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心の切り替えシ ✙解題 [瞑想]

心の切り替えシ  (昨年、11月17,18日の記事)

舵が取れない。  

元気にはなった。体はよいが、精神はいまいち 

不安定。それがわからないので、苛立つ。  

そのバランスにおいて、不可能はない筈とさえ 

思えたのは、数ヵ月前までのこと。強固な地盤  

と思えたが、それは思い違いだったらしい。 

まさかと思うが、自分にも支えがあったし、それ  

に気がつきもしなかった、という推測が成り立つ。  

それは最も望まない状態だったのだが、検討 

しなくては、 ・・・。  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、、、、

J・クリシュナムルティが浮かんだので、彼のこと 

を連想を始めた。彼について彼の正当さについて

は正しいが、それを見当違いに批判している

ラジニーシというグルを名乗る男がいるが、その 

連想をしていて、ふと前を見ると、自分がいた。 

鋭い目で睨んでいるが、僕ではない。色がかなり 

浅黒く、印度人のようだ。同じ自我の形をして、

強い。

同じ自我を持っていると言ってもいい。鼻がつく  

ほどに近い。見ているうちにわかった。これが 

答えだった。8分かかったが、答えはすぐ出る。

自我の増長、膨満だった。宝くじが当たったように  

自分のしたいことが異常に膨らむので、周囲の 

意に沿わないことが急に気に食わなくなったの 

だった。(大体、理想を主役にして現実を比べる) 

お馴染みの答えだったので、少し拍子抜けしたが、 

何百度も通過(経験)してきたことだった。それから 

3,4分だろうか、すべては収まった。・・ 暗くした 

部屋のLED照明を点ける。 

そうやすやすと新奇の謎は現れてくれない。

ちゃんと復活・蘇生している。微調整が必要だった  

だけ。こうして、また夜は平穏さを取り戻す。


解題::

書くこともなくなる。それは心の静穏なのだろう。

昨日のブログ記事の解題として ―::

<考えと瞑想の仕方>

解題が必要かどうか、しかとはわからないが、 

このブログは1年ほど遡って所々ポイントの例を 

読まないとわからないことが多いと聞く(実際、

聞いたことはないが、笑)

