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聴くことで考えてもらう [聴くこと]

ユークリッド幾何学の定義だったと思うが、

点は広さも形ももたず、最小のもので

そこにあるものと言うけれど、面積もない

ものがそこに存在するはずもなく、

幾何学が初めから抽象の分野にある

学問だということしか証明しない。 

バッハはどうだろう? 

音楽は鳴れば、聴いて存在が確かめ

られるから、抽象でないのは確かだが、

その感覚はむなしく、楽器が音を止め

れば、瞬時に消えてしまい、あとは

記憶が頭の中で鳴るのみだ。それに

確かそうな楽曲も、デタラメに演奏すれば

音楽でさえなくなってしまう。数学のように

黒板や紙と鉛筆があればいいという、

簡単な道具では間に合わない。演奏も

それなりに技術が必要とされる。

楽譜にしたってからが、指揮者によって

演奏者によって、音楽は随分変わって

しまう。名演奏はあるが、これが定番の

これがあればいいという演奏の記録・

録音はない。  

絵画もいつも思うのだが、世界一有名な

ダ・ヴィンチの「モナリザの微笑み」にして

からが、初めに見た時は、暗い印象で

どうしてこんな暗い絵が有名なのか、

その芸術的価値がわからなかったが、

当時の色を再現して綺麗に瀟洒になった

絵を見て、なるほどこれなら、と思ったが、

そういう具合に原画が修正されるわけで

なく、原画の、古くなって暗いままだ。それ

は歴史的なものだから、暗さも歴史的

価値に含まれるということなのだろう、

無理に納得するしかないのだろう。

数学でさえも、また芸術でもそのありの

ままは残らない。

それを止めようという過去からの要請が

あるから、そのことがむなしい、と表現

されるが、止めることなく、流れ去るもの

だと諦めているなら、そのむなしさは

無くなって然るべきなのだが、虚しさは

尾を引く。よく見れば、それは未練という

尻尾なのだろうが、諦められない本体

もありそうだ。  

そう言ってそうだとわかるのは、僕らの

何かと言うのはた易い。未練もむなしさも

無くなる時間があるからだ。それは眠って

いる時だろうし、仕事が超多忙で他の

ことを考えられない時、あとこれはあまり

ないだろうが、気絶したり、記憶を喪失

したりした時だ。この時に失うのは

決まって、自意識だ。あまりに驚愕する

事実や事件で茫然自失した時もそうだろう。

僕らは自分を失った時に自意識という、

それが認識する自分というものを失う。

母は病と夫と別れたくて、不幸な晩年を

過ごしていたが、口癖は「寝るのが一番」

だった。何も考えずに済むし、楽だった

からだろう。自覚しなければ、行動が

危ういし、不幸が続くと、自覚するのが

そもそもつらい。楽しいのが最も良い、

と思うだろうが、僕らは楽しさには

我を失う、それほどのめり込めるから

楽しいのだろう。そして、完全に我を

忘れるわけではない。それでは正しく

は、楽しめるほどには、我を忘れたい、

という程度であろうか。ともかく、この

自分を失くすという感覚がなければ、

楽しめるや楽しめたとは言えない、そう

いうことらしい。

ところが、それでは自意識が最も活発

に働いていたら、最も苦しく、むなしい

のか、と尋ねると、どうなのか、どうも

単純ではないようだ。

初期にはそれはむなしさが端的に心

を支配して、きつく、つらい、せつない。

見つめれば見つめるだけ、そういう

自分と正面から対峙するのは透明な

氷の刃に刺される気がする。だから、

人はそれに耐えきれず、そこから目を

反らし、心から背を向けて、別の自分

に帰ってくる。

別の自分?これが自分というシステム

の自己防衛機能の支配下のもう一人の

隷属化された社会的自分なのだろうか?

