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新しい過去を可能性と見るか? [過去]

まだこの感じが続いて、空想は続く。

未来と過去はイレギュラーな感覚で

その心の表象には触れたのではないか

と思ったが、検討してみるとますます

不思議さがからまるように、実態が

遠のいてゆく気がする。

そして、それが正解なのだとしたら、と

視点を飛躍すると、また新しい困難な

点が浮かぶようだ。

もう数日かで、この感じは離れて行くと

思うので、自分でも気が進まないながら、

もう少しつきあってみる。

天国の夢はもう見なくなったが、地獄の

夢はたまにだが、見る時がある。体調が

悪いか、心象が悪い時に見ること多し、

なので見たいと思う絵ではないが、興味

はあって面白くはある。地獄の何が地獄

なのかはよくわからない。血の池地獄

とか、昔の江戸時代?地獄図が出てくる

わけではないので、いつも目覚めてから、

あの雰囲気は地獄だったのだ、と顧みる。

全体を平均してみると、それは洞窟

が多い。暗いが、夕暮れくらいで、見え

ないほどではない。多くの貧民がバザール

を開いて、何物か売っている。

がいこくじんだ、そう言えば、外国人の

夢ばかりだ。そして、見えはしないが、

誰かが監視していて、トラブルが

起こるとやってきて取り締まる。1度

だけ、そいつらが来たことがあって、

洞窟の住民がそいつらを非常に

恐れているのが、その表情で

わかった。洞窟は広かったり、狭かったり、

通り道は細かったが、壁をくりぬいて

商売の店先にしたり、たむろする場所

だったりした。

こういう夢を見ると、今の自分状態を

調べ始める。体か心かの調整が必要な

時だからだ。そう言えば、最近は随分、

見ていない。

その地獄だか天国だかだが、夢は

まだいいが、そういう亜空間がある

としても、僕には無縁らしい。いつも

誰もいないからだ。これは自分でも

自信のない記憶だが、天国も地獄も

僕が行きがかった時は、いつも誰も

いなかったようだ。天国だからいい、

という訳ではない。そこに誰もいなけ

れば、なんの面白味もない。

例えば、この地球上ですべてのもの

が自分の所有になったとしても、その

時、他の人間がすべて消えてしまって、

自分一人だけだったら、地球の王者

になって、何の意味があるのか。

それでも動物好きで、人間に興味が

ない自分なら、ある程度はいいかも

しれない。だが、次は?

子供が生まれない。ただ一人の人間

として老いて、亡くなるだけだ。

半分は、そういう自然な世界に憧れる

人は必ず、いるだろうが、200人以上

いないと、まず絶滅を迎えてしまうらしい。

交配とか遺伝子や生体のルールらしいが、

先細りになり、一家族では言語も失われ

始める。親が亡くなると、子供たちが幼い

と、他の動物に面倒を見てもらうように

なる。

すると、今までの狼に育てられた子

などの記述を信じると、人間の子は

その育ての動物に近づく。感覚器官も

人間とはまったく異なり、人間なら聴こえ

ないような、かすかな葉のこすれあう音

や小枝の落ちた音に反応することが

できる。手より足が長いのに四つ足で

走り回ること出来て、大人が追いかけても

掴まえられないほど速い。

狼に育てられた子の場合、顔が前に

伸びるように、やや骨格が変形し始めた

そうだ。つまり、狼の顔に似せて。


動物と人間の子と共有なのは、お互いに

野生の間柄が残っている、野生である、

ということだ。どうもここに原点がある気

がする。それは大飛躍なのだが、僕が

過去にいる気がする、というこれまでに

書いてきたことである。

未来が天国であろうと地獄であろうと、

それを見て、誰もいなかったら、僕は

それを拒否するだろう。今、という時点

は未来とともにあり、本当の未来はない。

それは夢などの思考が意識と形作った

知の構築した未来であって、ほんの

近未来だけが重なっているものだ。

正夢はそういう事情なのだろう。近未来

を見るが、10年後に、ああこの目の前

のことを夢に見た(10年前に)という人

を聞いたことがない。

近未来、それがうるさいと感じるのは、

知がうるさいからだ。しゃべり過ぎる

のだ、知の未来は。

動物も子供も、知の未来は生じない。

認識は主に感覚によるもので、知は

たぶん、生体で未発達に留まっている

からだ。チンパンジーが人間とDNAが

200個(基?)ほど違うだけで、見た目も

あんなに違うが、子殺しや、詳しくないが

動物では珍しい、人間じみた犯罪?を

犯すらしい。

簡易な算数はできても、数学はできない。

言葉の区別ができても、俳句は歌えない。

認知症になった父の施設での短い期間で

その行動を見てみると、外の景色が

見える椅子を自分の場所にしていて、

誰かがその椅子に座ったり、眼の前を

塞ぐようにすると、怒る。それは外を

通る自動車やバスを見るためだった。

動くものにはまだ興味があったようだ。

そうして見ていると、こちらからは気の毒

と思うが、父自身はそうでもなかった。

しあわせとは言えなくても、それに

近かっただろう、とは想像がついた。

あまり表情がなく、喜怒哀楽は影を

潜めていたが、外を眺めるのが楽しみ

であったのは、確かだ。そういう自分の

状態にも気づけないのは、半動物状態

だとも言えた。

僕は未来から離れるのは、今から離れる

ことでもある。しかし、それは空想の距離

のことではない。心の棲み分けの問題

だと思う。僕の何かが動物と通じている

のはこれまでの彼らや見知らぬ子供たち

からの挨拶などの経験から、疑えない。


僕には思い出の過去という心情がない。

人にはよくある過去は郷愁である、という

その人その人の過去の記憶とともに

込められた心情が心に根付いていない。

ある音楽を聴くと、必ずその過去の事情を

思い出して、胸がせつなくなる、という

その根が死んでしまっている。または、

剥がれてしまっている。

そこで僕は過去を造り出す必要に迫られ

たと、仮定すると、今の状態・状況に

辿りついたと納得する。

心は勝手に、自分に必要な状況を造り

出してしまうものだ、としても非難はでき

ない。その状況を確実に把握しておくのが

大事だ、と感じるのみだ。

人間はなんでもかんでも、好きなものを

作ってしまう。過去と言っても、昨日の

ことでも、小さい頃のことでもない。

過去は実在としては存在しないのだから、

この過去は、変だが、新しい過去なのだ。

そのうちにこれが誰かがしている、実は

よくある行動だった、という例をなにかで

見つけるかもしれない。僕にとっては

新しい事例でも、概念化されて社会に

出回っていないだけで、人々の隠れた

歴史にはよくあることだった、ということ

になるのかもしれない。

不思議は終わらない。まったく、そういう

ことだ。

飲めない1..JPG

バター入り珈琲というのはあるそうだが、
飲みたくない。スプーンも大き過ぎ。
飲みにくい珈琲に見えるが、中はコーラ。
現実はそんなもん。(笑)
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気まぐれメモ:ブログを書かないブロガーというもの [気まぐれ]

テーマが思い浮かんだので、パソコン

の前に座って、書き出す、つもり

だった。いろいろなテーマからの

考えが川を流れるように流れ出す

が、そうしていれば、そうしている

ほど、そのテーマが陳腐になって

きて、新鮮味はもうなかった。

すると、書けずに座っている。

ただ坐っているだけになって、

今に至る。

ただ坐っている

ただ坐っている

  ただ坐っている

ただ坐っている

ただ坐っている

   ただ坐っている



これが前兆だと言いたいのか、

それもわからない。

ただ納得のいく形で坐って

いるのだけは、確かだ。

新しさはいくらでもある、

日常に。またそれを書くの

だろう。

今は午後の昼寝から目覚め、

体がジーンとした状態が

続いている。これもまた

気持ちがいいものだ。

ジーン・ハックマンとか

昔の俳優がいたな。あの

親父、今はどうしているん

だろう?

日本語のうまいパックンは

今もテレビに出ている。

パックマンは任天堂のゲーム

ではない気がするが、・・。



窓からー

見えていた東の空の底が浅い紅色

に染まっていたが、5時を過ぎて

雨雲の低い雲に暗くなってしま

った。夕暮れは東の空も浅い赤に

染めるものなのだ。

ふ~ん、とか。


座っていると、体は重くても、

気持ちいいが、心は不安定だ。

そこはかとなく、掴まる藁さえ、

ない。

そこはかとなくは、源氏物語や

徒然草の頃からの古語だが、今

でも意味が通じる。

「其処は彼となし」と漢字で書く

そうだ。そこはあそことか彼方とか

決まらないもの、それで意味はどこ

となく、なんとなく、とりとめもなく、

となる。

僕の気分はどうも平安や鎌倉の時代

になっているようだ。日本人て、

変わらないのだろうか。まとめて

しまえば、それも心の不安定さなの

だろう。



秋、浅し 東の空の 茜色 ・・・・

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リラックスはためらいながら [リラックス]

リラックスしよう

時間は  ある  

無限にはないが  必要を  

満たすには  十分  

それが  どういうことか  

秘密を  教えたい  

教え・られれば  躊躇は 

しないのだが 

ものには  順序が と  

教えられた  

それは  僕らが決めたもの  には 

という 意味があって  

決められないものは   今も  

無秩序で  無法だ  

それが  美しいと  思う人は 

手を挙げて ほしいが  

あなたは   どうだろうか?  

