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絵付けは水墨画風で [水墨画]

僕には過去や古いものに接した

ほうがよい日があるようだ。

実にスムーズに行くのはそういう

日常の区分けがうまく行っている

からだろう。

陶芸教室では平らな皿を形だけ

作って来た。そこに絵を描きた

かったから。

呉須を使うと古伊万里のような

古い色合いが懐かしく浮かび上がる。

水墨画調である。

そこで暇つぶしに図書館へ寄った

折に水墨画の本を調べて借りた。

水墨画は断然、雪舟だと思ってい

たが、なかなか他の調子も侮れない。

ピカピカの雪舟と言ったらいいのか、

そんな式部輝忠の画「四季山水図」

を発見して、驚く。雪村(せっそん)

もいい。

式部輝忠-1.jpg

画「四季山水図」:式部輝忠 別冊太陽から


水墨画では巨大な歴史を持つ中国も

見ておこうと、ページをめくったら、

学校で観たような有名な絵が出てきた。

牧谿である。

牧谿1-1.jpg

「観音猿鶴図」猿の部分:牧谿 別冊太陽


牧谿2-1.jpg  

「観音猿鶴図」観音の部分:牧谿 別冊太陽


これは国宝になったので覚えているの

だろう。また、印象画のような景色も

描いていて、水墨の強みを活かしている。

牧谿4-0.jpg

「瀟湘八景図」:牧谿 別冊太陽 

これを見て、やられてしまったのが柿の

絵だ。水墨画でなくては出せない表現

だろう。この単純さにはまったくの

「かたち」がある。ものを観ていたな、

とわかる。仲間内だけでわかるものや

業界隠語ではないものだ。

牧谿3-1.jpg

「柿図」 :牧谿 別冊太陽 

これは僕の中では大傑作だ。

他に白隠がある。日本の臨済宗の僧侶

だが、民衆にわかりやすく伝えるため

の余技だった画が、晩年には盛んに

描くようになった。 

白隠には「夜船閑話」という書があり、

悟りへの修行に集中するあまりノイロー

ゼにまでなって、隠者・白幽子を訪れ、

その養生法を伝授されたとされる。

それも面白そうなので、手に入れて

読むことができたら、書いてみたい。



水墨画風の絵付けは陶器の皿やカップ

用に始めようとしたものだ。絵への

興味・感慨が蘇って、また描きたく

なってきたのだ。


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卒業の歌が聴こえない [夢想]

ブログを書くまでに五日を空けた。

この一年では僕としてはとても長い

日数だった。

いつもと同じに書くこともなく、

書けそうもない気がしている気が

しているが、ここんとこ、書いて

なかったな、というのが新鮮だ。

でも、陶芸教室に行き、昨日には

真鶴岬に行ってきた。

それでまだ疲労が残っている。

でも、いつものようだった、あの

僕はどこにいるのか、という頼り

ない気分に囲まれて、なにか安心

する。いつも通りだ、と。



陶芸についても、真鶴の釣りに

ついても、書く気がないのがわかる。


僕はどこにいるのかが、懐かしすぎ

て、この気持から離れたくない。

そうではないのだが、まるで自分

の精神を探して、取り戻したいような

意味の分からない気分だ。

誰かに語りかけたい。そこに誰かが

いるような気がして、誰でもいいから

話したい自分がいる。

これがブログを書く際の原点のような

ものなのかもしれない。

畳みかけるピアノのリズム情熱がある

のでもないが、なにかを心の底から

掘り起こしたい気がする。



空っぽだ。


ユーモアのある空っぽで、むなしい


とか寂しいじゃない。


おう おう 君は 


おう おう 僕は 


空っぽだ 


空っケツ 


なんも ない 


すがすがしい 


空気くらい  与えろよ 


と 荒野から 


たった一人  抗議する


したいから  抗議するが 


誰に 対して 


何に 対して


とか 


真面目 なのに 


なんも ない 


塵も 芥も 


誇りも ない 


カラカラ 喉が 乾くのか 


サラサラ 血が 砂になるのか 


君の  気持ちに


なりたい 


空 駆ける


君の  悲しみに  


なりたい 


ありと せば 


君に  なりたい 


君と  ともに 


君の  涙と ともに 


墨汁に なって 


空に  ぶちまけて 


黒い点の 雲を 


UFOの 連隊のように 


黒玉模様で 


汚してみたい 



ああ  僕の 恥は 


どこへ  行ったのか 


隠さなければならない 秘密は 


どこに 雲隠れ  したのか 


もう  


それは 


見つけられ ないのだろうか 



遠雷のようだ 


遠き 心よ 



君は  ものに  入るか?


君よ  ものの 物語を


知っているか? 


霞を 伝わる  せせらぎの


ようだ 


聞こえている 気がするのに


自信はない 


聴こうとすると  それは 


遠くへ  行くようなのだ 



君を  追いかけたい時も 


そうだった


取り残されて  すべて 


終わったと  


思った時 のように 


こんなことは  


ありえない ことだと 



桜 舞い散る 季節が 


やって来るけど 


僕は  もう  


それを  思い出せないの


かもしれない 


豪華な  桜 


盛んに  あの頃を 


染め抜くかの ように 



また  桜の季節が 


早く  来た 


出迎える  空っぽの 


自分は 


この気持ちを 


言い 表せない  



外は  霧雨が  降り 


中は  晴れている 


窓から外を 見ているように 


僕は  悲しい  


霧雨が 降っている 外のように


僕は  きっと  


悲しいのだ  


この 泣きたい気分が 


とても  嬉しい 


そこに  愛を 


感じられるから? 


そう なのかも 




人のそういう 部分が 


嬉しく  懐かしく 


悲しく  満たされる 


これが  人生の 記憶というもの?


これが  生きてきた 証というもの? 


そんな気も  する


そんな気も する よ 



たくあんを 食べた  


みそ汁の具は 豆腐だった 


それが  


生きていることだと 


空っぽにして


懐かしさでもって 


わかるように なってしまった 


見つめ合った 動物の  


眼は  わからなかったが 


その わからなさが 


少し  心に あたるんだ 


まだ 残されたような 


水たまりに 


陽が 射して 


キラキラが 


わからない 透明さが  


僕に  与えたものが 


わかる気が  する んだ 



うす黄緑の  若葉が 


林の中で 


あちらこちらと  


三葉 四葉の  アクセント模様 


になって 


僕らは  歩き  行き過ぎる 


春の 中を 


歩いている とも 知らず 


僕らは ほんとうは  なにか?


