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算数は数学になっても、言葉は人による [言葉]

スピノザは17世紀の近世合理主義哲学に

位置づけられている、始め数学で哲学を

書くつもりだった人だ。デカルトやライプ

ニッツの時代の人だ。数学が好きだった

のだろう、若い14歳の時には数秘術に

はまって研究したらしいが、少しも合理的

ではなく、真理の追及には向かないのに

気づいて、荒唐無稽と毒づいて捨て

ている。

スピノザも読みたいが、読むだろうとは

予想もしていない。現在、僕の読書漂流

はアガサクリスティーから小説に入ると

いうイレギュラーをやらかして、パトリシア・

ハイスミスのリプリーに及んでから、また

離れて、’ギュンター・グラス’の手紙やら、

’最新の世界史解釈’や’ナショナリズム’

を横目にして、’太陽系の謎’とか’量子

力学’の復習やらして、また小説の作家

ゴーゴリに入っていった。まともに1冊でも

読んでいればいいのだが、先日も旧約

聖書の新共同訳で略解を購入したが、

1500頁も解釈文だ。略でなくて詳解

だったら、3000頁以上になるのか、と

意欲がめげていた。

細かい精解はどうでもいいことにしたい

のだが、いざそこで引っかかったら

と思うと、つい買ってしまうのである。

ロシアのドラマで匂いで犯人がわかって

しまう「スニッファー」というのを再度見て、

ウクライナのドラマと知った。ロシアの

ウクライナ侵攻からそれに会う。次に

ゴーゴリに会ったのが、映画の

「魔界探偵ゴーゴリ」だった。

短編集の「ディカーニカ近郷夜話」

が原作で、珍しく神秘・怪奇が

面白くて、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと続けて観て

しまった。合理性と神秘性が両方

ともに物語に据え置かれていて、

片方に偏っていないのが、公平で、

それが印象的。

ウクライナは当時ソ連邦の1国だった。

ゴーゴリはウクライナ生まれだった。

ただ単にロシア人だと思っていたが、

キーウはロシアの中心だったことも

あったらしい。



占いというものも律儀に考える人は多い

のだろうが、韓国ドラマに刺激されて、

も一度遊んでみることにしたのだ。

節入り間近に生まれた場合、その前年

や前月の干支を使用するというのが、

伝統らしいが、僕の直感でそうしない

ほうで、どうなるのかが気になった。

英国人の占師では折衷して干支を

用いているので、僕もそれとは少し違う

形でずらして、図式を作ってみたら、

かなり自身に合うようになった。

たったそれだけで判断は随分違って、

異なるものになってしまうので、占い

もまたいい加減なものだと、再確認した。

そのずらし方は直感によるものだが、

それでなるほどと思う判断も出てくる

のは驚きだ。が、人間の内部心理を

知れば、占いで語るのはその傾向の

ようなことばかり言うので、大体6割は

当たる、というか合うように(その人が

思い当たるように)なっているので、

改めて驚くにはあたらないのだ。

むしろ、当たると思い込まされるほど、

僕らの知る自分がそれほど矛盾に

満ちて、また拡大解釈ができるほど

融通無碍(自由に考えられる)なのが

驚きである。

占いはもっと幸福的に、人に夢を与える

ぐらいいい加減さを増した、所謂インチキ

になった方が良い、と僕は思う。当たる

かどうか非常に怪しいと天才哲学者が

思ったくらいだから、心が開けない人には

安心のために夢を大いに与えればいい。

また、自我が強い人には逆に思い通りに

行動する迷惑さについて、厳しい指摘を

したほうがいい。現代なら、よほど権力

のある者でも占断するのでなければ、

昔みたいに殺されることもないだろう。

大体、庶民相手なのだから、希望を

もたせて、生きる方向にデタラメでも

いいから教えたほうが、本人には役立つ。

気分がよくなって、それが潜在意識に

うまく入り込めば、本人の運勢も確実に

変わるはずだ。問題は占いが当たるか

どうかではなくて、本人がどういう自覚を

’潜在的に’持つか、が重要なのだ。



僕は、だから、自分の直感で占いを修正

してしまうのだろう。はなから占いは信用

していない証左だ。占いでさえ、自分で

コントロールするものだ、という、それが

僕の人生観だ。 なので、 ・・楽しい。

人生は自分で創る。それができる、今は。

思えば、変な奴なのだ、我は。貧乏くじを