僕は  迷わずに  教室に  

いる時のように  挙手 する 

美しさは  定められる だろうか  

人に気にいるように  名前が 

つけられる だろうか  

どの人も  それで  賛成してくれる  

だろうか? 

僕らの心では、無秩序は不安に

結びつけられている。結びつけたのは、

遠い昔の誰かで、初めは一人だったが、

それは病気のように、伝染したのだろう。

親が怖がらないものは、その子供も

怖がらないが、怖がると、子供も怖がる

ようになる。

不安はその雰囲気だけで、伝染する。

その雰囲気に気づかなければ、たぶん

不安はないのだろう。

だから、リラックスしよう。

それでリラックスすると、それですべて

終わる。それができれば、あとはどう

過ごそうか、暇に明かせて、考えるだけ。

ふつうはそうならない。

不安から逃げようとするので、それを

忘れようとする。心の片隅に置き去りに

しようとする。それはあなたの反抗期

の(反抗期は正しいが)子供のように

腐る形で成長する。やがてカビになる。

根付いたのだ。心に根付くと、取るの

は厄介だ。

それを見えなくしたのは自分なのだが、

それを忘れさせたのも、もう一人の

自分だ。自分は自分を守るようには

好都合にできている。

ここをどう抑えたらいいのか?

ここがポイントだから、ここを抑える

だけで、すべての不安を呼び起こす

事故・事件は起こらなくできる。

そうなれば、もう、終わったのだ。

あとはリラックスしよう。



僕は空白のように、無秩序だ。

それは恐らく、秩序と並べて無秩序だ

とわかるから、という無秩序なのでは

ない。ただ、何もない状態では、そこ

にはなにか決まりがない。

それは人間社会の話ではない。

僕らがほんとうに秩序を理解するのは、

心の無秩序に慣れた時だ。

何のために、とすべてが目的のために

秩序が求められている、と知った時だ。

また、その方向に向いてしまった。

リラックス しよう  

ほどけて ゆく  時間も  

言葉になる 心の鍵も  

水になる  

夜なら  夜でなくてもいい  

眠いなら  起きていてもいい 

僕らが  人であるのは 

生物だ からだ  

生物には  命の記憶があって  

そこに  快感の メロディが  

いくつも  どこにでも  ある  

が  

聴く気に ならなければ  

そこから 話す気にならなければ  

どんな言葉も  音楽も  無駄だ  

言葉に  魂は  ない  

言霊は それを  思い出すので

ない限り  

ただの ためらいで  慰めにしか

ならない  

不安は  それを  妨害している

だから  何度も  言ってしまう  

リラックス しよう 

地図でも載って いない のなら 

道が見えなくなっても  そこから 

先は  続いている  

迷うのは  そこから  正しさを

求めてしまうから  

道は  初めから  知っている

それを 指示されるように  うまく

思い出すのが  不得手なだけ 

愛に  秩序は  ない  

満たされると  生きるのを

やめてしまうほど  永遠に

そこに  留まろうとする

言葉に  秩序は  ない  

平安の  母音も  片言も

現代では  古語という  外国語だ 

肩書には  秩序が  あるように 

見えるが  実際には  ないことが多い 

あるものが あるというのは

秩序のことでは ない  

ないものが ないというのは  

二通り 

すべてが  ある状態か 

充実した感興に  虚無を感じないこと 

あるものとは  なにかわからない 

ないものとは  なにかわからない 

だから  あるか  ないかを  

考えないことが  大切になる  

すべてを  持っている という考えは 

もうなにかを  欲しいと思えなくなること  

すべてがない という考えは  

まず そう思えるから 生きていられて 

そして 生きているから  今の瞬間は 

生きるに足るものを  すべて 

持っている  

でなければ  生きてはいない  



それを  どう疑っても  それが  

原点になる  

その原点を  僕らは 知らない  

そこにいないから  

そこが 美しいとは 思えないから

一度も  訪ねた ことはないのだろう。

夕陽が沈む、ある10分くらいはそこに 

美しい夕焼けの美しいバランスで  

景色が赤い。 

通りかかるのは偶然だと思うだろう。

それが知らない証拠だ。ほんとうに  

美しい世界にいることを知ろうとしない、  

初めから顔をそむけるのといっしょだ。  

僕らは引き寄せると言うが、それは  

おかしなことだ。自分中心に考えるから  

そう思うが、ほんとうはなにかに招かれて、  

そういう場面や光景に出会う。  

招かれないのなら、気にすることはない。 

でも、ここにいるとは音やなにかの感覚の  

ひとつでいい、その秩序のもとにすべてが 

解き明かされる。  

それが出会いというもの。偶然でも、必然

でもない。世界はそこにあり、僕らはここ

にいて、招かれるのを待っている。 

いつか出会いは起こると知っている。それ

を求めない静かな、たゆみない歩き方が  

いるだけだ。



リラックス しよう  

それが 招待される 服装だから  

僕らが目的を持たないことがどれほど

困難なことか、僕らの外の現実の矛盾

にどう対応するか、それらには一度、

すべてが捨てられた状態に身を置く

のがいい。動かずにそこにいてみて。  

その位置という精神と感覚の糧を得る

ことができたなら、次にそこからの世間

への評価が始まる。終わるまでは

いつもどおりに、どんなに矛盾でも現実

に従えばいい。  

僕らから矛盾した行動は奪えない。  

その標準を生きることができるまで、

不安は僕らから去らない。それだけ

で新しいことではないだろうか? 



ためらい  迷い  (はふつう)

そこから悩むという  間違いを

してしまうかもしれない  

僕らの心の対応は、もっと広いし、

広くできるのだが、自尊心がそこに

絡むと、そこにこだわる。感情的に

なる。抜け出ようと、考えるが、それ

はルールの中での問題なら、考えて

抜けられるが、思考(精神)より心は

広い。心はそれよりもさらに広いもの

から感覚で構成されているから、そう

いう部分での経験をしないと、それが

知識に固まらない。

僕らは内面で道を尋ねつつ、現実で

主に社会や機械の法律や信号的な

ルールで働き、行動せざるを得ない。

それでいい。

美しい世界が姿を見せ始めれば、

やがてルールは後退する。どこまで

従うかがわかってくる。

だから、いつでも

リラックス  しよう  

内面と社会の双方で、おかしさを

顧みず正しく努力していれば、それ

は溶けだす。

この二面性を認めない限り、分離は続く。

そこにいかに、僕らが在るか、という

状態を造り出せるか、矛盾を否定しない

で、いかに整合性を見出さないで、

僕らはそこにいられるか。

無秩序と秩序の双極性に、いかに慣れる

ことができるか?

