間国宝で、益子市まで行っ

てみると、その濱田庄司参考館の海外

コレクションも素晴らしいものばかり。


著書の「無儘蔵」を読んで、ものへの

体験が同じことを知り、これはただの

人間国宝ではなく、ほんとの陶芸家だと

知った。人間国宝などは勲章のような

もので、実際の評価は分かれる。

螺鈿だったと思ったが、波模様が重ね

合わさって、それが正確に同じように

刻むことがその螺鈿工芸の人間国宝の

人にはできなかった。

ところが、江戸時代の職人の作品では

これが正確にできている。現代の人間

国宝の人の職人技術ではまだ追いつけ

ないのだ。

以来、陶芸の精神性は濱田で止まった

ままだ。時間がかかるらしい。それ

だけ面白い。


この無尽蔵というのは、創造に関わる。

濱田に借りて、僕の解釈をすると、

ものの奥に見えるものがあり、それは

心とものとのなんらかの転化物だろう。

パターンは化学変化に似ている。

それを一つの作品がそこに共有して

いると思っている。それはものように

固形だが、見えない非物質で、美と

似たようなものだ。絵画と違って

これは食べられる! 肉のように

腹は満たさないが、明確に心を

満たして、見て見て見た後に腹

いっぱいの感覚を与えてくれる。

これが絵画と陶芸の感動について

の根本の違いだ。

絵画は見尽くしていれば、画家が

何を描こうとしたかがわかるが、

陶芸にはそれがない。わからない

まま、それに乗り移るのだ。

なので、僕は陶芸で何をしたかっ

たかわかる作品は、検討しない。

すぐに違うなあ、と思ってしまう

からだ。自然にそう見えるものを

自分では否定できない。

濱田は自分を殺して、その相手となる

作品に参上する。自分がないので

基準もない。好き嫌いもない。

そういう創造の世界ではなんでも

自分の許容量だけ手に入る。そして

自分が描いたのではない自然な描線

が現れる。自分を失くすから、囚わ

れもなくなり、自由でこだわりの

ない線が現れる、自然な形が現れる。

その不思議さにいつも心奪われる。

不思議だがほんとうだ、と言って

いることが(自意識からは)馬鹿

みたいだ。(と思う)

が、わかるものはわかるとしか

言いようがない。
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桜 桜 桜よ [日本人]

桜、 桜と 


今でも 思い出せそうもない 


なにか わかり切ったと思っていた 


それが 走ってゆく 


君には  それが  見えるか 


君は  それを  愛するか 


それは なびて  喪失するもの 


それは わりと  打ち解け合うもの 


それは 妙に  皺を 寄せあうもの 



あなたは 立っていた 


あなたは 歩いていた 


なんでもなかった  あなた 


それが 的が矢で 割られたように 


変ってしまう 


君が いなくなると 思うと 


それが わかる 


君と 逢えないと 思うと 


それが わかってしまう 


君が 生きていたこと 


立っていたこと 


歩いていたこと  


微笑んで いたこと 


僕が  君を  愛していたこと 



街は 雑踏だった 


饐(す)えた匂いも  していた 


汚らしい ぬかるみも  少しは  


あった 


遠くへ行って  


東京へ 還って来ると 


夜の 電車の中で 


帰って来たよ、 と 窓越しに 


街の夜景に  言えた 


やはり この街が  好きだ 


東京で生まれ  東京で 育った 


それが 身に染みていた 


なつかしいものに 熟成して 


味噌のように  匂っていた 



君は 北海道からきて 


東京は 臭い、臭いと  言っていた 


ほんとに そうだ  


でも 暮らすと  それが


慣れてしまって 気にもしない 


人間の街って 


そういうもんじゃない? 


僕は 生まれた場所へ 


時間の長さは  還暦にもなった  


その 生まれた場所に 


行ってみたよ  


すぐそばに  靖国神社が あった 


ほんとうに  ここ? 


英霊にも  なにも感慨が 


なかったにも かかわらず 


遠くの 社務所の 裏のほうで 


僕を 呼ぶ声が 


そう 聞いた気がした  


ここが  ほんとに 


生まれた 場所? 


僕は 日本に なった 


妄想 かのように




君と 君らは 消えた、 


また  消えてゆく 


君の 消息を  聞いていた時には 


なんでもなかった 


生きているのだと 思うだけ 


でも 


君が 消えゆく運命だと 


わかった時 


君の時と  僕の時が 


鐘を 打ち始めた 


カン、 カン、  カーンッ と 


あたりは  砂の広場のように 


静まり返った 


今のは  と思うと  


カン、 カン、  カーンッ と 


今度は  胸を 打った 


・・・・・・・


なぜ   涙が?


・・・・・・・


なぜ   悲しみが?



桜、  桜、  と 


君は  歌いたもう 


この  桜の  下で 


君は  消えてしまった  


とうとう  消えてしまった  


消えてしまったん だね  


この時が  ・・・ 


来るとは  ・・・


知りながら ・・・


生きていた君を  知りながら 


こうしてみると  


ああ


桜、  桜、  桜よ 


君と  


生きようとして  生きるよ 


生きていた君 ではなく  


消えてしまってみて  


初めて  


君と  生きようとしている 


生きようとして  生きる 


生きていた君 がいたのに  


消えてしまってみて  


初めて  


君と  生きようとしている 


僕の身と  重ねあわせ 


生きようとして  生きる 


ただ  生きているだけじゃなく  


どうして  今まで  


生きようと しなかったのか


悔やむ  


悔やまれる 


そう思わないのは  


まだまだ 


生きている  それだけだからだ 



生きようとして  生きる 


砲弾が  落ちてきてから  


そう思おうとしている 


僕らは  ただ  生きている 


関係を 恐れるのは  


生きていないこと なのに 


眼は  まだ  覚めない 



ああ


桜、  桜、  桜よ 


君と  


生きようとして  生きるよ 


生きていた君 ではなく  


消えてしまってみて  


初めて  


君と  生きようとしている 


生きようとして  生きる 


生きていた君 がいたのに  


消えてしまってみて  


初めて  


君と  生きようとしている 


僕の身と  重ねあわせ 


生きようとして  生きる 



君が  まだ 生きているうちに 


角の  酒屋に  買いに行って 


つまみは  何だったか


この世に  生まれた  


祝杯を  挙げん  



すまない 


ありがとう 


なぜか  すまない  


なんでか  ありがとう



何年も  すまない 


何年も  ありがとう



祝杯を  挙げん!


晴れた この冬の 道を 


二人


歩きながら



君と 生まれて  よかった


足の下に  イチョウの 葉が







風の 流れ : : ::

< 差し足に 
       ころがる タンク
    今様の  
         ブリキ玩具 > 


  余韻 : : :  ::




解題::

 英霊も

 友人も 

 恋人も 

 僕も 

 過去の人も 

 皆、日本人 

 桜の名の下に 

 僕らは 日本人。
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平凡を嫌う・凡庸さ・をドラムる [断片詩]

青い影の絵が 右後方で翻る 

キャンバスが夜の 街灯の下で 

光っているようだ 

静けさが 欲しいと思う

心の 騒がしさが 十分に

沈んで 砂漠に 戻ってしまう

ビロードの ざわめき 

何気なさを 求めて 

なんでもない 平凡に  陥る 

それで いつのまにか 劇場型に 

はまる 日常生活 

このまま 歩いて行けると 

思わないほうが いい  と

言ってみたいが 

まっ黒けの  誉め言葉 

いやいや  そんなこと(ないです) 

否定してみる 悪魔の味は 

恥じらいの 裏返しに  思える 

君は  食べ過ぎだと  

言われたことは ないかい 

そうかい  爽快  僧か 胃 

健康は  どこにあるのか 

畳んで  丸めるもの じゃなし 

過去というイメージ その

丸く 浮くような水たまり 

007 ジェームス ボンド 

宮本武蔵 

サルトビ  ムサシ 

カササギの 爪足 

考えるまでもない 娯楽の 殿堂

もう 見ることもないか インド 

エリナ リグビー 

もう ひとつ おまけ 

ただ 辞書の お化け 

いやいやいや 僕は 子供だった

子供だったんだ 

ぺぺぺぺぺ ペッパー 辛さ 

ピストン  煙  蒸気機関車 

時計を 買ったよ 

木製の 模型だけど 歯車ばかり 

まず 風呂入って 

ポジションを  確かめろ 

あなたの 一日は  終わる

ああ 悲劇だ  今日も  

何も なしてこなかった  

ナンテコッタ  なんて コッタ 

今日はどうして  こうなんだろう 

こうして  うまくいかない日が 

明日も 続くのか 

ああ もう いいよ

誰だか知らないが  耳元で 

ささやかないで 

ドクター  ロバート 

連れてこようか  え? 