わざわざ引くような選択肢ばかりを選んだ。

当然、苦節に出会う。そこから学ぶ、と

いった根性曲がりの生活だ。半世紀も

それで過ごすと、この世の外からの

生活になる。それは死の中の生活だろう。

と言っても、わかるはずがない、皆が

敬遠する方向だからだ。誰も経験しそうも

ないことばかりが起こる。自然とこの世を

越えた世界の片鱗にばかり、会い、初めは

翻弄されるが、なぜかそういう放浪の旅を

しなければならない。生きるとは何かを

究極に求めようとすると、ふつうにそうなる。

特別なことではない。そういう動機に出会う

人は少数派だということで、無理やりに

そういう生き方にならざるを得ない。

しかも、無意識に社会から絶縁しないように

結婚までして保険をかけている。不思議な

要領のよさだ。当時、そんなことは考えも

しなかった。



勝手にずらして占断を変えてしまった占い

だが、僕は高齢になって死ぬ時期を3つ

ほど予想しているが、その占断の大運で

その1つに死にそうに決定的な時期が

出てくる。なるほど、ここが死に時かぁ、

などと喜んでいる。希望と予想は、よくよく

考えてみると、その占断の時期が相応

しいので、まるで当たったみたいなのだ。

実際に病に倒れたり、死んでみなければ

わかるまいに、本人はそれで喜んでいる

のだから、人は自分が思っていることを

誰か第三者に言われたいものらしい。

それくらいの人生への甘えはいいんじゃ

ない?と思うくらいには、占いが廃れない

のも世の習いなのだろう。いい加減でも

安心は必要なのだろう。

スピノザは自身の哲学に満足したの

だろうか、(読むまでいかないかも知れ

ないが)聞いてはみたい。スピノザ伝?

スピノザの日記? スピノザの生涯?

近くの図書館にはないので、調べると、

AMAZONに「スピノザの秋」*に紹介が

あった。::

「スピノザは、いくつもの多面的な姿で

現われ、奇妙な法則で動く世界を遍歴

する。寓意と論理に構築された、狂気

と幻想の世界。」=魔界探偵ゴーゴリ

のような奴らしい。なんでもかんでも

シンクロするんだなぁ。どうもしあわせな

死に方はしなかったろうと思わせる。

ゴーゴリはシモーヌ・ヴェイユのように

食事も医者も拒否して、自ら衰弱して

死んだ。狂死という言い方もしたのが

あったが、それはちと違うように思う。

天才たちの死は、天才の病気・狂気・

神経障害という体の不思議に関わって

いるだろう、と彼らを見てきてそう思う。

天才でなくて、よかった。(笑)

*

「スピノザの秋」は小説だそうだ。本人

とも哲学とも直接関係はなさそうだ。

ますます、世界の名著の解説くらいしか

頼りにならないのか。と思ったら、すぐに

講談社のBOOK倶楽部に「スピノザ 人間

の自由の哲学」がこの2月に出版されて

いて、読みやすいとamazon書評。生涯と

思想がヒントで読めそうだ。

興味があれば、検討を。


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言葉の無題 [言葉]

ダンマ無題  

遊べる精神

貫通するトライアル

逆行する肉体  

飛べ! チタン  

狂わぬ先のマッチ棒  

ローカルな仮面きわめつき  

サブタイトルな外織姫  

楽しかるがる東鳩ヴイ  

肩の重い交換紙   

漸進きわまるスラローム  

コントお猪口 パイ  

ラリアローゼのコート男爵  

ぬかせ!典膳 天玉 天津飯  

殺到する交差点の嵐  

周りを見ろ!ピカサンタス  

眼の回る口内炎  

金印の桃太郎八百屋  

再会できなかった電極  

触れると飛び散る紙パンツ  

後楽園の歯車おどし  

今、感立つのホロー岬  

存在しない表と裏  

バカなら死んだら直ってほしい  

東京は南極も西鶴も北斎も  

ドーデレンツ油の壁掛け  

青い帽子、ああ君の出航  

カモン、歴史のミニタイツ  

考古学は犬の糞(フン)  

ハチミツ色の飴納豆  

どう転んでも体かわす(タイガース)  

毛沢東が感謝する満州日本兵  

同衾の懐を探る餓鬼亡者  

算数の1を引いたら理科になる?  

朝日差す首だけ笑うギロチン台  

たおやめな花はホロホロ蝶も鳴く  

どこかしら眼が覚めたら母の前  

階段で なかった手すりに寄りかかる  

見た目は人間、鼻だけペンギン  

意味か 誠か、あるいは義憤  

同窓の君は寂しい左翼フェラーリ  

孤立して 歩いて落ちない穴探し  

香草の匂いは抗争の、構想の・・・?  