まず理解しがたいのは何百度も経験して、 

それがすぐに気がつかないのはおかしいだろ、 

ということか。心が相手にしているのは自分で

あるのが多く、その背後には必ず自分がいる。 

これが相手が物象であるなら、目の前に見えるし、 

どこをどうやればいいか、手や道具や機器で

試すことができるが、心はそうはいかない。

自我は自分を隠すのが商売のようなものだから、 

うまい。始めから考えようとすると失敗する。 

それは表面的な因子は見つかるかもしれないが、 

真の隠れた因子はそこには出てこない。

僕も自分が気がつかない支えを隠していたんじゃ

ないか、と考えたのも、そういう自分というシステム 

が備える、自分には見えない事情による。その

まま考え続けても答えが出てこないのは知って

いる。 それで半瞑想状態になり、イメージの

流れるにまかせ、それから因子を探ろうとした

のだ。

僕らは答えは考えて見つけるものだということ

に慣れているし、そればかりなので慣れ過ぎ 

ていることを忘れてさえいる。それで最初から

抽象には適応しないと知らず考えてしまう。

答えは問題が正確にならないと、正しい答えは 

導けない。そのためにはそのものの、つまり対象 

の現象なり、物象なり(ものごと)が はっきりして 

いなければ、いくら考えても堂々巡りするだけ

なのだ。眠れない。

ところが、心の事象はすべて抽象的でイメージ  

でしかないから、知が扱う概念や観念と同じ 

架空のものに過ぎない。そこで始めから考えて 

しまうと、架空のものを仮想で整理しようとする

のだから不適応、当然、うまくいかない。 

地図やマニュアルや案内本、技術書などその手 

の本が役に立つのは考える対象が、確実に 

そこに在るものだからだ。 

僕が半瞑想で突き止めたのはその真の対象 

だったのだ。それはそれなりに訓練の期間が 

あったからだ。よく使う例をまた出すが、自分 

では慣れてしまったので気づかなかったが、 

これはコツとか極意のようなもので、体得する  

ものだ。子供に自転車を乗るのを、まず「自転車 

を乗るために」とかの本を読ませる親はいない。

後ろで支えているからと言って、子供にいきなり 

自転車に載せる筈だ。そうして覚えるのが、

自転車に乗るという、体のコツだ。考えていては 

いつまでたっても乗れない。 

心の悩みはこれとよく似ている。だが、対象は

心だ、厄介な相手だ。体の動きを止めて心の

動きも止めてしまい、その状態で、知の働きも 

止めてしまう。考えない。これらがまずできる

ようになるのが第一段階。 

ここから小さなトラブルが出てくる。心のゴミ 

掃除が済んでいないからだ。それが済むのが

第二段階。

次にふつうは瞑想に入いる、というが、正確

には瞑想が入いって来やすい心身の状態を

保つということ。雑念が残った状態では、

来ない。それでも心が落ち着いたりするかも 

しれないが、それは心の体操に過ぎない、

健康管理の一環だ。

瞑想は待たずに待たなくてはならない。

結果もない。五感は消滅、神経も静止の状態

で目に見える結果を期待するのは見当違いだ。 

だが、続けていると、やがてどこかで自分が 

変化していることに気づく。それは深い部分 

なので、ふつう気づかない。徐々に目覚める 

ので、結果(答え)を早くに期待する僕らの習慣 

には沿わないし、馴染めない。これは自分を

ほんとうに変えたい、変えねばならないという 

動機がある人向きである。その他の人は 

イメージ瞑想で心のトラブルの因子を探す方が

役立つのではないか。

瞑想の可能性でなにかをなさんとしてしまう人 

は、深刻な問題に立ち向かうことになりやすい 

だろう。あまりに少ないので、危惧することもない  

のだろうが、 ・・・・。



::
瞑想は落ち着いた静かな環境を必要とする。

寒くなく、暑くなく、整え、座る。

背をまっすぐにと言う、と大抵の人は背中に 

どこか力が入っていて、座していて、疲れる。 

重い頭をストンとのせる座し方があって、それ 

を調べるといい。長時間でも疲れない。

ろうそくの炎とか鉛筆を立てたりとか、それを

見つめることで、最初の集中をする。眼を

開いている人もいるし、閉じる人もいる。

ポイントは頭上が天を向くこと、足は裸足で、 

気を通過させること。慣れれば、それ以外は

形式化してしまうので、どうでもよくなる。 

足組も痺れなければ構わない。結跏趺坐 

とか崩してもいい。

電車の中でも、雑踏でも、僕らが経験する 

ように一瞬で瞑に入り、数瞬で出てくる。 

どこでもそれが可能になる。大抵、初めは 

気づかずにそれをしている。なぜなら、それ 

は自分の根幹に関わっているから、根幹

から自分を変えてしまう。  

瞑想で心の闇を恐れる人は多いのでは

ないか。そんなにすぐには(数年とかで)出て

こないから心配もないと思う。

それを見れるくらいなら、もうそれに相応

する素晴らしい世界・現象を見ている筈だ。

僕は最初吐き気がして3日は不快だったが、

死にはしない。闇はまだ近年のことだ。

深い瞑想を控えればいい。たぶん、そこまで 

行かずに、心のゴミ掃除の初期段階でただ 

気分が悪くなるくらいは出るかもしれない。 

自分の身から出たこれまでの社会事件で

犯した間違いや、誤解、争いで見たくなくても 

我慢しかない。見続ければそのうちゴミも 

出てこなくなる。引きずられずに傍観して

やり過ごすのが、コツだ。

 ― 以上。


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原始の夜 2.(つづき) [瞑想]

(つづき)

