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バッハ(古典音楽家)とぬるま湯の気分でベッド(布団)に入りたい [バッハ]

2月15日、まだなにも始まって

いない。

3月15日、なにが始まってい

るだろう。

よく眠りたい。

地震の前触れのように背筋の

骨髄液が緊張している。

食べてごまかすのも、胃に負担

をかけるだけ。

やたら、珈琲が飲みたい。

カモミール茶のほうが神経を

鎮めて、胃にもいいのだが、切ら

している。

書くというのは難儀なことだと、

深夜に思う。この待たないで待つ

というのは、神経によくないのだ

ろうか。

ニガ・シ は

丁寧な言い方らしい。

どうもこうしている場合ではない

気がする。ただ、3時間ばかり寝て

起きてしまい、それからしばし経っ

ているのだが、目が覚めていない

気がする。

仕事をしようか、書くつもりの仕事

を置いてきてばかりで、だんだん

気にならなくなってくるから、早い

段階で手をつけるのがよい。という

のがあるが、ただのセオリーだと

思っているから、ぬるま湯から出られ

ない。

理想への気持ちを調整しようと考える。

片側に位置するのはわかるが、どう

いう時・場合にどちらに位置するのか、

それぞれで変わってしまうだろうから、

それなりに見通しておくと楽だ。

うまく失敗したい。はっきりとその

訳はわからないが、ともかくやって

みたい。

これで、メモを終わらせよう。



クラシックが久しぶりでやってきた。

バッハのカンタータBWV156。題名

は我が片足は墓場に入りませリ、と

でもいうのだろうか。

バッハの音楽はほぼ宗教音楽に聴こ

える。彼が作曲家として歴史に登場

したのは、死後80年だと言われて

いる。その時代の著名な音楽家が

J・S・バッハを高く評価してから

らしい。それまでもベートーヴェン

もモーツアルトも評価していたが、

なにせバッハは音楽一家であり、

一族でいろいろなバッハが活躍して

いる。そして、なんと200くらいの

小節は一族で使いまわしで作曲に

組み込まれたらしい。それでは

バッハは埋もれてしまうわけだ。

ともかくも、彼の敬虔な人の祈り

のメロディは美しい。有名な曲は

いずれも曲の一楽章を抜粋したもの

が多く、そこが浮いてしまうほどに

出来がいい。それがどの交響曲の

何楽章かを知る人のほうが少ない

だろう。例えば、最も有名なのは

「G線上のアリア」、「主よ、人の

望みの喜びよ」、「アベ・マリア」

とか。他にも多く、・・。



棺桶に半分足を突っ込んで、この

カンタータを聴くのなら、死も許せ

る、と言いたくなるようなメロディ

だ。



僕には音楽の好き嫌いはあるが、

なぜか、そこに音楽の分野の垣根

はない。演歌は全般に好きではない

が、好きな曲も数曲はある。なにわ

節も広沢虎造のには好きなのがある。

ジャズもポップも歌謡、アジア音楽

もアフリカ音楽も日本と世界とを

問わない。ただ、僕の好きと嫌いが

あるだけだ。好きなものがその分野

に多いか少ないか、だけだ。

それは僕の体に合わせているからだ

という気がする。心に合わせたら、

自分がしゃしゃり出てきて、例えば、

誰かのように古典音楽は最高だ、

他は低俗だなどと極論を言い出す

のだ。自分好みの定義づけとはその

程度のもので、聴覚野が狭い。

僕がベートーヴェンの第五などは

高校の頃か、随分我慢して聴き続け

た末にやっと聴けるようになった

記念の曲だ。

ただ慣れたに過ぎないのだが、慣れ

の大事さは考えや思想に打ち負け

やすい。ちょっと聞いて、あ、

合わない。ちょっと絵を見て、あ、

いいね、とか。
            


敬虔な心には明確な下支えが必要

な気がする。神への祈りはピタリ

もってこいの、丁度の題材だと。

心が洗われる気がするのだから、

凄い効果だと思う。こういう風に

僕らは何かに寄せて、従う気持ち

をオーバーラップさせて、弱い

自分に拠りどころを与えようと

するのだろう。それが沁みつい

てしまう癖でもあるのだろう、と

思うがその美しさには抗い得ない

ものがあるのは確かだ。



破れかぶれには、それなりの強さを

必要とし、守りたい弱さには依存心

が似つかわしいのだろう。ウールを

着たり、木綿を着たり、カシミアを

着たりと、環境や季節に合わせる

ように、流行があるが、必要もある。

流行ならば、それは一考を要する、

という気もする。

なにかが過剰になるのは、自分の

キャパを超えてしまうからだろう。


バッハの美しさはよくない。異常

に安心してしまう。寄りかかって

安心してしまうのは、僕好みでは

ないから。



だから、他人の評価ほどあてになら

ないものはない。自分を作り出した

その人本人がその人の何者かを知ら

ないから。



人は自分が心底感じ入ったものは他人

も同じように感心する、と思い込む

癖がある。それが自分という者の

通常の習慣な癖だから。なにかに

拠るというのは、良くない意味では

誰かへの甘えと同じだろう。すると、