精神科じゃない? 

いいじゃない  内科でも

君が  気持ちよければ いいんだから 

そこに ぬかづく  夜は 

ないよ 

君に  伝えたい 

誰かに ぬかづく  夜はないよ

昼だって  ないと 

ナイト だと わかる? 

スカラッティ  ソナタ 

一人しかいない  二人の部屋 

三匹しかいない 間引きの子豚 

よくわかる 学習案内 

よくわからない 日本魂 

よくわかるものは 毎年 

変わるのに 

よくわからないものは 

いつの時代も  そのままに 

見えるもの

考えるな  尻が かゆくなる 

だいじょうぶ 人間が 150億人 

必要だったら  地球も

もう ひとつや 二つ 増やせる 

そういう 時が来る 

人口を減らせとか  狡(こす)い

ことは  凡人が 考えそうなこと

気象が そのまま 

砂漠が  そのまま  資源だと 

気づけよ 人類 

なんでも 金でできると 思っているから

儲けのしくみから  発想を 

変えられない 


振り向けば  カサノバ 

キーを 叩いて  トンガ 

いつか この手の平に 

乗りましょう 


核 吹かば 死者の顔を 

起こせよ 寒暖計 

目玉無くても 人間を 

わするな  

兆しは 3がつ 8日から 後

東(とう)と海 

海津  南減 

どんぶり 勘定 

やよ 

忘るな



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上弦に輝くもの [月齢]

自由に羽ばたく、とか旅に出るぞ、

とか言う時は不意に起こる。

なにかいいことがあったり、そんな

ことを考えていて、それが突然

ストップして外を、夜を歩きたく

なる。それはこれまで普通だった

習慣だが、最近はなかったこと。

今夜はTVの録画を観るのに飽きて

ふとそれが起こった。

夜も、深夜も関係なかった。外へ

出るのだ。

そして、寒い中、上弦の月が西に

大きく傾いて輝いているのを見た。

とても明るい。見れば、空には

いくつもの雲が浮かんでいた。

ちょうど海面に綿がいくつも浮か

んでいるようで、それがいつもと

違うのは、丸っぽくて、千切れて

いることだ。なので、雲の隙間が

多く、そこから海面が見えるかの

ように暗い夜の青さを写し出す。

こんな雲の群れは初めてだ、そう

思った。

見ているうちにそれが月の輝きに

照らされ、集まってきているか

のようで、とても美しいのに気づ

いた。空は雲で狭かったが、その

模様はほんわかして、いい絵を

こしらえていた。

月はちょうど周囲の雲が切れていて、

鳥のような形の雲に入っていた。

その下には細い雲が虹のような楕円

形でまるで太鼓橋の欄干のようだった。



月が鳥の形の雲から外れ始めると、

雲は首のない鳥が羽を広げている

ようだった。橋の欄干の雲は奇跡的

にその細い形のまま崩れずに、月

とは反対のほうへ流れていた。

踏みしめる駐車場の土は寒さで

固まって、霜が降りたような音を

立てた。



いつもと変わらない夜がそこにあっ

た。大きく、日本列島が凝縮する

かのように遠くまで夜が触手を

伸ばしているのがわかった。

心がそこまで浸透するのが感じられ、

僕はそこに自然を見た。内省で見る

自然というものだった。

自然がひとつの表情を見せてくれて

いた。

これが偶然なら、僕らはなんと間抜け

だろうとわかるくらいに、そこから

来るものがあった。いつもよく来て

いたもので、まるで僕にささやき

かけるかのような存在だった。

信州のほうから来ているのだろうと、

勝手な想像が湧いた。それがどういう

ことなのかを問わない、安心した

ものに取り囲まれている感じがした。



この透徹しながらも柔らかいもの。

真剣に向き合うと、感謝したくなる

もの。この夜の一帯にそれが忍び

寄っていた。それで僕はそれに

誘われたという考えを思い、感じを

持つのだった。



君よ やよ  忘れるな 

今宵の 上弦の 月を 



よく輝く月だった。
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暴走しやすい生の時、自滅しやすい死の時、うまくいくのは生死を往復する時 [断片様相]