それが課題である。

愛に拠らず、溺れず、愛を利用すること

はできるか。裏切らないために、裏切り

ながら、それが理解されるように、相手に

適した方法で伝えられるか。とても困難に

思える、最初は。

死に拠らず、だから死なず、死を利用

することはできるか。絶望や孤独に

留まらずに、死の膜を突き抜けることは

できるだろうか。

その時はわけがわからなくても、後に

なれば、気づくので、できる。

愛と死が、ある意味一体であることも

その時に理解する。それまでは愛は

生で、死は滅びだと、勘違いしたまま

その概念を保持したままだろう。

長く先入観になってしまったものなので、

一朝一夜ではひっくり返るはずもない。

パズルではない。



少しずつ、自分では本当のことだと

思えることが書け始めてきたので、

僕も楽になってきた。

それがここにあり、という場合に、

それをどう表すかというのは、技術の

問題以外に、僕らの固定化し始めて

いる常識やルールであることが大半だ。

それは誰でも直感的にわかるが、聴い

たこともない言葉を直接に訳しても、

訳した文章は日本語だ。聴いたこと

もない言語ではない。生まれつきの

耳の聞こえない人に、どうやって音楽の

美しさを伝えるのか。長い長いそれを

どうするかの煩悶がある。それを解決

するのは言葉ではできない。ところが、

音なら、それを修復する手術の技術が

発明されればいいように、言葉で直接

与えることはできなくても、ある行為を

促して、それを実践することで、その人

には音を聴く可能性が生まれる。

偶然、それに近いことをしたり、それに

巻き込まれたり人も、少数ながらいる

だろうから、伝えることは無駄ではない。

まず、そこに自分がいた。

だから、彼が確かである、という自分を

信じることから、このブログは始まった。

それも僕の自意識の知らない処から

だった。



ありがとう、と言いたい。



自分の内面がそれにふさわしい状態を

作ることが、その人のしあわせにつながる。

それにはその人が自分は何をしたいのか、

明確な意識ではなくても、知っていなくて

はいけない。(その時の)自分を知る必要

がいつもある。

体が要求する食物と、グルメが要求する

食べたいに負けた食べ物では、同じ食物

でも自然な必要度が違う。それは生に

直結しているか、やがては死に至るに直結

しているか、ほどに違う。

ある程度の管理が、自分をコントロール

するのに大切だ。このコントロールは

単にガチに支配するのではなく、適度

に好きな方へ放縦することもある。

ルールを無視しがちな自分なら、しばらく

はそれを認めるのはいい。それを自分で

自分を責めてはいけない。

この無秩序さを容認しながら、一方で

覚醒剤などはそれをするくらいなら、

自殺も辞さない、という矛盾した覚悟も

必要なことに、=大切なことになる。

そう、あなたのルールはあなたが、外

(家族や社会)のことを踏まえながら、

自身で造り、何かあればその都度

変更し、修正し、改善するということが

目指すことになる。それには終わりが

ない。生き続ける限り、あなたの法は

あなたの秩序になる。そして、それは

現実との矛盾を抱えていたとしても、

現実には守れなかったとして、妥協

せざるを得なくても、それを経験して、

その経験を踏まえて、また考えて

生きる方法を作り上げてゆく。

なぜなら、それがあなたの人生を

つくり、生きてゆくことだから。

人生を生きるとは、好きな人生を

生きるということにたどり着く。

だから、現実と自分の夢の矛盾に

あまりに不必要に悩むのは、愚かしい

ことだ。夢は僕らが現実にはなら

ないことを、いかに実践して豊かに

なり、現実にそれが如何ばかりか

沁みだす。それが誰に伝わるか。

あなたが夢がかなったと思えることは

それはすでに現実になるようなことを

思い描いていたことで、時代によって

それも移り行き、変遷するが、僕らは

夢を捨てたことはない。誰かがそれを

生きようとするから。夢にも、現実にも

それぞれの生きざまがあり、それぞれ

の尊厳さがある。

自然とか宇宙の在り方のそれは偉大

過ぎて、僕らの空想や想像を超えている。

それも遥かにうわまわり、広大普遍に、

意外さも無限大なバックボーンがある。

僕らがそこに人間として参加できるのは、

もしそういう意思があるのなら、自分の

人生をいかに築くかという、その中身に

しかない。人間であること、それは

わかるが、それを説明できない。その

人が人間として疚(やま)しくないのは

どこからだろう?僕らは疚しくては

いけないだろう、と過去の考えに

戻ってしまう。そうではない。僕らが

自己に拠らない尊厳・豊かさ・疚しくは

ない、どれも。それはどこから?



僕は、 どこから?

あなたは どこから? 



僕らは、今、

いかに生きているだろう?



僕はそれを問い続け、そして

問われ続けている。




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微妙な不安●金平糖の戦略 [戦略]

東京では熱中症で搬送される人が

増えて、救急車が足りなくなる恐れから、

30台臨時で増加された、と。

ちょうど20年前、8月だったが、母が

熱中症で病院に搬送された。この暑さで

その時のことを思いだした。

母は認知症があったが、まだ初期で、短い

期間で回復と症状がくり返していた。

父と杉並で二人暮らしだったが、がんこと

剛情が暮らしていたので、安定したもの

ではなかった。

夜中、母が倒れて、父はパニックに

なった。意地っ張りは自己が小さい。

それで容量もさほどない、戦争を経験して

いたにも関わらず。一番近い渋谷の親戚

に電話した。僕は神奈川にいたので間に

合わないと考えたのだろう。

親戚もすぐに入院を考えたので、119番

するように言ったらしい。すると、父は

「119番ってなんだ!」と答えた。それ

ほど気が動転していた。父も81歳だった

から、高齢も高齢、いい人だったが、気の

小さい処もあったので、ふつうに老人だった

のだ。

近頃の本では70歳代の過ごし方が重要

で、それが80歳代を決めるとか、書いて

あった。が、つまみ読んでみると、すでに

実行していることばかり書いてある。自然

に従えば、同じ処に行き着くものだな、と

思った次第。

さて、もうこの記事が投稿されたときには

第4章はすでに投稿されているということ。

次の人生を始めることに躊躇して、その先

延ばしを楽しんでもいるが、もうそろそろ

やらなければとは考えている。そう言い

ながら、3年も経ってしまったろうか。コロナ

が言い訳になっていたが、それももう使え

ない。新しい山に登る準備はできただろうか。

このあと半年で答えを出すのだろうな。

期限は決めないし、無理に間に合わせよう

ともしないが、新しいことをするのは、いつ

でもこの選択でよかったのか、という微妙な

不安がつきまとう。実のところで選択だとは

思っていない。決まるべくして決まった、だから、

その過程を振り返る、これでいい?それも

楽しみの一つになる。だが、まだそれは気が

早い。

< 金平糖の戦略をジグソーする >

あと何歩ぐらいに迫ったのだろうか。


木曜日の昼報道にコメンテイターで

若新雄純という企画プロデューサー

が出演してコメントしているが、似た

考え方をしているので、知の中心派

だとわかる。

自意識・コンプレックスが強く、ナル

シストだいうことだが(Wikipediaより)、

自己申告だからなにか他に隠したい

ことがあるのだろう。

ナルシストとしたのは目立ちたがり屋

だからだろう。でないと、テレビ出演は

しない。昭和期の作家が二人テレビ

出演した時も、ひとりは立原正秋で

(彼は朝鮮人。11歳から日本に移住)、

まじめな性格だったのだろう、テレビの

カメラに顔を向けず、機嫌悪くそっぽ

を向いていたという。もう一人は遠藤

周作で、キリスト教作家だったが、タレント

性もあり、狐狸庵先生としてユーモア

エッセイも書いて人気があった。彼も

テレビ出演後に、何も言いたいことを

言わせてくれない、テレビでは僕の発言

だとは信じないでくれ、と文章で訴えた。

テレビ出演は、そこらの事情(特に昔は

テレビの王様時代だったから、局の都合

優先での理不尽さが目立った、)を承知

しないと、テレビには二度とでない、と

なるらしい。コメンテイターはタレント志向

で、ある意味図々しい連中が集まっている

のだ。 

その中で若新がどうのこうのではない。

彼の中国の戦略賞賛とその危険を発言

したことが、僕と同じことの考え方をして

いる、と思ったのだ。それでそれを発展

させてみようと思い立ったのだ。

そこで習近平(金平糖のこと、逆か)の

中国共産党の出方である。

世界の共存平和を掲げて、BRICS(ブラ

ジル・ロシア・インド・チャイナ・南アフリカ)

5か国を中心とした、欧米経済圏やその

サポーター国を外した、その他各国への

協力を提案した、中国主導の世界平和(?)

経済イニシアチブを打ち上げたが、これは

米国・台湾が6月に発表した米・台貿易イニ

シアチブに対抗するものだ。

アメリカの台湾に肩入れというのは、中国

はそれを内政干渉だと前々からその都度

主張しているので、今回も黙ってはいられ

ない。

中国が世界平和みたいなことを言いだした

のは、一帯一路政策がヨーロッパに向けて

成功していると思われたのが、環太平洋

の島に軍事基地を作り始めてから、裏の

顔が見え始めたので、欧州も中国の資金

をあてにするのは危険と見て、一帯一路

作戦から撤退し始めたからだ。それは

オーストラリアへ留学生などで中国人を

輸出して、内部から政府中枢に送って、

オースとラリアの中国化を狙っていたが、

バレて中国人学校などを閉鎖されて

しまうなどのことが明るみに出た、少し

前の事情がある。(日本も未だに中国人

留学生も学校も増えていると)

金平糖は毛沢東を尊敬していると言って

いる。第二の毛になりたいのだろう。

日清戦争で明治日本が戦った相手は

満州族という民族で、これは中国を称

する漢民族のことではない。そこで

日本が満州で勝利すると、それまで南

に追いやられていた毛沢東も、初めは

日本人を恩人だと感謝したのである。

が、日本は満州国を建国したので、

ここは元々俺たちの土地だ、ということ

で俺たちが統治するのだ(何しろ、

漢民族=中国人=中華=中心の花(華)