すべてではないにせよ、ほぼそういう人

が多勢を占めるのであろう。

「玉ねぎの皮をむくように」いくらでも創造

される支配下の自分である。ここから

逆らっても、虚しさの地獄しか待って

いないのなら、どんな妥協でもして、それ

を記憶から消しているだろう。そうやって

プライドはその習慣から固執化してゆくの

だが、運が良ければ、それを気がつかせ

てくれる人や情報、事象に出会う。

今、二つに一つみたいな選択で話して

いるが、どちらかが正解の人生とか生活

であるなら、僕らはこれほど複雑な事件に

対処を迫られる現実に出会うことはない。

どうして、相談することも人も相手も、その

問題さえあいまいなのだろう? どうして

回答者や心理療法士などは経験が豊か

であることが必要なのだろうか。

そして、僕は客観的な意味で、占いとか

ではなく、科学的または統計的にもその

’相性’が治療や相談に向いたものとして、

必要だと思えるものに加えたい。

相談を受けるものの第一の重要特性は

相手に話させて、それを徹底して聞き

取れる、むしろ聞きっぱなしでいられる

耐性だと思う。聴くことが最初で、また

最重要でこれを踏まえない相談を受ける

者、または医療従事者はすでに失敗して

いるし、ひどい者は失敗に気づかないし、

うまくいかないことに平気である。

面倒で厄介なのは、成功していると

思われた例でも、そうではなく、また

(再び)相談に訪れてくるということは、

なにも解決していないことに、深く、

真摯に気づくべきである。

悩みの表層的なことはヤブ医者でも

成功して、見かけはそれで済んだように

見えたりする。一般にはそういうことは

多く、それはまあ成功でいいだろう、と

いうことで収まる。が、神経でも精神でも

病気となると、根が心とは別の場所に

ある、ありそうだ。

ケースバイケース(個別対応)なので

この話は先に進まないが、これは

世界有数の知恵者ブッダが、同じように

相手に応じて話したということでもわかる。

対機説法とかいう名前をつけられているが、

人それぞれの千差万別に対応するという、

ごく自然なことなのだが、名前はそれに

特別な手法があるように見える、虚妄が

働く。固有で、特に効く手法といったもの

ではないのだ。

この自然な対応が相手の自我を正面に

向かい、迎えることで、相手から来る「気」

を最初に受けるのだ。「気」を受けるとは、

気づくという意味だ。話はそれからの

「聞く」になる。



さて、では「聞く」ことでなにがそれほど

重要なことなのか、というその効果の

意味について話そうと思う。僕らは

トラブルを訴える相手の話を聞いて、

そこに問題を緩和したり、適当な妥協

であったり、うまくすれば解決を得られる、

という適当なアドバイスをしてあげれば

最高だと思うが、それは間違えている

という話なのだ。

そのことに気が行くのは、これから自分が

いい忠告を与えるというパフォーマンスに

気を取られるということだ。それでは相手

の話は耳に入らない。それでは相手の

話を「聞いてやっている」という態度なのだ。

ブッダは当然ながら、修行中に”無”と対峙

しただろうから、それに自分がどう抗(あらが)