誰かへの甘えが、いつか自分への

甘えにすり替わっていてもおかしく

はない。

そこで皆が評価するものを探し出して

きて、自分もそれを評価して仲間に

入りたがる。これは人に会って、頭を

下げて挨拶するのと、なんら変わり

ない。いつまでも安心ごっこをくり

返すことになり、世間が作られて

ゆくのだが、そういうものなのだと、

冷たい視線を温かく変えてみよう。


そうやって、ほぼ自分というものが

自動的につくられるシステムが

やがて見えないようになる。

だから、大人は信じられない、と

言う若者の意見はその意味で正し

いだろう。



世間が作ったのではなく、自己が

自分を知り、つくるということも

ある。そこに立脚するためには

一時的に内省をするだろうから、

最初はどうしても汚れの面を見る

ことになるので、そこから起こる

自己嫌悪に対処する期間が必要に

なる。よく見つめられるまで、

家族や社会を非難・批判しやすい

が、嫌悪すべき自己もやはり自分

に変わりない。

それは理屈・理論・思想を並べて

も同じだ。気持ちを変えるには

なぜ私はそれを嫌悪するかの

理由を知らなくてはならない。

それが見つめることだ。

静かに内省する時間が要る。


社会に対する甘えは他人をも

安心させる。これとバランスを

とるのが平常心であり、自立心

だろう。これは二つの応対になる

から、使い分けが必要になる。

神経質に自分を使い分けするのは

技術的にそれを考えるからだろう。

頭の考えるテクニックではあるが、

自分の芯が掴めていれば、どんな

矛盾した態度もこなせる。


人間の作り上げた教科書の偉人で

はなくて、自分というだらしない

かもしれない、臆病で弱気であっ

たりするかもしれないが、前を向い

て立っている小さな巨人を自分で

も見ることになる、それができる。


大きな意味で金融は金利の発展した

もので、儲けるものだ。腐らない。

なぜお金は腐らないのか。古いものを

廃棄して新しい札を印刷し、硬貨は

鋳造するからだ。そこに安心がある。

買えば、支払えばそれまでなのに、

錯覚の自由(に見える)選択さえ

ある。



清貧の思想と言った人は勘違いして

いる。まず、清貧は思想ではない。

その下に貧困という現実があり、

それは清貧ではない。僕らはそれを

恐れ、足るを知る生活を考える。

僕らは贅沢がしたい。それは過度で

なければの話で、過剰になると、

それはお金の自由と力の越権行為へ

の方向を目指してしまう。

どちらかを選ぶという方向はない。

僕らはどちらも究極的には選ぶこと

ができない。それは大元でのように

知識や思想が他人の気持ちを完全に

抑え込むことができないように、

感情では相手の考えを翻させるのは

無理だ、のようにどちらかを選ぶ

方向はない。

その時その場においての事案・事件・

問題において相応しい対応がある。

その適応がそれらの臨機応変な対応が

求められる。

そこでは求められるのは、納得できる

妥協案だ。気持ちも考えもミックス

して、それぞれの立場と利益とを考え

るということを、昔から、太古から

してきた。それをすることだ。

それが自然になされたことでもある

が、主に日常や国家間とかのこの世

の全体の一部のことであって、僕ら

はその中で全体が見えずに、相変わ

らず彷徨っている。

だから、科学も哲学も政治も経済も

分離したままで動かそうとして、

うまくいかない。この世を支配して

それは富の集中に収まっているが、

まだ人類を支配しようとして、結果は

分離を押し広げるのは明らかなのだ。

ある今の現状に適応したレベルに

それぞれの分野をならすことが必要だ。

大きな視野では競争はまずい。例えば、

公共機関や施設は儲けの資本主義で

やられては、火事なのに貧困者には

消防車1台も来ない、ということになる。

そういうレベルを全体で試算して、

全体社会の労働と国民の体力、医療と

健康事案、警察と問題対応、政治と

選挙の情報化、金融の簡素化・国家間

の為替の不合理の公正なバランス化、

などなど今の世界の金融支配者たちは

低利で融資して力を貸すべきだ。


と言っても、これは正論に過ぎない

のか。過ぎないのだ。希望などない。

これが大事、希望などない。やるか、

やっていくか、しかない。


さて、ここからが本題だ。この問題は

解くことができる。それはわかってい

るが、あとは僕らがその動機を共有し

て足並みを揃えるのだが、それをどう

するかということが、最初のひとつの

難関だ。難関だが、不可能なことでは

ない、全然。


             2. 15







無意識と現実の関係は、実際どうなっ



ているのだろう?この夜とのつながり



は?



無意識から現実に乗り換えることを考え



ているが、それは実際にはどいう意味



なのか、わからない。



人はどこへ行こうとしているのか。



             2.20
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