空に立つ希望の影は黄色の雲  

激しさは幸福と言われ不幸になる  

やさしさは不幸と言われ しあわせに  

気の弱さ、優柔不断とやさしさと  

君が代にラッパ鳴るかな憲法改正  

トーテムポール降りても乗ってもトーテム棒  

そこはかとない緑の命、赤い愛  

感覚に指で指示する裏神経  

思想データに車突っ込むAI 戦士  

考えて考え込んだまま眠る 猛者  

どうだいタケシ!勉強はかどってるかい  

ピンクでも桃色でもない流しソーメン  

意味ありて言葉の立つ瀬あるぞかし  

なんなんと なんなんと、なんなんと  

いろはにほはデミグラスソースの香りする  

さすがの猿飛 ぶんぶん蜂須賀  

疎遠とて友を捨てて行く道もあり  

こだわりを忘れて楽し最後の晩  

こうもさても、今それやる?  

どこかで笑うだろう、山の友 酒の友  

いつだか忘れた南京錠の誓い  

東西 田舎暮らし 南北 鶴の舞う  

下駄履きは なつかしいねぇ上野西洋美術館  

催促するバンバンジー屋  

白鳥座、それは太陽より大きいデネブの光  

かくなるうえは角成るドラゴン  

埼玉コーチの新玉ねぎコーチング  

ドロをもさらう ドブ板選挙  

カンニングする賄賂  

言葉尽き、タワシと踊る私、僕  

水の冴え、茶の濁り、言葉の無題   


























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言葉と意味から [言葉]