やっと一人になれたと思ったのに、

なりきれない。独楽の回る先端が

微妙にブレて振動が見えるように、

ピタリと定まれない。

なんか見落としが、と考えてしまう

時だ。たぶん、見落としじゃない。

そうやって先に進むのを遅らせ

ようとするためらいなのだ。

気は逸(はや)るが、まだ少し余裕

がある、そういう時に何度も確か

めようとする。その必要がないの

で、なにか考えようとして、足踏み

する。重大な発表する時が迫った

時などに見られることだ。

ほんとうに自分を変えられるだろうか。

人生の転機にちゃんと飛び込めるだろ

うか、と考えてしまう瞬間、僕らは

立ち止まる。

それもひとつの歴史の味がする。ため

らいは、渋いだろうか、苦いだろうか。

ほんのりとそれは香るのだろうか。

僕らの心の底には完全な保証がないの

だろうか。いつも守られて、安心して

いられることを考える。それが見えな

いことで、どこに連れて行かれるかも

わからないで空白を抱えたまま、なにか

を追及できている、と思っている。

知の欠陥を否定してきたが、知は否定

できるようなものではなかった。ゴミ

はいらないものだが、それは人工の

生産物であることが多い。それにも

関わらず、ゴミを捨てて、無くして

しまいたいのだが、それができない

ので、ただに場所を他所に移動させ

ただけだ。

ゴミから役立つ部品を調達できる

ように知は破片になっても、それ

は生きていると言えるのだろうか。

そう言えばいいのだろうか。

その在るものを同定しようとして、

概念にしたとしても、それは腐らな

い肉だろうが、だとしても、人工の

ものなのだろう。そして、自然の

一部になってしまう人工物という名

の言葉なのだ。僕らはそれを使い、

僕らが人間である限り、言葉の

意味が次第次第に意味を失い、

時代に流されるように、言葉も

概念も自らを失ってゆく。



だから桜の季節というのも、長く

続いたが、世界に広まったソメイ

ヨシノという品種が桜の代名詞に

なったのだろうか。*

それも品種改良という自然だった。

江戸時代以前には、多くの歌集で

謳われたが、そこにはひとつも

ソメイヨシノを謳った歌はないのだ。

これが自然の無常の推移なのだろう。

江戸時代に現れたのが、品種改良さ

れたソメイヨシノの最初の登場だっ

たのだから。

言葉は「桜」でも、同じ「桜」では

なかったのだ。昔の桜もまだ健在だ

から、それを調べて訪ねれば、それ

は見事な枝ぶりの桜が拝めるだろう。


自然という言葉が変わらなくても、

自然自らは季節だけではなく、盛衰

をくり返しながら、無かったもの

が現れ、有ったはずのものが消え

てゆく。

それらを見ることもないし、僕らは

気にしたこともない。

僕らはどうも心底は狂いたいと思っ

ていると思えてならない。僕らは

恋愛を美化して、また恋したいと

思う。それは狂い咲きのようなもの

だろう。それが若い頃のホルモン

バランスを取り戻すことである

ように体の若さに憧れるのだろう。



もう一つは生きれば生きるほど、人

のエゴに嫌悪を強く感じることだ。

それを労わるようにわかろうと

すれば、自分のエゴを見ないよう

になるか、そういう自分も認めて

自己嫌悪を抱える。そして、そこで

立ち止まってしまう。

そして、そのストレスを一時的に

外してもらえる方法というものは

世の中にあふれている。それは

心の不適応の対応について、それ

ぞれに役に立つが、ほんとうに

わかるのはその方法などによって

それがきっかけとなって、自分を

前にしてみることができた時だ。

他にその時はない、それしかない

からだ。それができない限りは

いつまでも原因のない病気の治癒

を目指して、病院巡りをするよう

なもので、赤ひげのようにわかっ

た医者がネズミの糞を薬だと言って

飲ませて安心させるようなもの。

なにかに頼って安心したいものを

探している。それほど心は飢えて

いる。

それは医者にもセラピーにも治せ

ない。

もう半分、狂いに足を突っ込んで

いるのだ。病気になると、自分は

死んでもいいから、と言い出すが、

それは自分だけは死なせたくない

から、という反対語なのだ。

または自分の死を美化して、自ら

の死を納得させるためだ。相手の

ためではない。

恋をして、何もかも忘れてしまい

たい。と、狂いを欲している。

今の苦しみをまったく快楽で忘れ

てしまいたいほどに、もう自分の

心から逃げきれないことを、無自覚

に感じている。

なにかを拒否して、否定されて

いなければ、干渉も不自由も、

束縛も、そこから生まれる不安・

恐怖も苦しみもないに違いない。

その拒否する・否定するその自分

を押しつぶそうと見える主体は、

間違いなく、自分自身だ。

その自分の考え方にも、それに

対する気持ちにも抗うものが

あるから、そう考え、そう感じ、

そう思うのだ。

誰かに相談し、聴いてもらうの

もいいが、その前にひとりの時間

を持つことだ。

考えずにいることは難しい。しかし、

そうしないと自分には決して出会え

ない。何度も自分に会おうとする。

気持ちが落ち着いてきたころに、

相談するのもいいだろう、と思う。



飲みに行ったり、パーティ、集会

やイベント、演奏会などに出かけ

僕らは楽しみ、時にストレスの解消

を目指してそうする。そんな大雑把

な掃除では片付かない心のゴミは

ある。それは年ごとに固くなり、

頑固・固執の質を増やしてゆく。

人の意見・意に理解を示して、君は

そうだろうが、自分はこうだと、

それとは違うことをするマイペース・

頑固さは、融通させる時も場合も

わかる臨機応変な理性(人格)だ。

それは我意地をなにがなんでも通そ

うとする意固地さ・頑固さとは境界

線を引くべきだろう。聴く耳を持つ

人、そういう人も横町のご隠居の

ように必要とされるだろう。

その全般を見るためには、嫌な奴、

そういう(自分でもある)自己を一度

でも対面する必要がある。どんな言葉

も音もなく、平常心で自分と対面する。

ひとり静かに邪魔のない環境で。

人気のある内科の医者は、とても愛想

がいい。患者の言うことを聴いてくれる

(ように思える、丁寧な対応)が、そう

いう医者は医院を流行らせる方法を実施

しているだけだ。

自分という作り上げられた精神を治癒す

るためには、それでは間に合わない。

あなたの将来はハッピーですと太鼓判を

押しているだけだ。インチキ占いと

さほど変わらないだろう。


その治療は心に苦くて、痛いだろう。

そんな治療する医者もまた流行らない

だろう。怖くて、人は近寄らない。

人は馬鹿ではないし、また重要さの

度合いがわからない事態を理解しない

から、そんな治療のためには馬鹿にも

なれない。

そこまで面子を気にするのは人間

くらいなのだが。(また思い出した、)


豈図らんや。しからば、僕らはなにに

拠るのか。自分に見えないし、見よう

ともしない自分とは別人格のようだ。

自意識の自分は無の自分、つまり無価値

な自分を見るのを恐れる。そのために

自分を見ない。見ようとはしない。

それを無意識は捉えている。無人格な

それを自分と呼んでいいのかわから

ないが、自分を見つめる自分がいない

となると、僕らは永遠に心の盲目の

ままだろうから、それはない。

表象の自分は自意識につながれているが、

五感を離れ、未知の感覚に拠っている

潜在の意識はその全体を照らしている。

ただ、五感とはつながらないために

僕らは五感の助けを借りない状態で

その自分にならなければならないの

だろう。それが見えもせず、聴こえも

せず、匂いも、触感もないとすると、

それらをその瞬間だけでも消してしま

わないと、その全体観の照射された

場所には出会えないだろう。

だから、僕らが日常生活で慣れ切って

いる五感の生活を断ち切る必要が出て

くる。それを完全には施行できない

ので、僕らは何度も繰り返すうちに、

そのなにかのわずかな感覚を掴む

しかないが、できないという心配

はいらない。自分ひとりの時間で

必ずできるのだが、そういう機会を

うまく作ることが肝心だ。

何が変わったのか、初めまったく

わからないが、気にすることはない。

その人次第なのだろうから、線引きは

できないが、そのうちに自分が変わっ

てきたことに気づくはずだ。そんな

程度でいいのだ。



何年か前までのブログで、僕はどこに

いるのかと、当時の心境を何度も自分

に尋ねているが、今はそれがわかり

かけた兆候の感じだとわかっている。

こうして僕らは年を追う毎にそれに

出会う準備が整えられてゆく。

今は、それを表白するだけでいっぱい

いっぱいだった自分ではなく、それ

を指先で見えない全体のどこを指し

て示すのかくらいできるようになっ

た。

知らないから彼(未知だった自分の

影)としか呼べない、その自分に

合わせやすくなってきた。人生は

実はただ生きているだけで二度分

の人生を生きることができると

思えるようになった。

それは二度分を一時に味わうもので、

二人分という意味ではない。僕は

自意識の自分に戻るのが、当たり前

に我に帰るということだったので、

そこでは知が働き、比較して、自分

が二人として考えざるを得なかった。

しかし、帰る前は全体でひとりだと

承知している記憶のない自分を、なん

となくわかっていた。

これは単に感性の繊細さのために夢

を見ている男の独り言ではない。

幻想や空想という夢と、希望や将来

の夢とは異なり、夢的なものとして

在る命の方向を何度も修正して正し

く導くことが可能だと信じられる

事実を積み重ねてきた、僕そのもの

という事実である。これは祈りでも

ないし、信念でも希望でもない。

またスェデンボルグのように異世界を

彼自身の想像ではない、異次元を

感じ取って、それを聖書世界の自己

投影で築いた映像を信じて、見えない

事実でありながら、その映像は自分用

に創作されたものだとは思えなかった、

そういう少し複雑な錯誤の世界の話で

もないと信じる。だから、それに同列

な別の次元の話である可能性もたしか

に、ある。

が、僕の判断はそこまでだ。




* 世界に広まった桜は贈与されたもの

が多いが、品種は様々だそうだ。














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バッハ(古典音楽家)とぬるま湯の気分でベッド(布団)に入りたい [バッハ]

