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失い得るもの、失い得ないもの 2 [ためらい]

自由に書きたい、という時、難しい

のは自分だと気づいたことは

あるだろうか?

僕らは、いざ書く時に気負ったり

しないかもしれないが、やはり

誰かに書いている。特に不特定多数

という読者はいつでも心には隠れ

ていて、が、それを意識することは

なく、僕らは書き出す。

思い出してみればいい、小説でも

随筆でもまったく誰も読者を想定

しないで書いたことがあったか。

少なくとも、最終的には自分に

言い聞かす形でペンを執るなり、

キーボードに向かっているはずだ。

まったく自由に書くという時、

この無意識の設定を外す、とまで

考えたら、これは簡単なことでは

ないと思うだろう。

それだけで僕らは何の制約もなく

自由に書くとか、描くとかはして

いないことになる。

最も古い洞窟壁画は、6万4千年前

のヨーロッパのものらしいが、それ

がもっとも古いかは、いつも謎だ。

洞窟の壁は岩盤で湿度も一定だった

ろうから、それほど長い間残ったと

いうことで、もっと古いものでも

風化や日光に当たっている場所では

早くに消え去っていたはず。だから、

最も古いではなく、古い年代として

偶然発見されたもので、その長く

残された年代としては何万年前だ

ったという説明が必要だろう。


そのため

僕たちは最も古い年代のものを

もう発見することはできない。

それは歴史的な意味を持つもので

あって、歴史上の厳格な事実では

ない。いつの時代でも失われた

ものは二度と戻ってこないという

常識は、それなりに真理なのである。


それが僕らにとってどういう意味が

あるのか。

現代に、現在に有り余るほどのもの・

ことが失われる事実がある、という

こと。

だから、僕たちは常に新しい世界を

歩いて行かざるを得ない。

必要な懐古、必要な思い出とは別に

今を生きざるを得ない。


生き急ぐことは体も心もついていけ

ない状態ではなんの効果も、必要な

結果も生まれない。取り掛かるのは

今だが、まず自分に、ではなく子供

たちに伝える覚悟をしてどこまで

行けるかが、歩いてゆく道程という、

過程が目的の旅になるだろう。

そう思えるくらいの理解が必要で、

そこでは千年という月日が現実的な

月日で現実に感じられる時間として、

また現実に前提として考え始めよう

とする時間になるだろう。


夢ではないのだ。教育も人間の在り方

も目的ではないし、優生学でもない

のだ。

ここに人間の社会が人間らしくある、

という希望で建築であるという場所

なのだから。     22.12.25




「失い得るもの 得ないもの2.」を

書いて、投稿するのを忘れていた。

もう半月が経ってしまって、この先は

書かないだろう、と考えていたが、

やはり、書くのは無理なようだ。


自分を信頼するのは一方でこの上なく

気持ちいいことであるが、もう一方

ではこの上なく不安でもある。それ

は信頼に一歩を踏み切れていない時だ

からだ。どう踏み切ればいいのかと、

考えているうちは踏み切るつもりが

ないことを表しているのだが、考え

ている最中なので、気がつかないの

だろうか?それは見かけの話で、実際

は気持ちが決まらないので、その影響

で考えも決まらないだけなのだ。

決めるのは夢から現実にジャンプする

ことを意味するから、内容は現実に

目覚めたくないことを「決めない」

という行為で表している。

崖から海に飛び込んだり、大事な

告白をしたり、自分が未経験なこと

をする時に迷うのが、この行為なの

だ、決めるのを逡巡する、という。

だから、結果がわかるような行為

であっても、気持ちが同意しなけ

れば、いつまでも迷うことができる。

経験して、もう何でもないことに

思える人には、それは不思議な行為

に見える。

そのジャンプには必要な仕掛けが

含まれている。夢から現実への掛け

渡しにはただ思い切りが必要になる

ことで、この「思い切り」というの

はふつう考えてしまう、思いによっ

て「しない行為」を思い切ることで

はない。それはできないのだ。

崖からはただ飛び降りる行為がある

のみで、それを思いで打ち切ってか

らというのは、ただの逃避の行為

を延長することで、先延しだからだ。

そして、その行為そのものに移る時

には、誰しも必ず、無になる。

心を無にして、自分のその「しない

行為」を打ち切る=捨てるのだ。

一瞬で捨てて、あとは飛び降りる。

歌舞伎役者も舞台へ出る前はかなり

緊張するのだが、経験ですっと舞台

へ出るのだ、と言う。

もしも台詞が出てこなかったら、など

と考えたら、恐ろしくて、そのまま

楽屋に戻らずに、タクシーに乗って

家に帰ってしまうだろう。それは誰

も同じで、必要な場面では考えない

ことを心得ている。

しかし、日常では考えるべき場面で

面倒なので準備もなしで見切り発車を

することは多く、そのため全体を反省

する機会は減り続け、僕らの生活は

不完全さを積み重ね続け、世間の

言う方向に任せてしまうのである。

レールの上の人生はつまらない、など

と言うが、それには結婚・離婚の

ように大きなエネルギーと新しい

生活への強力な確信がなければ実行

は難しい。

その上でどういう人生がいいかなど

と言うのは、それがわかっていない

ことになる。エネルギーある人は

自然に自己抑制の社会的な禁制を

破りやすいし、弱い人はそれなりに

協力を求めたがり、平凡な常識に

縛られやすくなる。

そこにその人の生き方の云々を

評価するが、そんな評価が導き

出すものは他山の石であり、僕ら

ひとりひとりにはまず役に立た

ないものだ。

ここにはどう生きるかはルールに

ならないという因果の現実がある。

だからこそ、常識の戒めが必要に

なる。そう聞くと、僕らはその大事

を思うのだが、それはどういう人間

がどういう意図でその禁制を破った

かがわからないと、正しい答えは

得られない。そして、その答えが

道義との整合性があればあるほど、

逆に僕には信じられない。禁制を

破るほどの自然なものがそこに

あるかのほうが問題だからだ。

それは世間の風評と逆の場合で

あることが多い。

それはしみったれた現れ方は

しないはずだ。堂々と笑って破り、

なお人々がその人を慕う、という

処には人間・物事の矛盾や解決

できないものがその人の行為と

なって現れる。

すべての物事を測ることができる

(基本の基本という)基準がこの

世には存在できないことを示して

いる。だから、僕たちはある意味

自由なのだ。ただ自由なのでは

ない。ある意味で、だ。

そういう限定をつけるのであれば、

愛も平等も自由も存在するだろう。


少し、急いで飛躍してしまった処で

終りにしよう。
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