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イデー・ 創造と破壊がセットではないこと [創造]

集中するか、緩めてしまうか、と

いう二者選択ばかりをしてきた気が

する。

リラックスというのは集中してから、

その状態で緊張の中のリラックス

というのだと思っていたらしい。

なので、未だに自然なリラックスと

いうのが不得意で、どうしていい

のか、どうしたらリラックスになる

のかがわからない。それで茫然と

しているのがうまくなったのかも。


死の隣りは不安は無くしてくれるが、

緊張は解けない。体はしっかりさせ、

心をリラックスさせるのが瞑想だと

読んだ気がするが、僕には嘘に思えた。

気分がいいのがリラックスなのなら、

そのいい気分さえ邪魔・不必要なのが

瞑想だと思っているからだ。

経験主義と言った人もいたが、何でも

経験ではない気がする。人間のこさえた

り、決めたり、区別したものは知識や

技術で展開も複合の問題が起こっても、

経験よりも数式や論理が頼りになる。

僕はほぼ経験を中心にして、そこから

オーダーを編み出してゆく。知識と

数式論理だけでは、与えられない結果が

多いことを知って来たからだ。


そこ(潜在意識帯?)には何の知識も

ない。あまりに当然の話だが、それ

ではどうして僕は現経験もないのに、

それを創造だと知ったのだろう、と

いう疑問が湧いた。その時にその接触

はとても意外なもので、知らないのに

そこで天才たちは作品のヒントや素材

を得たのだろう、と直感した。

どうしてそれがそれほどに具体的だっ

たのかがわからない。僕らの内には

あるイメージ=イデーというものが

あって、わからないものが現れると、

その巨大に膨れたイデーからそれに

合うものを当て嵌めようとして、実際

に当て嵌めている。

昨日だが、いよいよ磁器を作ろうと

大泉学園にある教室で体験教室を

ろくろでしてきたのだが、意外に

器用で先生が初めてではできて

いる、と褒めていた。実は工芸の

ようなものを造って褒められる

のは、中学校からのことなので、

褒められ慣れている。それは新

発見ではないのだ。

思えば、もう3年も死と隣りの

緊張から離れようとしている。

それは秤の両方に載せた分銅を

片側からもう一方の側へ移す作業

のように、緊張が溶ける程度に

応じてそれまでの生活意識から

失うものがあった。その反動で

落ち込みそうにもなり、元に

戻れることはないにしても、

生活の意識を変えるのはそう

そう楽ではないと思った。


では創造とは何か?

気づいた時は書けるのでは、と

坐ったのだが、集中が衰えたのか、

なかなかその時の瞬間が想い起さ

れない。よく知っている概念に

結びついたので面白いと、思った

のだが。

陶芸教室には本焼き前の作品、

素焼き前の作品が板に載せられて

いくつも置いてあったが、一人の

作品が目についた。その人の印

が独特なので、すぐにわかるのだが、

見ていて、何も来ない。これはあかん、

と勝手に思う。僕が考えるという

よりも想いが勝手に説明を加える。

これが芸術だと思っている。よくある

勘違いだ、と。

三角錐の角(つの)を何本か大小で

並べ、線模様や粗い肌で雰囲気を出そ

うとしている。それは類似の作品にも

見えたイデーがあった。そういう作品

は思えば嫌と言うほど見てきた。

三角錐をひとつのオマージュである

かのようにそれを見えない基本とした

それのアレンジ作品であって、亜流

にしか見えない。亜流では芸術では

ない。三角錐が何も壊れていない。

創造の一過程がここにはない。

なにかを発見することは多くの場合、

なにかが壊れる時だ。それでまだ

壊れていないそれを、壊しに行く。

それが現代アートであるべきだ。

いつもそれが芸術の価値であるべ

きだ。

創造と破壊はペアとして並べるべ

きものではない。創造するために

その前段階として、破壊があるの

であって、まず創造があるのでは

ない。だから、ただ壊すのでもない

し、壊せばいいというものでもない。

創造するものが作家の目の前に

現れるのが作家にわかるようになれ

ば、なにをするかは決まって来る。

その「なにか」に破壊の「一過程」

が含まれるのだ。鉛筆と消しゴムの

ようにセットで創造と破壊が両天秤

のようにあるのではない。


それは芸術のひとつの形式なの

かもしれないが、ちょっと変わった

工夫とか、想像を超えたいい色が

出たとか、鋭いセンス、とかがもう

芸術、アートだと思っている。が、

そのものはしっかりカテゴリーに

収まってしまっていて、考えた

作品に、結果、なってしまっている。

僕にはなにかある。それがわかる

ようななにか感覚がある。か、それ

ともその感覚が人よりも数倍開い

ているか。

濱田庄司の作品も見たのは、柳宗悦

の民芸運動を見ていて、その紹介で

民芸運動の参加者のひとりとして

知った。五六人いて、陶芸は二人

くらいだったが、濱田の作品はすぐ

に「いい」と思った。迷いがなかった。

なので、それが僕の趣向の作品なの

だと思った。なかなかやるなおっさん、

くらいのものだ。

調べると人間国宝で、益子市まで行っ

てみると、その濱田庄司参考館の海外

コレクションも素晴らしいものばかり。


著書の「無儘蔵」を読んで、ものへの

体験が同じことを知り、これはただの

人間国宝ではなく、ほんとの陶芸家だと

知った。人間国宝などは勲章のような

もので、実際の評価は分かれる。

螺鈿だったと思ったが、波模様が重ね

合わさって、それが正確に同じように

刻むことがその螺鈿工芸の人間国宝の

人にはできなかった。

ところが、江戸時代の職人の作品では

これが正確にできている。現代の人間

国宝の人の職人技術ではまだ追いつけ

ないのだ。

以来、陶芸の精神性は濱田で止まった

ままだ。時間がかかるらしい。それ

だけ面白い。


この無尽蔵というのは、創造に関わる。

濱田に借りて、僕の解釈をすると、

ものの奥に見えるものがあり、それは

心とものとのなんらかの転化物だろう。

パターンは化学変化に似ている。

それを一つの作品がそこに共有して

いると思っている。それはものように

固形だが、見えない非物質で、美と

似たようなものだ。絵画と違って

これは食べられる! 肉のように

腹は満たさないが、明確に心を

満たして、見て見て見た後に腹

いっぱいの感覚を与えてくれる。

これが絵画と陶芸の感動について

の根本の違いだ。

絵画は見尽くしていれば、画家が

何を描こうとしたかがわかるが、

陶芸にはそれがない。わからない

まま、それに乗り移るのだ。

なので、僕は陶芸で何をしたかっ

たかわかる作品は、検討しない。

すぐに違うなあ、と思ってしまう

からだ。自然にそう見えるものを

自分では否定できない。

濱田は自分を殺して、その相手となる

作品に参上する。自分がないので

基準もない。好き嫌いもない。

そういう創造の世界ではなんでも

自分の許容量だけ手に入る。そして

自分が描いたのではない自然な描線

が現れる。自分を失くすから、囚わ

れもなくなり、自由でこだわりの

ない線が現れる、自然な形が現れる。

その不思議さにいつも心奪われる。

不思議だがほんとうだ、と言って

いることが(自意識からは)馬鹿

みたいだ。(と思う)

が、わかるものはわかるとしか

言いようがない。
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