2月15日、まだなにも始まって

いない。

3月15日、なにが始まってい

るだろう。

よく眠りたい。

地震の前触れのように背筋の

骨髄液が緊張している。

食べてごまかすのも、胃に負担

をかけるだけ。

やたら、珈琲が飲みたい。

カモミール茶のほうが神経を

鎮めて、胃にもいいのだが、切ら

している。

書くというのは難儀なことだと、

深夜に思う。この待たないで待つ

というのは、神経によくないのだ

ろうか。

ニガ・シ は

丁寧な言い方らしい。

どうもこうしている場合ではない

気がする。ただ、3時間ばかり寝て

起きてしまい、それからしばし経っ

ているのだが、目が覚めていない

気がする。

仕事をしようか、書くつもりの仕事

を置いてきてばかりで、だんだん

気にならなくなってくるから、早い

段階で手をつけるのがよい。という

のがあるが、ただのセオリーだと

思っているから、ぬるま湯から出られ

ない。

理想への気持ちを調整しようと考える。

片側に位置するのはわかるが、どう

いう時・場合にどちらに位置するのか、

それぞれで変わってしまうだろうから、

それなりに見通しておくと楽だ。

うまく失敗したい。はっきりとその

訳はわからないが、ともかくやって

みたい。

これで、メモを終わらせよう。



クラシックが久しぶりでやってきた。

バッハのカンタータBWV156。題名

は我が片足は墓場に入りませリ、と

でもいうのだろうか。

バッハの音楽はほぼ宗教音楽に聴こ

える。彼が作曲家として歴史に登場

したのは、死後80年だと言われて

いる。その時代の著名な音楽家が

J・S・バッハを高く評価してから

らしい。それまでもベートーヴェン

もモーツアルトも評価していたが、

なにせバッハは音楽一家であり、

一族でいろいろなバッハが活躍して

いる。そして、なんと200くらいの

小節は一族で使いまわしで作曲に

組み込まれたらしい。それでは

バッハは埋もれてしまうわけだ。

ともかくも、彼の敬虔な人の祈り

のメロディは美しい。有名な曲は

いずれも曲の一楽章を抜粋したもの

が多く、そこが浮いてしまうほどに

出来がいい。それがどの交響曲の

何楽章かを知る人のほうが少ない

だろう。例えば、最も有名なのは

「G線上のアリア」、「主よ、人の

望みの喜びよ」、「アベ・マリア」

とか。他にも多く、・・。



棺桶に半分足を突っ込んで、この

カンタータを聴くのなら、死も許せ

る、と言いたくなるようなメロディ

だ。



僕には音楽の好き嫌いはあるが、

なぜか、そこに音楽の分野の垣根

はない。演歌は全般に好きではない

が、好きな曲も数曲はある。なにわ

節も広沢虎造のには好きなのがある。

ジャズもポップも歌謡、アジア音楽

もアフリカ音楽も日本と世界とを

問わない。ただ、僕の好きと嫌いが

あるだけだ。好きなものがその分野

に多いか少ないか、だけだ。

それは僕の体に合わせているからだ

という気がする。心に合わせたら、

自分がしゃしゃり出てきて、例えば、

誰かのように古典音楽は最高だ、

他は低俗だなどと極論を言い出す

のだ。自分好みの定義づけとはその

程度のもので、聴覚野が狭い。

僕がベートーヴェンの第五などは

高校の頃か、随分我慢して聴き続け

た末にやっと聴けるようになった

記念の曲だ。

ただ慣れたに過ぎないのだが、慣れ

の大事さは考えや思想に打ち負け

やすい。ちょっと聞いて、あ、

合わない。ちょっと絵を見て、あ、

いいね、とか。
            


敬虔な心には明確な下支えが必要

な気がする。神への祈りはピタリ

もってこいの、丁度の題材だと。

心が洗われる気がするのだから、

凄い効果だと思う。こういう風に

僕らは何かに寄せて、従う気持ち

をオーバーラップさせて、弱い

自分に拠りどころを与えようと

するのだろう。それが沁みつい

てしまう癖でもあるのだろう、と

思うがその美しさには抗い得ない

ものがあるのは確かだ。



破れかぶれには、それなりの強さを

必要とし、守りたい弱さには依存心

が似つかわしいのだろう。ウールを

着たり、木綿を着たり、カシミアを

着たりと、環境や季節に合わせる

ように、流行があるが、必要もある。

流行ならば、それは一考を要する、

という気もする。

なにかが過剰になるのは、自分の

キャパを超えてしまうからだろう。


バッハの美しさはよくない。異常

に安心してしまう。寄りかかって

安心してしまうのは、僕好みでは

ないから。



だから、他人の評価ほどあてになら

ないものはない。自分を作り出した

その人本人がその人の何者かを知ら

ないから。



人は自分が心底感じ入ったものは他人

も同じように感心する、と思い込む

癖がある。それが自分という者の

通常の習慣な癖だから。なにかに

拠るというのは、良くない意味では

誰かへの甘えと同じだろう。すると、

誰かへの甘えが、いつか自分への

甘えにすり替わっていてもおかしく

はない。

そこで皆が評価するものを探し出して

きて、自分もそれを評価して仲間に

入りたがる。これは人に会って、頭を

下げて挨拶するのと、なんら変わり

ない。いつまでも安心ごっこをくり

返すことになり、世間が作られて

ゆくのだが、そういうものなのだと、

冷たい視線を温かく変えてみよう。


そうやって、ほぼ自分というものが

自動的につくられるシステムが

やがて見えないようになる。

だから、大人は信じられない、と

言う若者の意見はその意味で正し

いだろう。



世間が作ったのではなく、自己が

自分を知り、つくるということも

ある。そこに立脚するためには

一時的に内省をするだろうから、

最初はどうしても汚れの面を見る

ことになるので、そこから起こる

自己嫌悪に対処する期間が必要に

なる。よく見つめられるまで、

家族や社会を非難・批判しやすい

が、嫌悪すべき自己もやはり自分

に変わりない。

それは理屈・理論・思想を並べて

も同じだ。気持ちを変えるには

なぜ私はそれを嫌悪するかの

理由を知らなくてはならない。

それが見つめることだ。

静かに内省する時間が要る。


社会に対する甘えは他人をも

安心させる。これとバランスを

とるのが平常心であり、自立心

だろう。これは二つの応対になる

から、使い分けが必要になる。

神経質に自分を使い分けするのは

技術的にそれを考えるからだろう。

頭の考えるテクニックではあるが、

自分の芯が掴めていれば、どんな

矛盾した態度もこなせる。


人間の作り上げた教科書の偉人で

はなくて、自分というだらしない

かもしれない、臆病で弱気であっ

たりするかもしれないが、前を向い

て立っている小さな巨人を自分で

も見ることになる、それができる。


大きな意味で金融は金利の発展した

もので、儲けるものだ。腐らない。

なぜお金は腐らないのか。古いものを

廃棄して新しい札を印刷し、硬貨は

鋳造するからだ。そこに安心がある。

買えば、支払えばそれまでなのに、

錯覚の自由(に見える)選択さえ

ある。



清貧の思想と言った人は勘違いして

いる。まず、清貧は思想ではない。

その下に貧困という現実があり、

それは清貧ではない。僕らはそれを

恐れ、足るを知る生活を考える。

僕らは贅沢がしたい。それは過度で

なければの話で、過剰になると、

それはお金の自由と力の越権行為へ

の方向を目指してしまう。

どちらかを選ぶという方向はない。

僕らはどちらも究極的には選ぶこと

ができない。それは大元でのように

知識や思想が他人の気持ちを完全に

抑え込むことができないように、

感情では相手の考えを翻させるのは

無理だ、のようにどちらかを選ぶ

方向はない。

その時その場においての事案・事件・

問題において相応しい対応がある。

その適応がそれらの臨機応変な対応が

求められる。

そこでは求められるのは、納得できる

妥協案だ。気持ちも考えもミックス

して、それぞれの立場と利益とを考え

るということを、昔から、太古から