とも  尋ねない  


答えは  知っていると 


思っている 


遭難した 若者を  探し出すのは 


その遺族が 捜索に加わった時に 


その遺族だという 


この 広大な 山岳で


死んだ 若者は 


遺族と  どういうつながりを


持つのか 


僕らは  知らない 



僕の 心の底も 


僕は まだまだ  知らない 


知らないに 違いない 



さらば さらばと 言うほどに


知らない 記憶が 


蘇る 


誰の  懐かしさなのか 


どういう 状況なのか 


人間を  卒業するのは  


許されることなのか 


それほどに 


鉱脈は  広く  深いらしい



君は  どこへ ゆくのか 


僕は  まだ この先 


どれほど  さ迷うのだろう 



さらば さらばと 言うほどに


知らない 記憶が 


蘇る 


人間を  卒業するのは  


許されることなのか 



君は  どこへ ゆくのか 


僕は  まだ この先 


どれほど  さ迷うのだろう 



水墨用5-2.jpg

赤モクレン 曇り空
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動物からの過去、連鎖の源 [過去]

このところ、日々の印象日記が続く。

内省の印象なので、どれだけ現実的

であっても、想像の域を出ることは

ない。それは表の感想で、内省では

確実に精神に捉えている、と考える。



いつも事実から出発する。空想して

いても、幻想と現実的な想像とは

区別がついている(ハズだ)。

オランダの自然保護区があるそうだ。

オランダは埋め立て地がすべてだから、

自然の地を作ろうとしたのには、驚き

だ。開けた考え方という文化の背景を

感じる。

その保護区でのキツネの親子の生活を

1年にわたって記録したドキュメンタリー

映像を観た。

見ていて、自分の感性に反省が戻って

来ているのがわかった。新鮮なのだ。

春の間にカモが子育てをする。ヒナは

まだ飛べない時期だ。この頃が狩りの

季節になって、ヒナはキツネやカラスに

狙われる。子育てをする母キツネは

狩りのベテランで、わんぱく3匹の

子がいてエサがちゃんと獲れるのかいな、

と心配する必要もなく、なにかと狩りに

成功する。草原なので生態系ができて

いる。そこに暮らすだけの生物の食物

連鎖の余裕があるのである。

ヒナは飛び立てるまでの3週間?だっ

たか、危険から逃れればいいのである。

面白いのは、ヒナでもキツネに追いか

けられると、途中でズッコケたように

転んでそのまま死んだふりをすること

だ。2羽のヒナがそれをやり、キツネ

が来るがなぜかそのヒナの匂いを嗅ぐ

だけで注意が他に逸れる。その隙を

見逃さず、ヒナは素早く起き上がり、

またスタコラ逃走劇をくり返す。

本能と言えばそれまでだが、生まれた

時にはもう組み込まれているのだろう。

ベテランのキツネがそれで戸惑うのも

面白い。

子供を育てるということはその3匹が

独立した時に、彼らのテリトリーも

その草原にあるということだ。しかし、

テリトリーがいっぱいであれば、それは

若いキツネ同士がテリトリー争いを

して、それを自分のものにしなければ

ならない。そこはふつーに過酷な自然

である。そこに居る生物の種類と生体数

などが生態系を微妙に変化させ、それ

ぞれを増減させるのだ。そこには手加減

の一文字もない。

その厳しさゆえか、面白いのはキツネも

カラスも食べ残しを草原のあちこちに

埋める。後で食べるためであるが、これ

は自分の口に入らないことが多い。

それはキツネも同じように、草原の

あちこちに食べ残しを埋めるからで

ある。そうして、秋から冬へは温度

が下がるので、隠した肉は腐らない。

そして、誰が埋めたかわからない肉

を嗅覚で探し出して、掘り起こすの

である。

これはわかっているのかいないのか、

相互に助け合う行動になっている。

最早自分だけのためにではない、

それでも自分のためにと思って

相互秩序を生むかのように、取って

いる行動に思えてならない。

母キツネがエサを加えて巣穴に戻っ

て来ると可愛い3匹がその獲物を奪う

ために母親の周りを走り回る。

しかし、その時が来ると、母親は邪険

に子供らを巣穴から追い出すか、自分

が消えてしまうのだ。もう二度と帰っ

てこない。それがわかってから、子供

たちも巣穴から独り立ちする。

僕はその点に感動するのは、今に

始まったことではないが、今回は

非常にその生活に密着した。干上がっ

た沼から魚を摂ろうと、草むらに

隠れてじっとしている時のキツネの

心境が手に取るようだった。風の

なびき、夕闇に向かう匂い、泥の

感触。そういったものが全編をとお

して感じられた。そして、なつかしく

感じた。

社会での仕事のない今、それがより

よく感じられたのだろう。仕事の時間、

帰宅の時間も、駅も住所もなかった。

今、ここにあるのみ。

まるで、数万年前の動物時代の遺伝子

があって、そこにコンタクトして、

自分が動物であった過去を再び生きて

いるようだった。幻想なら楽しいだろう

に、これは過酷な自然の記憶で感触だっ

た。 明日がないから、明日への不安

も一切ない。代わりにするべき行動に

待ったがない生活があった。

今生きるかどうかで、明日生きてい

たら、腹が空き過ぎて動けないかも

しれなかった。この、夕暮れが来る

ような、何とも言えない感触があった。

人間ならば、街を夕方歩いていて、

どこかの家から醤油やみそ汁の香りが

して、家に帰る歩きを速めるような、

そんな生活の感触があった。

僕らの考えるような弱肉強食の世界は

ここにはない。それは人間の感想に

過ぎない。彼らには明日がないのだ。

その日を生きなければならない。それ

だけがある。弱肉強食を言ってられる

のは、気取ったことであって、僕らの

ささやかな傲慢に過ぎない。

それがその懐かしさをとおして、それ

だからこそ感じられる。いつでも生き

ようとして生きなければ、明日も、

いや今日もなくなってしまうのだ。

僕らはあまりに僕らの見方から動物を

見るのに慣れて、慣れ過ぎてしまって

いる。それで彼らを知らないままだ。


僕は動物保護を訴えているわけじゃない。

鶏肉も豚肉も牛肉もラムも僕は好きだ。

そういう畜産業とも関係はない。自然

環境を残し、作りそこに今の動物たちが

生きることは自然のために必要なことだ。

僕らが必要なエネルギーを不必要に

増産することでも、自然にストレスが

かかっている。それは恐らく、自然に

生きる動物たちを観察する中で自然

の変化をよりよく掴めると考える。

不自然の線引きは難しいが、自然に

絶滅する種は絶滅してしまって構わない。

そうではない、自然に生きる動物生活

が僕らの未来のためには重要な要素を

含んでいる、まだ未知ではあるが、新

発見はいつも自然から起こるのだから、

これからも自然環境は必要な生命維持

の条件を人類のために提示・発見し続け

るに違いないだろう。

だが、それをコントロールできると考え

るほど、残念ながら僕らは愚かだ。

効率・合理的・便利・安心・安全という

世界を社会的に、科学的に、経済意志に

よって実現させればさせるほど、それに

見合う頻度・確率・規模で危険と暗黒・

死をいつか大規模な形で増大させて

しまうという、自然の鉄則をまだ教育

の根幹にさえ置けないのだ、我々は、

僕らは。


そこから歪んだ支配が行われてきて

いる。新聞もTVも正確な報道を欠き、

国の安全に関わる法案も知らない間に

可決される。

僕らは耳のない猿であることに慣ら

されたのだということに気づけない

ような社会にいるということが、

信じることができない。なにかの

おかしさに危機感を持つことが緩め

られてしまっている。

緩んだ感覚なので、酔っ払いになにが

わかるかみたいなことになっている。

そこで根底的なことを学ばずに、何が

本当に何だ、ということがわかるの

だろうか。



僕は過去から発言している感覚に居る。

それは現在を未来のように感じる力だ。

まだ未来も今のように、助けられない

ほどの状況じゃない、ということだ。

過去に戻れとか、動物になれ、とか言う

ような馬鹿げた状況のことではない。

ただ、そういう状況は確かで豊かな感覚

を生む。自分が高校生になったら、と

考えるだけで僕らは高校生の自分には

なれない。

しかし、なれたとしたら、そこにはどんな

感覚野が広がっているか、なってもいない

のになにがわかるのだろうか。

僕らが忘れているのはそのことだ。人類

の起原にも連なる記憶がどうしてこれ

からの存続のヒントにならないと言える

だろうか。 

今というこの地平に未来があるためには、

それと同じくらいの希望に満ちた過去

という場所に立つことぐらい確かな

ヒントはないと思うのだが。 





:::