瞑想をする、または来るようにする、来てもらう、どれでも同じことを言うが、無念無想を

目指さずに目指す、という逆説的なことをしなくてはならない。そうは思っていなくても、

やりにくいことは間違いない。今までの経験にはない、しかも習慣にはないことをする

のだから、とまどいがある。そうして、決心して目を閉じ、坐ったとすると、始めは心の

内面に沈み始める。これも感覚にはないから、そうだと考えているに過ぎないが、それは

集中することに似ているが、実際は解放することだ。僕らは日常でなにかしら身構えて

いる。時間の観念があるから、常にあと1時間後にする予定とか、明日はなにかをプラン

しなくては、とか。気にかかることは7個以上はあるだろう。考えないことはそれらを気に

かけないことだから、始めは日常のそういうことが意識に上ってくる。で、まずそれらを

忘れる、と。そういう意識の上澄みを通過して、深くなると、次第に今までは日常で気にも

しなかった事象が出てくる。事象とは単なる記憶ではなく、感情にからんだもの、感覚に

強く印象したもの、映像や気持ちに根差した今までは(自分が)見ようとしなかった、嫌な

もの、それが見え始める。僕らは心の中を覗こうなどしない、普段の習慣の中でそれらは

実は見えない隅っこなどにため込まれている。人によっては、それがすぐに見えてくる。 

それは忘れようとしてため込んだ、特別な記憶なので、まず思い出そうとしないので、

忘れている。それが出てくるのだから、気持ちは何事かの反応を迫られる。反省するかも

しれないし、その挙句に自己嫌悪に陥るかもしれない。そして、泣いてしまう。そういうもの

はそれでいい。が、それを一度で済ませることが必要。ひととおり見終えたら、感激し

終わったら、それをそのまま終了する。なきものに、決定してしまうこと。一度めげて、もう

瞑想はやめようと思っても、その決定を心に予約しておけば、次の日に坐ってそれを確か

めた時には意外に気にしないで済むことに気づくだろう。それでもそれが強く主張してくる場合

はまだ付き合う必要がある。しかし、次第にある程度で収まるようにはなる。

そうしたら、次へ進む。なにかを期待しているのに、僕らはそれを意識しない時がある。その

場合がやっかいで、本人が気づいていないので、瞑想の御利益かなにかを、求め続けること

になり、瞑想が決して起こらない状態を続けることになる。お分かりだろう、なんの期待もしない

状態に戻すこと。どんな名僧の瞑想(やり方・場所・座法・季節)も真似てはいけない。その意識

の下には、悟りへのなんらかの期待が潜んでいる。

ここで瞑想の基本に注意が入れられる。瞑想の基本は僕らの内面に沸き起こるさまざまな

過去映像や感情がどんどんとやって来るが、それらを通り過ぎるに任せることだ。なにもしない。

反省も見直しも、見据えることすらしない。ただ流れゆくそれらを、その流れるままに見続ける

ことが肝心だ、ということ。それならば、必要なのは、気が散らないだけの閑静な場所、結跏趺坐

も必要ない。それは後ろに倒れないために編み出されたもので、単なる坐り続ける技術のこと。 

横になると、習慣から眠ってしまうので、それは避けた方がいい。体の緊張がどこにあるかを意識

してみて、そこをリラックスさせる。感覚は閉じる必要はない。聞こえるなら、聞こえるにまかせ、

かすかな匂いも匂うにまかせる。やがて、意識が掴みどころをなくして、体は、脳は体が死にかけ

ていると錯覚する。その考えもかすかなものになる。  

はっと気がつくと、自意識を失っていたのに気づく。記憶も何もなく、時間が過ぎていた、これが

瞑想だ。  

そこまで行ったと、仮定しよう。はじめはそれだけで、なにもない。瞑想した、どうも来たらしい。

それだけで、なにもない。それを5,6回も繰り返すと、何が違っているのか、わからないが、なに

か変。同じものを見て、感じ、はっきりと変わったものはなにもないのに、なにか違う感じがする。

と、僕が案内できるのはここまでで、あとは人と比較しても幾分同じだが、異なる何かがある

だろうが、それは僕にも、あなたにもわからないものとして「ある」。のだから、すべての詮索は

役に立たない。 

なぜそうなるのかはわかる。僕らは例えば、耳のいい人もいれば、眼のいい人もいる。それを

役立てて、芸術や技術に応用できる人もいる。それぞれが自分の得意分野によって、世界の

見方が変わるように、瞑想はその人の持ち分に応じてしか、なんらかの隠された力を引き出す

ことはない。それは力というよりも、センス・感覚というものだろうと、僕は想像する。だから、

この先はあなた次第でどうなるか、なのだ。  

ということで、瞑想の基本が伝えられたのならば、あとは実践しかない。そして、瞑想からの先

は、僕は僕の超個人的な感想に終始することになる。  

もう一度くりかえすが、瞑想の来ない時は、あなたの自分という心の準備が整っていないこと

で、それは気持ちとかの準備ではなく、あなたが見たくない自分の心のため込んだゴミという