してきた。それをすることだ。

それが自然になされたことでもある

が、主に日常や国家間とかのこの世

の全体の一部のことであって、僕ら

はその中で全体が見えずに、相変わ

らず彷徨っている。

だから、科学も哲学も政治も経済も

分離したままで動かそうとして、

うまくいかない。この世を支配して

それは富の集中に収まっているが、

まだ人類を支配しようとして、結果は

分離を押し広げるのは明らかなのだ。

ある今の現状に適応したレベルに

それぞれの分野をならすことが必要だ。

大きな視野では競争はまずい。例えば、

公共機関や施設は儲けの資本主義で

やられては、火事なのに貧困者には

消防車1台も来ない、ということになる。

そういうレベルを全体で試算して、

全体社会の労働と国民の体力、医療と

健康事案、警察と問題対応、政治と

選挙の情報化、金融の簡素化・国家間

の為替の不合理の公正なバランス化、

などなど今の世界の金融支配者たちは

低利で融資して力を貸すべきだ。


と言っても、これは正論に過ぎない

のか。過ぎないのだ。希望などない。

これが大事、希望などない。やるか、

やっていくか、しかない。


さて、ここからが本題だ。この問題は

解くことができる。それはわかってい

るが、あとは僕らがその動機を共有し

て足並みを揃えるのだが、それをどう

するかということが、最初のひとつの

難関だ。難関だが、不可能なことでは

ない、全然。


             2. 15







無意識と現実の関係は、実際どうなっ



ているのだろう?この夜とのつながり



は?



無意識から現実に乗り換えることを考え



ているが、それは実際にはどいう意味



なのか、わからない。



人はどこへ行こうとしているのか。



             2.20
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平和という欺瞞と平和という祈りたいもの [祈り]

〈戦争の理由と平和という欺瞞〉


僕らはどこへ流れてゆくんだろう、

というフレーズが僕らは好きだ。

川を流れる浮き草のように行く宛て

もない旅、というロマンスには

僕らはわびを感じてきたのだろう。

わび・さびの世界にはあてもなく

彷徨う、僕らの目的を持った生を

裏返しにすると現れる死なのだろう。

人は生きて、そして死んでゆくと

いう無常観というのはほんとうに

仏教から齎(もたら)されたのだ

ろうか。ものごとの因果は人間だけ

に限られるものではない。その

理(ことわり)の大きな主柱は

正しいだろうが、小さなことには

抗う必要がある。洪水で流される

にまかせてしまう必要はない。その

対策をした家や施設を考え、建てる

ことは必要になる。それが大きな

、長い時間の自然の力には勝てない

にしても僕らは僕らの寿命の範囲で

役に立てば、満足できるからだ。

大自然に勝つことはできないが、

小さな抗いを続けることは必要で

十分な生きる理由にもなり得る。

それは常識でわかるつもりだが、

それは一般の想像の範囲という

カテゴリーがあって、僕らは常に

安心したいがために、及ばない想像

には手を着けたがらない。そのため

に自分が知っている範囲から発想が

出てゆかない。想定外とか、危機感

の欠如とか言うが、そう考えること

自体がまとまった自己内の社会生活

の常識であることには考えが及ばない。

うまくいっていればそれ以上になにを

考える必要がある、というのが僕ら

の生活の態度だからだ。この態度を

長年続けてしまうと、自分の範囲と

いうものさえ見えなくなっている。

本人は新しいことを取り入れた気で

いるが、それも形だけでそれを利用

してやっていることは、これまでの

生活の延長に過ぎない。くり返しなの

だが、本人は筆やペンをパソコンに

変えただけで、新しいことになって

いると思っているが、書いていること

は規格内のルーチンワークであること

に気づいていない。

例えば、顧客との挨拶や応対などの

仕事での言い方になり、その延長で

あることに気づけない。これまでに

習慣づいた自分のままであるのに、

自分では気づくことはできないもの

なのだ。他人の指摘があっても、

自分が変わりたいという強い動機が

ないと、僕らは同じことをくり返す

動物なのだ。そういう動機は道端を

探しても、落ちてはいないだろう。



自然な自分であることはそれを取り

戻す方向の心がなければ、そこに

気づくことはないだろう。自然な心は

野生の心だからそれだけでは人との

関係には軋轢が生じてしまう。

教育はその調整を目指して、最初は

技術的なこと・知識を教えていたが、

年貢・税金を取るためには思想も

植え付けなくてはならなかった。

身分制度はそうした特権階級を

制度として正当化するために作られ

たものだが、教育には教育の矛盾が

あり教えてもその思想に抗う者が

現れて、啓蒙運動を起こして制度の

改革を訴える。為政者・権力者は

その矛盾にいつも対応しなければ

ならなかった。現在もその延長で

成功しているので、世界の富の

99%は1%の金融関係者その他の

権力に関わっている者たちが握って

いると言われている。1%といって

もその数は世界で7600万人に及ぶの

で、目立つことは目立つが、目立ち

過ぎてはいないのだろう。

彼らは金銭を金利を中心に有価証券

・為替などの付加価値商品に変え、

お金の価値を目に見えないもの、

美術品などのように自由に高める存在

に変えていった。それに権威をつける

ためにノーベル協会に資金まで出して、

ノーベル経済学賞まで創出するという

芸当までしている。金融制度の経済学的

数学を応用した複雑すぎる体制を通し

て、それの正体がバレないようにして

いる。

国の仕組みが税金を仕事に結びつけて、

人々の生活に密着させて、お金を未来

と生命と同じだけの価値に引き上げる

ことに成功している。そのために大学に

資金援助をして、優秀な学生をお抱えの

企業に就職させて、自分の陣営に取り

込むことで、大きなファミリーの力を

さらに巨大化させた。

国の新聞もマスコミもその会社ごとに

買い込んでいるのだから、世論も選挙

も支配が利いて、国会も与党野党に

ファミリーを配分して、国の意向も

コントロールしている。

これがうまくいっていれば、平和である。

平和はどこかで誰かがコントロールしな

ければ存続するものではない。しかし、

武器売買は主に第2次大戦の戦勝国には

大事な金のなる木で、儲けが大きい。

なので、戦争がなければ軍需産業は

儲からない。だったら、戦争をつくれば

いい、として戦争の火種を撒いて、その

理由をでっちあげる。これが世界の

地域での戦争の成り立ちのひとつで、

そのためにいつも敵を探して創出して

いるのが大国の宿命にさえなっている。


領土を奪うための侵略や国内の反政府勢力

などとの戦闘など、僕らの世界は小さな

戦争を起こして、全体では平和を獲得

しようとする暗黙の道を選んでいる。

それに気づかせないように、映画や娯楽

文化でそれを批判するような映画も制作

させている。少し、バレている方が陰謀論

にすぎないと混乱させ、無視して、また

世間を黙らせやすいからだ。

しかし、彼らがマスコミや新聞をコン

トロールしている以上は彼らの発想は

常に暴力に立脚する発想になる。

世界の民を奴隷にして富を搾取するの

が永遠に変わらない彼らの究極の論理

だからだ。それが社会の勝ち組になる

ということも、世間には知らされていない。

僕らはすでに正しい情報も得られず、

それらは隠蔽されて、逆らうと殺されて

しまうのは太古の昔から変わらないので、

国の中枢の政治家も口を閉ざして、保身

して生き続けようとする。
                                 23.2.6


〈平和という祈りたいもの〉



::融通無碍(ゆうずうむげ)という言葉、

囚われ、こだわりがなく、自由で

のびのびしている、ということ。::


