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暴走しやすい生の時、自滅しやすい死の時、うまくいくのは生死を往復する時 [断片様相]

やっと一人になれたと思ったのに、

なりきれない。独楽の回る先端が

微妙にブレて振動が見えるように、

ピタリと定まれない。

なんか見落としが、と考えてしまう

時だ。たぶん、見落としじゃない。

そうやって先に進むのを遅らせ

ようとするためらいなのだ。

気は逸(はや)るが、まだ少し余裕

がある、そういう時に何度も確か

めようとする。その必要がないの

で、なにか考えようとして、足踏み

する。重大な発表する時が迫った

時などに見られることだ。

ほんとうに自分を変えられるだろうか。

人生の転機にちゃんと飛び込めるだろ

うか、と考えてしまう瞬間、僕らは

立ち止まる。

それもひとつの歴史の味がする。ため

らいは、渋いだろうか、苦いだろうか。

ほんのりとそれは香るのだろうか。

僕らの心の底には完全な保証がないの

だろうか。いつも守られて、安心して

いられることを考える。それが見えな

いことで、どこに連れて行かれるかも

わからないで空白を抱えたまま、なにか

を追及できている、と思っている。

知の欠陥を否定してきたが、知は否定

できるようなものではなかった。ゴミ

はいらないものだが、それは人工の

生産物であることが多い。それにも

関わらず、ゴミを捨てて、無くして

しまいたいのだが、それができない

ので、ただに場所を他所に移動させ

ただけだ。

ゴミから役立つ部品を調達できる

ように知は破片になっても、それ

は生きていると言えるのだろうか。

そう言えばいいのだろうか。

その在るものを同定しようとして、

概念にしたとしても、それは腐らな

い肉だろうが、だとしても、人工の

ものなのだろう。そして、自然の

一部になってしまう人工物という名

の言葉なのだ。僕らはそれを使い、

僕らが人間である限り、言葉の

意味が次第次第に意味を失い、

時代に流されるように、言葉も

概念も自らを失ってゆく。



だから桜の季節というのも、長く

続いたが、世界に広まったソメイ

ヨシノという品種が桜の代名詞に

なったのだろうか。*

それも品種改良という自然だった。

江戸時代以前には、多くの歌集で

謳われたが、そこにはひとつも

ソメイヨシノを謳った歌はないのだ。

これが自然の無常の推移なのだろう。

江戸時代に現れたのが、品種改良さ

れたソメイヨシノの最初の登場だっ

たのだから。

言葉は「桜」でも、同じ「桜」では

なかったのだ。昔の桜もまだ健在だ

から、それを調べて訪ねれば、それ

は見事な枝ぶりの桜が拝めるだろう。


自然という言葉が変わらなくても、

自然自らは季節だけではなく、盛衰

をくり返しながら、無かったもの

が現れ、有ったはずのものが消え

てゆく。

それらを見ることもないし、僕らは

気にしたこともない。

僕らはどうも心底は狂いたいと思っ

ていると思えてならない。僕らは

恋愛を美化して、また恋したいと

思う。それは狂い咲きのようなもの

だろう。それが若い頃のホルモン

バランスを取り戻すことである

ように体の若さに憧れるのだろう。



もう一つは生きれば生きるほど、人

のエゴに嫌悪を強く感じることだ。

それを労わるようにわかろうと

すれば、自分のエゴを見ないよう

になるか、そういう自分も認めて

自己嫌悪を抱える。そして、そこで

立ち止まってしまう。

そして、そのストレスを一時的に

外してもらえる方法というものは

世の中にあふれている。それは

心の不適応の対応について、それ

ぞれに役に立つが、ほんとうに

わかるのはその方法などによって

それがきっかけとなって、自分を

前にしてみることができた時だ。

他にその時はない、それしかない

からだ。それができない限りは

いつまでも原因のない病気の治癒

を目指して、病院巡りをするよう

なもので、赤ひげのようにわかっ

た医者がネズミの糞を薬だと言って

飲ませて安心させるようなもの。

なにかに頼って安心したいものを

探している。それほど心は飢えて

いる。

それは医者にもセラピーにも治せ

ない。

もう半分、狂いに足を突っ込んで

いるのだ。病気になると、自分は

死んでもいいから、と言い出すが、

それは自分だけは死なせたくない

から、という反対語なのだ。

または自分の死を美化して、自ら

の死を納得させるためだ。相手の

ためではない。

恋をして、何もかも忘れてしまい

たい。と、狂いを欲している。

今の苦しみをまったく快楽で忘れ

てしまいたいほどに、もう自分の

心から逃げきれないことを、無自覚

に感じている。

なにかを拒否して、否定されて

いなければ、干渉も不自由も、

束縛も、そこから生まれる不安・

恐怖も苦しみもないに違いない。

その拒否する・否定するその自分

を押しつぶそうと見える主体は、

間違いなく、自分自身だ。

その自分の考え方にも、それに

対する気持ちにも抗うものが

あるから、そう考え、そう感じ、

そう思うのだ。

誰かに相談し、聴いてもらうの

もいいが、その前にひとりの時間

を持つことだ。

考えずにいることは難しい。しかし、

そうしないと自分には決して出会え