=俺たちが世界の中心なのだから)。

金平糖の昨年度だったか、党の中央

大会で所信表明演説をした時には、

はっきりと(モンゴル帝国くらいの土地を)

中国の土地を取り戻すことを謳った。

ロシアも侵略をくり返して、領土を広げる

のが常套手段=伝統で、中国も金平糖

もそれは変わらないので、プーチン・金平糖

という古い頭が二つアジア大陸には並んで

いるわけだ。

そこで西欧のNATOだが、名前はあるが

軍備は出払っている。これから集めたり、

準備したりする。欧米の金融勢力が

開発国の小競り合いや9.11、コロナで

金もうけをしている間に、中国は人海

戦術とサイバー攻撃で優先切符を握った

と思ったが、欧州から巻き返しを図られた。

アメリカなどの挑発に乗った形でロシア

がウクライナ侵略を始めたのは、意味深

である。

欧米は躊躇した。ロシアが核をほのめか

したからだ。今のNATOは軍備が間に

合っていない。ウクライナは武器を早く

寄こせと欧州連合の尻を叩くが、戦争を

する気がそもそもなかった。テロの犯罪

対策ぐらいで、国同士で戦争をするには

意識が低く、平和ボケだったのだ。

中国の脅威が認められたのは、トランプ

がいち早く気づいたので、そこからだ。

トランプ政権を不正選挙で奪ってから

政権に入って、やっと気づいたのだ。

それが本当なら(笑)、今は対中国・

ロシア戦争のソフトランディングと攻撃

戦略をそれぞれA・B案+αでまとめて

いるところだ。

中国は言葉で平和政策を掲げて、

自分の思う環境が手に入ったとしたら、

そこからイニシアチブを発揮し始める

なら、最終的には占領した国の民族の

中国化を進めるだろう。

特にアジアの韓国や日本は狙い撃ち

だろう。先を急いだ、まずはそこで西洋

の陣営と、中国の軍備が整えば、些細

なことから、世界を二分する世界戦争

が勃発する、というのが先だ。

その前にそのきっかけとなる第2歩の

出来事が起こる。

第3歩からは誰が予想しても、空想を

超えることはない。当たるか、外れるか

だけだ。キーポイントの国はインドだろう。

核保有国だから、インドが最終的にどの

陣営になるかというのは、大きい。

第4歩になると、戦争は甚大な被害を

もたらすから、勝っても、負けても、

日本は前線になってしまうだろう。

北朝鮮が向こうの陣営になるだろう

から、ミサイルを浴びた地方は悲惨だ。

だが、傷つくことで、日本の平和ボケ

も解消されてしまうだろう。

ここからはさらに悲惨なので、嫌いな

人は読まない方がいい。

まず、北海道から攻め入り、東日本を

ロシアに、韓国・台湾から九州に攻め入り、

西日本を中国に、と日本は分断占領される

恐れがある。1,2年はかかるか。

またロシアは欧州戦線で余裕なく、中国

だけにしても、これまでの中国の傾向から、

まず言論統制は序の口、監視カメラ・告げ

口監視社会になる。次は日本人の男は

中国人の女と、女は中国人の男と強制的

に結婚させられ、日本人を消滅させてしまう。

これは昔、台湾で取られた戦術で、台湾

民族はおいしい話で、皆、中国人の名前

に変えられ、本籍も中国国内にされた

実績がある、それの婚姻版。それは

チベット民族に対して、今も行われている、

と人権団体は告発する。(台湾民族は

漢民族=中国人ではない。中国は嘘を

平気で言う)



中国人は言うことと、やることは別で、嘘も

ついていないと主張するが、要はその時

その場で方針を転換させただけだ、と

思うことにしているのである。彼らが中心

の世界なのでその他は蛮民なのだ。

それで中国人化するのは、偉大な中国人

に変身させてやることで、感謝しろ、と

言いたいのだろう。中国首脳は地政学

よりも面子のバカ高い国なのだ。


天皇家をどうするつもりだろう?世界は

どの王家も支配閨閥も、国が転覆させら

れて滅びているので、二千年以上続いた

天皇家には強い嫉妬心を抱いている

はずだが、その残酷性から考えると、

廃絶させてしまうものと思われるが、 ・・。

もうここらはそうなるまでに、いろいろな

中国共産党にとっての優位な条件が

重なり合わなければ、(それが続かなけ

れば)そうはならない、というものばかり

なので、書いていてもむなしい。国際情勢

やほかの要素もある。

日本の歴史から考えても、日本が壊滅

するとは、思えない。ここでは最悪の

シナリオの上で中国共産党がする考え

方からの予想を示したので、まず、戦争

が拡大し、開戦し、次に敗戦し、となら

なければ、そうなることはない。ただ、

そうならなくても平和にあぐらをかき

過ぎた(縄文時代の?)ツケが回って

くるのは受けるより仕方ないだろう。

それも、もしかすると、アニメ文化が

日本を守ろうという、世界の若者の

世論になって、避けられたりするかも

しれない。

(ま、呑気な考えだが、・・)

問題は核戦争だ。誰もが核戦争をする

ほどロシアや中国もバカではない、と

考えているいことだ。キューバ危機の時

にフルシチョフは恐れて、ケネディに対し

て引いてしまったが、それはその時の

ことで、教訓ではない。

核の全面戦争は避けるだろう。だが、

終わらせるために米国は、長崎と広島

に核を落としたではないか。地域的に

脅しとして核を使う脅威は常にあるの

ではないか。それをあるはずはない、

という一方的な議論をするのは、それ

こそ平和ボケではないのか。プーチンは

裏切りも戦禍も経験している。核の

合理的な威嚇の使い方をしてくるかも

しれない。それまで欧米は呑気に構え

ているだろう。

事態は混沌としている、まだ。


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第4章 結論はまだ見取り図だけ [見取り図]

第4章 

(1) 前置きから

<自分の細かい概念について考える処

があった。自分ではない自分、という

フレーズが出てきたからだ。思考なので

そこに引っかかると、それまでの流れ

は失った。覚えていない。

そこからの流れは、初めの自分は我

というもので、次の自分は他人を差さ

ない、他でもない自分という、区別で

あり、方向だ。

他人の意見ではなく、自分の意見です、

という場合は自分は我を示さない。

だから、自我(エゴ的な)ではない他人

ではないもの、とはエゴ的な主観を

離れた客観的な主観を示す。平たく

言えば、第3者的な観点を持つ他人

を示す。他人の中のある特定な個人

ではなくて、人から見るとそれはこう

見えるということ、その全般のことだ。

自分という言葉は、エゴとか自我とか

という本質的な内容の意味と、ただ

他人と区別することで自分と表現する

二つの意味を持つ、それと同じことを

言っている。

それを踏まえたうえで、自分ではない

自分を考えてみた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・>



(2) 再びの前置き (それまでの過去)

中断したら、元に戻れない。なのに

中断する意味は?と思うのだが、

その理由を尋ねたことはない。

この不確かさ。その混沌。そういう

なかにある、確かめられない、或る

なにかがある。

自分とは何か。(そこから?)と、よく

問われてきた。僕らがいつでも不確か

なのに、直感的にわかると思う「自分」

というもの。分析すれば、バラバラに

分離して分散して、見かけばかり複雑

になってゆく変わりゆく姿。僕らの

幼少からこれまでに成長する間に

変化しているのに、なぜか変わらない

自分があると、しっかり感じている

僕ら。その矛盾に批判を当てようと

しない僕らは、なぜそうも自分を擁護

するのだろうか。それもその擁護に

しても半無意識で、あいまいなままで

放っておける。その放っておけること

に意味があるのかないのかにも

無関心であることに、意味はないの

だろうか。

ここに一つの意識の深さへの挑戦

がある。それほど深くはないが、それ

は蓋を開けるくらいの意識の転換や

勇気を必要とする。蓋は開けないように

指示されているので、それに反抗する

には、それなりの気力・精神力がなけ

ればならない。

内面の気力・精神力は、対社会の

現実に対応するためのものではない

ようだ。人を動かす力は、社会の

関係性に対してのものと心の内面性

に対してのものでは、ベースが違う。

それでそのシチュエイションもパフォー

マンスも異なってくる。

カントは正確な時刻に自宅の村を

散歩するので有名だ。カントがどこ

を歩いているかで、村人は今何時か

わかったとさえ言われているくらい。

カントは無駄を嫌い、思索に生活を

費やしたが、社会生活がなく、孤独で

あったわけではない。結婚もエネルギー

の無駄だと思い、しなかったくらいだから、

独身貴族で思索一本の生活だったと

思われがちだが、確かに彼は社会

への野心はなかった。しかし、社交

生活はあった。カントはあちらこちらの

会場に誘われて、そこでは話し好きで

話もうまく、人気があったという。社交

を楽しんでいた。その思考生活との

区別が厳格で、また上手だったのだろう。

思考生活のためにすべてを犠牲にする

ような狭量な精神の持ち主ではなかった。

そういう矛盾が天才たちには顕著なのが

面白い。典型的ななにか人間の特徴を

見る思いがする。

精神障害者(天才はその一部だが、

社会対応ができる者とされている)は

僕らが知と自我によって守られている

壁を遺伝的に、あるいは事故や事件の

ショックなどで精神が破られて、その

異常性が発生したのではないか、と

いう症状にも見える。

僕はその障害者でもあるし、軽症で

あった。今は微症で自分でもわから

ないくらい、また天才ではないが、

文章を一部分無意識から持って来る

異常な特徴を備えている。

つまり、精神や神経の異常な症状は

何を人間に起こすのかという、体験を

してきて、その異常性の周辺を実感

するという非日常の経験に恵まれて

いる。(初めの頃の期間が大変だった

が)