 
点  ・

・ ・

・・・

なにか 足りない、ではなく 

全部 足りない、 でもないか 

呼吸が うすい 

酸素の問題では ないよう 

心の 息が  はかない 


美しい  


でも  それは 儚い

なにもの でもない  

珍しい ウロコが

着いている のでもない  


け だるく なった 


そういう時 なのだ  今は

巨大戦艦も  海に 

沈んでしまえば 

ただの  鉄屑 

深海なら  まだしも 

暗い闇の  孤独の中で 

なにか  ふと 

悟る ものが  あるのかも 

しれない 


それぞれの ひとりの  中よ 

それぞれの  孤独の  味よ 

それぞれの 

ひとり  よ 


そこには  儚い 

懐かしの  虚しさ 

大きすぎる  闇の  深さ 

そこに  あるもの


私が  私であるもの 

僕が  僕という 過去で

あるもの  



やさしさの  見守り 

僕が  

愛された  場所 

波うち際 

引き潮と  返す 波 

なにも  実態がなければ 

なにもならない のに 

その ぬくもりで  

ここに  残っている ようだ 



君への 

告白が  

喉まで ・・


言えない ・・


そうしなくても 

お互いに  わかること 

だった ・・

この  胸に 

とどまった  言葉が 

今も  ・・


まるで 

夜の浜辺を  歩いて  

波の音を  

聞いている ようだ 


地球という  大きなものの 

ささやき 

まばたきさえ 

鈴の 音 がする 


君は 

いない  


どこへ行って 

どこまで行って 

逢えない 



その響きが  聴こえる間だけ 

君は  君に なる  

ただ  闇が 広がる 

僕らは  隔たって いるのではない 

離れているの  ではない 


いるから ・・

なのだ 




もう  なにも  及ばない 

君は  高貴さの 中で

足を  洗うようだ 

なにも 届かない  

銀河系が  ひとつ  

水桶に 浮かんだ  水面に

ひとつ  


君の 

影 のよう ・・



迫りくる のではない 

なにかが 

来る 




渋谷 

道玄坂 ・・

なにも  ない  

死 という 愛 

死ではない  想い 

死に 守られた それぞれの 

残照 


まだ 終わらない 

君への  想い 

まだ 

君を  

呼んではいない  

呼んでは いないよ 


死は その中で  大きく 

大きく なった 

愛を 包んだまま 

死は  死ではなかった 



その  闇の 透明感は 

光 指さない  影に 

すぎない 


まだ 


僕を 

引くな 

連れて  行くな 

連れて 行かないで 



鈴の音が  左耳に 

リン リン コロ コロ

通り 過ぎる  ・・ 



走って  

通り ゆく  ・・



どんなに  巨大なものも 

光で 数える  距離でも

測り得ない  もの・

・ではなかった 


星々は 縮めることが できた 

測るのは  一息の 

呼吸 

死と 名づけた  

僕らの  生命の  ふるさと 


そこへ 帰って  

そこへ 還ってゆく の

だった 



僕らは  抱きかかえるほどの 

大きさで 

死に 抱きかかえられ  

生を 営んでいる 

生は  その中に 

あった 



その 中だけに 




地球という 

水桶の 中だけに 

僕らは  いた 



巨大で  膨大で  

それが  筒とは 見えない 

燃える 太陽ほどの 石からは 

はるかに 



いつか 

また 戻って来る 

悠久の  循環の  筒がある 

愛を 包む  死、ではなかった

それ よりも  



大きい  宇宙の 彼方

はるかに  遠く 

はるかに 遠けく 

僕らは

歩いている 

ヒタヒタ  足音が 

聴こえて 

胸に  迫る 



胸に ・・



ああ 


君も  

聴いているだろうか 

この  祈りを 

そうだ 

僕が  初めて  

心に すでに 見出して 

そこからは  

取り出そうとは しなかった、 


そうまでしても 

言いたくなかった 


ありふれた 安物の 言葉では 




生まれたばかりの 

赤子のように  

守りたいもの 


平和  だ った 


子供らが  子供である時に 

大切なもの 

平和への  祈り

決して  

誰の ためでなく

誰とも  共有することは 

できない 

自分だけが  

守れるだろう と 

生き続けて  みた 


海岸に  打ち上げられた 

昆布くらいに 

波に 負けてしまう 

平和の 命 

誰にも  守れない 

理想の  象徴 だった 



夢の 灯(ともしび)

それを 

生きている 証に  したかった 



鈴の音が 

コロコロ  リンリン 

あの 鐘の音が 

聴きたかった 

僕を 呼ぶ 

カラーン と 鳴き止まない 



遠くから  

遠雷の ように 

僕を  呼んでいる 

君を  呼んでいる 



僕らは 

ひとつ だったんだ 

今 

わかったよ 


僕らは

同じ 死ではなかった 死から

生まれた 

そこで 



僕らは 

ひとつ だったんだ、

ひとつ  ・・



点の ように 


点 

点、 ・ ・ 

・ ・ ・ 


・・・・




一瞬の 平和が 

永遠で  ありますように 

僕らが 

まだ 

人間で ありますように





 
これから  先

僕は  遥か 永劫に  

祈らない





これが

最初で  最後 


・・









        22.12.23






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帰りたくない自分へ、は自分を蹴飛ばすこと [自分]

<これは人生と出会う8日前の晩に

書かれたもの>「地球は人生の一部

でしかない」参照。



言葉でそれを同定させたい、それが

すべきことだと、思っていた。

わからないままにそれを表現する

とは、どういうことか。

それだけでも答えを出せるのなら、

“なにかなし得たのではないか”、と。

そう、その時はまだなにかをなし得る

ことが大事だと考えていた。まさか、

なにもなし得ないとは、人は考えたく

ないものだ。

こうして書いてゆくだけで、なにかを

それなりに主張してゆく思いの成就が

ある。この動きに囚われているのだが、

これを意識するのは、自己撞着(自己

矛盾)を起こすことなので、無駄な動き

に終わると考えていた、それで考えて

はこなかった。

だから、それを考えてみようという

のも、当たり前でつまらない。

そこから飛び立ちたいと思うと、

自由という切符を買いたいと思う。

ところが、こういう日は自由の

切符は手に入らないものなのだ。

流れに乗って、どこへでも行って

いいという気分にならないといけ

ない。それにはむしゃくしゃした

動機があるのがいいようなのだが、

整えた心はつまらない。その滑らか

な油一滴がこぼれてこない。

こうであっても、いつものように

こうしてなにかを思いつくのを待っ

ているのではない。おお、なんと

明るいのか。 開こう、 心を。


どんな共感、詩興、愉快が来ても

それに掴まらないぞ。


詩が書けるからって、それを書くの

は書かされてる気分がするじゃないか。

やめよう、偶然の流れに乗るのは。

それでどうにもならなくても、かまわ

ないってものさ。

もう古臭くなった、腐臭さえし始めた

んじゃない?と思えるような僕らの

ストーリーに乗るのは、当然のように

嫌になったさ。

そこで、まとまるなよ。

そこで止まって、皆、店を開いている

けど、それってどうなの?

落ち着きたいし、君は“ナニカになった

な”、と言われるのも誇らしいのも、わか

るさ。でも、それはそれだ。

趣味が違う。好きな色じゃないくらいの

意味だ。

また歩き出すさ。

そう、

そうだと思う。


恰好いい、と言われたくないために

不精を隠したくない。人にやさしさを

施して、気配りの人と呼ばれたくない。

それじゃだめだ、と言われる人間に

憧れていないが、いい人間よりは

面白そうに見える。なかなかダメに

なることができないからだ。こんな

プライドの砂糖菓子のかけらでも

齧っていたいのだろう。

でも、そんなことを追及すると、批判

という感じになってしまうから、やめて

しまおう。

オオ! ワン、ツー、・・ドラマー 

どこかに流れるものだな、

言葉も

人生も。


腹が、急に、減る。

卵料理の映像を想像してしまった

からだろう。

熱いフライパンの上で、たまらない。

(食パンにスクランブルエッグを載せ

て、食べる。うまい)



平常心とか、私心をなくすとか。

言ってる。心を開くのと、平常心と

どう違うのか。そんな違いに目が行く?

