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時に手放した間に愛は育つ [愛]

やっとわかったということがある。

やっと、だ。と何度思っただろう。

それもこの世の全体や、心を超えた

意識のとどいていない世界のどこか

だとしても、まとまりを感じた時だ。

うっかり感傷を受け入れると、思い

もかけない涙の雲を呼び寄せるようだ。

人々の悲しみに倍増されて、これは

何だろう、と思うほどに泣ける。

でも、それは知らずに副産物を置いて

行くことがある。

それについて書こうとしていない、今

は。


わからないものという心の彼方にある

ものが、わかりかけたという気にさ

せるもの、それがそうだ。

わかっているつもりだった、その

部分をはみ出して、さらに広くから

そのものを超えて見せる。全体の在り

方が、また広く範囲を広げて「わかる」

を広げる。

そういうものなのだ。

僕がわからないとした、そのわかる

ものの全体は生き物の成長であるか

のように大きくなる。

言葉で書ける範囲は僕らの日常に

関わらなければ、何の意味もないし、

それだけでは僕の感興には一向に

通じない。

抽象的だとしても、わかる時が来る

のかもしれない。ここで僕がそういう

感興に見舞われたのだから。

そのきっかけであり、具体的な部分は

その一部であり、愛についてであった。

泣いてわかった。こちら側で小さな愛

を失うことはあちら側で集積する大き

な悲しみだった。

まるでひねりを一回転加えてつながる

かのように、お互いを引きあうよう

だった。

それは同時に、同じことだが、小さな

ものを失った悲しみは、あちら側では

小さな悲しみが昇華した大きな喜び

だった。まるで地球を支えんばかりに

盛んな情熱の塊で、それが今までよく

知っていた愛だった。あまりに大きい

のでそればかりが愛だと思っていたが、

それを否定する人を僕は信じられない

だろう。

僕らは自分という人間すべてを超えて

しまうものを規定することはできない。

自ら規定できないものを僕らは抽象

で何とでも呼ぶ。そんなものが宗教

の経済事情を支えているのだろう。


確かに、文化・芸術面ではそれを様々

に表現しているので、それを覗き見

したぐらいには判断できるが、その芯

にあるものの感じはそれを表現した

本人にしかわからないのだろう。

そこから僕は「大きな愛を知らなくて

もいい」というメッセージを貰った気

がした。

それはこれまで僕が考えていた大きな

愛は人間が受けられないほど大きい、

ということに重なって、それを否定

するようにそれでいい、と言っていた。

愛は理想的ではないのだ。小さいも

大きいもないのだ。そういう区別を

する性質をまったく感じさせないし、

持っていないものなのだろう。

飛躍するが、ベトナムに単身赴任に

なったら、嘆くよりもベトナムの歴史

を読んでベトナムの暮らしを納得する

ように知ろう、と思うのは、そういう

一部だと思う。

息抜きに思うくらいには、現地でどう

いう暮らし方や心意気が必要かを考え

るのもいい。

僕らは小さな愛で立ち止まってしまう。

それはそれであるのだ。僕らは気持ちの

ことだと言うが、僕には気持ちのずっと

向こうに命がある、という気がする。

小さな愛を人は大切にしたいのだろう。

それ以外に人生になにがあるというのだ、 

と言いたいのだろう。

微妙だが、すべてだが、大きな大きな

芯があり、それは小さな小さな飛び

回る中心たちがあり、それについては

知らないが、それが愛の全体ではなく、

なにかに愛が含まれるものだと。

書いてみたが、よく分らないことを

書いていると、自分でも思うほどに

抽象だ。

しかし、僕らは愛にしても理想的に

して美しく描きたがる。それは僕ら

が欲しがるものを抽出することで、

それによって人間の愛という特徴

が表立ってくるようになる。

当たり前のこのことが、見落とすの

が、他の動物、家畜や犬猫との関係、

他の生物の愛の関係だろう。それは

どうして人間と違うのだろう。

共通とかということで、一緒にして

いいものなのだろうか。それは人間

中心の考え方にならないだろうか。

だからそれは一部を固めたものに

なる。

それでは、どこで人は大きな愛に

出会うのだろうか。

大きな愛は小さな悲しみをたくさん

抱えている。しかし、それを悲しみ

と感じさせずに、悲しみは愛をより

感じさせる刺激に変わっている。

スイカに塩をかけて食べる、と聞い

た時には、初めはえっとなるような

もの。少量だ。



それは他の大きすぎるもの、想像の

及ばないものの存在のわかる’きっかけ’

であり、また’わからないものだ’の感

を深くするものだ。



 カタコト鳴る、鉛筆や 消しゴム

 命が 川を流れる音が して 

 水面に  話しかけてみる 

 今夜は

 4時に なった 

 君は 眠っているだろうな 


こんなに  夜は  豊かなのに 

もう 月は 沈んだだろう 

この ささやきは  なんだろう? 

さやけき 空から  振って来る

この ささやきを  聞け 



ささやかな 小さな愛が 

あるのだろう

そんな人に  逢いたい 

大きな愛など  忘れさせて

これを  守りたいと 

思える人に 

この 煉獄が  

愛の 試練だけで あったなら 

どんなに  よかっただろう 

それだけで  よかったのなら 

僕らは  どこへ 行くのかも  

わかっていた だろう 

愛が  慰めや 拠りどころで 

あったのなら 

今でも

僕らは  大きな愛に 

気づかなかった だろう 

悲しみの  大きさにも 

及ばなかった だろう 


ただ 

愛したい  

これが  どれほどの 

重みでも 

かまわない 

新しく  出発したい時 

僕は  

やたらと  

愛したい のだ 

これが  抱えられる とは 

思わない  

それでも 

宇宙を  友とせよと 

言うのなら 

闇の底に  沈めよと 

言うのなら 

僕は  そうして 

生きてはいない 果てまで

行って

大きな  希望に  

なりたい  


僕が  いる世界  

それが  そういう 

ものだということ 

希望もなければ  絶望も 

ない 

だから  そこで はじめて 

それを  つくることに  

なる  

そういう 運命のように 

見える  視界が 

どこまでも  どこまでも  

続く 


この 夜を凌駕して 

どこまでも

ゆく




:::

僕らは小さな愛に埋もれてしまう。

それは憧れや慰めを求めて、そこに

愛を置くから。それだけのために。

それはひとつの確かなもの。

だから、それだけではないのだが、

それに気づく人は少ない。何も

間違いではないが、取りこぼした

ままというのも、やはり愛の不足

を感じる。あまりに涙の保証を求め

過ぎているのだ。それだけが生きる

証というものではないと思うの

だが。

その答えというのもないのが、

凄さというそのものだろう。それ

は僕らがどう生きるかに、初めから

含まれているからだろう。愛にも

その答え方のひとつがある。

どう愛するか、どれほど愛するのか、

それを人生にする、そういう人も

いるのだろう。奇跡だろう、感謝

したい。いつかは会わせてほしいと、

思うのだが。



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