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善悪の枠はなにも超えない [善悪]

人は自分の成功例をよく覚え

ていて、失敗は早く忘れようと

するのか、その成功例から自分

の正しさを組み立てようとして

いるのを感じるのは、僕だけだ

ろうか。

それで自分の意見でも疑う傾向

があるのは、自分の内では想定

内のことで、当たり前な感覚に

なっている。(自分を理由もなく

信じるなんて!?)

それが僕が闇に教えられたことで、

そのまま出発点ともなった。

20代の時には光り輝く神秘を見た

が、解釈しようとはしなかった。

見ている非生命の金属(金網)や

鉱物(家壁)が心のなにかとコラボ

して、内面的にとでも言うのだろ

うか、或る晩からその時間に毎日

光り輝き、僕は最初、非生命な

金属とかのものでも生命があるの

だと思った。

それはあまりにも心に温かく、

しかも錯覚では説明できない、

明確な映像だったし、それは

僕を活かそうとしている、命の

輝きを間違えなく伝えてきたか

らだ。毎日のその夕刻の時間帯

だったので、僕が毎日その時間

に幻想や夢に囚われたというの

は、なんとも不可解で、不可能

なことだった。どういう心理的

事実かはわからないが、僕の

心に写ったという事実は変わら

ないだろう。

考えれば、僕の心理的憂鬱を

疑うこともできるだろうが、

その生命を感じさせる神秘は

目晦ましだったとしても、それ

は僕に適応するように調理され

ていただろう。だとすると、話

はややこしくなる。そういう

現象を僕に見せたのは誰だった

のか、何だったのか、その訳は?

という新しい問題に発展してしま

うからだ。

それが心に展開された現象である

のははっきりしている。それは

幸福感に満ちていたからだ。失恋

後の憂鬱が2年続いた後だったの

で、僕は訳もわからず、ただそう

いう事実だけを受け止めて、それ

を解釈するのは誤解を増やすだけ

で、無駄なことに思った。それで

今でもそれがどうだったとか、考え

たことはない。ただ、僕の身に

起こったこと、それだけだ。そし

て、似たようなことはそれで終わ

らなかったから、

もっと慎重になった。わからない

ことに自分(の意見)を挟んでは

いけないという考え方をいつから

か、するようになった。

これはある意味、重い出来事だっ

た。

僕らの考えでは、一番には正しい

ことを指摘してやりさえすれば、

相手がそれをわかって訂正する

だろう、と考えることだ。これは

大方、失敗する。

正しいというのは、絶対の正義や

正則のことだろうが、それは夢で

あって実際には、僕らという各々

自分の意見が絶対だと思う正しさ

があって、食い違うのだ。

これは考え方の土俵の違いもあれ

ば、多くは僕らがその正しさの

種類や限界を見出すまで考えを

拡張し、その正しさの限界範囲と

適応世界を自分で定めるまで考え

込まなければ(陶冶)、細かい

現実に対応できるほどには役に

立たない。

足し算がわからない子供を叱る

母親のようなもので、こんな簡単

な事がどうしてわからないの!と

ヒステるが、「足すとはどういう

ことか」というのは新しい概念を

教えることで目の前の花や象と

いうものの名前を覚えることとは

全く違う考え方だ。

気持ちを信じる人にはこれに似た

傾向が顕著で、同じ人間ならなに

が一番大事か、気持ちだろう、と

いうことが金個条になっているが、

世の中は白黒だけではないから、

グレーゾーンを無視しがちだ。

人間は同じだ、という気持ちの

持ち方はある、が、その大事さ

だけではないものもあるのも

事実だ。

俺たちは果物(人間)だ。同じ

ではないか。と、バナナが言う。

ミカンも賛成するかもしれないが、

国が違うとかなり考え方の傾向

も異なってくるのも周知のこと。

それぞれ育った環境や出会った人

たちが違うと、その影響で考え方

は異なるのが普通だ。

同じ果物だ、ではかなり複雑な

現実社会では後々問題が起こり

そうな妥協案しかできないだろう。

そして、考え方や何々主義という

思想的統一でまとまるのも、実に

危ない話なのだ。

それらはその問題に応じて、分けて

考えられるべきで、気持ちや一つの

思想でまとまるべきではないのだ。


さて、ここで考えてみよう。どうし

て僕らはひとつにまとまることが

善だと考えるようになったのか。

それは「わかりやすいこと」が

ひとつ、もうひとつはその方が

人民を統治しやすいからだ。それ

は政治の統治教育という当然な

話になるので、「わかりやすい

こと」のほうを説明しよう。

僕らが仲良く協力し合い、助け

あって生きようということが

僕らの心のなかであまりに当然

に考えられていないだろうか。

少なくとも、それは理想だが、

正しいことでそういうふうに

できること、そういうふうに

なることが善いことに違い

ない、と思う事はしっかり心

の底にあるのではないか。

これは僕らが衣食住を分業に

して、それぞれに配分して

生産したものを寄せ合って、

社会を発展させてゆく、という

営為に一致しているからだ。

これが社会全体で公平に平等に

配分されて、うまく紙幣も回っ

て皆が満足すれば、大成功な

のだろう。

現実はそうなっていないし、

歴史を辿ってみても、地方で

一時的に成功した例は多くある

し、小さな部族では文化的にまと

まっているが、全体で小競り合い

や内戦などがなかった時代など

はない。百年もの戦争で疲弊し

きっている。

それをもって、それを批判すべ

きだろうか。だから人間は、とか、

だから権力はとか、批判の矛先

を向ければいいことだろうか。

それはある程度は、必須で必要

なことではあるが、根元の謎を

残したままにしてしまう。



こう考えたらどうだろう。お互い

の協力や助け合い、そういうものを

社会に必須で必要なものである、と

いうことを認めるのだが、それは

そういうことで認めるのであって、

それが本当は善でも絆でもない

ことも認めるべきだと言ったら、

どう想われるだろうか。

それが善だから、正しいことだから、

美しい人間性だからそうすべきだ、

ということを疑ってみたら?という

のだが。

僕らの真心はある。それは疑えない。

しかし、それを善だと認めさせる

のは、それに囚われることであり、

縛られることに結果、繋がってしまっ

ているのではないか。

これは僕らの問題だから、それぞれ

で考えてもらう問題だと思う。

これを展開させるのは、すぐには

必要ないと思うので、時期を忖度

してみる。


>>>>>>>

そう言えば、持っていても読んで

いないがニーチェの「善悪の彼岸」

は似たようなことを考えているの

だろうか。長いので、なかなか読む

気になれない。その後で個人的な力

の思想を展開したという印象だが、

そこは違うな、と感じる。ま、

あまり、読まないで印象で書評を

してはいけない。
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