ひとつの可能性であっても、この

仮説は潰したくなかった。この

ストーリーの中身は長すぎるが、

僕が感づいているのはひとつだ。

それをロハにはできない。感づい

ているのは僕という事実だから。

それがどれくらいかは問えない。

仮説の範囲を超えてしまう。
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長すぎる 長くはない10年 [心の進化]

長すぎたのではない。

今は今。 が、それは瞬間に区切って

切り狭められたものでもない。


この10年。


長かった。言葉にならない。

意識の先端であるかのように

その緊張が生きる証であるかの

ように感じて、疑わなかった

半世紀がその10年でもあった。


無意識は世界を開いた。

かくなる確固たる見方でいられた。

しかし、半永久な精神運動は疲れ

もした。

戻そうとして3年。楽になって半年、

だろうか。



中学から大学入試まで、その頃の

千葉の海の思い出が三人にあって、

素晴らしい夏が何年も連呼した。

その夏の最も重要な人が過去になり、

そして、それから20年以上も経って

千葉にひとり出かけた。なぜかわから

なかったが、行ってみて、思い出の

磯で10分ほど坐っていたら、わかった。

海の思い出が終わるのだった。

思い出がただのセピア色の記憶に

変色していたのに気づくことだった。



「終わった」とはっきりして、立ち

上がった時、磯に波うつ光景がなんの

感激もなく、透明に寒々しくもあった。

その時にその二人の友達も失うとは

思わなかった。


それは根底から覆してしまう自己革変

だった。やがて舞台が夢から現実へと

その中心を移してしまう前触れだった。


それをはっきりと教えたこの10年は

長く、果てしないのものに感じさせた。

本棚で部屋に四角く囲った、さらに

狭い空間は机を前にして、一人用の

空間だった。そこに入るのは好きでは

なかったが、違った。そこに入ると、

今日は落ち着いた。そして、その感興

がどういうものだかがわかった。

高校の時代だった。高校生の自分がいた。

僕は高校の時の自分の感覚の中にいた。

あの頃の希望、生きにくさ、野心、なに

かわからぬうちに未来への情熱を感じ

てしまう青い匂いの汗の生命、その

生命感を感じている。


それはこう言えるのに、自分でも驚く::-

僕は過去にいる。タイムスリップして

高校生になった。しかし、これまでの

60年もの記憶がそれに屹立している

から現在を見誤ることはない。

が、タイムスリップした感覚は続く。

この世の時はそのままだ。僕が変わ

った。



夢の側が中心で生きた僕には、この

半世紀がこの10年に感じ、またその

中味は悠久の時を感じさせ、覚えて、

僕を雨の外へ連れ出そうとしていた。

玄関先でしばらく、雨を見ながら

立っていた。立ち尽くすような気持

ちで、その感興とともにあった。


因果は冷たく鉄のような立法で不変律

であるが、それを柔らかく感じる自由

さがあった。今、それは生まれたの

だろう。

五万もの変則・変化を時々刻々読み切る

のはできることではない、不可能だ。

それが自由の源なのだ。読み切れなけ

れば、僕らはわかりきった予想で確実

な道を進むという安全・安心な生を

過ごすことは適わない。だからそこに

確実に冒険・挑戦の要素が入る。

まさしく思ったようにはいかない。

そこに不安を抱かせ、いかに達成率

を高めるために努力するか、それこ

そが自由だと因果は教える。



それはまた、これまでの社会を築き

上げてきた歴史の上での男の世界だ

ろう。

僕にとっては遅きに位置するかも

しれないが、前準備を終えて、好き

な世界を構築するための後準備が

できたことだろう、とも思う。

それは私(わたくし)からではない、

私のものではない、無私からの世界

だろう。この意味はよくわかるが、

人が知るのは実行された後になる。


夢から覚めた詩人のランボーは

極端だった。彼の少ない詩がヨー

ロッパで有名になり、詩の依頼が

来る頃に彼はアフリカにいた。

商人として武器を売りに来て失敗

した。しかし、彼は詩をもう軽蔑

していて、依頼は断った。恐らく

商人としてする苦労よりも相当に

楽に稼げるのに。

商売は止めなかった。商売人として

死に、現実に生きるほうを選んで

いた。もちろん、彼の名は天才詩人

として残り、これからも朽ちること

はないだろう。アフリカの紛争地域

での商売は命がけの冒険だった。彼

も子供の頃の夢を手に入れたのかも

しれない。




::
ランボーの放蕩詩は「地獄の季節」

を読むとよい。
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異なる匠に迷う [匠]

何を書くつもりなのかは知っている

が、その何かがわからないものの

代表のような物なので、とんと

見当がつかない。


わびとかさびとかいう概念は

イメージで知っているもので、

その内容を実感しているかと言うと

まったくなにも浮かんでこないのに、

改めて気づいた。

なんとなくわかりきっているよう

にも思っていた、わびとかさびの

風情が「そういうものだ」という

あいまい、いい加減なイメージで

しかないのには、参る。

ものを透徹した時の感動がそれを

保証した気になっていたが、ここ

まで来ても、それが無内容なのに

気づかなかったので、ただ芸術と

素朴、100円の食器と手作りの

陶器に、予想していたつもりだった

違い・区別を見出せなかった。

過去の感動があるきりで、ものの

美は感情のものなのかという疑問

まで湧いて、混乱を来している。

数寄者というのは器を愛する者だ

ろう。まったく好き嫌いの感情の

世界に見える。理屈が見いだせない

のは承知しているし、構わないのだが、

ただの好き嫌いとの本質的な区別が

まるで見えない。ないに等しいので

はないか、と思えるくらいだ。

それは上品・下品とも違う、わかり

にくい異匠であるが、濱田(庄司・

人間国宝)の時はすぐにわかったの

に、もの全般を見ようとすると、霧

の中に入ってしまう。


焦点が違うのかもしれない。透徹を

意識するあまり、モノを見ないで

そこからの抽象やイメージを連想

しようとするので、当然、見ていな

いのだから、なんの感動もない。

そういうことなのか。そこにある

ものは、そのひとつのもので、全体

ではない。モノの全体はそのものを

見ることから現れるはずだ。だから、

透徹してやろうという意識から離れ、

自由にならなければ、現れるものも

現れないハズだ。



初心に還れとはよく言った。

過去に帰ることではないだろう。

リターンするのだ。知的な僕らは

探そうとしてしまう。第一印象は

よく当てるが、それですべてが

わかったのではない、そこから

先へ進まなくていいのだ。そういう

地点で見続けることで、先へ進む

のは僕らの考えが教えてくれるこ

とではない。その時に自然が教え

てくれる。またはそれが見えている

人がヒントを授けてくれる。

ものや人との出会いは自然の中に隠さ

れているだろう。素直さ素朴さだけで

ないのが、自然なのだろう。


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思想(知識)の転向は壁の色を塗り替えただけ [知の思考]