どうでもいいんじゃない? それ。

自分を信じる、愛を信じる、とか。

どうでもいいんじゃない? それって。

自分に責任負えなくて、焼けで

無謀にやんちゃ行動するって、それ

は自分を信じること? 違うよな。


自分をわかる者なら、自分が何者で

どんな人間かはどうでもいい。それは

信じられない対象だからだ。そこでは

ともかくも自らの心の状態もどうでも

いい。これから何をするにせよ、この

心を持った体がするのを、間違いなく

下支えするだけだ。

愛を信じるというのは、寝ぼけている。

愛は僕らがそれを愛だと評価する「もの」

でも「こと」でもない。電気の明かりを

点ける、という変な言い方くらいに

ぼけている。

君のために死ねるも同じ。そういう

自分のことがどうでもいいというのが

無意識な前提にある。そこから行動

することで、評価ではなく、行動で

測る。くり返すが、私は君を愛して

いるよね、と確認のために言って

いるようにも聞こえてしまう。「僕は

君を愛しているから、君のために

死ねるよね?大丈夫だよね?ね?ね?」

バカみたいだ。



そういう行動をすれば、それがわかる。

愛とか自分とか、信じるとかの言葉は

必要ない。ドラマではお芝居だから、

強引に表向きにするために、言葉で

説明する形で言わせる。

あるのはそれをした?しなかった?

その前には何も現れていない。その

後には言葉は現れなくなる。

これは他のことで日常に誰もが経験

している。しかし、内容の性質から

そのボリュームは受け取る人の容量・

腹次第だ。それでもその芯は確実に

わかる。



どうして人は生死を顧みずに何かの

ために危険に飛び込めるのか?そう

じゃない。信じるも愛するも。同じ

意味しかない。言葉の意味は無意味で

それは行動を指しているから。

人がそのために行動できるのは、そこ

には行動しかない、動くものしかない

からだ。動けばそれはなにかをなしつつ

ある過程の運動だ。だから、生か死では

なく、生死を超えた運動だけがある。



生きることは、どう生きるというのは

後天的な選択肢で、すでに生きている

という事実がある。それはすでに信じ

ている=生きていることを示している。

僕らは生きる意味を問う前から、すで

に生きていることで、生を信じている

事実を証明している。

だからと言って、わけもなく死ぬのは

人生に負けたことだとか、批判しない

ことだ。若さとは馬鹿さでもある。

馬鹿は深い事情も知らないうちに死に

たがる。胃痙攣くらいで、癌の末期の

症状だくらいに思う。それも経験不足

で仕方ない。死ぬ奴は死なせとけ。

目の前の不思議さ・美しさが見えない。

そして、見えないわけも誰もが教えない。

見えない者ばかりだからだ。

ここにある。

なにが?と皆が考える。名前とか性質

とか知ろうとする。

考えないでもここに物があるという

不思議がある、それがわからない

からだ。見ることも長い間に忘れられ

てしまった。そのうち評論の神様と

呼ばれた小林秀雄が、絵画を30分も

眺めている、という話は笑い話に

なるのだろう。だから、絵画を眺め

るのも平常心だということも、わから

なくなってしまった。私心をなくして

見るのも同じだ。映画のストーリーや

感情移入をして同情したい・されたい

だけで、どこにも平常心などなく、

捨ててかかっている。

僕らはここまでなにをして来たの

だろう。多くの文明と便利さ、考え方

と文化、それは衣食住の充実。

生活は文明文化で足りているように

さえ思える。

だが、まだゆかしき精神遺産は残って

いる。伝統や文芸は空の殻だが、それ

を突き通すと見えてくるものがある

のではないか。



:::

あまのじゃくは皆が捨ててきたものを

拾って集めるものだ。アフリカの子供

は貧困のため、ゴミ捨て場でそれをして

いるが、エイズの注射針に指を刺して、

病気になったりする。

あまのじゃくで発達障害タイプで貧し

くても、現代でもまだ生きる方法が

あるはずだ。

希望?

僕はそれをよく知らない。知りたくも

ないのだろう。健全な絶望のほうが

まだ石炭くらいには燃えてくれそうだ。


               2.3

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地球は人生の一部でしかない [宇宙ライフ]

雪はやんでいた。

星空の夜に、外に出てみた。

まず、月が下弦だったが、まぶし

かった。雲は北の方角だけで、他

はすっきり晴れているようだった。

「さやけき」月とはいい言葉だと

わかる、そんな半月だ。

嬉しかったのは、深夜で見られる

北斗七星、そして、ぼんやりだが、

北極星がそれとわかるくらいに

見えていた。久しぶりの北極星を

見るのは喜びだ、と初めて思った。


僕は見た。それらをではない、


人生は、そのすべての命でさえ

そこにあった。ここにあった。

冬の冷たい、まだわずかに積雪の

残った平面駐車場に出て、それが

わかった。生きている、死にそうな

ほどの寒さに、生も死も。

それが何だというのか。それこそ、

なにもなかった。それだけで、十分

に答えだった。

まだ地球に立っている、と言えば

よかったのか。そういう大きさも

そのすべての中にあった。

僕がその冷たい空気の中で明瞭に

感じ得たものは、まさにその冷たさ

だった。まぶしい光の月だった。

北斗七星であり、北極星だった。

まだあった。

僕はまるで、ここにもどってきた

ようだ。もう今とは違ってしまっ

た世界から大量の時間を超えて、

故郷の“今”に帰って来たかのよう

だった。


まだ、あるじゃん。

雪も降ったじゃん。

それが幸福の一形式であるのは知っ

ていたし、それを味わった過去も

あった。

けれども、今回は少し違う。

時代の変わり目の幕開け前なのだ。

それは(未来を見たからわかる)

ことだ。そういう発想しかでき

ないが、僕にとってはそういう

ものだ。僕の人生ではそうなのだ。


これは

自分が個人として生きている時の

感動ではない。

これは

僕が生死の大きな感覚に掴まれた

時の感動ではない。



これは

まるで、僕が時代と同期して、いよ

いよ始まりとともに生きる、という

人生の全体に値するものだ。

そういう透徹した感覚を感じる感動を

なんと呼べばいいのか、わからない。

だが、ここにある。


家から三歩出た処に。

星空の夜が見渡せる処に。


なんという場面に僕は遭遇している

のだろう、と真面目で荘厳な出会い

がある。

ふと思った、外に出て見なさい、と

言われたように何かがある、と前もっ

て感じた。

出会う前に示唆されたり、直前で

知っていたかのように、それが

わかる。それは幾度もあった。気が

付けば、今回も。

物理的にも、形態的にも、過去の

年の冬の空と違わない。

しかし、ニュートンではないが、

リンゴは木から落ちた。同じように

僕の目の前で、見えない人生という

ものがストンッと現れた。答えだっ

た。子供のように、喜びで走り

まわってもよかった。それには寒過ぎ

たと思ったが。

これ以上書いても、記憶にしかなら

ない。まだ残っている、そのわかった

という喜びが。

日本は告白文化で、好きだということ

を真剣に伝えようとする。

この答えも愛だという気がする。それ

に出会い、それが僕に告白している

ようだ。これが長い長い道を歩き

ながら、真相を与えられる処まで

来たこと、だから僕は僕という人生

を示された。これをなんと呼ぼうか。


僕はすでにこのことをすぐ前の1,2

のブログで書いていたではないか。


― 僕は僕に出会ったのではないか!