ない。何度も自分に会おうとする。

気持ちが落ち着いてきたころに、

相談するのもいいだろう、と思う。



飲みに行ったり、パーティ、集会

やイベント、演奏会などに出かけ

僕らは楽しみ、時にストレスの解消

を目指してそうする。そんな大雑把

な掃除では片付かない心のゴミは

ある。それは年ごとに固くなり、

頑固・固執の質を増やしてゆく。

人の意見・意に理解を示して、君は

そうだろうが、自分はこうだと、

それとは違うことをするマイペース・

頑固さは、融通させる時も場合も

わかる臨機応変な理性(人格)だ。

それは我意地をなにがなんでも通そ

うとする意固地さ・頑固さとは境界

線を引くべきだろう。聴く耳を持つ

人、そういう人も横町のご隠居の

ように必要とされるだろう。

その全般を見るためには、嫌な奴、

そういう(自分でもある)自己を一度

でも対面する必要がある。どんな言葉

も音もなく、平常心で自分と対面する。

ひとり静かに邪魔のない環境で。

人気のある内科の医者は、とても愛想

がいい。患者の言うことを聴いてくれる

(ように思える、丁寧な対応)が、そう

いう医者は医院を流行らせる方法を実施

しているだけだ。

自分という作り上げられた精神を治癒す

るためには、それでは間に合わない。

あなたの将来はハッピーですと太鼓判を

押しているだけだ。インチキ占いと

さほど変わらないだろう。


その治療は心に苦くて、痛いだろう。

そんな治療する医者もまた流行らない

だろう。怖くて、人は近寄らない。

人は馬鹿ではないし、また重要さの

度合いがわからない事態を理解しない

から、そんな治療のためには馬鹿にも

なれない。

そこまで面子を気にするのは人間

くらいなのだが。(また思い出した、)


豈図らんや。しからば、僕らはなにに

拠るのか。自分に見えないし、見よう

ともしない自分とは別人格のようだ。

自意識の自分は無の自分、つまり無価値

な自分を見るのを恐れる。そのために

自分を見ない。見ようとはしない。

それを無意識は捉えている。無人格な

それを自分と呼んでいいのかわから

ないが、自分を見つめる自分がいない

となると、僕らは永遠に心の盲目の

ままだろうから、それはない。

表象の自分は自意識につながれているが、

五感を離れ、未知の感覚に拠っている

潜在の意識はその全体を照らしている。

ただ、五感とはつながらないために

僕らは五感の助けを借りない状態で

その自分にならなければならないの

だろう。それが見えもせず、聴こえも

せず、匂いも、触感もないとすると、

それらをその瞬間だけでも消してしま

わないと、その全体観の照射された

場所には出会えないだろう。

だから、僕らが日常生活で慣れ切って

いる五感の生活を断ち切る必要が出て

くる。それを完全には施行できない

ので、僕らは何度も繰り返すうちに、

そのなにかのわずかな感覚を掴む

しかないが、できないという心配

はいらない。自分ひとりの時間で

必ずできるのだが、そういう機会を

うまく作ることが肝心だ。

何が変わったのか、初めまったく

わからないが、気にすることはない。

その人次第なのだろうから、線引きは

できないが、そのうちに自分が変わっ

てきたことに気づくはずだ。そんな

程度でいいのだ。



何年か前までのブログで、僕はどこに

いるのかと、当時の心境を何度も自分

に尋ねているが、今はそれがわかり

かけた兆候の感じだとわかっている。

こうして僕らは年を追う毎にそれに

出会う準備が整えられてゆく。

今は、それを表白するだけでいっぱい

いっぱいだった自分ではなく、それ

を指先で見えない全体のどこを指し

て示すのかくらいできるようになっ

た。

知らないから彼(未知だった自分の

影)としか呼べない、その自分に

合わせやすくなってきた。人生は

実はただ生きているだけで二度分

の人生を生きることができると

思えるようになった。

それは二度分を一時に味わうもので、

二人分という意味ではない。僕は

自意識の自分に戻るのが、当たり前

に我に帰るということだったので、

そこでは知が働き、比較して、自分

が二人として考えざるを得なかった。

しかし、帰る前は全体でひとりだと

承知している記憶のない自分を、なん

となくわかっていた。

これは単に感性の繊細さのために夢

を見ている男の独り言ではない。

幻想や空想という夢と、希望や将来

の夢とは異なり、夢的なものとして

在る命の方向を何度も修正して正し

く導くことが可能だと信じられる

事実を積み重ねてきた、僕そのもの

という事実である。これは祈りでも

ないし、信念でも希望でもない。

またスェデンボルグのように異世界を

彼自身の想像ではない、異次元を

感じ取って、それを聖書世界の自己

投影で築いた映像を信じて、見えない

事実でありながら、その映像は自分用

に創作されたものだとは思えなかった、

そういう少し複雑な錯誤の世界の話で

もないと信じる。だから、それに同列

な別の次元の話である可能性もたしか

に、ある。

が、僕の判断はそこまでだ。




* 世界に広まった桜は贈与されたもの

が多いが、品種は様々だそうだ。














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