日本という国に何かが起きるのは

わかっている。もう30年以上前と

は思わなかったが、第1次湾岸

戦争からそれだけの年月が経って

いた。

が、それが日本なのか、僕自身の

ことなのか、よくはわからない。

なぜなら、今の日本への関心は

異常なほどで、単なる思想的関心

とか形而上の危機感とは大きく

異なるからだ。この処、日本に

関しての本が目に映り、すぐに

手に入れてしまう。自分でも変だ

なと思うくらい。僕と日本が重なり

合っているのは、意識上しかたない

ことだとしても、それで確かなこと

が不明になってしまってもいる。

こういう凖・動揺状態の時には

正確な判断は望めないが、それ

でも僕をパソコンの前に坐らせる

には十分な条件だ。



あれだけ探して見つからなかった

「善の研究」:西田幾多郎の代表作

とされている:が階段の本棚にある

のを見つけた。もう買い直して

しまったので、ダブってしまったの

だが、最近は二回目だ。初めは

自転車の鍵で、駅の駐輪場で停めて

あったのだが、鍵がない。ポケット

を何度も探してみるが、失くすはず

もないものだったので、車の鍵に

つけていた鈴を失くして以来、また

かと思った。

今度もすぐには出てこないとったので、

三日後に合鍵を作ったら、その日に

(洗濯に出した)ズボンにからまっ

て?出てきた、とうちのが言った。



それは余分な話だが、西田の「善の~」

は僕は善が感情表現なので、思想的

には評価しなかったのだが、どうも

それだけではないようだと、考えを

改めた。

それはこれまでも言ってきたことから

人が人を理解することの困難さは

感情→思考→感覚と進むほどに困難さ

は増すことを、感情的には速い理解

になるという僕らの関係性であっても、

思考と感覚への理解になると、人が常

にまだら・あいまいにしか理解しがたい、

となってゆくのは避けられない。また、

ひとつ詰め、応用すると、そこにこの

世の知識の歴史が浮かび上がるのを

見た気がした。

知識は結果のものだと思っている。

言葉の資産だと言ってもいいだろう。

僕はこの資産というよりも精神の遺産・

本・書籍というものへの出会いに恵ま

れている。

知識への批判はともかくとして、

子供の頃からの未知を探索する癖を

つけてくれたのは読みたい本を探す

ことからだった。

一定の世間やこの世の常識をその

時代のレベルでおよそ全般で備えて

いないと、まず基本の判断の基準が

定まらない。

思春期には感覚や感情を鍛える

こと、そういう経験をに出会う

ことが必要になる。しかし、人は

自分の心身の条件からどれかが

疎かになり、大人になってから

その未熟さのために苦労する。

僕は感情の未熟さがあったが、

人と全般に付き合うことはしな

かったので、また自己追及が

自分に合っていたので、ずいぶん

先まで社交性は未熟さが残った

ままだった。その代わりに、精神

の事項での発見が絶え間なく続いた

ので、面白くすぐには転向でき

なかった。

革命家北一輝と思想家大川周明は

出会って語り明かしたことがあった。

北一輝は半裸状態らしかったという

から夏の夜なのだろう。頭脳明晰な

二人がお互いを理解しようとして

一晩?だか議論したというから、

言葉の表す概念がどれほどの意味を

抱えていたかが知れる処だ。

その単語の意味がひとつで明快で

あれば、その明晰な二人がそれほど

時間をかけなくても理解はスムーズ

だったろう。話は速い。思った時に

すぐに言葉に換えられる。それが

長い議論になったのだから、意味が

複雑で錯綜していたから、相手が

それをどういう位置から捉えていた

かがはっきりしないと、なにを考え

見ていたかはわからない。

書物は考えた結果の言葉がそこに

落とし込まれるが、考え方が違うと

さっぱりわからないという、妙なこと

が起こる。それはもっと言葉よりも

明晰だと思われる数学でも同じだ。

数学もやはり幾何的に考える人も

代数的に考える人もいて、数学者は

相手が出した解答を自分の考え方で

数式を変えて考えてみないと、それ

が正しいかどうかが理解できな

かったらしい。

(答えが二つあったとして、それぞれ

の考え方が答えにあっていて、正しい

という場合と、その二つを比較して

どちらも正しい、という言い方も

できる、正しいにも意味が複合して

ある)