僕の息、僕の生命、僕の生活、

一挙手一投足というもの、だから

それは僕そのもの。

「人生」という言葉で言いたかった

もの、説明したかったものではなく、

人生そのものだった。


人生は言葉ではない。こうして

帰ってくることができる、懐かしい

ものであり、未来に臨むもの、その

勢いなのだろう。熱い想いなのだ。

この地上にある喜びを感じられる

そのすべてなのだ。



僕は、 ・・・・


僕は、 ・・・・


僕は




後記::

予想外でありながら、なつかしい

かのように知っているもの。それ

を表す適切な言葉はまだない。

矛盾した感想しかないのは稚拙に

思えるが、初めての出会いには

それが予想外であるので、言葉なく、

子供になるしかできない。
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時に手放した間に愛は育つ [愛]

やっとわかったということがある。

やっと、だ。と何度思っただろう。

それもこの世の全体や、心を超えた

意識のとどいていない世界のどこか

だとしても、まとまりを感じた時だ。

うっかり感傷を受け入れると、思い

もかけない涙の雲を呼び寄せるようだ。

人々の悲しみに倍増されて、これは

何だろう、と思うほどに泣ける。

でも、それは知らずに副産物を置いて

行くことがある。

それについて書こうとしていない、今

は。


わからないものという心の彼方にある

ものが、わかりかけたという気にさ

せるもの、それがそうだ。

わかっているつもりだった、その

部分をはみ出して、さらに広くから

そのものを超えて見せる。全体の在り

方が、また広く範囲を広げて「わかる」

を広げる。

そういうものなのだ。

僕がわからないとした、そのわかる

ものの全体は生き物の成長であるか

のように大きくなる。

言葉で書ける範囲は僕らの日常に

関わらなければ、何の意味もないし、

それだけでは僕の感興には一向に

通じない。

抽象的だとしても、わかる時が来る

のかもしれない。ここで僕がそういう

感興に見舞われたのだから。

そのきっかけであり、具体的な部分は

その一部であり、愛についてであった。

泣いてわかった。こちら側で小さな愛

を失うことはあちら側で集積する大き

な悲しみだった。

まるでひねりを一回転加えてつながる

かのように、お互いを引きあうよう

だった。

それは同時に、同じことだが、小さな

ものを失った悲しみは、あちら側では

小さな悲しみが昇華した大きな喜び

だった。まるで地球を支えんばかりに

盛んな情熱の塊で、それが今までよく

知っていた愛だった。あまりに大きい

のでそればかりが愛だと思っていたが、

それを否定する人を僕は信じられない

だろう。

僕らは自分という人間すべてを超えて

しまうものを規定することはできない。

自ら規定できないものを僕らは抽象

で何とでも呼ぶ。そんなものが宗教

の経済事情を支えているのだろう。


確かに、文化・芸術面ではそれを様々

に表現しているので、それを覗き見

したぐらいには判断できるが、その芯

にあるものの感じはそれを表現した

本人にしかわからないのだろう。

そこから僕は「大きな愛を知らなくて

もいい」というメッセージを貰った気

がした。

それはこれまで僕が考えていた大きな

愛は人間が受けられないほど大きい、

ということに重なって、それを否定

するようにそれでいい、と言っていた。

愛は理想的ではないのだ。小さいも

大きいもないのだ。そういう区別を

する性質をまったく感じさせないし、

持っていないものなのだろう。

飛躍するが、ベトナムに単身赴任に

なったら、嘆くよりもベトナムの歴史

を読んでベトナムの暮らしを納得する

ように知ろう、と思うのは、そういう

一部だと思う。

息抜きに思うくらいには、現地でどう

いう暮らし方や心意気が必要かを考え

るのもいい。

僕らは小さな愛で立ち止まってしまう。

それはそれであるのだ。僕らは気持ちの

ことだと言うが、僕には気持ちのずっと

向こうに命がある、という気がする。

小さな愛を人は大切にしたいのだろう。

それ以外に人生になにがあるというのだ、 

と言いたいのだろう。

微妙だが、すべてだが、大きな大きな

芯があり、それは小さな小さな飛び

回る中心たちがあり、それについては

知らないが、それが愛の全体ではなく、

なにかに愛が含まれるものだと。

書いてみたが、よく分らないことを

書いていると、自分でも思うほどに

抽象だ。

しかし、僕らは愛にしても理想的に

して美しく描きたがる。それは僕ら

が欲しがるものを抽出することで、

それによって人間の愛という特徴

が表立ってくるようになる。

当たり前のこのことが、見落とすの

が、他の動物、家畜や犬猫との関係、

他の生物の愛の関係だろう。それは

どうして人間と違うのだろう。

共通とかということで、一緒にして

いいものなのだろうか。それは人間

中心の考え方にならないだろうか。

だからそれは一部を固めたものに

なる。

それでは、どこで人は大きな愛に

出会うのだろうか。

大きな愛は小さな悲しみをたくさん

抱えている。しかし、それを悲しみ

と感じさせずに、悲しみは愛をより

感じさせる刺激に変わっている。

スイカに塩をかけて食べる、と聞い

た時には、初めはえっとなるような

もの。少量だ。



それは他の大きすぎるもの、想像の

及ばないものの存在のわかる’きっかけ’

であり、また’わからないものだ’の感

を深くするものだ。



 カタコト鳴る、鉛筆や 消しゴム

 命が 川を流れる音が して 

 水面に  話しかけてみる 

 今夜は

 4時に なった 

 君は 眠っているだろうな 


こんなに  夜は  豊かなのに 

もう 月は 沈んだだろう 

この ささやきは  なんだろう? 

さやけき 空から  振って来る

この ささやきを  聞け 



ささやかな 小さな愛が 

あるのだろう

そんな人に  逢いたい 

大きな愛など  忘れさせて

これを  守りたいと 

思える人に 

この 煉獄が  

愛の 試練だけで あったなら 

どんなに  よかっただろう 

それだけで  よかったのなら 

僕らは  どこへ 行くのかも  

わかっていた だろう 

愛が  慰めや 拠りどころで 

あったのなら 

今でも

僕らは  大きな愛に 

気づかなかった だろう 

悲しみの  大きさにも 

及ばなかった だろう 


ただ 

愛したい  

これが  どれほどの 

重みでも 

かまわない 

新しく  出発したい時 

僕は  

やたらと  

愛したい のだ 

これが  抱えられる とは 

思わない  

それでも 

宇宙を  友とせよと 

言うのなら 

闇の底に  沈めよと 

言うのなら 

僕は  そうして 

生きてはいない 果てまで

行って

大きな  希望に  

なりたい  


僕が  いる世界  

それが  そういう 

ものだということ 

希望もなければ  絶望も 

ない 

だから  そこで はじめて 

それを  つくることに  

なる  

そういう 運命のように 

見える  視界が 

どこまでも  どこまでも  

続く 


この 夜を凌駕して 

どこまでも

ゆく




:::

僕らは小さな愛に埋もれてしまう。

それは憧れや慰めを求めて、そこに

愛を置くから。それだけのために。

それはひとつの確かなもの。

だから、それだけではないのだが、

それに気づく人は少ない。何も

間違いではないが、取りこぼした

ままというのも、やはり愛の不足

を感じる。あまりに涙の保証を求め

過ぎているのだ。それだけが生きる

証というものではないと思うの

だが。

その答えというのもないのが、

凄さというそのものだろう。それ

は僕らがどう生きるかに、初めから

含まれているからだろう。愛にも

その答え方のひとつがある。

どう愛するか、どれほど愛するのか、

それを人生にする、そういう人も

いるのだろう。奇跡だろう、感謝

したい。いつかは会わせてほしいと、

思うのだが。



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