過去が掃除できていないから。決着をつけるかどうか、他人のそれぞれの事情なので、意見を

言うことはできない。瞑想が来るようになってから、その問題がはっきりした、ということもある

ので、そのゴミはすぐに片づけるどうのとは、言えない。そういうものは社会的・人間関係的な

事柄なので、人に相談することができる地合いのものだ。なので様々な方法があるはずだ。

あとは、子供ではないので、勝手にやってもらいたい、ここは能動的に。

瞑想は能動も受動も捨てて。

 
坐るのに慣れてくると、脳は体が死にかけていると、錯覚するのは述べた。その時に、瞑想

ハイになることがある。これは瞑想体操のようなものだが、瞑想が来ても、続く。

僕はこの体の死への準備運動としての(死の苦痛を和らげようとする)快楽システムと、実際に

意識のない瞑想状態での自己内の未知の感覚による、なんらかの接触による未知の関連が

起こっているのだが、それらの関係が僕には未解決で明らかな説明ができない。これからも

できないと思っている。それは誰もができないというのではないが、人間という生物的・心理的・

意識的な心身の機能を鑑みると、とても簡単ではない、と思う。

例えば、瞑想をよくしても激しい危険性というものはないが、(瞑想ハイの反動なのか、わからない

が、)死ぬことを恐れなくなり、その状態のままだと、つまらないことと引き換えに自分が死んでも

いいという感覚になる。生を粗末に扱う衝動がある。それを静かな危険性というのだが、日照りで

村の飢饉になった時などに村を救うために、生きたまま餓死してしまう即身仏になった僧侶がいた

が、大乗の人々(衆生)を救うという思想にこだわらなければならなかった、信仰の犠牲のようなもの

だ。が、死に慣れ親しむと、一時的に生を軽んじることが起こる。それは感覚を失うことのひとつ。

そうなった本人には、それが実感なので、そういう神頼みのようなやり方ではなく、生きて工夫

するやり方を見つけなければならない、とそういう風に考えられないのが、死に染まった人の

欠点だ。まだ通過点なのだが、そういう終末観を越えてゆく、その気力を感じることができない。


始めの瞑想体操でも、ショックを受ける人は心的なエネルギーに欠ける人だと思うので、瞑想は

やめるだろう、と思うし、それでいいと思う。この生と反対の無運動は過酷な自我エネルギーを

必要とするので、学校の学科でやるようなものではないと思う。昔から、(空海とか実例だが)

3度自殺しようとしてその都度助かってしまったという人は、生きる理由を求めて、その強い動機

に促され、自然にこの方向に入ってくる。入口は仏教かと思うが、日本に正しい仏教は入って

こなかったし、中国にも入っていない。入ったのは、ブッダが亡くなって数百年もあとに生まれた

大乗仏教というもので、謂わば仏教を”哲学として”完成させたものだ。

日本で悟った人は、すべて自己流になったが、それでも悟れたのは、瞑想が導いたからだろう。

そこまでは導かれてゆくのがいいと思う。その先は道などなにもないのだから。

そして、ブッダはこの悟りを法(ダンマ)に準じて生きるための第一歩と考えていた節があることだ。

つまり、悟りはよりよく生きるための覚醒の方法の一つだと思っていたのだろう。そこからなのだ、

新しい道を歩みだすのは。悟りを得た弟子には、一人で行け、と送り出している。世間での実践が

それからの修行の場なのだろう。即身仏になることではない。

瞑想の経験から(自ら)想像される(この世を俯瞰で感じれる)感覚がある。その感覚による、

これが僕のブッダや仏教への考え方だ。宇宙とか、神とか、心霊とかの言葉でスピリチュアルな

経験に依存したり、惑わされないでいたならば(人はなんでも自分の見たいものを見てしまう能力

がある)、自己喪失の体験は、いろいろな意見をもたらすはずだ。言葉で表現する、とはそういう

ことだからだ。

超能力じみた力があっても、新興宗教を興して悪さをする人もいる。それは人間の「生」という

実態を「死」から比較するのではなく、社会的な権力や利益のために行うのであるなら、それは

不正な政治家や実業家と変わることはない。それはすでにこの世にあるもので、この世に比較

するものはなにもない。見えなければいけないものは、ほんとうに見えないからだ。それが

映像視野という感覚を通すものではないから。

瞑想という言葉も、本来、瞑想のためにはあってはならないものだ。




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原始の夜 2.瞑想 [瞑想]

夜というものが自然とともにある時、それは太古の形をしている。それは人間の文明という

雑音がない状態だからだ。文明以前とは、僕の島の家よりも、まだ未文明であった、蝋燭

もない頃。僕はそれを夜の底のように聞く。深さを聴く。  

夜の底には”原始の夜”があるように感じてならない。


メモ::  