第二の自己への自己交換は最近その

内容がわかり始めた。それが19歳以来

30年?も経ってからの自己喪失の再体験

だとは思えなかった。

19の最初の時は自分の存在を感じる核

の喪失だった。その感じが膨大な感覚の

漏洩・消失であり、精神の気絶だった。

次に来たのは社会という全体、この世の

喪失だった。頭脳であり、自我であり、

言葉で造られた現実概念のすべてが

感覚的に喪失したのでそれをわかっても、

説明できなかった。言葉で構築された

世界が意味を失くしたのだから、それを

説明することはできない。

だから、この世のなにも指針にならない

ことが自己に伝えられ、教えられた。

初めは、事態の不安定さをわかり始め

ても、それがどういう具体的なことを

示しているのか、わからなかった。この世

に当てになるものは何もない、ということ

でさえ、初めはただの考えに過ぎない。

その日、それがほんとうに「真」たること

だとはまったく気づくことはなかった。

しかし、感覚は与えられたので、ノーベル

物理学賞の湯川秀樹博士の文庫本を

読んで、物理学の教科書でさえ、物理

の教科書がつじつまの合わない箇所は

省かれて、飽くまでも合理的に説明できる

部分だけをつなげて編集されている、という

湯川の批判的な言いようを見て、気づか

された。先生用に物理でさえ編集されて

公理じみたものが、正しいものとされて

いることに、驚きと義憤を覚えた。

それはほころびのようなもので、ユークリッド

の基本な幾何学でもそういう処理のもとに

整合性があるように編集されていると

知った。また、戦後の米国の日本人洗脳

のやり方などを後年知ったが、それが

現在も続いていて、反日が外国人では

なくて、日本人によって行われていると

知るに至っては、なにかこの世であて

になるものはあるのか、と自虐気味に

までなった一時期があった。数日か。


そこで今は自己の投影に埋もれている人

はこの世が見えない、ということ、自分が

見えないということを、僕が自覚させられて

しまうことだった。まず、その事実があって、

僕の意見なんかがそう思わせるのでは

なかった。

(19の時には、すべての記憶は一時、失わ

れたが、意識が回復して、記憶も戻った。

記憶は概念で主に構成されている。)


そのために二度目でそれが破壊された

のだった。それが非常・非情な不安を

もたらしたのだ。

不思議な光景がある。目の前の世界は

まったく変わってしまったという意識感覚

はあるのに、眼の前の景色はまったく

同じで何も変わらない。

この不安感は大きかった。十年近くも経ち、

還暦を迎えた頃には、なにか指針の必要

を感じたのだろう。それは僕を自己喪失

させた、それ以外にもう(この世の権威を

外すのなら、)なにもなかった。が、その

無意識世界は当然ながら、なんの保証も

ない。それに指針を求めるなら、自分の

精神が壊れてしまう危険も感じられた。

これは自分の意志でする賭けに似ていた。

何の保証もない。だが、他に拠るべき候補

もない。めちゃくちゃな勇気だけあった。

それだけだったのかもしれない。賭けは

なされ、僕は人生最後のというほどの勇気

を奮って突入した闇から戻ることができた。

それでともかくも生きる理由ができた、と

いうのだけはわかった。


(3)  結論

自分ではない自分に、のテーマに戻る。

‘自我’ではない‘他人ではないもの’は、

直訳だが、自我ではないから他人なのに、

その区別は自分を差すというのは、

文章と同じく矛盾している。

内容をちゃんと訳すと、自我をなくした

自分というものは、僕らが自分だと認識

しているものを失って、空洞になった

自分を意味している。そこで僕は自分は

枠のようなものだと想像した。枠としての

自分枠は存在しているが、僕らがその

意味する処の自分の雑多な概念は

そっくり消えてしまっているという。

自己が恐れるのはこのことだ。僕らは

(むしろ密かに)恐れるのは自分が

特別ではなくて、入れ替え可能なもの

であるのを、自分に対して知られて

しまうことだ。体は傷ついて、出血し、

敗血症になるのを自然に恐れる、

死んでしまうからだ。この仕組みを

自己も兄弟である知性を通して、心

に防御させる。

自己は潜在的に自分は何でもない、

という前提になる不安を抱えている。

これはそのままでは生きてゆくのが

困難になるので、むしろ楽観的である

前提を備える。そして、それを確固たる

ものにするために知性という鏡の性質

の比較判断を置く。鏡が自分を映し出す

役目をして、その裏になにもないことを

隠す。僕らは鏡に映った自分を見て、

確かにその存在を確かめ、安心する

仕組みだ。デカルトはこの仕組みを

コギトで「われ思うゆえに~」と表現した。

鏡に映った’我’に、当然、論理的矛盾

はない。

僕らは体の死を恐れて、無意識に防御

するように、心の死に対しても即、アドレ

ナリンが発散するかのように、自分の

信念などの秩序が崩れる時に、それを

即座に避けようとする。それは知性の

概念自己を守るための自己防御である。

それで米国ではエクソシストの映画で

失神してしまう人が現れるのだが、神が

ユダヤ教の長い歴史という、生活には

根付いていない日本では、失神した人

は出なかったようだ。歴史的伝統に拠った

場合の心の、自己防御の強弱を示した

例である。


僕らの精神の自己が死んでも、僕らは

死なない。だが、急激なショックを与え

られてしまう篤信な人には危険かもしれ

ない、ほんとうを知らせるのは。癌の

告知に似ているかもしれない。それを

知らずにいる方がいい、という人も

多いだろう。

だから、僕らは当たり前に、自分を

知ろうとしない姿勢に、すぐスィッチが

はいるようになっている。心に組み

込まれたそれをそのままにして、

むしろそれを悪用して、働かせるだけ

働かせて、その上前、税金とかで

撥ねて、支配するという構造が金融を

通して継続しているのが現代である。

裏の歴史事実は今はいい。

自分が枠であるのは、それは額縁の

ように平面な枠ではないだろう。もっと

柔軟な枠で、容量の大小もあるはずだ。

知性の仮称である自分という言い方

もできる。知性はその枠を知るのは

気づきによるが、その気づきは何に

よってもたらされるのだろう?

