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新しい過去を可能性と見るか? [過去]

まだこの感じが続いて、空想は続く。

未来と過去はイレギュラーな感覚で

その心の表象には触れたのではないか

と思ったが、検討してみるとますます

不思議さがからまるように、実態が

遠のいてゆく気がする。

そして、それが正解なのだとしたら、と

視点を飛躍すると、また新しい困難な

点が浮かぶようだ。

もう数日かで、この感じは離れて行くと

思うので、自分でも気が進まないながら、

もう少しつきあってみる。

天国の夢はもう見なくなったが、地獄の

夢はたまにだが、見る時がある。体調が

悪いか、心象が悪い時に見ること多し、

なので見たいと思う絵ではないが、興味

はあって面白くはある。地獄の何が地獄

なのかはよくわからない。血の池地獄

とか、昔の江戸時代?地獄図が出てくる

わけではないので、いつも目覚めてから、

あの雰囲気は地獄だったのだ、と顧みる。

全体を平均してみると、それは洞窟

が多い。暗いが、夕暮れくらいで、見え

ないほどではない。多くの貧民がバザール

を開いて、何物か売っている。

がいこくじんだ、そう言えば、外国人の

夢ばかりだ。そして、見えはしないが、

誰かが監視していて、トラブルが

起こるとやってきて取り締まる。1度

だけ、そいつらが来たことがあって、

洞窟の住民がそいつらを非常に

恐れているのが、その表情で

わかった。洞窟は広かったり、狭かったり、

通り道は細かったが、壁をくりぬいて

商売の店先にしたり、たむろする場所

だったりした。

こういう夢を見ると、今の自分状態を

調べ始める。体か心かの調整が必要な

時だからだ。そう言えば、最近は随分、

見ていない。

その地獄だか天国だかだが、夢は

まだいいが、そういう亜空間がある

としても、僕には無縁らしい。いつも

誰もいないからだ。これは自分でも

自信のない記憶だが、天国も地獄も

僕が行きがかった時は、いつも誰も

いなかったようだ。天国だからいい、

という訳ではない。そこに誰もいなけ

れば、なんの面白味もない。

例えば、この地球上ですべてのもの

が自分の所有になったとしても、その

時、他の人間がすべて消えてしまって、

自分一人だけだったら、地球の王者

になって、何の意味があるのか。

それでも動物好きで、人間に興味が

ない自分なら、ある程度はいいかも

しれない。だが、次は?

子供が生まれない。ただ一人の人間

として老いて、亡くなるだけだ。

半分は、そういう自然な世界に憧れる

人は必ず、いるだろうが、200人以上

いないと、まず絶滅を迎えてしまうらしい。

交配とか遺伝子や生体のルールらしいが、

先細りになり、一家族では言語も失われ

始める。親が亡くなると、子供たちが幼い

と、他の動物に面倒を見てもらうように

なる。

すると、今までの狼に育てられた子

などの記述を信じると、人間の子は

その育ての動物に近づく。感覚器官も

人間とはまったく異なり、人間なら聴こえ

ないような、かすかな葉のこすれあう音

や小枝の落ちた音に反応することが

できる。手より足が長いのに四つ足で

走り回ること出来て、大人が追いかけても

掴まえられないほど速い。

狼に育てられた子の場合、顔が前に

伸びるように、やや骨格が変形し始めた

そうだ。つまり、狼の顔に似せて。


動物と人間の子と共有なのは、お互いに

野生の間柄が残っている、野生である、

ということだ。どうもここに原点がある気

がする。それは大飛躍なのだが、僕が

過去にいる気がする、というこれまでに

書いてきたことである。

未来が天国であろうと地獄であろうと、

それを見て、誰もいなかったら、僕は

それを拒否するだろう。今、という時点

は未来とともにあり、本当の未来はない。

それは夢などの思考が意識と形作った

知の構築した未来であって、ほんの

近未来だけが重なっているものだ。

正夢はそういう事情なのだろう。近未来

を見るが、10年後に、ああこの目の前

のことを夢に見た(10年前に)という人

を聞いたことがない。

近未来、それがうるさいと感じるのは、

知がうるさいからだ。しゃべり過ぎる

のだ、知の未来は。

動物も子供も、知の未来は生じない。

認識は主に感覚によるもので、知は

たぶん、生体で未発達に留まっている

からだ。チンパンジーが人間とDNAが

200個(基?)ほど違うだけで、見た目も

あんなに違うが、子殺しや、詳しくないが

動物では珍しい、人間じみた犯罪?を

犯すらしい。

簡易な算数はできても、数学はできない。

言葉の区別ができても、俳句は歌えない。

認知症になった父の施設での短い期間で

その行動を見てみると、外の景色が

見える椅子を自分の場所にしていて、

誰かがその椅子に座ったり、眼の前を

塞ぐようにすると、怒る。それは外を

通る自動車やバスを見るためだった。

動くものにはまだ興味があったようだ。

そうして見ていると、こちらからは気の毒

と思うが、父自身はそうでもなかった。

しあわせとは言えなくても、それに

近かっただろう、とは想像がついた。

あまり表情がなく、喜怒哀楽は影を

潜めていたが、外を眺めるのが楽しみ

であったのは、確かだ。そういう自分の

状態にも気づけないのは、半動物状態

だとも言えた。

僕は未来から離れるのは、今から離れる

ことでもある。しかし、それは空想の距離

のことではない。心の棲み分けの問題

だと思う。僕の何かが動物と通じている

のはこれまでの彼らや見知らぬ子供たち

からの挨拶などの経験から、疑えない。


僕には思い出の過去という心情がない。

人にはよくある過去は郷愁である、という

その人その人の過去の記憶とともに

込められた心情が心に根付いていない。

ある音楽を聴くと、必ずその過去の事情を

思い出して、胸がせつなくなる、という

その根が死んでしまっている。または、

剥がれてしまっている。

そこで僕は過去を造り出す必要に迫られ

たと、仮定すると、今の状態・状況に

辿りついたと納得する。

心は勝手に、自分に必要な状況を造り

出してしまうものだ、としても非難はでき

ない。その状況を確実に把握しておくのが

大事だ、と感じるのみだ。

人間はなんでもかんでも、好きなものを

作ってしまう。過去と言っても、昨日の

ことでも、小さい頃のことでもない。

過去は実在としては存在しないのだから、

この過去は、変だが、新しい過去なのだ。

そのうちにこれが誰かがしている、実は

よくある行動だった、という例をなにかで

見つけるかもしれない。僕にとっては

新しい事例でも、概念化されて社会に

出回っていないだけで、人々の隠れた

歴史にはよくあることだった、ということ

になるのかもしれない。

不思議は終わらない。まったく、そういう

ことだ。

飲めない1..JPG

バター入り珈琲というのはあるそうだが、
飲みたくない。スプーンも大き過ぎ。
飲みにくい珈琲に見えるが、中はコーラ。
現実はそんなもん。(笑)
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