(今、沈思すること10分くらい、大きな謎のひとつに仮説が立てられたことを、再確認

していたら、以前考えていたことがつながって、愛についての誤解がやはりあったこと

に気づいた。まず、大きな謎の仮説の検証には、前々から言っていた中東への

視察旅行が必要になる。その場所が答えになるかどうか、結果が得られるかは

わからないので、今の予想では一応の検証にとどまる。    

次に、愛についての誤解は、しあわせの体験の誤解があることで、すべてが誤解とも

思えないので、しあわせの洪水のさ中と、そうではない感じ方との差異から、新しく

確認が取れそうな情報を沈思してみたい。)  ::   
 

ことは難しい。これから説明しようとする僕がそう言ってはいけないのだが、ブルクハルト

なみに奇妙な言い方になりそうだ。まず、瞑想について、再度説明の必要がある。それは

なんであるのか、が、まずわからない。だから、なぜするのかも、わからない。

似ている現象から :

日本でも3000mとか高度のある山岳に登ると、頂上の小屋とかで雲海に出会うことがある。

雲がモクモクと絨毯のように、山と山との間に敷かれているのである。雲の上の、しかも

地面の上にいながら、それを見れるというのが不思議だ。いろいろな季節に同じ山を

登ると、その都度、山は化粧を変えて神秘な現象を見せることがある。冬の登山は

最も危険だが、雪と氷に覆われた山界は僕らの想像を超えた景色を見せる。命がけ

で登っていて、緊張も半端ないので、まず見逃さない。そして、そういう時こそ、感覚が

全解放されていて、僕らは無防備に感動してしまう。この無防備さが重要で、体も

思考力が弱くなるほどに体力が消耗している。それで見たものが潜在意識にまで

到達してしまうのである。それは無意識に、ということだから、本人はいつもの日常で

のようにいいものを見た、くらいにしか思わない。だが、もうその神々しさはインプット

されていて、山を降りて、ほっとして体力も回復すると、すぐに頭をもたげてくる。  

まだ帰ってきたばかりなのに、また山へ行きたくなるのだ。   

これはすばらしい景色に限らない。感性の強い人がそういうものに感動した時も、同じ

ように花とか、陶器とか、ガラス工芸とか、絵画に一直線にはまってしまうように。その

感動の強さによって、それが一生の行動や仕事を左右してしまうことも、まれではない。
   
登山は頂上まで、その行程は苦しみ以外のなにものでもない。それでもそれを思い

出さずに、何かわからない力(潜在意識への刷り込み)によって、行きたい、と強い

られるのである。ソワソワと、心浮き立つのである。

瞑想だった。
  

「瞑想は何をするのか」、と僕が問う。と、「左のカッコ内の文」を読んで疑問を感じなけ

れば、これを読む必要がある。もちろん、それについて新しい情報を知りたい場合で、

それに自ら考えるべく検証を加えつもりである場合も、である。

まず、瞑想ではないものは瞑想体操である。毎日、足を組んで座り、静かにする、

というのを日課にしている人がいるかもしれない。これは心を落ち着けるよい方法で

自分の気持ちが乱れていると感じたら、実行して役立つ方法である。そして、ただ心を

落ち着けるだけだったら、これは心の体操のようなもので、瞑想とはまったく関係がない。

瞑想は何もしないことであり、なにもしないのは、実にできにくいことである。目を閉じても、

耳は聞こえるし、鼻も匂う。肌も感じるし、感じれば、なにかしらそれについて、瞬間で

考えはじめる。ついては、それらすべてを停止しなさい、というのが瞑想の入り口であり、

もう出口なのだ。

瞑想は僕らがすべての恣意を捨ててしまうという意味で、僕らはただの精神的な存在と

しては無生物になることでもあるだろうか。ここは感覚で思っても困惑してしまうばかり

なので、観念でひとつの次元を作ってしまって、言うと、まず体の不思議なシステムに

その人間の死を感じ取ると、その死の苦しみ?を緩和させようとする。これが脳内麻薬

のシステムで、これは非常にリラックスして、なんでもできるという自由な自在感をもたらす。

個人差については、よくわからないが、愉悦感は誰にでも与えられるだろう。この実証は

スポーツや生命の危機に出会った時に訪れたのならば、マラソンならばランニング・ハイ

として経験されているし、僕もプールで500m泳いでから、これに会って、もう体が沈まない

と思った。そして、手足が自分の意志とは関係なく、勝手に動いて、いつまでも永遠に泳い