それほど自然は単純ではないという

ことなのだが、思想家も哲学者も

数学者もそうは考えない。飽くまでも

自分の学問分野の範囲の中でのこと

として捉えようとする。

これが真理のあり方だとしたら、その

ままだ。真理はそれを見る人の考え方や

見方の数だけその側面を見せる、という

ことだ。

僕が他人の本を読むのは無駄だと言った

過去があるが、その意味はここにある。

一人の人間を研究するなど宇宙の一部

でも半無限な範囲があるのに、無茶な

話なのだ。それがある思想を研究すると

なると、実現可能に見えてしまうらしい。

それは知識が固定された明確な概念と

して定義されたように錯覚している人

が多いからだ。 

AIの学習に関する理論が出回ってから

は特にそこに人間の知能との違いや範囲

を線引きできなくなって、ますます混迷

が深まっている。

僕らは間違えることがわからない。間違え

るのだから不正解、だからそれは正しく

ない、それは悪い、と二者択一で考えて

しまう。そのワンパターンな思考こそが

間違えていることに気づけない。

あることでは間違いも自然であり、真理

の一部なのだということは教えられて

こなかった。だから、それが常識に

なってしまったが、僕らは実に一つの

解答ではなく、多面的な解答を同時に

理解するように迫られている、常に。

ほんとうに単純な問題で、人がこさえた

算数の問題などは単一の解答がある。

といっても厳密には解答は同時に二つ

あるのも往々にしてある。例えば√4

の答えは+2と-2とで二つ正解がある。

算数でさえそうなのだから、自然界の、

また社会の機構での正解はいくつもある

のが常態だ。

僕らは正しい答えが単純にぽっと存在し

ているつもりだから、煮詰めないで、

答えをいい加減に済ましやすい。

時代を通じて変化に揺れ動いている常識

が存在している人々の意識層というの

はその程度のレベルなのだと思う。

それは世の中を賢く渡るのなら、70%

くらいは大丈夫だが、万全を求めるに

はほど遠い。

僕らは他人と会って、すぐに相性みたい

なものを感じる感性を持つ。これは長年

の経験で鍛えられたもので、一代のもの

ではない。そして、第1印象を超えて

つき合い始めても、話が通じない人だ

とか、話のわからない人とか、親しく

なりたい人だとか、その人への評価を

する。これは何を示しているかと言う

と、自分との違いがどれだけ感じる

かを示しているのだ。

端的に、この人は自分ではない、と言っ

ているのと同じだ。自分と同じ自分に

これまでに一度も出会わなかったよう

に、それほど僕らは各人ひとりひとり

感じ方が異なっている。

そういう僕らが言葉で議論して尽くせ

ない自然や思想を相手にして、それは

その人と真実との切磋琢磨という処

に発見・出会う・真理というその側面

になる。あの人の納得とこの人の理解

とはかなり異なるものを指して、言葉

にしてもその内容の意味のそれぞれ

の分量・配合が違って当たり前なのだ。



僕らが読む真理ものというのは、そう

いう妙ちきりん(へんてこ)な思想と

いう概念の知識媒体なのだ。

だから、和辻哲郎などは偉いもので、

仏教を論じても、実際に自分も瞑想を

やってみることをする。しかし、巷の

仏教学者は言葉の仏典や資料に充(あた

る)だけで肝心の芯を突かない。

そして、言っていることがわからない

と、わからないことを以てして、ウソ

ばかり述べていると批判したりする。

何をか況(いわん)や、である。

それが世の中で横行しているつまら

ない本だ。



自然に体当たりしていれば、多少の

怪我で収めて、見えるものは見える。

そこで今までは考えもしてこなかった

見えないものがなにかという感触も

掴まえられる。

実際の行動に正しい感覚で出会った

ものを受け止め、それを思い出し

(反省)、あいまいなものがはっきり

するまでは、あいまいにしておくの

が正しい。

あとは自然に任せる。その感覚や習性

も自然に学べるものだ。

川を見る。昆虫を見る。植物を見る。

見ていて、見る、見る、見る。

見るうちに学ぶものがある。それは

言葉にすれば誰にでも通じるという

ものではない。現実にこだわらず、

夢だとしたら、夢のまま捉える。

それを現実に還元してはいけない。

それでは別のものに変えてしまう。





中高年を過ぎて。難しい哲学書などは

好きな人は(楽しめるから)別にして、

ほとんど無駄に終わる。一生かけて、

その対象の人となりがわかるくらいだ。

内容は3割も理解できればいいとこだ。

7,8割も理解したと思う人がいたなら、

それは自分の見方という狭い範囲での

成果になるだろう。真のものはものごと

の芯にあり、理解した論はなにか別の

(自分の)素材で作ってしまった模型だ。

そのために自分の人生を効率の悪い

他人から学ぶのはよくないだろう、

と思う。

もっとも偉い人はいるから、ヒントは

古典からゴロゴロ拾える。そして、

それでも最初の関門は自分の命で

開けなければならない。



:::
人間を理解するのは面白い、とても

難しく、闇を手探りするくらいに

手に触れたものが見えないので、見る

ように直感的ではないので、わから

ないことが多い。その分謎が多く楽し

める、とも言える。

神経が崩れるように正常な反応が

できなくなると異常者をつくるように、

少しの異常でも生活が変わってしまう。

昨日の午後から今日の午後にかけて

神経は少し、異常だったと思う。

僕は甘いもの好きだが、あんこ派で

チョコレートも好きだが、あんこの

ほうがよく買う。

ところが昨日は疲れたと思っていたが、

チョコレートが食べたくて、珍しいと

思って食べた。ところが今日も2枚

別種類の板チョコを買って、片方を

食べていた。

昨日、これから後になにかが起こる

ような予感がして興奮して、動くの

はた易いが、なにか落ち着かなかった。

そのうちに書くことにしよう。
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悲しみの恋と深淵から来る迎え [恋]

悲しみにはトーンがあって、それこそ

それが悲しみだという響きが来る。

言葉じゃない。

それがそうだと思える時。

恋心には惹かれる。

誰かがそうだと言うよりは、その

劇の進行に流れてくる香りのように

気づいてしまう。

人を 想う  心という  

恋心の 悲しさ 



なぜ恋が 狂気だと知って 

しまったのか 

目覚めることはない 無闇な

横暴さ 

それが 避けられない 

もしも

それが 楽しい恋で 笑い声の 

絶えない しあわせだけが 続く 

そういう恋ならば  

僕は  つまらなくて 

見向きも しなくなるだろう 

それが 僕にとっての 真実だからだ 

その側面を 味わった者には 

他の恋は  馴染みのないものに

なる の  だろう 

定義とかじゃないし  ルールでもないが 

恋は 残酷だ 

きちんと 相手を 選んでしまう 

そして 選ばれるものが  およそ 

決められている 

そして 

好きになるだけで  ほんとうに  

そうなのかは  知ることが できない 

死を 賭して 清算するなど  

誰も しないことだ 

僕らは 誰も  それに酔いたいから 

誰も 逃げようとはしない 



死をもって  引き裂かれた二人 

というのは  どうなるのだろう? 

