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色弱と世界の関係 [色弱]

伝えることはすべて伝えた。ポイントで必要

になることでだが、・・・ 。コロナになるまで

8年間はあったろうか。最後の処では、演技

を学ぶように言ったが、その真意は伝わら

なかっただろう。自分で考えさせないと、自分

で考えてみて納得した答えを咀嚼して、実行

(演技とか)してものになる。それまでは解釈

であって、解決にはならないから。

神経に障害のある者は、まず傷ついた心

から脱出させないと、次に一般的な社会

行動を学ぶことができない。方法をいくら

本で読んでも「自分をごきげんにする方法」

とかも役に立たない。心を開かなければ、

それは自分(傷ついた心)から見た方向

や考えを当て嵌めてしまう。それから外れ

たものには抵抗・反発が勝つので、実行は

疎かになるし、まずしない。



久しぶりに会った彼は脱出する方向に

歩いていた。・・ 驚き。引っ越ししたとは

聞いていたが、彼のほうから詳しく話す

までは、その動機も聞こうとは思わ

なかった。

会ったので聞いてみると、なんとつきあう

女性がいて、少し前に喧嘩したとのこと

だった。引っ越しで出た古着を処分する

ことに(カビたのもあったらしい)彼が

同意したが、捨てなくてもいい服もあった

ので、翌日やはり、捨てないほうが、とか

言ったのだろう、彼女は一度わかったと

言ったのに、それを翻すの?、という

ことでぶつかったらしい。

大いに笑った。男と女はそうやって妥協

して行く点を見つけてゆくんだよ、それ

が人間の関係というもので、そういう

やりとりが男女では続いてゆく、と

そこまでできた目出度さに、笑いが

止まらない。心の狭さから脱出させる

のはどれほど困難か、それが女性

とのつきあいでできてしまう。まったく、

なにを心配していたんだか、という話だ。

彼にはこの世がどういうものかを経験

させなくては、そこから安心させなく

ては、と考えていたので、今はそれ

よりも一歩も二歩も進んでいる。

それの例題として話そうと思っていた

のが色弱の人が初めて色を見た話だ。

以前にブログに書いたが、それをもう少し

深く進めてみたい。

YOUTUBEで「色弱」や「初めて色を見た」

とか検索すると出てくる。

ここからは、その動画を見たものとして、

そこから話す。なので、見ていなければ、

今見ることを勧めるし、この先の文章は

今はまだ読まなくて、中断してもいい、

となる。



彼らが色弱の泥色の世界から色の世界

に飛び込んで見たものは、僕らが見て

いる世界ではない。まともに同じ世界だが、

僕らの見る世界はすでに物心ついた頃

からデフォルメされ続けてきて、認識が

優先され続けた、曇らされた世界だ。

くり返す、認識はものそのものを言葉に

換える。それが「何」ということがわかれ

ばいいから、それで見るのは終わりだ。

僕らはほとんど、色も形も表情もタッチ

もいい加減にすまして、見ない。それが

何か(=名前)インプットされれば、

あとは無視されるのが、この世界へ

の僕らの対し方だからだ。

なぜ、色を初めて見た彼らに、もらい

泣きするのか。わかっていても、また

見ると泣けてしまう。彼らの「言葉に

ならない感動」が言葉ではなく、そのまま

伝わるからだ。見ただけで、それがわかる

とは、実際どういうことなのか、それを

知ろうとはしない。”言葉にならない感動

があった”という=言葉を認識して、それ

で終わっていることにも気づかない。

その言葉を動画を見ないで、聞かされた

だけの人は、決して泣いたりはしない。

<言葉ではわからなかった>、からでは

ないのか。

美しい色というものは、「美しい」という音声

でも、言葉でもない。小林*なら「色の美など

ない、美しい色があるだけだ」という言い方

をするだろう。(*小林秀雄) 

僕らは感動をもらって、彼らを見てもらい

泣きはできても彼らのように、この世界の

色を見て、泣くことはしない。何という相違

だろうか!

そう思わないのだ、彼らが見ている世界と

僕らが見ている世界が同じように、眼の

前にあるのに!

つまり、僕らは目の前の世界を頭の空想に

通過させて、そのものを見てはいない、

そのことに気がつけない。だから、僕らが

相手にしているのは半ば空想じみた

世界だ。

それを刺激的に加工して、仮想空間や

芸術っぽいものに表現を見出して、文化

だと言う。

これは進歩でも発展でもない。感受性を

失うための自己的世界を構築することだ。

それが自己そのままではなく、自己的な

空間に耽溺しようとしている。そして、

いまその中途にある。すでにその迷妄

から始まって、長い歴史の百年の時間を

歩み終わっている、それを知らない。

僕らの眼はもうそこにあるものが何か

がわかれば、もののなんたるかは、何も

見ないという処まで、退化し始めている。

ちゃんと言えば、すでに退化を始めて

いるということだ。これが科学からの

文明や言葉からの文化の払うべき代償

だとすれば、少しの反省で、時代のペース

を全体でバランスを取れるように、人間の

全体の教育自体から考え直して、すべて

変えてみてもいいのではないか、と僕は

考える。


そうではないか、ご同輩。いるかな、そこに、

誰か? お~い!


雲海の上の旅人1..jpg

カスパー・D・フリードリヒ 作 ::

フリードリヒは18-19世紀のドイツ画家。
ドイツ・ロマン派で重要と。
描いた絵に名前をつけなかった。絵に
後世の人が名前をつけたが、それを
紹介しなくてもいいだろう。本人は、絵を
見てくれ、と言いたかっただろうから。

僕は「誰か、お~い!」と命名するが、(笑)

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前回の「出る杭は打たれる前に~」に続く。
が、どちらが先でも、互いに補完するはずだ。
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