まず、本当を知りたいという強い感情

が芽生えなければ、なにも始まらない

だろう。心の準備というよりも、強い

動機を必要とするだろう。

そして、心の自己防御のシステムが

生きている理由はここにある。始め

から理由や動機がある人はいない。

不思議だが、死んで生きて生還すると

人間が変わってしまう。性格とか気質の

表面的なことではなく、内面が一変する。

それは知や自己が触れたくない、生の

芯に触れるからだろう。ただその自覚が

ないことが多い。後でそのことがわかる。

死はうすい膜なのかもしれない。その中

にあるのは消えることのない生の記憶

と想念である、という気が、僕はしている。

生の芯ということを言っても、その接触に

よって、その感覚を経験しない人には

高層マンションに住んでいる、本だけで

一度も犬に触れたことも、見たこともない

(実在した)小学生に似ている。その

犬の息遣いや体の躍動感は想像でき

ない。

初めから試しに死ぬことは無理である。

そして、死んでも死なないで生還する

となると、矛盾している。

生還を期待しながら精神的に死ぬと

いうのは疑似的にしかできない。

それが瞑想だろうと思うが、僕は

正しい瞑想を勧めるべきかどうか、

気持ちは定まらない。

もしも、僕のように19の無の体験が

訪れたら、と思うと申し訳ないと思う。

真理だと思うものを発見し、本人は

満足するだろうが、同時になんらかの

厳しい道を選択しなくてはならないこと

を思う。

だから、僕は経験を示すだけである。

自己責任ではないが、瞑想でおかしく

なったら、騒ぐのはその周囲の第三者

だろうと思う。途中でおかしくなることも

あるかもしれない。僕は経験しなかった

が、その想像はつくぐらいに苦難は

あったから。


昔は林間学校や臨海学校をPTAやらが

子供には危ないとかで止めてしまうよう

では、危険から学ぶことはできない。

僕も子供の頃に緑青が本当に毒なのか

試しに舐めたことがある。腹をこわした

だけで済んだが、無謀や冒険好きで

いつ事故で死んでもおかしくない自分

だったから、ここまで生きたのは

まったく計算外だし、意外だ。

自分は少数な人間の一人だと思って

いる。僕のような変人というのは、

最初から天才という人種に親近感を

もっている。似た匂いがする、生き

ざまのパターンだろうと思う。

天才ではない、天才タイプ・変人

タイプはいつでもいるが、それが体

のアレルギー症やウツ症になって

現れる人は増え続けている気がする。


少し、進めよう。

僕らは死に直面すると、余裕があれば

まともにそこから引き返す。が、心中

しようという事情ともなると、そうはいか

ない。なかには美しい話がある。いざ

死のうとして海に臨む崖に向かって

歩きながら、その男女は世界の美しさ

に幸せな気分に満たされたという。が、

想像だろう。誰が見て、誰がその感想

を聞いたのだろう。本人たちはもう亡く

なっているはずだから。これは生還した

人が、自分の感想を心中した人に

なぞらえて、作った創作だと思う。

だが、言っていることは、初めて色を

見た色弱の人々の感動の動画にも

あるように、本当だと思う。

僕らが社会概念の幕に囚われていて

それが取り払われて、そのありのままの

世界を見た、という話だ。

そして、それは期待のあまり、脳が創作

してしまう、妖精を見たという話にも結び

つく。信用ならないという、世間の常識も

そこでは生きている。僕らは自分で確認

しなければ、いつまで経っても、あいまい

な自己概念の創った世界から抜けられ

ない。

為替の円安や円高でも、数字が上がると

円安で、下がると円高という概念は、

値段の上下で買い物をし慣れている

僕らには受け入れがたく、未だに

110円が115円に、おっ円高だと

間違えそうになる。この世のその国や

地方の生活習慣や伝統で固められて

きた僕らの生活は十分に体に浸透

して、それをぶち破るには、相当の

エネルギーが必要になる。





:: 

思ったよりも進まなかったので、

ここらにしよう。必死にやってきて、

自分で確認したから、これが真だ、と

言えると思ってきた時期があるが、

現実はそううまくいかない。正解は

相変わらず、この概念世界の向こう

にあり、それを知っているだけでは

なにもならない。自分の満足と

幸福には役に立つが、他人のために

なるかどうかは、あいまいなままだ。

だから、僕は自分から講座を開く気

になれない。そういう機会が外から

もたらされるのなら、考えようかと

いうぐらいに乗り気がない。

確かに、20人か30人かで世界は

変えられるだろうが、僕は消極的だ。

例えば、北ベトナムの英雄のように

見なされているホーチ・ミンは尊敬

すべき人だが、戦争はしなかった。

軍隊の実権は持たせてもらえず、ただ

彼はマイクに向かって、ベトナム人民を

鼓舞する放送を続けたのである。

彼は戦争を指揮していたのではなく、

人民の心の支えになっていたのだ。

理想の精神と現実の戦争、それぞれ

の役割がうまく嵌らないと物事はうまく

回らない。僕らは社会に生きている。

それが矛盾の始まりであってみれば、

稲作辺りから自分が自己所有に結び

ついたのも、当然な話だ。

しかし、この話はそこから変えなければ、

という気の長い改革の話なのだ、中身は。

自分は年齢とともに変わらなければなら

ないというのは、本来的なことなのだが、

自己の考える社会概念で自分の成長

もそこに合わせるというのが、僕らの

態度であり、姿勢だ。なんとかその現在

の生活にしがみつこうとするが、自然

がそれを妨げる。フィールド・平野に

住む僕らはそれが社会の力によって

できると考えたいし、そう望むが現状

はいつもそうならない、そう思ってきた。

外側の改革である革命によって人は

残虐さを現しただけで、制度が変わった

だけに終わった。

時代の流れは無常である、ということ

も昔から言われてきたが、僕らは

それでなにかを解決することはでき

なかったように思う。歴史はくり返し、

小さく変わり続け、少しずつ女性化

してゆく過程にあるようだ。それは

大きな揺れの一場面な気がする。

それを見ると、僕はどうしても傍観者

の気分になってしまう。小局の場面

ではいくらでも希望はあるのだが、

大局は変わらないのではないか。

僕らは悟ってはいけないようにさえ思う

時がある。これは悲観論になってしまい、

自己の知性の鏡に魅入られてしまうこと

でもあるが、永遠のループと振り子の

ような循環からは逃れようがない、と

いう結論に達してしまう。

あとは頭がいい人に任せたいと思う

時もある。この考えがある限り、この

考えが続く。つまり、知性自体の結論

に行き着くということは、僕らが常に

悲観論に落ちてしまうことを意味する。

そして、また僕は気を取り直して、

新しい道を探すことをしようとする。

それが循環であろうとなかろうと、僕ら

は悲観に対比した楽観ではなくて、

希望の光を求めるのも人の役目

ではないかと思う。

真の希望は、絶望を連れてくる知に

よる考え事ではない筈である。


その内容には立ち入っていないが、

これが僕のこれまでの概念的な案内図

で、大まかな指針である。つまり、僕の

精神の全貌という内面の見取り図と

いうわけだ。

何かしら知の罠に嵌って悲観している

人には、多少の参考になってくれれば、

と思う。


                 6.16-17
<それから>



自己の容量と強弱についての説明が



ないが、これはこの記事を書いた後に



新しい要素として想起したもので、これ



を書いた当時(2週間前)には明確には



なっていなかった。過去と未来について



はまだ未知である。



全貌を書いた気がしたが、また進み



始めたので、この第4章も少し前の



標識になっただけだ。ということで、



酷暑もあってか、笑う気も起きない。



                6.30
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夢の継続する今・未来を発見するとは [未来]

夢(過去)は続いている。それがわかった

のは深夜になってからだが、いつもと同じ

日常でありながら、ほんのわずかな違和感

が見逃せない。

夜、ひとりになって静寂であって、初めて

それを捉えることができた。そして、できた

といっていいのか、危うげな認識。

僕はやはり過去にいる。そして、現在への

直截な認識も透明にうすい膜一枚を通して

だが、ほぼ重なり合っている。

思い出すのは奇妙なことだが、これに関係

しているかどうかはわからない。車のキー

に小さな鈴がついている。ホルダーには

別な鍵もついている。駐車場まで歩いて

その手前の歩道上でキーをポケットから

取り出そうとして、なにか引っかかり、鈴が

落ちるその鈴の音がした。歩道を少し、

転がったような。

見ると、どこにもない。駐車場は一段上に

あり、コンクリの壁で崩れるのを防いでいる。

そこの下に歩道との境目に雑草が伸びて、

数本ある。すぐに見つかるだろうから、その

雑草の根元を足でかき分けてみるが、鈴は

見当たらない。何度も見回すが、歩道の上

にはなさそう。閉館時間が迫っているので、

帰って来てから探そう、と駐車場へ

向かった。

その帰って来てからだが、きちんと探せば

見つかるだろう、と軽く考えていた。大体

失くし物は時間を置いて探すと、ほぼ出て

くるのがこれまでの大半だったから。

だが、この鈴だけは車道の端や7mも

離れた歩道のほうまで調べたが、なかった。

今までにないことで、難しい探し場所では

ない。最初に探した時も、かなり変だと

思ったが、かなり奇妙だった。

これは結論を出せない事象なので、無関係

かもしれない。

僕は、今次の矛盾を探ろうと考えた。過去

があるなら、未来はどこに行ったのか。今

が時間を超えてすべて内含するのなら、

過去を感じるだけでなく、未来も感じ

なければならない。が、それは今、見当

もつかない。

これが10年前なら、ただの日常の錯覚

で済んでしまうのだが、意識が二重交替

になると、わからない空間に触れること

になる。それはわからないから、気に

しないし、考えもしないのだが、今回は

それが1日継続している。継続する限り、

この感覚があるうちは手探りしなくては

ならない。もしかしたら、ということが

あるから。

書いているうちは呆然黙考できないが、

それにトライするもあり、だと思う。



未来。過去も未来も同じ等間隔で、’今’

から離れて同時にあるもの。未だ実在

しないのならば、それを感じることは

できない。複雑多岐な状況を少し読ん

で、直感からその光景を見るぐらいは想像可能

な領域のように思えるが。

逆に、その想像は点滅して、可能性の

あるなしは、確率でしか選択されない

のかもしれない。それほど多くはないが、

いくつかの未来が現れる。どういう形

だろう?