でいられる、という究極のスイマー感覚になったことがある。これはスポーツの場合。

瞑想でも慣れてくると、瞑想体操でもこれを経験した人はいるに違いない。

こういう得をしたと感じる経験も、瞑想とは無縁。

だが、瞑想には近い。なぜなら、体が自分のご主人様(体の本人のこと)がまったく動か

ないことに、死を感じてハイにしている、と考えられるからだ。それは体の条件の、動いて

いないを満たしている。体が動かないのを習得したら、次は心を消すことだ。動かさない

のはもちろんのこと、“意識があってはいけない”のだ。 

そんなことができるかできないか、誰もがやっているうちにできる。これは現実の事案の

問題ではないので、この世でこの世に会う、理解できる証明はない。これは結果が体験で

示してくれるが、その結果というのが「なにもないのだ」、ということなのだ。 

答えは瞑想は始まった瞬間に終わる。そういうものなのだ。どういうことかと言うと、僕らは

目覚めていれば、五感によって外界を感じて、知性がそれを判断して言葉や図形や様式

の映像、また思考の枠やその認識の積み重ねに換える。心を消すというのは、こういう

働きのすべてを止めて、さらに消し去ってしまうこと。心でそれを工夫することは、心を使う

から目的に適わない。知らない人は、誰からも習ったことも、聞いたこともない。そう、伝え

る方法が実際になく、個々に実践してもらうよりないのである。  

さて、瞑想は始まった瞬間に終わる、という意味であるが、僕らは、もしも、心を消すことが

できたならば、その時に僕らは睡眠に近い状態になっている。眠っている時に自覚はない。

この自覚が夢も見ないほどに深いのならば、自覚はまったくない。何も感じないはずだ。

さらに何も感じないのならば、時間の感覚はなく、“時が経った“という感覚が記憶に残る

はずがない。僕らは、謂わば空っぽになる。ただの「空っぽの心」という自覚もない器になる。

そこに瞑想が「入って来る」のである。何が?それはまだ、話が早い。

入ってきても、それを認識することはできない。僕らが体と心の認識作用を捨てたから、それ

が入って来たのだから、認識できる時は、瞑想になっていない。成立していないのである。

ここまでが瞑想の成立である。  

これからが難しい。瞑想の感覚は、目覚めてから来る。何も見ず、何も感じていないのを

時間の経過から実証できるからである。つまり、瞑想が来たかどうかは本人にはわからない。

瞑想が来てから、目覚めるまで、僕らは眠ってもいないし、気絶しているのでもない。が、

眼は覚める。だから、気づいたときは、寝て起きた時のように、どのくらい寝ていたのか、

意識がない。それと同じで、時計を見て、初めてその時間の経過を知る。瞑想の成立を

知るのは、だから一人だと正確に知るのは無理である。また、それをジャッジする人がいて

も、その人にも坐って目を閉じている人が、いつ瞑想に入ったかは、わからない。それでも

10分以上の経過があれば、だいたいわかる。僕は瞑想のためによく坐っていた頃は、

長い時で50分と思われた。その頃はそれが僕の標準だった。何回も経験すると、わかる

ようになる。

しかし、難しいというのは、そのことではない。僕らは生きているのだから、必ずなにごとか

動き、している。なにもしていないと、退屈する動物だ。動くのが生きるであれば、止まるのは

死ぬことだ。瞑想はまさにそういうことで、死ぬ訓練であり、死のゲームなのだ。  

やっても何の見返りもなく、ただ眼を閉じて、じっとしていろと。退屈この上ない。しかし、

3500年も前から、瞑想にやり方の迷いはなかった。不思議だ。インド人だからだろうか。

ということはないだろうが、退屈すれば、こんなことして何になる、と考えるし、ただ気がつい

てどこか意識が飛んでいた、とわかるだけでは、現代人はしないだろう。できないだろう。 

そうすると、僕の瞑想談義もここで終わってしまう。なので、他に本にも書いてあるが、その

説明も取り入れて、僕の経験を、その瞑想の先の認識を話してみよう。ここまで語れば、

もう僕はできることをしたことになる。あとは、あなた次第でどうぞご自由に、と言えるわけだ。   


まず、瞑想のために坐っていて、最初につまづきとなる現象から、本にもあるので説明する。


* 原始の夜2.(つづき)へ。
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