その想いが  絶たれるとは 

思えない  

それでも その人が好きなのが 

あまりに 当然のことなのだが 

そうではないことを なぜかわかり 

別れと 再会をくり返そうとする

そして  また  

出会ってしまう 

その想いに 忠実なれば 

好きになった人も  死によって

そうではないことに 気づかされる 

そこに 

無意識の 奈落がある 

落ち切ることのない  深淵が 

僕らを  捕まえる 



人は 自分に  嘘をついて 

ほんとは 好きだと 

相手も 思っていると 

思いたがり 

そこを  避ける 

それは 醜いのに 

美しいと  言い聞かせる 

この仕組みは  体の組織に

太古から  組み込まれている 

だから  酒に酔うように

恋に酔い  

酒から 酔い覚めするように

目覚め  我に帰る日が 

いつか  訪れる 

僕には  それが 無意識の 

彼方から  やって来た 



そのつらい事実が 

つらくないと 教えられた

それが残酷な 目の覚め方

という ものだった  

夢を 見ていた と 

疑いようもなく 示された

あれだけ好きでも 

夢を 抜けて見れば 

未練もない 始末だった

明らかに  ふつうの他人に

なってしまった かつての恋人を 

どんな感情もなく 

見つめる  自分がいた 



40年も 密かに 心にあった 

恋心は  彼女のため

ではなかった 

想いだけが  続き  

そこに 彼女はいなくて  

それが 誰のためのものなのか 

わからないのだった 

そこには  トーンが 

響いていた 

間違いなく  捉えてしまう 

恋の  トーン

だった 

それは 

誰かのでさえ なく 

誰のものでもない

悲しみに  共通する  

なつかしい せつなさ、

人々のもの  そんな 

気がした 



それは 知らず知らず のうちに 

愛の墓場を  底辺の 

地中の根に して 

僕らの 楽園の夢を 

育てるようだ 

僕には  狂気の仇花に 

見えて 

騙されなくても 

騙された振りも できない 

そして  また 

色気の 化学反応に 

おかしな夢を 見て 

しまうのかも しれない 



恋には  

どんな 言い訳も 

できないみたいだ 



さらば  恋よ 

友よ 

そう言ってみたい のは 

自分に しがみつかれているからだ 

という気がするのは 

僕の 錯覚だろうか 

誤解 だろうか  

いいではないか 

悲しくても 

つらくても 

あきらめ られなくても 



僕らは  自分でつくった 

地獄に  落ちるのみだ 

そうでなければ  楽園の

夢は  できない 

人生の  芝居部分 

だからだろう 



落ちる 花でも 

花は  花だ 



花びらが  散る 散る 

悲しき  時の 流れ 

卒業は 来ないけれど 

卒業とでも  思わなければ 

さらばと  言えない  

せめて  

さらば  さらば  と 

せめて 



僕の この想いの 果てにいた 

人は  どんな 

人 だったのだろう 

この トーンが  

聞こえる夜は  とても  

眠れそうにない 



思い出そうとして

畳みかけてくる 後悔の

足音だろうか 

その やりきれない 

悲しみの  降り積もった 

すがる手 で 

僕の 胸を  

かきむしらない でくれ 

傷跡が 

また 

・・・・・・・・・・



なつかしい この50年の

苦しみ・つらさが 

悲しみに 染まって  

僕を  慰めるようだ 

水を 集めて 

僕に そっと  注ぐように 

僕を  

見守って 欲しい 

駅へと 続く 坂道を 

二人して  歩いた 

ただ 夢中に  時が 

過ぎた  



なぜ  祝福なのか  

なぜ  そうされるのか 

それが  わからない 



どうして  これほど 

愛されるのか 

どうして  

終わらないのか 

それが  わからない 



君が 信号を 渡るのか 

僕が 歩道橋を  渡るのか 

僕が  君なのか 

君が  他の人なのか 

そこに  僕もいたのか 

誰が  誰なのか 



わかるのは 

なにも わからないこと だけ 



僕らは  でも  

わかったつもりだ 

たしかな 

心の 痕跡は  

あるのに 

生に 夢中であるのは 

死を 認めないでいる気 

だからだろう 



街の 小さな 明かりが

散らばって  点々と

見える  

その家々に 人が 

寝ているとは 

想像してみると 

蚕の繭のようで

見た目と  あまりに違って 

信じられない 

信じられないよ 



あまりに  

あるがまま じゃないか 

そのまま

空気にも  やさしく 

寝息 おだやかそうな

そんな 僕らが  

いる じゃないか 



君が ドアを 開ける 

閉める 

次は  僕が  

ドアを  開ける  閉める  

これは 儀式じゃない 

ドアというものが  あるから 

ないと困るから 

君は  ドアに  挨拶もしないし

愛想もないだろう 

僕は  ドアに  挨拶はしない 

ご機嫌も  伺わないだろう 

それでも  

僕は  ある  

ドアは  ある 

君は  いる 

この 堅い掟は  

僕らが  作ったものではない 

あるものが  ある 

起きてから  

寝るまで 

それも 僕らのものではない 

僕らが それに 寄り添った、

合わせた 



なぜ 

生きるため  

どうして 

体を 動かすため 

僕らは  どこから 

路傍の 石ころよりも 

価値があると 教わったのか 

どこから 

それが 正しいとか 正しくない

とか  考えるようになったのか 

この世の  何もかもが 

そういう 疑問に 

耐えられる のだろうか 

どうして  それが  愚問だと

言い切れるのだろうか 



恋心を 書き綴った 

ノートも  いつかは 

閉じて 

折り畳んでしまう 

そんな日が 来るの 

だろうか  



君よ 

親しい この世よ

新しい  生 たちよ 

夜に 生まれる ものたちよ 

これが 

・・・・

祝福 だったのか 


命を つなぐ 

命を  そろえる 

金糸 赤糸たちよ 

縫うように 

世界の 絨毯が  暗い彼方まで 

広がってゆく 

見晴るかす  白い 虹 

どうやら 

夢のほうから 

やって来てくれた  ようだ 



 



               3.17



ツバキと花瓶2-1.jpg

ツバキは少し、遅かった。だが、これが

始めの花瓶のイメージだった。

負けてる、、、

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自然の条件と言われるもの [自然]

だんだん書く気が失せるのがわかる。

投稿よりも書き終えた記事のほうが

増え続け、7つも8つも溜まって

しまうということがなくなった。

言いたいことはほぼ書いたからだが、

それでもすべてを網羅して書いたか

と言うとそんなことはないと、細か

い部分はまだまだ残っているから。

テーマ別には随分と残してしまって

いる。つまり、それを書くには下調

べが必要でやたら時間がかかるので、

ブログにはそうそう落とし込めない、

となる。



興味が毎日変わる相当な気まぐれを

有しているので、一つのまとまった

ことは自分でも自分に期待できない。

誰かがいずれ書けばいいとも思って

いるので、余計に夢中になれない。

非常な、もの好き、で好奇心旺盛と

来ているから、新しいテーマを追っ

ていたら、陽は沈まないだろう。

気づいたら、夜だったとなる。

なので、今夜もまた深くなるかも

しれない心には描かれているテーマ

を書いてみよう。


ひとは死を恐れる、という普遍なテーマ

だが、いつからだか僕には無縁のテーマ

になった。自分という偶像は生きてい

ない、そこから生きていると錯覚され

た自分が死を恐れるのは十分に自然で、

確かなことだとわかる。

自分が恐れるのは「無」という闇で

そこから無価値や無名声や無評価を

残念に思い、そういう自分にされるの

を恐れる。死はその最大のピンチだろう。

それは自分を大事にする人は誰でも

逃れられない関門だ。

何の関門だ?  人生の関門というの

に、相応しいのだろう。

仏教の難点はその修行の段階で世間と

は疎遠になるように清貧の生活(出家)