シンクロナイズ、デジャブ、それらに

ヒントがありそうでもあるが、はるかに

’ない可能性’のほうも思えてしまう。

考えても、日常で具体例を経験しないと

その実態を掴むことは困難だろう。

待ち、しかないか。



戻ろう。

この過去の感覚は一つは、昔から

考えてきた、どんな過去に戻っても

僕はその時に同じ判断をして、同じ

行動をして、それがあとで後悔する

ものだったら、だとしても、僕は同じ

行動をするだろう、ということだ。

その過ちを完全に解決することは

その場ではできないことで、その時

決断しなければならない状況だった

から、決断した。こういう状況には

同じ自分が出会い、同じ自分が対応

するに違いない。

それが’今’という場であるので、それ

を過去や未来に置き換えることはでき

ない。できるとしたら、皆が過去や未来

を変え始める。変えられた過去に係る

人たちは、いくつもの可変な過去を

共有するのだろうか?その都度過去を

選択して説明するのだろうか?そうなれ

ば、歴史は意味をなさなくなる。2000年

に誰が大統領になったかなどその人ごと

に違う過去があるのだから、歴史自体が

存在しなくなる。変えられるということは

過去も未来も存在しなくなる、ということと

同義になってしまう。

そこで自分の人生の過去を変えることは、

自分の人生を捨てるようなことと同義に

なってしまう。

僕は、だからそういう生き方をしない、と

決めたのだ。必要な状況にあったら、その

場その時を全力で判断し、行動することを。

(それと過去を振り返る場面がある、という

ことは違う。それは気持ちの問題で、その

過去に戻ったかのような場面に身を置いて

出来事を確かめ、味わい、なつかしさに

身を委ねることだ。発露として涙を流して

泣くのに等しい。気持ちで過去に戻る必要

があったのだ、体にも心にも) 



もう一つは ・・・・・・・・・・・・、

心が投影する問題を想起していて、勘違い

に気づいた。

時間の概念に囚われて、未来を先に

伸ばした処にある、という感覚で考える

と、理解できない。それは過去はすでに

未来だということだ。今から後ろ向きに

過去を振り返るというが、それは感情の

ことで、そこに過去はない。どこにもない。

僕らの頭のおもちゃ(概念)に過ぎない。

僕は’今’という人間や事物を存在させる

媒体を過去から投影している。だから、

実際に’今’は現在ではなく、未来に

なっている。僕の安心感は過去という

よく知ったと(思っている)媒体の装置を

’今’から照射されて、そこに自分の

思考のイメージではなく、また気持ちの

イメージでもない、ベルグソン的な

イマージュというものかもしれない、

そういう特別な媒体を創り出している。

それはかつて知ったるという懐旧なの

であるから、馴染みやすく、安住できる

のだ。

この時、過去たるものは今を未来に

捉えるので、今は今でもあり、未来に

もなる。これは時間の未来とは趣向が

いささか違うが、この媒体世界と言った

らいいのか、その中では今も未来も

過去も等間隔で同時に存在している

ことになる。この場合、’今’は過去から

今と未来で並んで見え、今と未来は

お互いが見えず、自分たちは一枚の

媒体だと感じているはずだ。もしか

すると、合わせ鏡のような世界かも

しれない。

これは新しい概念になるので、まったく

初めは誰にも受け入れがたく、理解し

がたいはずだ。

(ほんとにこの説明で合っているのか、

僕も当たり前に初めてなので自信は

ない。ただ、昨日言った「このままで

終わらず、変化があるはずだ」と言った

ことが、もう1日で来てしまったことに、

未来の先取りを感じるばかりだ。その

予測の結果には行き違いがない)




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原因も結果もない全体世界 [世界]