言葉には意味がある。それは相応のことで、別段それはリンゴが木から

落ちるくらい、普通のことのように思える。しかし、言葉を使うことで重要な

ことを為そうとか、正確さがほしいとなった時には、言葉の意味はやっかいな

ものに見え始める。すると、それは当然、書き言葉を前提にしている。話し

言葉では僕らはその意味を正確に考えないで話すことができるから。それが

会話のルールだから。

こう言ったら(書いたら)、相手にどう伝わるかを考える時、その言葉について

自分が考える意味と、相手が思っている意味では異なっていることが、まず

思いつく。そして、それは思い煩っても致し方のないことなので、無視しても

いいだろうと結論する。やはり、自分の出した言い方や言葉で、他の意味に

解釈されないかを吟味することで、推敲がされるだろう。

そうして書き終わって、少し遠くから眺めるような気になって、自分の文章を

眺めると、やはりそこには読者をある程度限定してる、と感ぜざるを得ない。

ちょうど、はじめから大人向けに、童話は書かないようなものだ。科学者に特に

向けて人情小説を書こうとは思わないだろう。

そこをもっと神経質に考えると、抽象的な言葉を扱えば扱うほど、前にもどって

しまい、その意味は読む者の意味の取り方次第で、かなり解釈に差が出る、と

思わざるを得ない。

特別な感情や感覚を経験した場合は、それが人には簡単にはわからない、と

(直感で)わかってしまうことは、日常でも少なからずある。「こんなことを言っても

信じてもらえないだろう」、という場合だ。

そういうことを書いた場合、言葉の意味というのはどこへ行ってしまうのだろう。

すると、それは似たような経験値を持つ人と持たない人との、解釈の差という

ことになるのだろうか。子供にはわからないが、大人になったらわかるよ、という

ような意味合いで。 

そうすると、今書いていることの全体の意味が、その中心から変容する気がする

のだが、どうだろうか?僕らひとりひとりの経験値が異なることからは、それぞれ

微妙な差から、大きな差まで混在するに違いない。それも1万語の中で特に

象徴性や抽象性のある語では、大きく差が出るだろう。そして、それは単語に

限られたことではなくて、文章から全体の意味を抽出する時にも、大きな差が

出るに違いない。そして、それを測る基準になるものさしは、ないだろう。それが

すぐわかって、納得できてしまう。

考えてみれば、僕らはとことん納得するまで話をする機会を持つというのは、

とても少ない。そういう話をすること自体に、正確に話すように持っていく、

そういう技術が必要とされるからだろう。だから、言い争いなら、喧嘩別れになり、

同意にこぎ着けても、あいまいな部分を残したまま「ま、固いことは言わずに

この辺で」と妥協して納得したりする。そこらあたりは、もう言葉の意味を越えて、

別のことになってしまっていて、気持ちのこととして、お互いに適当に処理する

のである。

言葉の役目はこのように、言葉や言い方で、ある方向や意味なりを指し示すこと

だろう。それが気持ちのことであるなら、気持ちが通じれば、言葉はいらなくなり

その意味も消える。気持ちがわかるとは、そのことを言う。難しくなるのは、考えが

わかるまで行くのが大変であること、それは無数にパターンがあるので、そこから

選べるだけのパターンからそれを見極めねばならないから。もっと大変なのは、

直接の感覚のことで、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚は特別になるようなものを

もっている人を、その人の感覚で直接感じることはできない。例えば色盲の人

の色世界を僕らは見ることができない。幻聴や幻覚を感じる人のものを感じること

はできない。それはそのまま僕らが経験外のことになるので、僕らはそれを自然と

無視する。なので、そういう彼らに無理解になることは必然と言える。

ほとんど記憶にとどめることさえできない。

経験しなければわからないということは多い、とは知っている。が、わかっては

いない。わかっていれば、僕らがどれだけ曖昧に生きているか、またそうすることで

世間に生きていくこともできる、ともわかる。適切な良い加減さと、中途半端で投げ

やりないい加減さとは、双方で社会に役立っているのだ。

そういう自覚のないところで、「世界が平和でありますように」という祈りは、誰にも

その気持ちがわかるにせよ、ただの言葉の意味だけに終わってしまう。自覚を

もった人が十分に現実的なら、そういう有効性があるのなら、活動の仕方がそれに

準じるようになるだろう。

それぞれの国にそれぞれの歴史があり、文化があり、生活習慣があるのなら、それに

等しく、偏見や恨み、時代の変遷があるはずだ。親日国家には意外な親日の理由

があったりして、20年前に日本付近で難破して乗組員が日本に救われて、それが

帰国後に喧伝されて教科書にも載っている、というだけであったりする。

僕は万葉集の優雅さを、それは一般的に歌から感じられるが、その時代に意識を

戻すことはできない、想像さえできない。しかし、その時代がなければ次の時代も

その変化を人々が味わってきた、その背景が経験値に刻まれるはずもないだろう。

そういうとりとめもない歴史の厚みを想像してみる。さまざまな思いや考えが

絡み合ってきた。そういう複雑怪奇な歴層というものをそれぞれの国の人々に

理解しなければならないとすると、気持ちで考えると簡単にできそうな「世界平和」

という単純な風景が、遠い見えない景色に思えてくる。それぞれの歴史や文学が

それぞれの国の言語に翻訳されるというのは、実際はどういうことを実質的に意味

しているのか、わからなくなる。ストーリーは同じかもしれないが、部分の、または

細かいニュアンスが異なっているのは翻訳ミスではないだろう。

まったくそのように、同じ内容にくくれる(象徴・抽象化)歴史を、形や道具を変え

ながら僕らはそれぞれの国への無理解と誤解をくり返している。通信機器が発達

して手軽になり、他国の文化などが一部で入ってくるようにはなった。が、地域

に暮らしているお年寄りには、習慣も言葉もわからない海外は恐ろしいだろう。

そういう理解の点で、僕らが戦争反対、と底の浅いことを言ったり、子供たちが

戦争の悲惨さを世代で受け継いでいくという、気持ちだけの理解ではその子供

の純真さは生かされない。もっとゲームをするように自由に、多くのアイデァで、

十分真剣に考えなくてはならないだろう。

戦争反対とは、暴力に対抗することだ。だから、ボクシングなどで実践的に

殴り合って、暴力の基本を経験値にしなくてはならない。クラス毎に暴力を

テーマにした朗読劇や台本をつくって、いじめる側もいじめられる側も疑似的

にどちらの側も演じあって、経験するべきだ。

暴力を知らない子が多いから、暴力から距離を置くことができず、いじめられない

優越といじめる快感を学んでしまう。それが続いて、毎年増え続けている実態は

それに対策ができていないということ。

暴力反対とは暴力をなくすことではない。あり続ける暴力に対して、僕らは

どうそれを子供に教えるか、という僕らの対応力の課題だ。そこだけが重要だ。

男が女をレイプするからといって、男をなくすことはできない。また、性欲をなく

してしまえば、誰が子を産むのか。肝心なのは、レイプへの対抗をただの法律

や対策ではなく、どういう悲惨さの根幹があるのか、そこをただの言葉だけの法や

規則だけでなく、お互いが態度で示せるほどに共有できることだ。

共有できれば、そこから対応・適応力が生まれ、引き継がれる。

暴力がなくなったら、人間もなくなる。これも気がつけば、歴史の事実だ。つまり、

暴力衝動の根源には、僕らが人間であることの重要な性質が含まれている。

数万年か前に獲得したのか、共有したのかまだ確かではないが、危険から身を

守るために選択されたアドレナリンの放出がそれらしい。これは危険を感じた

瞬間に何も考えずにさせる行動スウィッチである。僕らの世界が地域地域で

平和であればあるだけ、それは発動の機会を失う。そして、自然はそれを失うこと

に危機を感じて、暴力を世界の、地域の局所に集中させるのである。ここらあたりは

通常の感受性を越えてしまった物言いになっている。


言葉の意味を、その全容を考えていたら、大まかだが遠くまで来た。これ以上は

飛躍してしまって、テーマも混沌としてしまうだろう。自意識の範囲では、ここらあたり

で終わりにするのが、適当だろうと思う。


                                  ’19.7.28-29

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