を強いられるので、そのままだと生きた

ミイラを目指すほどに、死のオーラに

取り込まれてしまう。死を恐れない

どころか、感性を失くすので、死にた

いと思い始める。自分を失くすことを

していると簡単な哲学原理や科学理論

とか、そういう確固として見える(人間

がそういう風に造ったのだから、当然

なのだが)概念や宗教を信じやすくなる。

それを避けて自分という概念を突破する

のは強い自我を必要とする。それは自分

ではなくそれが現れているためのエネ

ルギーである。

自分という概念存在を突破すると、その

後は自分を支えていた社会概念が無く

なることを示しているので、とても

精神的に不安定になる。それからが

第二の関門になる。


もどってみる。

その前の第一関門、その前には死を

恐れる状態が続く。人から評価され

なくなったり、劣っているとされたり

することがプライドを非常に傷つける

気がする。

第一関門は自分を失くすことにあるので、

そこでは自分が無価値であることが何の

こともなくなる。つまり、それについて

心が抗わなくなるので無頓着になり、

またその気になった心からは世間の社会

的評価・価値ではない命の意義について

(目を向けるようになる)経験を得る。

これ自体は自分の死への恐れに対して

効果があり、畢竟死は無であることを

受け入れることができる。


心はこの時あると言えるのか、言えない

のか、僕はその人の意識次第だと思う。

最低、自意識は超えないと、そういう

経験はできない。心が思ったよりも

頼りないと感じるのもこの時だろう。

想像力は言葉ではないから、その人の

想像力が現実に即して想像が実際に

行えるのかについては、何とも言え

ない。

ライアル・ワトソンだったか、あの人

はそれについては信用できない。彼の

知識は素晴らしいし、科学と非科学の

境界を探るというテーマはいいが、彼

自身は直接は何もできない。

焼けた炭の上を速足で歩く火渡りでは、

記憶を失くして、ホテルで我を取り

戻して、足に炭のカスがついている

ので火渡りはしたのだろう、と自分

を胡麻化している。それは殺人犯が

ドアの向こうにいるかもしれない、

という現実の場面でも、記憶を失く

して家だか、どこだかに逃げ帰って

いる。自我エネルギーが現実に耐え

られないのは、しかたない。自分で

もそれを認めるかどうかは、別として。

彼の集めた事例はテレビでも紹介さ

れたらしいが、本もそういう事例は

面白いので楽しめる。



体は死を恐れるか。恐れはしないの

だろうが、死を感触すると、すぐ

さま対応して、ハイになったり気絶

したりする。

哲人だが、インドでは聖者と呼ばれる

J・クリシュナムルティは覚醒者で

瞑想を極限?までした人だが、もの

ごとに向き合うので、簡単に気絶する

人だったらしい。体の反応は心では

制御しがたい。

僕は50mのバンジージャンプを7,8

年前にしたことがあるが、飛び出して

からすぐに意識を失った。紐が全部

伸びて、1回くらい弧を描いて揺れ

始めた時に、気が付いた。3,4秒の

気絶だった。下で待ち構える、紐を

外す職員も誰も気絶に気づかなかった。


死を恐れることについて、人は知識

では対抗できない。どんな神秘的な

体験やスピリチュアルもその後に

言葉で概念的に閉じ込めることが

できるが、それは見たものをモルタル

で自分の印象として壁に塗ったような

もので、別なものを表現してしまった

のだ。他の人にはその人の体験があり、

それは別な色や感覚が盛り込まれ、

出てくる事象も違うだろう。

現象の経験、その神秘、幽霊やUFO

などの事象を見たり聞いたりしたのは

確かな事実でも、それは心理的事実

で、見る人によって変化してしまう

事象なのだ。違うのだが、同じテーマ

を見ている。僕らは自分が確かに見た

のだから、絶対だと思い込みやすいが、

それは相対的な経験で、自然はそう

いう働きをするものなのだ。

犯人を見たという目撃証言でも随分

異なる、矛盾した証言が重なるらしい。

思い込みは自分が誤っているのでは

なく、自然な状態なのだ。だから、

裁判のように客観的な証拠が重要に

なる。

僕らは直感に頼り過ぎる傾向がある

のも事態を複雑にしている。

また逆に言えば、事態が複雑になる

のがよくある一般的な事態なので、

異なる意見が噴出して、言論が発達

する余地があった。



死を恐れないということは、考えて

みるとわかるのだが、実際にはそう

いう気持ちにならないとそう「考え

る」ということさえできない。

死を恐れずに自分の心身などの安心

を得るとはどういうことか想像できる

だろうか?

そこから違ってくるのは明確なことだ。

そうなってみないと、理解には及ばない、

だから日常の環境で人が社会から断絶

されずにその気持ちになるのはほぼ

不可能だ。

生活への不安が極端に減ってしまう、

その気分のことだけヒントに言ってお

こう。

不安自体はなくなりはしない、それは

この世のあり方からしてあり得ない。

ただ不安に応じない心はつくれるので、

時に応じて無視してしまえるほどの

不安がいつものように生じるだけで、

それに囚われない。あればあるでいい、

なければないでいい、いろんな条件

を見据えてそうだと思う時、なるよう

になるのが見えるだけだ。その時に

なってみなければ、どれだけのことが

できるか、しなければならないかが、

わからないし、またそれが見える。

あとはそれに従う。自然とはそうした

ものだ。

心が無になったり、闇になったりは

ないが、そうしたものに適応ができる

ようになる。適応しさえすれば、ほぼ

不安は寄せつけない。

中国の荘子があれだけの気宇壮大な

心をもってしても政治に参加せず、

自分は泥の中にいるほうがいい、と

言って山の中に引き籠ってしまった

のも、ただ気楽に気儘に生きたいと

いうのが彼の望みだっただけだ。

参加するもしないも、その人の

望むがままだ、社会を客観化して

見ることで、その人がどう行動す

るかは、まったくその人まかせだ。


悟得というのは、自由な生き様を

体得するので、一見社会に反する、

または対抗するような場面に見え

もするが、ただ世界は人間社会中心

を超えて広がるので、生きるには

生活のカテゴリーが広く伸長して、

その中から自分に合うものを選ぶ

ようになるということだ。

自分の国を離れて海外で暮らすこと

を選ぶのならば、その国の風習・

習慣・制度によって生き方はまた

変わるだろう。

日本人を選ぶなら、きちんと税金を

収めるだろう。 笑



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生きる意味 メモ [生きるわけ]