第4章はもう書いた、と言った。その

通りなのだが、なぜ投稿しないのか。

それは僕の性格もあるが、終わらせ

ない、という気質からだろう。日光東照宮

のように一ヶ所をわざと間違えて、逆柱

に設置する。99%完成は、終わりでは

なくなる。その建築物の永遠を夢見て、

完成させないという俗信を逆手に取った

思想があった。

僕も似ているのだろう。最後を投稿

しなければ、終わりにならない、という

考えがあるという、どうでもいい考えだ。

しかし、それが心に一度食い入ると、

固定観念になってしまって、なかなか

抜け出せないものだ。自分の考えなら

簡単に自由になりそうなものだが、

これが意外に自分で意識を管理する

くらいでないと、相当注意を働かせない

と、この観念は先入観となって、なんと

なく継続しっ放しとなってしまう。

そして、こうして自分で自分に早く投稿

せよ、と嗾(けしか)けることになる。

それは言ったが、どうでもいい。

僕はいつも非常に早く、終末や結果を

見てしまう。予測しないで、直接感じる

かのように、まだ来ていない未来に

がっかりするのだ。その結末が望んだ

嬉しいものであっても、どうしてかそれ

が一時的なもので、その先に望みが

持てないからだろう。それはまたその

時の問題なので、問題かどうかも

わからない段階で落胆は気が早すぎる。

かと言って、終わらせるべきものは、

終わらせるのがよいのであって、無意味

に長引かせてもそれがなんだろう。


僕はこう考えるようになった。なにか

原因があるから結果があり、そうで

あるなら、すべてはなんらかの結果を

もたらさなくてはいけないものなのだ、

ということを信じなくていい、と。

どうしてか。

それが僕らの先入観であるからであり、

それに特別な理由があるわけではない。

でも、そう考える理由は必要だろう。

因というのはなにかの固定した原因と

いうことではない。因は何か。

それはそれを定点に決めることで

あって、僕らがそう決めたに過ぎない

ことだ。

これが始めの通過点だが、どう

だろうか。原因はとても強く心に食入って

いて、どうにも疑えないのではない

だろうか。あなたはあなたの親から

生まれた。だから、あなたがこの世に

いる原因は親である、と。

いろいろな原因が考えられる。例えば、

あなたの祖父と祖母がいたから、あなた

の父と母がそれぞれの祖父・祖母から

生まれた。と考えると、その祖先が候補

に上がって、それを辿ればキリがなく

なる。

または、精子と卵巣の関係でその原因

を考えると、1億の精子の競争で生ま

れたのだから、どの精子でもよかった

のでない、と考えると、他の精子だと

どう違うのか、という疑問も生まれる。

そういう視点にしてみると、体の構造

という処にも原因がありそうで、これも

辿ればキリがなくなる。

だから、原因は僕らが任意で決め

なければ、原因は何も決まらないと

わかる。決まらなければ、決めない

限り原因は存在しないし、何かの結果

から考えて、そこを直接の原因とする

場合に、その原因の候補が浮かぶ。

そこから必要な原因を特定・選択する

ということなので、物事はあらゆる原因

と結果が転換しながら、あるいは原因

が結果に、または原因が次の原因に

変異しながら、流れてゆく。

その一部を範囲を限定して拾い上げる

ことが原因と結果を決めることだ。なに

を問題とするかは僕らの個々の問題で

選択だ。初めから決定している原因

も結果もないということだ。

これは今までの概念の欠点のくり返し

の話だ。知の欠点は概念で現実を

捉える道具でありながら、概念を現実

とすり替えしてしまう脳の誤解を止めら

れないことだ。

つまり、原因も結果も概念である限り、

現実では限定的に扱うべきである

ことだ。でないと、問題の答えに誤解

という冤罪が増えてしまう。頭が切り

替わるまでは、慎重に扱わねばなら

ない。


現実を扱うのは生活でいつものこと

だが、物事は原因と結果でつなぎ

あってできているのではない、無常な

流れがあるのみで、そういう風に感じて

いるなら、それこそが錯覚だということ。

それでは錯覚の世界をいつのまにか

作り上げ、その中で暮らしてゆくことに

なる。大勢の人がそういう夢に囚われ

ている。原因結果論ーその夢は幻想

の類だ。


僕らはいろいろな夢を見ている。考え

は重要だ。その考えがないと、そういう

ようには行動しないという鍵を握って

いることが多い。逆に言えば、考えに

よって行動するパターンが多いという

ことで、何をどう考えているかは、その

本質が概念のみでしか知らない場合

は、経験を加味する必要があるが、

考えが正しければ行動も正しいと

思いがちだ。勘違いは現実と衝突

してからわかる。重要なことはそれ

では遅い時もある。そして、それを

恐れていてはなにも行動できない

ことも確かなことだ。

ある程度の知識や経験は30代まで

で済ませるのが理想かもしれない。

読書と旅行はいいだろう。あとは

あなたが実際に降りかかってくる

問題を自力で解くことだ。それは

問題に対して正しく問うことに大半

がある。正直になる時期が必要になる。

それは学校を卒業しても実社会では

用意されていない。

現実はいつも理不尽で、解決不能に

見える問題ばかりが起こるように

見える。僕らは現実の社会で働く歯車

になりながらも、どこかで、あるいは

どこからか自分の時間をもって、自分

の問題に対決する場面を作らなくては

ならない。

問題は複雑多岐にわたるように見えるし、

僕らが対決して受け止めない限り、ことは

先送りになるだけで、問題は古いゴミの

ように心の底にたまり続ける。体にも

アレルギー物質がたまる食環境の構造

では心身で僕らはストレス発散にも疲れて、

うつ症状を起こすしかなくなる。それも

自分を見直す好機かもしれない。そうで

ないと、そうでもならなければ、僕らは

何もしないかも知れないし、 ・・・・。



自分は何が得意か、何に向いてると

思うか、そういうことは重要だ。大切な

ことでそれを伸ばすにしても、褒められて

伸びる子と、叱られて伸びる子がいる。

そういう違いについては、それぞれの

人がそれぞれの自分を問題にして問う

しかないだろう。それはもう学問では

ない。学問は概念頭に改造される恐れ

がある。しかも、それに気づけない。

西洋と東洋の、またその他の地理的

環境も関係する。そんなもののすべて

を案内するのは無理な話だ。

概念は人間の体を外科的に眺める

ことだ。内科的に、または東洋医学的

に眺めれば、別なものを感じなければ

ならなくなる。知情意・そして感覚・直観

の総合でことに当たれれば、これも

理想的ではある。そして、時にはそれ

さえも越えなければならない体験も

するだろう。それが人生の醍醐味だ。

本に書いていない問題が必ず来る。

答えをネットや図書館、相談で寄せ

集めてみても、容易に解決に導かれ

ない。それが醍醐味なのだが、それは

新しい事態で、誰も当たったことは

ないし、僕らが生きるというのは、そう

いうことを意味しているからだ。

わからないことを言いだしているから、

それこそ真に近づいたことなのだが、

知に興味のある人は、知を捨てて=

考えないことで、その意味に近づく

ことになる。これ以上は経験して

その経験への考えを煮詰めてみない

と、そしてその無意識的な熟考を長く

過ごしてみないと、わからない。



これは哲学ではない。今、生活して

いる世界(地理的にも、国家的にも、

想像的にも、ガーデン的にも、昆虫

的にも、宇宙的にも、概念でも)を

見ること・聴くことであり、また全体

を感じて、時には超えてしまうことで

もある。

美しい世界は知の問題を考えなくて

いいだろう。愛したい世界は心に

足りない感情を呼び起こす自分自身に

関係しているだろう。観客になりたい

心理世界は僕らの二面性を示して、

自我の弱さに関係しているだろう。

ちょっと見回しても、僕らが放って

いてそのままにしている世界は多い。

それは原因・結果の世界ではない。

原因であり、同時に結果である切れ

目のない流れを生みだすもの全体

である。

こうして説明しようとすると、説明に

ならなくなってくる世界のことである。


この処、夜明けを迎えることが多く

なった。また、朝になった。

朝は、違う。何が違うか、まだわから

ないが、ただ地上に太陽の日差しが

戻ってくるようなことではない。まだ

涼しい頃に陽が昇り、夜が終わる

その短い間になにかが起こっている。

光を迎える、そこになにかがある、

そんな感じ。

東なんてデタラメで、太陽が昇る位置

を知っている人は知っているが、角度

にして年間60度くらい違う。ともかく、

どこが真東だかわからない。僕らは

歩く時に右から足を出すか、左からか、

自宅の階段は何段あるか、確認した

ことはあるか。シャーロック・ホームズ

になる必要はないだろうが、僕らの

それほどに日常にくり返していても、

意識しない限り、ちょっとした小さな

ことには僕らは無関心。どうしてか?

それを知っても得しない、知っても

価値を利益をもたらさない。それこそ

が僕らが無知に陥っている証左なの

だ。資本主義のベタな意味に心が

べったり浸かっているだけなのだ。

僕らはある意味、漬物人間だ。

良し悪しではなく、誤解も俗信も移り

行く正解も見分けがつかない世の中

に漬かっている。それが僕らの常識

だ、という意味でもあるが、 ・・・・。





::

戦争はくり返されてきた。ロシアの悪行

は置いておくにして、ゼレンスキーの

悪行は確定されていないが、演説に

現代の危険(プロパガンダ)を感じて

いる。どちらも戦争の悪い轍を踏んで

いるのは間違いない。情報の現場に

いなければ、何も判断が下せない。

日本のお昼のTV報道のコメントを観て

いると、漫画か冗談に思えて仕方ない。

             6.23
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江藤淳の漱石・小林秀雄を40頁読む [江藤淳]

今日は本を買わずにおこう、という決心

は無駄である、僕の場合。食傷気味で

ある時は買わずに済むこともあるが、

体に余裕がある時は、まず目についた

本は買う。

中身をめくって、主に目次で気になる

文字があれば、間違いなく買う。

そうして、今日も予定ではなかったが、

文庫と新書で4冊を購入した。しかも、

マクドで珈琲を飲みながら、感動して

読んだ。江藤淳の戦後の私―だが、

漱石に意外に深く入っていた。あと

一歩だったのに、と感じられないこと

もないが、それはまだ未定見なので

せめて「こころ」を読んでから書いて

みたい。あと、小林秀雄と私にも、感心

した。彼は言葉に関して、音との

つながりがあるようで、小林が亡く

なった晩に眼を潤ませながら、出版社

や新聞社の電話で眠れずに、本居

宣長補記を読みながら、文章が眼に

入らずに行間から、小林の声が文章

になって聴こえてきた、という叙述に

感心し、また面白いと思った。

とてもベルグソン的で、イマージュの

内容を実現化したと、暗に言って

いるので事実だろう。

江藤のを読んだのはその一部で、

他の3冊も一部読んだが、興味

深かった。

日本の道徳観は異常に古い処から

これも自然に縄文に結びつく気がした。

17世紀に仲よくしろ、という憲法が

作られた(和をもって貴しとなす)と

驚くのが欧州人らしいが、いや、

17ではなく、7世紀だというと、さらに

驚いたそうだ。 と書いてある、

十七条の憲法のことだ。古事記や

日本書記より100年以上前には

成立していた、ご存じ、聖徳太子だ。

あの国民歌手の三波春夫、お客様は

神さまですで有名な人だが、あの人が

古代研究をしていて、偽書に拠るらしい

が、十七条憲法は5つあって、全部で

85箇条の憲法だという異説を述べて

いるらしい。変だが、面白い。

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大和の骨董市 [骨董市]

相鉄線に小田急との乗り換えで大和駅

がある。毎月の第3土曜日に骨董市が

開催されるというので、今日行ってみた。

大和骨董市1..JPG

駅前の三方で市が並んでいたが、多少

にぎわっているかな程度で、その人よりも

品数の少なさに驚いてしまった。少なけれ

ば、掘り出し物も期待できない、という通り

に見るものがなかった。僕は古美術や

古道具には詳しくない。

が、これは見ればわかるというくらい、

ガラクタ市だった。少ないから、ガラクタ

ばかりとなってしまう。皿の染付でも何枚

かは見るものがあるのかと思ったが、その

染付皿自体が数枚しかない。絵皿となれば

絵画は得意分野だから見ればわかる。

絵になっているものなど、一枚もない。

と言っても、数枚しかないのだから。

全部見て、陶器は多くなかったが、これは

よくできていると、僕には見えたものが

茶壷のような小さな壺で一品だけあった。

色合いもよく、300円なら買ってもいいかな、

と思ったが、2000円もすれば買う気になら

ないし、ほんとうに300円なら、買っても

どうなると逆に買いたくなくなる。

で、値段も聞かなかった、使い道もないし。

大和骨董市1..JPG

古着屋が3分の1を占めていただろうか。

石を売っている店もあったが、河原から

拾ってきたような石が多く、バザーなら僕も

河原から石を拾って売ってみようか、と

思ったぐらい。普通の石だ。

大和骨董市3-1.JPG

中国人の店も混じっていて、出来の悪い

人形ばかりだ。他に円空を真似た木彫り

もあったが、もう少し、それなりに似せられ

なかったのかと、首が曲がってついていたり、

ただ端的に下手なだけ。あとはアフリカ系

の真っ黒の石の彫刻があった。とても

重く、こういうものの評価はわからない。

彫りはまともだった。縄文土器似だったら、

迷っていたかもしれない。

今度は東京のもっと有名な場所とか、

地方の長年続く神社での骨董市を訪ね

てみよう。
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