ったか、従ったか、どう感じたか、その反応

を知っていただろう。

話を聞く者は相手の誤りに対して、そこで

中断して、それは違う、とは言わない。

明らかな勘違いについては、相手が

気がついていなければ、そこでそれを

質問する。否定的で相手を刺激する

質問ではない、気づかせるための丁寧

で間接的な質問が適当だろう。

大事なのは、相手に話させることで

それはつまり、相手に考えさせることだ。

よく考えられれば、それだけ問題を自分

で整理することになる。すると、問題が

うまく整理されれば、そこで問題の半分

が解決したことになる。

今までもやもやしたことが、話すことで

明瞭な形になるから。形を見ることが

できれば、僕らはそこから新しい考えを

さらに導くことができる。また誰かに

聞いてもらったことで、気持ちに安心感

も生まれる。



僕は今まで、いい本だと紹介されたことは

いくつかあるが、その本を購入して、読んで、

読み切ったことはまれだ。まず、ない。

それは自分に合わない、興味がないことや

時もあるが、自分の得意とする分野では、

最初の10数頁で中身の形も結論・結末

なども読めてしまった気がするからだ。そして、

一応は確認しておこうと、1年後くらいに

速読みをしてみると、変わらず思った通り

の内容で、結末も想像通りで、自分で

驚いたことがある。

それで僕はこの何十年だろう、自分が

いいと思った本を誰かに紹介したりする

ことはしていない。それほど人と人とは

きっかけや出会いが異なっている。

あと1年早かったら、あと1年遅かったら、

出会いが素敵なものになっていただろう、

ということがあるから。その人が自然に

出会うのがいい、と思える。 



自分はその時の自分にいつでも出会い

たいと思っている生き物なのかもしれ

ない。よく昔聴いた楽曲で、感激したり

するが、それはきっかけに過ぎず、楽曲

ではなく、それを聴いていた頃や、その

感激した頃の「自分」を思い出すからだ。

その頃の自分に突然、憑依してなりきる

自分になれるからだ。それをなつかしさ、

という。

平板な結論が出てきたところで、カバー

する考えもなさそうなので、ここらが終点

か。



::

僕らが真とか、本物に出会うのは、それが

真であるから、本物であるからであるの

だろうか?むしろ、僕らの自分の部分が

よく似た自分に感動するからではないか。

これは一種の欺瞞でもあるが、議論では

そうであっても、感情では避けられない

ことだろう。昔の自分を見限るのは、人間

のすることじゃない、と思っているから。

自分とは、またの名を家族(父母兄弟姉妹)

とか友人とかといって、仲間主義とも言って

格別に大事にする。僕は心情ではまったく

正しくても、論理のような知的機構に

照らし合わせると、破綻していると思う。

ではどちらが良いのだ、という議論は

成り立たない。水と油が混ざらないから

といって、水か油だけ使うことにしろ、と

言われるようなものだ。心は抽象だから、

それがありそうだが、実際はない。

この二つ、もしくはもっとの事項に

満足な解決策はない。秩序が崩れる

関係は常にある。それを嫌っても、

それは自分の内なる秩序(例えば、

善とか、真実とか、神とか)が崩壊

するのを止めたいという、個人的意見

であって、それは真理でも何でもない。

僕らの住む世界はそういう世界なのだ。

生活に選択の余地はない。僕らの知が

活きるのはお互いに必要な妥協策を

見出すことだ。まず、そこまで行く。

つぎにそこからまた、新しい策を見出す。

自然な秩序のもとに生きる生活という

ありのままな世界にもともと完全はないし、

知的秩序も限定的で、無いし、だから、

自然の秩序体系が崩れることもなく、

存在し続ける。

例え地球が死の星になったと思っても、

僕らの思い・決めつけだけがあるだけで、

地球は何億年かけてもまた別な地球に

なる。僕らが仕切ろうとしてきた3000年

から1万年は遺物になっている。

僕らが決めたそれぞれの範囲で、例えば

学校とか、道路、行儀作法、その秩序は

ある。それは人間の社会が自然の中に

相変わらず棲みついて在る、というのと

同じベース(地盤・基礎)であって、だから

といって豪雨やハリケーン、大地震、津波

の自然から無事ではない。秩序は僕らが

人間の自分たちのために守っていくもので、

それは当たり前にあったものではない。

だからこそ、僕らは問題に立ち向かわねば

ならないのだ。それは言いたくない(それが

無常だから)が、自分に立ち向かうことが

最終問題になり、またそこが新しい問題の

始まりになる。僕にはそれが楽しい。



<そこでは限界というものが、僕らにとって

は新しい挑戦でもあり、脱出口でもあるのは

そこから考える扉の、 ・・・・・・・・・。 >




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