< 絶望と生きる意味の絶対矛盾の

自己同一(西田幾多郎流ぽい)はある?>



この世の意味がなくなってゆくのは

まだ、いい。

それは同時にこれまでよりも書く

ことが無くなってゆくこと。

そのうちに書くことに飢えるよう

になるのだろうか。

意味を感じるのは、意義を感じるに

通じている。それは自己肯定感・

自己達成感・自己証明につながる

のだろう。この世になんらかの

自己肯定を与えているからだと

思えるが、

そういう浮ついた観念世界のベール

を剥がしてしまうことは、現れる

不安はどういう弊害をもたらすのか。

実際にもたらすのだろうか。


僕にはなにが気に入るのだろうか。

政治ドラマ、工作員・スパイドラマ、

明るい冒険妖術もの、自然の脅威の

ビジュアルな映像、動植物の奇妙な

生活、その記録、

しかし、自分は最後にこれにはまって

間違いなく、モノづくりの道をまっすぐ

進むだろうと思っていた、この50年の

隠したものづくりへの意識は何だった

のだろう。

秦野の教室に行かないと、家では何も

しないというのは、まったくの予想で

きない出来事だった。

買った道具はほぼそのままデスクに

置かれたまま。こんなはずではなかっ

たのに。

ものに向かう時とことに向かう時

ではまるで異なった感触を持つ。

そこでは世界は分裂したまま、夜

の闇に広がり行くという川の流れ

を思う。どこにもいない僕を探そ

うとは思いもしない。それは心配

ない。

両方を統括するとか、とんでも

ない計画を真剣にならなければ。

それぞれはひとつの方向なの

だろう。

そういったもの・ことを鳥瞰しよ

うとするから、現れる不安であっ

て、その日その日に任せてしまえば、

生活が解決してくれる。


手でさわれる壁がある。雨を凌ぐ

窓がある。ここは家という建築物

で僕は意識せずに守られて息を

してきている。それだけで、なん

と文学的なことかと思ってしまう。

窓を通して、街の外界を見ることが

特殊なことだというのを、忘れて

しまう。

だから、野良猫の気持ちなどは

わからずにこれまでやってこれた

に違いない。幸福なモノの形式に

育まれたという考えを知らずに、

生活は当たり前だと思っている。


今の生活様式を捨てる必要はすぐ

にはないだろう。それでも昔の

生活の意識にもどってみる意義は

ありそうだ。僕らがなにかを変え

たい時はなんらかの過去の原点を

知って、そこからの転換に意義を

見出そうとする時だからだ。それ

は全体への意識に目覚めるから

だろう。


世の中にあふれる映像文化、風俗、

ゲーム文化、服飾やアクセサリー

の趣味文化は楽しむためにあるの

だろう。積極的に自分が楽しむの

がいいだろう。だが、それだけが

自分を慰めるという消極的で受け

身な生活で、「その慰めがなければ

生きられない」という自分の背中

ばかり見るのなら、それは自慰で

あって精力の無駄な浪費に思える

のだが。

それでは嫌々、仕方なく生きてい

ると思えないだろうか。

僕らがその状態に慣らされて

しまったとしたら、それはどうい

う訳か、または誰の所為か。

そう考え得るなら、僕らは自意識

を正常に戻すことをも考えた方が

いいように思える。

すぐにすべてをわかろうとするの

は性急だ。すぐに行動に移ろうと

するのも気が早い。

日常にそれを掘り返して、発見し

て行く方法もある。それにも準備

が要るだろう。


生きるのは、僕らが生きている状態

のこと(生活)がそこに広げられて

いる、平たいものではない。

生きようとする気になることだ。

常に発生する問題に向き合うため

に積極的な、消極的な、また少し

進んでは少し戻るという、常に生き

ようと前を向く平常心になることだ。


ぬかるみでお互いに協力しようと

か、慰め合っていても、いつまで

も涙で濡れてしまうぬかるみからは

脱け出せない。


愛は与えられない。神も恋人も、 家族も与えてくれないし、そこから は始めることができない。恋人は

結婚してほしいからだ(女)し、

セックスしたいからだ(男)と

いうのが、普通は半分だが、恋愛

に慣れるとそれを利用し始める。

それはそいつらに距離を置くこと

で、絶対に会わない。その余暇は

そいつらにまかせておけばいい。


少しでも人を愛する。それをする。

愛は作るものだからだ。愛を育て

るのは初めは我慢しかないと、

愛を燃やし尽きさせてしまうと、

それがわかる。ベースになるもの

は貯金のように始めの相当の金額

になることが増やす(育てる)条件

だ。


だからそうなのだ、生きる意味は

ぼくらがそれを作る。それを作り

続ける。そうしてこそ意味が生ま

れる。宝くじやギャンブルで一獲

千金に得たものではダメなのだ。

僕は考える、どうしてダメなのだ、

手っ取り早くていいではないか、

と。不思議だと、思う。自分の

生きる「気」を込めたものでない

となぜかダメなのだ。これは長く

生きると実経験上わかる。痛い目

に会って、わからされる、何度も

何度も何度も。


意味を作る、というのはどうも

そういうことらしいのだ。単純な

真理だが、抗えなかった。

僕らはつくる。子供を、愛を、生活

を、習慣を、それが健全に感じら

れれば、恐らく怖いものはなにも

なくなる。そのことも単純な真理

らしい。これは僕ではなく、歴史上

の意味でも過去の人の意見でもあり、

世間での意味でもある。だから、僕

は通常では書かない。


今は過去を吐き切って(書き切って)

スッキリさせようという時期なの

だろう。       2.24




<カスを社会の壁につぎはぎする
      犬や猫やネズミの群れ>

道を歩いている そういう夢 

だから どんな道 でもいい 

歩き続けて  疲れ続けて 

それでも 歩いている 

そんな夢だ と思っていたら 

それは 人生を  オーバー

ラップさせたものだった 

歩いていると  どんなに 

長い旅だった としても

もう 過ぎ去ったこと 

そうだったよ という感慨が 

あるだけ 

それなのに 夢は 儚くならない 

まだ 人生を  あがいている 

なにかを  求めている 

たとえ 今が しあわせだとしても 

そこに いられない 

そして 恐ろしい事実に  気がつく 

なにもないものを  求められないことを 

そして  雪が降る ように 

僕は  粉々になり 

いくつもの 雪のように  

地面に 着くまで ゆっくり 

舞い降りて 来る 

その僕を 

道を歩く 僕が  見上げる 

空から落ちる  雪片は 

まるで  しあわせの 

理由であるかのよう



理由が 

ああ

理由が 



落ちてくる 



僕の求める 答えに 

応じるかのように 


理由が 

空から 降って来る 



絶望が  母のように

僕を  癒してくれる 

孤独が  僕の前に 

未来を  押し広げて くれる 

僕には  

僕の 力を  使う理由が 

必要だった 

戦う 訳が  そのまま  

僕を  歩かせる 



これが  人間の 戦争をする 

深い理由(わけ) なのか 

絶望と  孤独とが 

それぞれの 人生で  存分に

深すぎることが

戦う由来となって  押し進める 

命の  理由(わけ)

なのだろうか 

結婚が どこかで  男と女の 

戦う理由は  ここからでも  

あるのだろうか 


意味のないものだけが 

僕らを  力から 戦いから  

遠ざける 

無価値な ものに対抗して 

僕らの 戦いの大義は  あるのか 

力という 場所や時を あるい価値を 

得るために  大いなるエネルギーの  

高揚や消費が あるのではないのか 



僕らは  そうして  生きるために

殺し合わねば  生きることのできない 

動物 なのだろうか 

どんな 平和の祈りも 

この 流儀のために 

流され続け  そのカスだけが 

残った 


僕らは 民主主義や  平和や

ロマンや  自由という

欺瞞や  虚偽という  

カスの レッテルのために 

本の表紙を  飾るために

社会を 築きあげてきたのだろうか 



誰か  教えてくれ 

そうではないという  答えを 

僕らの エネルギーが  

地球の  そして 地球から 

どこへ  向かっているのか を  

                                  3.1-2



< くり返しの木霊 >

だからそうなのだ、生きる意味は

ぼくらがそれを作る。それを作り

続ける。

意味を作る、というのはどうも

そういうことらしいのだ。単純な

真理だが、抗えなかった。

僕らはつくる。子供を、愛を、生活

を、習慣を、それが健全に感じら

れれば、恐らく怖いものはなにも

なくなる。そのことも単純な真理

らしい。これは僕ではなく、歴史上

から抽出されるという意味でも過去

の人の意見でもあり、世間での意味

でもある。だから、僕は通常では

書いていない。



人々の全体も   社会の全体も

流されて  歩き続ける  



カスを見る人も  カスを絆に 

見る人も 見ない人も 

この旅は  まだまだ 続く

そういうことらしい。

           3. 2
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